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1巻

1-2

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 まるで、自分と閨を共にすることが当たり前の褒美のように言う夫のその勘違いぶりに、今度は隠す事なくため息をつく。

「いいえ、それもメリダ様の所へ。心配をされておりましたので」

 興味なさそうにそう言ったイザベラを信じられないといった表情で見るローレンス。イザベラが冷めた目で「今日は疲れましたのでこれにて下がらせて頂きます」と言いかけたところで、腕を取られてローレンスに引き寄せられた。

「陛下、何を……っ?」
「お前は子を成して、正当な貴族の血をその子に与えるのが目的だろう。褒美に抱いてやるといっているのに、何故拒む?」

 イザベラは仰天した。と、同時に沸々と込み上げる怒りでつい言い返してしまう。

「陛下、何度も申し上げますが誤解です。貴方と子を成したいなどと思っておりません! 褒美というのであれば、私一人を無事にナイアードに帰して下されば結構です」

 イザベラの言葉にローレンスは困惑した。
 野望があって嫁いで来たはずの女が、何も要らぬから故郷に帰せというのだ。
 ローレンスにとって嫌悪感を抱いている女のはずだったが、彼女は本当に聞いた通りの悪女なのか、と疑問が湧く。

「本当のお前はどのような女なんだ……」
「それは、分かりません。ですが、血統などナイアードは望んでおりません。どうしてそのように思われたのかは分かりませんが……御手を離して下さいませ」

 パシリと強気に振り払われた手を虚しく眺めていると、彼女はいとも簡単にローレンスの腕を抜け、扉を背に警戒するような表情で此方を睨みつけていた。

(まるで、警戒する猫のようだな……側妃達の言うように傲慢でふしだらな女であればこのような反応を見せるか……?)
「陛下…?」
「……あぁ。すまなかった」

 いぶかしげに夫を見るイザベラをチラリと見て、ローレンスはそう言って部屋を出た。
 それを避けるように見送ったイザベラは、一拍置いて彼が彼女に謝罪をした事に驚き、目を大きくしていた。

(陛下が私に謝罪をするだなんて……)

 ただ冷たく傲慢なだけの人ではないのか。
 疑問と同時に、先程の彼の温もりと爽やかな香りを思い返すが、すぐに頭を軽く左右に振って「忘れよう」とかき消し、イザベラも部屋を出たのだった。


 そして、翌日からいくつかの変化が起きた。
 まず、朝食時にローレンスが、一言、二言とイザベラの様子を窺うように話しかけるようになったのだ。
 ローレンスの態度の急変ぶりを不審に思ったイザベラは、先日の国に帰せという発言が、帝国とナイアードの国交を断絶する脅しにもなることに思い当たる。
 流石にそこまでは望んでいない。

「あの、陛下……無理をして話されなくても大丈夫です。きちんと夫婦としての役割は果たしますので」

 耐えかねてイザベラが恐る恐るローレンスにそう伝えると、ムッとしたように眉を寄せた。

「では、後で私の執務室に来い」

 そう言ってそのまま部屋を出てしまう。

「皇后陛下……どうかお察し下さい」

 控えていたローレンスの秘書がイザベラにひっそりと耳打ちをする。
 イザベラは意味が分からず秘書を睨みつけたが、彼は曖昧な表情をするだけで答えは見つからなかった。

「……とにかく、準備次第向かいます。それと、監視など付けなくとも問題は起こしません」

 イザベラも部屋を出た。
 先程の言葉通り、ここ数日、妙に口数の増えたローレンスに加えて変化した事といえば、ずっと隠れてついて回る監視の目だ。

「貴方、出てらっしゃい」
「……」

 父や兄が心配して送り込んできた護衛、という線もあるが、こんなにも早く気づかれてしまうほどナイアードの者はヤワではない。
 それに、ナイアードの王族であれば身の危険は自身で守れる位の実力はあると知っている筈、そもそもナイアード側が今取り立てて帝国を気にする理由はない。
 かといってこの王宮に内部の手助け無しに侵入出来る者はいない。
 腐っても帝国は大国だ、城内警備のために割いている人員の数が違う。
 そうなれば、どう考えてもローレンスの、そうでなくても帝国内部の人間の仕業だろう。
 そうなれば当然、『よそ者』の皇后であるイザベラに返事をする訳も無く、ため息をついて部屋まで歩いた。
 皇后宮に入った瞬間、ナイアードから連れて来ている侍女達に目で合図をすると、他に人目が無いのを確認してイザベラは姿を消す。

「っ! 皇后様! ……お許し下さい!」

 正確には、素早く監視の背後に移動して彼を床に落として押さえつけたのだ。

「代わって、リーナ。拘束してそのまま連れて来て」

 何事もなかったかのように優雅にドレスを払って奥へと歩いて行ったイザベラに、思わず見惚れてしまった監視は、リーナに腕を締め上げられて悲鳴を上げた。
 数分後、監視の男は、皇帝の側近の一人で暗部の役割を担う者だと分かった。
 イザベラが思ったよりも腕が立つのに興味を示し、えらく友好的な態度を取る。
 彼の証言で、皇帝の監視でイザベラの後をつけていたのは、彼女を疑ってのことではなく、日頃どのようにして暮らしているのかを知りたいという皇帝の指示によってだという事が分かった。
 彼も相当図太い人間のようで、時間が経つ程にかなりリラックスしてお茶菓子を頬張っている。

「……へいはは、もほもほはわるいひほじゃなひんでふ」
「貴方……口の中のものを飲み込んでから話しなさい」
「失礼。陛下は元々は悪い人じゃないんです」
「だからと言って、現状を許せるかしら」
「立場上、陛下をおとしめる言葉は控えますが……ひとつ助言をするとすれば、皇后陛下は大臣達に気をつけられた方が良いかと。彼らは剣しか知らなかったと言うのに若くして皇帝となった陛下に上手く取り入り、国を思うようにしてきました」
「なぜそれが出来たの? 陛下が愚鈍には見えないわ」

 自分への態度は悪辣だが、皇帝は政策という意味では間違いなく賢王だ。
 だからこそ、イザベラはずっと、愚鈍や無知、誰かに踊らされているがゆえの言動ではなく、彼自身の悪意だと思ってきたのである。

「妾に入れ込んでいた前皇帝は、陛下の母である前皇后陛下を無下にしておりました。唯一彼に愛を注いだ母君は、結局は毒殺され、それからは剣に打ち込んでおられましたが……突然の事故で今度は父君が亡くなられ、即位されました。その時に、陛下を惜しまず愛してくれたのが、当時から恋人であったメリダ妃でした」
「そうだったの……」
「彼女からの感情は、愛と言うよりはペット……否、宝石でも愛でるかのような愛し方で、彼の容姿とその権力に惚れているというのは一目瞭然でありましたが、それでも彼女の存在だけが孤独な陛下をお支えしたのです」

 そして、そのメリダ妃に宝飾物や、お金、権力を与える事で周囲の人間が取り入って、メリダにローレンスに意見させる事で彼らはこの国を思うままにしてきた。
 だが、ローレンスもただの愚王ではなかった……徐々に賢王としての才を表し初めメリダだけでは手に終えなくなった。
 そこで、大臣達はそれぞれ息のかかった国の姫や、家門の令嬢を後宮へと入れ皇后にしようとしたのだ。
 メリダ以外の妃も同じことを言うならローレンスは素直に信じるだろう、と。
 実際、イザベラに関してはそうなっているし、イザベラが嫁いでこなければ、政務の全てがそうなっていただろう。

「古狸達のお陰で傾いていた国庫は、ナイアードの援助によって回復しつつあります。そして皇后陛下、貴女は気高くお強いお方です。今更……無礼を許して欲しいとは言いません。それでも、皇后としてこの国を、陛下を救ってはいただけませんか……?」

 ローレンスの側近としては最古参だという彼もまだ若く、この国の行く末を憂いていた。
 普段は国内でこのような仕事に就くことは無いが、特例としてイザベラの監視に付いた彼は、イザベラの人柄とその強さ、賢明さに一国を担うものの影をみたのだという。

(陛下はなぜ、このような聡明な皇后をないがしろに?)

 普段は殆どが血生臭い仕事や、機密任務の為、国外にいる事が多い彼はローレンスの昔の事はよく知っていたが、王宮内の今の事情に疎く、更に暗部なので国内で名を名乗る事も無かった。

「不思議な方ね、貴方。くつろぐのは構わないけど、一度報告にでも行ってきたらどうかしら? それと、今更彼を愛せということなら難しいけれど、今はここも私の国よ、皇后でいる限り尽力するわ」

 そう言って背を向けてイザベラは寝室へと入った。
 その背中を、戦友でも見送るかのような笑みで見送った無礼だが憎めない彼は、瞬時に姿を消し、ミアを驚かせたのだった。


 後宮の真ん中、大きい溜池の真ん中に建てられた神殿のような一階建ての宮は、中央の一番広い皇帝の部屋のまわりを八つの部屋で囲われた豪華な造りだが、さ程大きくはない建物である。
 そこは年に数回、皇帝が妃達全員を呼び集めて数日共に過ごす為の宮であり、その日は皇后が決まるまでは妃達にとってチャンスの日でもあった。
 今もまだ行事としてその習慣は残り、妃達を労わるという建前で行われている。そして今日、皇帝は護衛と使用人を連れこの宮に入った。

「皇后陛下! 陛下は中央宮には行かれないのですか?」
「……役割ですので参りますが、急がずとも良いでしょう。その方が側妃達にとっても好都合なはずです」

 更にはどうでも良さそうに簡素なドレスを指差して「これでいいわ」と陽気に笑うイザベラに、侍女二人、ミアとリーナは顔を見合わせて、ため息をついた。

「貴女達、失礼ね。中央宮は不便なのだけど神秘的で美しいわ。……ナイアードを思い出すの。だからこのドレスがいいのよ」

 この国で主流のコルセットを締め付けてくびれと胸を強調するスタイルのドレスではなく、下着はランジェリーのみでまるで女神の衣のように体のラインが出る、柔らかい布を巻いたようなドレスであった。

「ナイアードでは服で締め付けたりしなかったわ。それに今日は一日中、陛下のお側でゆるりと過ごすのよ」

 そう、行事といっても何かが起こる訳では無く、ただ皇帝と妃達がその仲を深める為に寄り添って数日を過ごし、舞をしたり、食事やお茶をしたり、そして今までは一度も無いが、各自の部屋で夫婦の営みをする事もできた。
 言わば、休暇のようなものだ。
 イザベラは別にこの行事が嫌いでは無かった。
 祖国ナイアードに似た雰囲気の宮は居心地が良いし、きっと元気にしているであろう家族や幼馴染を思い出すからだ。
 父や母、兄や妹達、そして幼馴染のキリアンがいた、あの忙しいけれど穏やかな日常を今もイザベラは恋しく思う時があるのだ。

(気を引き締めないと……)

 皇后の座が埋まったとは言え、男児を産めば次期皇帝の母としてその実権を手にできると妃達は躍起になっているだろう。
 それでも、ドレスを身につけて、邪魔にならない程度の控えめな装飾品で飾ったイザベラは、「髪は下ろしておいて大丈夫よ」といつもの調子で伝えただけだったが……
 簡素な格好であるにも関わらず、まるで神話から出てきたかのような美しさを放つイザベラを侍女たちはうっとりとした表情で見つめた。

「行きましょう」

 自室を出ればすっかりと皇后の顔となったイザベラは中央宮へと向かう。すると宮に続く橋の前に現れたのは、メリダをエスコートするローレンスであった。
 けれど、いつもの表情とは異なり何処か憂いを帯びた表情をしたローレンスは、彼にピッタリと引っ付くメリダがイザベラを見て自慢げにほくそ笑んだことなど気づいてもいないようだった。

「あら、皇后陛下。お先にどうぞ、ねぇ陛下?」
「いいえ、皇帝陛下の前を歩く訳には行きません。どうぞお先に……」

 イザベラが美しい所作でカーテシーをすると、余りの壮観にハッと引き戻されたローレンスは、今度はイザベラの姿を見て見惚れたように固まった。

「陛下?」
(本当に、彼女の心は醜いのか? 飾り気のないこの美しさは外見からだけで出るものではないはず。私は一体何を見ていたのだろう。レイラはメリダからの案で、イザベラを蹴落とす策を練ったと証言した……。今度の件は自分より皇帝と閨を共にするレイラを抹消する為にメリダがイザベラと手を組んだのだろうとも)

 妃一人の証言では判断しかねる事であったし、メリダとイザベラは手を組めるほど仲が良くは見えなかったが、イザベラを蹴落とす策があった、という部分がどうにも引っかかった。

「どうしたの、ローレンス?」

 皇后の前だというにも関わらずまるで見せつけるように皇帝の名を呼びその頬に手を添えて小首を傾げるメリダ。
 そんな無礼にも、興味などなさげに静かに佇み二人が渡るのを待つイザベラを見て、ローレンスはイザベラの故郷に帰してくれという願いを思い出してチクリと胸が傷んだ。
 彼女の言葉を信じるならば、彼女は自分にも帝国にも興味はない。

「……行こう」
「ええそうね、ではお先に」

 本来ならば側妃が皇后の前を歩く事など無礼極まりないが、今は皇帝のエスコートがある。ローレンスはなにやら物思いに耽っていたようであったが、彼が愛した女性はメリダのみ。
 この後宮内でも、皆が彼女には一目置いていた。
 彼等が通ったのを確認してから、短く息を吐いて歩き始めたイザベラを宮の前で待っていたのはローレンスであった。

「……陛下、忘れ物でしょうか?」
「……いや、あの、そうだ。皇后に……」

 歯切れの悪い彼に隠す事なく眉を顰めて首を傾げると、観念したように脱力した彼は、珍しく、年相応の所作で気まずそうに言った。

「無礼を働いて申し訳ない。メリダには先に入って貰った。こっ、皇后をエスコートさせては貰えないだろうか?」

 今まで皇后への礼儀など気にかけた事もない彼の予想外の行動に驚いたイザベラは、いぶかしげに小さく頷いただけだった。

「陛下、私は気にしません。褒美の話が有効であれば、私はいずれナイアードへ帰る者です。なので、今後は皇后への建前よりも、陛下が心から愛し、愛してくれる者をお選び下さい」

 そう言って差し出された手を取ったイザベラの言葉に、ローレンスはギョッとしたように顔を上げて「あれは……! まだ保留だ」といってすぐにそう言った自分に後悔した。

(政略で次々とできる妻など一人でも多く追い出せばいいものを……まして今まで嫌ってきた皇后を引き止める等、皇后からすれば不気味に思うだろうな)

 けれどそれ以上考える時間は無かった。そして、それ以上二人とも言葉を紡ぐことはなかった。

「両陛下が到着致しました」

 結婚してから初めて中央宮へ共に入宮したイザベラとローレンスを笑顔で迎える妃達であったが、その胸中は皆それぞれであった。
 メリダはドレスを強く握りしめていた。
 彼女の胸中が嫉妬と憤怒で煮えくり返っていたのは言うまでもない。
 カタカタと小刻みに震えるのは第四妃のサラ。
 彼女もまた、家門の為に送り込まれた令嬢であり、彼女の家門は彼女が皇帝の寵愛を取れなければ未来は無いとも言えた。
 第五妃のキャロライドは遠国の姫であるが、皇帝である彼に一目惚れし、多大な援助を理由に無理矢理嫁いで来た。
 第六妃のフィージアは男癖が悪く、ローレンスの容姿と権力を好いて国の大臣である父に我儘を言って妃となった。
 彼女の家もまた、僅かだか国庫への援助をしている。
 第七妃のテリーヌも敗戦国の姫であり、彼女もまた大臣達の私腹を肥やす為の援助の為に人質として連れて来られた姫であった。
 新興国であるので正統性こそ低いものの、財力、武力ともにナイアードは他のどの国よりも豊かであり、敗戦もしていない。
 寧ろ、大臣達の計らいとはいえ頼まれて嫁いで来たイザベラにとっては、ローレンスは対等な伴侶という立場であった。
 なので正に皇后に相応しい彼女とローレンスの距離が縮まることは、彼女達にとって好ましい事ではなかったのだ。

「……皇后、楽にしてくれ」

 エスコートしたローレンスは彼専用の大きなソファにイザベラを座らせて自分もその隣に腰掛けた。
 その後は我先にと彼の足元、隣に群がる彼女達に囲まれたローレンスはさながら遠国の砂の国の後宮さながらであった。
 その最中でも、当然事件は起こる。

「……皇后陛下!」

 メリダがわざとらしく、イザベラの膝に紅茶をこぼすと皆は白々しく心配の声を上げた。

「大丈夫よ。着替えれば済むわ」
「でも、皇后陛下はその、とても薄着でいらっしゃるので……」

 イザベラの白いドレスを皮肉ったメリダの台詞は彼女に「ありがとう」と適当に礼を言われて流される。メリダは悔しげに唇を噛むとサラを睨みつけた。

「きゃあ!」

 サラは飲み水の入った大きな瓶を派手に滑らせ、事故を装いイザベラに思いっきりかけた。

「す、すみません! 両陛下! 濡れていませんか?」

 ローレンスは何とか濡れてはいないようだったが、不機嫌そうにサラを見た後、少しだけ心配そうにイザベラに目線をやる。

「……皇后。どうやら着替えてきた方が良さそうだ」

 不自然に視線を彷徨わせてそう言ったローレンスの視線は、透けて露わになった彼女のドレスの下をチラリと見ては目を逸らしてを繰り返していた。
 クスクスと笑う妃達は、いつもならばイザベラに興味のないローレンスに咎められることはないだろうと思っていたが、思わず睨まれて急いで言い訳をする羽目となった。

「そ、その皇后陛下はコルセットがお嫌いのようですわね」
「フィージア様の言う通りですわ、陛下。皇后陛下とはいえこのようにあからさまに誘惑する格好ははしたなくてよ?」

 メリダがローレンスの内腿に手を当てて、勝ち誇ったような笑みで彼に言い聞かせるように言うと、女性の装いなど詳しくはない彼は少し迷った仕草をした。
 イザベラとしては彼にはどう思われてもよかったが、嘲笑うような妃達の目線とやられっぱなしで逃げるように出て行くことはイザベラのナイアードの姫としてのプライドが許さなかった。


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