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第1章 雪と石と
第4話 取り付けた約束
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「みな、顔を上げよ。仕事に戻れ」
若い男の声が凜凜たちに降り注ぐ。
宦官が凜凜の頭から手をどける。それと同時に慌てたように凜凜の手の中の湯呑みを筒袖の中に隠した。
あれは偉い人に見られると怒られるようなことだったのだと、凜凜はようやっと気付いた。
「いささか喉がかすれていてな。喉に効く茶の葉をもらいに来た」
「は、はい、ではこちらに……そ、そこに皇帝陛下が腰掛けるので、お前はどきなさい」
年老いた宦官が慌てて凜凜にそう言った。
「いや、構わんよ」
皇帝がそう言うのと凜凜が直立不動で立ち上がるのは同時だった。
「くくっ」
皇帝は凜凜の慌てぶりにそれはそれはおかしそうに笑った。
その後ろには武装した宦官がついている。
「では、お前が温めてくれた椅子に座らせてもらうとするか」
皇帝はそう言って凜凜が座っていた椅子に腰掛けた。
「…………」
凜凜は直立不動のままその姿を見ていた。
長い黒髪。白い肌。切れ長の目。微笑みをたたえた口元。
黄赤色の豪奢な交領の着物をゆるりと着こなしている。
皇帝陛下とは幻の生き物ではなかったのだな、と凜凜はぼんやり思った。
「お前はどこのものだ?」
「げ、玄冬殿の央賢妃様の使いで参りました」
「ああ、央角星の娘の……」
雪英を皇帝が知っている。そのことに凜凜は少し安堵する。
誰だそれは、などと言われていたら、雪英どころか凜凜だって立ち直れなかっただろう。
「央賢妃はどこか悪いのか」
「寒くなってきたので……その、予防です」
具合が悪いと正直に言えばただでさえ寄り付いてくれぬお方だ。より雪英が遠ざけられよう。凜凜は浅知恵をめぐらし、そう答えていた。
「そうか。お前、名前は」
「凜凜でございます」
「お前も体には気をつけなさい」
「あ、ありがとうございます」
凜凜は思いがけない皇帝からの思いやりに、深々と頭を下げた。
「陛下、お茶っ葉の支度がととのいました」
医官が皇帝に声をかける。皇帝はお茶っ葉の入った壺を覗き込んで香りを確かめる。
「うむ。包んでくれ」
「はい」
それを包み終えれば、皇帝は去ってしまう。せっかく得た接点がかき消えてしまう。凜凜は意を決した。
「へ、陛下!」
彼女の声はひっくり返っていた。
「どうした」
少しおかしそうな顔で皇帝が応える。
「お、央賢妃様の元を……一度訪ねてはくださいませんか」
控えていた宦官の顔が青ざめる。
一介の宮女が皇帝の行いを指図するなど、あってはならないことである。
そのようなことは凜凜とてわきまえていた。
それでもすさんでいく雪英を思うと、言わずにはいられなかった。
「……ふむ、考えておこう」
皇帝はそれまでと特に色の変わらぬ淡々とした声でそう言った。
凜凜は怒られなかったことにほっとした。凜凜の失態は下手を打てば雪英の評判も落としかねないから。
そして皇帝は医局を去っていった。
医局の中に弛緩した空気が漂う。
「先触れを出してくださればよいものを」
「どう考えてもありゃ視察だ」
「ほら仕事に戻れ、お前たち」
そう囁き合う医官の声を聞きながら、凜凜は渡された薬を胸に抱き、弾む足で雪英の元へと帰っていった。
「……陛下、あまり安請け合いはせぬほうが。あれではあの宮女が……無礼なことをしたとはいえ……かわいそうです」
宦官の諌める言葉に皇帝は笑ってみせた。
「できぬ約束はしないよ」
「はあ……」
宦官は複雑な顔で皇帝を見つめた。
「いずれ訪ねる。いずれな」
そうして皇帝は寒さに体を震わせた。
本格的な冬が後宮に近づこうとしていた。
若い男の声が凜凜たちに降り注ぐ。
宦官が凜凜の頭から手をどける。それと同時に慌てたように凜凜の手の中の湯呑みを筒袖の中に隠した。
あれは偉い人に見られると怒られるようなことだったのだと、凜凜はようやっと気付いた。
「いささか喉がかすれていてな。喉に効く茶の葉をもらいに来た」
「は、はい、ではこちらに……そ、そこに皇帝陛下が腰掛けるので、お前はどきなさい」
年老いた宦官が慌てて凜凜にそう言った。
「いや、構わんよ」
皇帝がそう言うのと凜凜が直立不動で立ち上がるのは同時だった。
「くくっ」
皇帝は凜凜の慌てぶりにそれはそれはおかしそうに笑った。
その後ろには武装した宦官がついている。
「では、お前が温めてくれた椅子に座らせてもらうとするか」
皇帝はそう言って凜凜が座っていた椅子に腰掛けた。
「…………」
凜凜は直立不動のままその姿を見ていた。
長い黒髪。白い肌。切れ長の目。微笑みをたたえた口元。
黄赤色の豪奢な交領の着物をゆるりと着こなしている。
皇帝陛下とは幻の生き物ではなかったのだな、と凜凜はぼんやり思った。
「お前はどこのものだ?」
「げ、玄冬殿の央賢妃様の使いで参りました」
「ああ、央角星の娘の……」
雪英を皇帝が知っている。そのことに凜凜は少し安堵する。
誰だそれは、などと言われていたら、雪英どころか凜凜だって立ち直れなかっただろう。
「央賢妃はどこか悪いのか」
「寒くなってきたので……その、予防です」
具合が悪いと正直に言えばただでさえ寄り付いてくれぬお方だ。より雪英が遠ざけられよう。凜凜は浅知恵をめぐらし、そう答えていた。
「そうか。お前、名前は」
「凜凜でございます」
「お前も体には気をつけなさい」
「あ、ありがとうございます」
凜凜は思いがけない皇帝からの思いやりに、深々と頭を下げた。
「陛下、お茶っ葉の支度がととのいました」
医官が皇帝に声をかける。皇帝はお茶っ葉の入った壺を覗き込んで香りを確かめる。
「うむ。包んでくれ」
「はい」
それを包み終えれば、皇帝は去ってしまう。せっかく得た接点がかき消えてしまう。凜凜は意を決した。
「へ、陛下!」
彼女の声はひっくり返っていた。
「どうした」
少しおかしそうな顔で皇帝が応える。
「お、央賢妃様の元を……一度訪ねてはくださいませんか」
控えていた宦官の顔が青ざめる。
一介の宮女が皇帝の行いを指図するなど、あってはならないことである。
そのようなことは凜凜とてわきまえていた。
それでもすさんでいく雪英を思うと、言わずにはいられなかった。
「……ふむ、考えておこう」
皇帝はそれまでと特に色の変わらぬ淡々とした声でそう言った。
凜凜は怒られなかったことにほっとした。凜凜の失態は下手を打てば雪英の評判も落としかねないから。
そして皇帝は医局を去っていった。
医局の中に弛緩した空気が漂う。
「先触れを出してくださればよいものを」
「どう考えてもありゃ視察だ」
「ほら仕事に戻れ、お前たち」
そう囁き合う医官の声を聞きながら、凜凜は渡された薬を胸に抱き、弾む足で雪英の元へと帰っていった。
「……陛下、あまり安請け合いはせぬほうが。あれではあの宮女が……無礼なことをしたとはいえ……かわいそうです」
宦官の諌める言葉に皇帝は笑ってみせた。
「できぬ約束はしないよ」
「はあ……」
宦官は複雑な顔で皇帝を見つめた。
「いずれ訪ねる。いずれな」
そうして皇帝は寒さに体を震わせた。
本格的な冬が後宮に近づこうとしていた。
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