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二章 

前任者

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 おおかみ宿舎で住み込みで働くようになって数ヶ月。
 私は自分の外見も、今ではすっかり見慣れてしまって、元の自分の顔がよく分からない。
 ふわふわの栗色の髪、パッチリした銀色に薄く青みがかった瞳。
 前とは全然違うのに、前の顔はぼんやりとしか思い出せない。写真を見ても、昔から写真はピンボケもいいところで、ぼんやりと記憶と同じでハッキリと写っている写真がない。
 
「私が、私を忘れちゃうなんてね……」

 自分の中からも透明人間だった過去の私が消えていく。
 本当に、透明人間のままの私は、誰から、何から、守られていたのだろう?
 自分の部屋の窓ガラスに映る私は、困り顔で……見慣れてしまったせいで、可愛い顔だとは思わなくなったけれど、きっと守ってしまいたい顔をしているだろう。
 いきなり、美少女になっても何がどう変わるわけでもないし、おおかみ宿舎の人達も見慣れてしまえば、どうという事もないようだ。
 コンコンと、部屋がノックされて返事をすると、御守さんが笹の葉っぱで包んである丸いお弁当のような物を持って入ってきた。

「麻乃。押し寿司でも一緒にどうだ?」
「頂きます。お茶でも淹れましょうか?」
「ペットボトルのお茶を持ってきている」

 御守さんが着物の袖からミニペットボトルのお茶二本と割りばし二膳を出し、机の上に置く。
 向き合わせに座り、押し寿司の蓋を開けるとサーモンの押し寿司が入っていた。付属の小さなプラスチックのノコギリのような形の物で、ケーキを切るように三角に別れるように切っていく。

「これ、どうしたんですか?」
「もうすぐ、夏本番になるからな。この宿舎に手伝いにくる余所の支部からの土産だ」
「夏場はここに他の妖の人が宿泊するんでしたね」
「ああ。麻乃には食堂が忙しくなってしまって、申し訳ないがな」
「いえいえ。お仕事ですからね。それにお料理を作るのは楽しいですから」

 サーモンの押し寿司は普通のお寿司よりもお酢が利いていて、お米もべったりして硬い感じはするけど、このズッシリしたところが押し寿司の『味』というものなのだろう。

「美味しいですね」
「なぁ、麻乃……」
「はい?」
「何か悩んでいる事があるか? 最近少し沈んでいる様に思えるんだが」

 私は静かに左右に首を振る。
 心配そうな顔で私を見る彼を困らせるわけにもいかない。
 
「何も心配要らないよ?」
「……何かあれば、遠慮なく言ってくれ」
「はい。頼りにしてます」

 私の事を心配してくれる人が居るだけ、前の私よりずっといい事だし、本来の自分に戻ったのだから、きっとこれでいい。
 私達は押し寿司を食べながら、明日からの食堂に助っ人に来る話をした。

 __次の日。

 私は、助っ人に来た人に目を丸くした。
 白髪の背中の丸まった老人、泉田いずみだ三郎太さぶろうたさん。
 私をこのおおかみ宿舎に連れてきてくれた、食堂の前任者。

「やぁ、お嬢ちゃん。久しぶりだねぇ」
「泉田さん! お腰はもう大丈夫ですか? あの時はお世話になりました! お久しぶりです!」
「あの頃より、色濃くなって、良かったなぁ」
「色濃く? 色っぽくじゃなく?」

 恋する女は色っぽくなると聞くけど、色濃くとは、あまり聞かない。
 泉田さんは笑って、手を左右に振る。

「あの頃のお嬢ちゃんは、水面に写る姿みたいなもんだよ。今はハッキリと見えるからなぁ。良かったなぁ」
「はい。でも、泉田さんはどうやって私を見付けたんですか? 私は見えにくい感じだったのでしょう?」
「儂が見付けたんじゃないよ。お嬢ちゃんが、儂を見付けたんだ」

 確かに、言われてみれば、腰を痛めて動けない老人に誰も手を貸さず、私が駆け寄って泉田さんに手を貸したのが、出会いでもある。

「儂は、失せもの探しのうろこという妖だよ。儂は何かを失っている者にしか見付けられないからなぁ。御守の旦那に、探して欲しいと言われていた少女だったのには、ちっとばかり驚いたけどなぁ」
「そうですか。あの、本当にありがとうございました。おかげで、居場所が貰えました」

 深々と頭を下げると、泉田さんはカラカラと笑って「気にしなさんな」と言ってくれた。
 泉田さんは、私にお茶を淹れてくれて、やはり前任者とだけあって勝手知ったる食堂内なのだろう。
 食堂の椅子に座って二人で夏の料理の話をしつつ、私の疑問に答えをくれた。
 
「私が声を掛けましたが、泉田さんは、私が見えていましたか?」
「ああ。隠されたものをのは、儂の領分よ。見えていたよ。お嬢ちゃんの守りは、お嬢ちゃんを人目につかないようにする為の防壁のような物だが、お嬢ちゃんをよっぽど大事にしていたんだろうねぇ。強力に願いを込め過ぎて、お嬢ちゃん自身が他人の目からもお嬢ちゃんの目からも、本来のお嬢ちゃんを隠していたからね」
「私が、大事……」
「隠されれば、隠される程、儂の目は視える。鱗ってもんは光の加減で色や物を変える。儂の目は、その鱗で出来ているからな。お嬢ちゃんに、あと失われている物は、何も無いよ」
「でも、私、父や母の記憶が、最後の記憶が曖昧で……」

 遊園地の事故の事が思い出せない。
 あの事故の事が思い出せなければ、私は私に戻れない気がする……でも、思い出したら、夢の中で燃えたものが何かなのかも、思い出してしまいそうで怖い。
 両手をギュッと握りしめると、泉田さんは私の手の上にしわの深い手をのせる。

「記憶は失うことはない。心の何処かにあるものだ。いつか、時がくれば思い出すかもしれないし、楽しい日々に押されて、思い出さずにいるかもしれない。そういうもんだよ」
「そういうものですか? 両親の最後の記憶なのに……」
「親ってもんは、子供が明るく無事に育っていれば、それだけで幸せってもんだよ」

 泉田さんの言葉に、私は頷いていつか思いだす日まで、焦る事は無いと言われた気がして、少しだけ心のつかえがとれた。 

「夏の本番までもうすぐだなぁ」
「そうですね」 

 土の中から早々に顔を出したセミが、遠くで鳴く声が静かに食堂まで聞こえていた。
 忙しくなる日々は、すぐそこまで迫っている。
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