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1巻

1-2

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 けれど、仕事を終えたわたしがお店を出ると、店の裏口前にグーエンが立っていた。

「えっと、グーエン? お店に忘れ物でもしましたか?」
「いえ、ヒナが夜道を一人で歩くと思ったら不安になってしまって……嫌でなければ、送らせてもらえませんか?」

 その言葉に、わたしは考え込んでしまう。
 厚意は嬉しいものの、わたしは一人暮らしだし、お客さんといえど知らない人だから、警戒したほうがいいと思うんだよね。

「あの、すぐそこなので大丈夫、です……」

 手を握りしめて身構えてしまったわたしに、グーエンは申し訳なさそうな顔をした。

「そうですか。怖がらせてしまったようですね。他意はない、と言いたいところですが、ヒナが少し辛そうに見えたので……」

 辛い? わたしは辛そうに見えただろうか?
 首を傾げると、グーエンはわたしの頭を大きな手でゆっくりとでた。

「オマケなどと言われて、傷つかない人はいないでしょう?」
「あ……うん、そうですね」

 まさかそのことを気にして、ずっとここで待っていてくれたのだろうか?
 だとしたら、お人好しが過ぎる。でも、それを嬉しいと思ったのは、人の優しさに飢えていたからかもしれない。
 勇者様のオマケと言われる度に、自分が価値のない人間だと言われている気がした。初めて会ったグーエンにもわかってしまうぐらい、わたしは傷ついていたみたいだ。
 パタタ……と、目から溢れた涙が地面に吸い込まれていく。
 グーエンがゴソゴソとポケットを探り、ハンカチを取り出してわたしに差し出した。わたしはそれを受け取ると、顔に押し当てる。

「ヒナ……あまり他国のことを悪く言いたくはないのですが、ニルヴァーナ国はあまり良い国ではありません。私の住んでいるセスタ国ならば、ヒナを保護してあげられます。今日、会ったばかりですが、私と一緒にセスタに来ませんか?」

 ありがたい申し出だけれど、わたしは左右に首を振り、鼻をすすって答える。

「大丈夫だよ。暁さんが魔王を倒したら、わたしを元の世界に連れて帰ってくれるから」
「ヒナは、元の世界へ、帰ってしまうのですか?」
「うん。わたしはそれまで、ここで暁さんの帰りを待つの」

 涙を拭いて見上げたグーエンは、左胸を押さえて泣きそうな顔をしていた。

「グーエン? 胸、痛いの? 誰か人を呼んだほうがいい?」
「いえ、大丈夫です。……そうですか。でも、ヒナが帰る場所があるのならば、帰ったほうが良いですよね……」

 その声は心なしか元気がなくて、耳も段々下がり気味になってしまった。

「グーエン……あの、わたしのことを気にしてくれて、ありがとう」
「いいえ。ヒナ、貴女に会えて本当に、良かったです。私はあまりこの国へ来ることはできませんが、勇者アカツキが、ヒナを連れ帰ってしまうまで、会いに来ても良いですか?」

 ううっ、美形の整った顔にすがるような目で見られて、心臓がドキッと跳ねる。
 ひぇぇ~っ、捨てられた子犬みたいな顔しないでー!

「ハンカチ、洗って返すので。次に会う時までこれを持っていてください」

 わたしは自分のポケットに入れていたハンカチを取り出し、グーエンに押しつける。
 これで交換というか……もしグーエンが来られなくとも、ハンカチを渡したのだからお互いに損はないはずだ。そして、次に会う約束を取り付けたようなものだし、いいかな?
 グーエンはハンカチを嬉しそうに受け取って、尻尾を振っていた。

「あの、見送りは大丈夫なので! 本当にすぐそこだから!」

 わたしはなんだか気恥ずかしくなって、自分の家を指さし駆けだす。

「ヒナ! おやすみなさい。良い夢を!」
「グーエンも! おやすみなさい!」

 わたしは後ろを振り返って手を振ると、グーエンは首を少しだけ横に傾けて、微笑みながら見送っていた。


 それから二ヶ月ほど経って、もうグーエンは来ないのだろうと思いはじめた時、グーエンは再びお店にやってきた。
 わたしがハンカチを返すと、グーエンは忘れてしまったと言い、代わりに水色のリボンをくれた。
 別にハンカチの一枚ぐらいなくても平気だったから、ハンカチはグーエンにあげると言ったら、返したハンカチを代わりにと贈られた。
 グーエンはそれから二ヶ月ほどしてまた顔を出し、有給休暇を使い果たしたから当分は来られないと、しょげていた。

「もし、ヒナになにかあったら、私を頼ってください。必ず助けに来ますから」
「ふふっ! ありがとう。グーエンもお仕事、頑張ってね」

 わたしたちは会う回数こそ少ないけれど、会えば心が安らいだ。
 今月は来るだろうか? と、心待ちにするぐらい、わたしはグーエンが来るのを楽しみにしていた。
 わたしを『オマケ』と呼ばない数少ない人だったし、なにより、美形は目の保養である。


 そして季節が巡り、この世界に来て一年が経った頃だった。
 魔王が倒されたという一報が入り、ニルヴァーナ国はお祝いムードに浮足立っていた。
 わたしももちろん、やっと元の世界に帰れるとホッとする。
 気がかりなことは、折角親しくなったグーエンにもう会えないこと。せめて、帰る前にグーエンに一言、今までわたしの心を支えてくれたのは、グーエンだったよ。と、お礼を言いたかった。
 勇者一行がニルヴァーナ国に帰還した日、城下町ではがいせんパレードが行なわれ、町の人々は歓声を上げ、馬車に乗った勇者たちに花を投げて喜びを表していた。
 その人混みの中、わたしは暁さんを探した。
 どこに居るんだろう? 勇者なのだから、先頭にいてもいいはずなのに見当たらない。
 しびれを切らして、勇者軍の兵士に声をかける。

「暁さんはどこに?」
「勇者様なら、魔王を倒したと同時に光に包まれて、元の世界へ帰っていったよ!」

 笑顔で答える兵士に、わたしは「はぁっ!?」ととんきょうな声をあげたのだった。



   第三章 取り残されて売られたわたし


 ほぼ一年ぶりに訪れた城門の前には、女性たちが数多く列をなしていた。中には赤ん坊を連れた女性や、妊婦までいる。
 理由は、勇者である暁さんに与えられるはずだった報酬が三億シグルほどあり、暁さん本人がいないために、「私は勇者様の一夜の恋人です」「この子は勇者様の子供です」「このお腹には旅先で出会った勇者様との子供が!」と……多くの女性が勇者様の身内ですアピールをしているからだ。
 そんな人々のおかげで、わたしが「暁さんと一緒にこの世界にきた者です!」と言っても門前払いを食らって、ほかの女性たちと同じように審査待ちなのだ。
 本当に勇者と関係があったのかを精査するために、一人一人事情聴取を受け……ものすごく時間がかかった!
 そしてわたしはようやく、王様のところにいた学者に会うことができた。

「どういうことですか! 魔王を倒せば二人とも、一緒に帰すって言ったじゃないですか!」
「それに関しては、勇者召喚は数百年ぶりのことゆえ、我々にもわからないことが多いのだ」
「帰る……方法は、ありますよね? だって、暁さんに約束したじゃないですか!」

 学者の老人に詰め寄ると、学者はわずらわしそうな顔をして首を振る。

「帰る方法など、知るわけがなかろう! 勇者殿を説得して、この国に留まってもらう算段だったのだ。まさか魔王を退治した瞬間、勇者殿が帰還するとは……これでは、お前を質にとってここに置いた意味がないではないか!」
「どういうことよ! わたしを家に帰してよ! 嘘つきっ! 初めから帰す気なんてなかったんじゃない!」

 学者の服を掴んで揺さぶると、学者はわたしを払いのけ、そして言い放った。

「ああまったく、うるさい! この娘を牢屋にでも入れておけ!」
「ちょっ! ふざけないでよ! 離して! このっ、嘘つき学者!」

 暴れるわたしをお城の兵士たちが拘束する。
 わたしは学者にぞうごんを吐きながら、引きずられるようにしてお城の地下牢に入れられたのだった。
 薄暗くてジメジメした牢屋の中でわたしは泣き喚く。
 これが喚かずにいられようか? しかし、泣いても喚いても、誰もわたしを地下牢から出してくれない。
 二週間ほどそこにいただろうか。わたしは突然牢から出され、お風呂と着替えをさせられた。
 簡素な寝間着のようなワンピースを着せられ、手は後ろ手にしばられた。
 なんだこれ!? 罪人のような扱いに、わたしの怒りは爆発寸前だ。
 わたしが連れてこられたのは港で、大きなキャラック船の前に学者が立っていた。

「ちょっと! これはどういうことなのよ! 元の世界に帰れないなら、せめてわたしの家に帰らせて!」
「なにを言っている。あれは元々、勇者殿の恩恵として与えられていたものだ。書類にも『魔王を退治するまで』と、書かれている。魔王が退治されてからも住もうなど、図々しいのではないか?」
「なっ……」

 そういえば、暁さんは確かに『魔王退治が終えるまで』と、言っていた気がする。
 ああっ! だからあの時、もっとじっくり話し合って条件とか決めてほしかったのに! わたしの意見なんて聞かずに話を決めるから……どこまでわたしに迷惑をかけるつもりなのよ、あの勇者は……! 泣きたい。
 唇を噛んだわたしを学者はフンッと鼻で笑った。

「お前の持ち物は全て、ニルヴァーナ国の国費でまかなわれていたのだ。当然、全て没収させてもらう。家賃も払っていなかったのだから、文句はないだろう」
「はぁ!? 家はともかく、お給金やここに来た時の服はわたしのものですけど!?」

 家は手配してもらったものだし、服や生活必需品も諦めはつく。でも、ここに来た時に着ていた服やお給金は別ではないだろうか? それに、お金は元の世界に帰った時に換金できるように、銀に換えていたのだ。

「お前の物はこの国の物だ。今までお前に貸し与えていた家の代金がいくらかかったと思っておる? お前の持ち物や給金から差し引いても到底足りぬわ!」
「そんな……っ!」

 でも、確かに城下町の中でも身分の高い人が住む地区だったから、家賃は高かっただろう。それに、お風呂がある家は珍しく、一般市民は一週間に一度『風呂屋』と呼ばれる店にたらいを持っていってお湯を買うくらいだ。毎日お風呂に入っていたわたしは、かなり贅沢な暮らしだったのかも……

「そもそも、呼んでもいないお前にここまで良くしてやったというのに、なんという態度なのか!」
「なっ……!」

 わたしだって、来たくて来たんじゃない。
 巻き込まれた被害者なのに、ずいぶんな言いようだ。
 でも、わたしは言い返す言葉をなかなか見つけられず、口を開いてもぞうごんしか出そうになかった。

「しかしだ。お前を買い取りたいと言ってきた者がいてな。喜べ! お前はデニアス卿に引き取られることになった!」
「何それ……? 買い取りたいってなに? わたしを、人をなんだと思っているのよ!」
「異世界人のお前が暮らしていけるところなどない! まぁ、自由になりたいならお前が二千万シグルを返すことだな! これはお前が『商品』である証だ」

 そう言って学者はわたしの首にチョーカーのような黒い首輪を付けた。

「この女を船に連れていけ!」

 兵士二人に引きずられるようにして船に乗せられ、わたしは叫んだ。

「クソジジイ! ハゲてモゲろー!」

 我ながら、なんとも情けない最後の叫びだった。
 船の倉庫のような部屋に閉じ込められて、わたしはニルヴァーナ国を出航したのだった。


 船に揺られること二日目、食事は一日二回。
 船の倉庫から脱出したところで、ここは海のど真ん中だ。
 それでもどうにか逃げられないものかと、ジタバタしてしまう。
 後ろ手にしばられていた手を自由にしてくれたのも、海の上では逃げようがないからと、船の中でしばられていたら、ゴロンゴロン転がって危ないからだろう。
 扉は鉄格子付き。初日に体当たりしたら鼻血をいて目を回したので、力ずくで脱出するのは無理そうだ。体当たりで鼻血が出るなんて、嫌な体験をしてしまった。
 この船旅は七日間だという。
 すでに二日が過ぎたから、わたしに残された時間はあと五日しかない。
 食事を運んでくれる船員に聞いたところ、わたしを買ったデニアス卿という人は、珍しい人種を集めてコレクションしていることで有名らしい。そして飽きるとはくせいにしてとりかごのようなおりに飾るのだという。
 わたしの人生詰んだ! 誰か助けてぇぇぇ! と、騒いだところで助けなど来ない。ギロチンを待つ囚人のような心境だ。
 そしてなによりわたしの心を削ったのは食事だった。この二日間出たのは同じ献立。硬い石のようなパンに粉っぽいスープ。
 死刑囚だって処刑の前は好きなものを食べさせてもらえると聞いたことがあるけれど……せめて粉っぽくないスープが欲しい。

「はぁ……こんなことなら、グーエンにニルヴァーナは良くない国だって言われた時に、もっとよく考えておくんだった……」

 でも、考えたところで、あの時のわたしはニルヴァーナ国から逃げはしなかっただろう。
 元の世界に帰れると、信じていたから……
 グーエンからもらった、水色のリボン。髪に結んでいて没収されなかったこれだけが、わたしの唯一の持ち物かもしれない。

「グーエン……元気に、しているかなぁ……」

 この世界で見知らぬわたしに、優しくしてくれた不思議な人。
 そういえば、グーエンはなんの獣人だったのだろう? 耳や尻尾は犬か狐のような感じだった。
 わたしが困ったら、助けてくれると言っていたっけ。今、すごくピンチなのだけど、助けに来てくれたりしないかな……?

「まぁ、無理かぁ」

 落ち込んで部屋の隅に座り込んでいたら、扉が開いた。

「チビ助、飯だぞ」

 パンとスープの入った木のカップを持って現れたのは、褐色の肌に黄色の髪、赤紫色の目をした青年。この船の船員で、毎回食事を運んでくれるお兄さんだ。
 わたしにデニアス卿の話をしてくれたのもこの人だった。
 差し出されたメニューに、またこれか……と、うなだれる。
 お兄さんはパンとスープをわたしに持たせ、ズボンをゴソゴソとあさる。なんだろうと思っていると、直径四センチほどの小さなリンゴをくれた。

「ほら。シケた面してないで、ちゃんと食えよ?」
「……ありがとう。お兄さんは、優しいよねぇ……」
「故郷にお前ぐらいの歳の妹がいるからな。……可哀想だとは思うけど、オレにはどうしようもない。だから、そんなすがるような目で見るなよ」

 なんだかんだ言いつつも、このお兄さんはわたしにほだされてきていると思う。

「お兄さん、ここからコッソリ逃がしてくれない?」
「できるわけないだろ? それに、お前のソレは『商品』の証だからな。そんなの付けているうちは、まともな職にもつけやしないし、どこ行っても人間扱いはしてもらえねえ。それなら貴族のところで少しでもいい暮らしをさせてもらうほうがいいんじゃないか? もしかしたらはくせいにするっていうのも、噂だけで、本当じゃないかもしれないんだしさ」

 お兄さんは指で「ソレ」と、わたしの首のチョーカーを指し示し、ポケットからもう一つ小さいリンゴを取り出してかじりつく。

「リンゴ……小さいね」
「仕方がないだろ? バレないように、小さいのを選んできたんだ。見つかったらどやされるから、お前も早く食っとけ」

 やっぱり、お兄さんは優しい。不味まずい食事にげんなりしていたので、ありがたい気遣いだ。
 服の端で拭き、ツヤツヤになったリンゴをわたしもひと口かじる。
 少し酸味が強いけれど、リンゴの爽やかな風味が鼻の奥まで広がっていく。

「このチョーカー……どうしたら外せるか、お兄さんは知っている?」
「人を売買する事は法で禁止されているだろ? 人には普通『戸籍』があるから、戸籍のある人間を売買なんてしたらしょっぴかれちまう。だけどギャンブルで大損したり何かの理由で借金を背負ったりした時、売るものがない人間は、自分を売るしかない。そういう奴を奴隷として売買する為に、戸籍をなくして『商品』にするんだ。ソレは、戸籍のない人間って証拠。つまり、ソレを外したきゃ、戸籍を手に入れるんだよ。まあ、それができたら苦労はしないんだけどな」
「戸籍……」

 法で禁止されているのに、人身売買のようなことができる仕組みがあること自体問題があると思う。
 しかし、異世界から来た私にそもそも戸籍なんてあるのだろうか。この世界に来てから、戸籍の話なんて誰もしていなかったし、ニルヴァーナ国でもそんなものもらっていない気がする。

「自分が売られた金額で、自分を買い戻せば『商品』じゃなくなって、戸籍を取り戻せる」
「あの、初めから戸籍がない場合は?」

 お兄さんは首を傾げる。

「あまり見たことはないが、まぁ孤児とかはない場合もあるからな。そういう場合は、身分を保証してくれる奴を見つけて、なんとかして戸籍を作るしかない。まぁ、お前が『商品』として売られたのなら、戸籍を作れても結局その金額分借金してるのと同じことだ。ソレが外れても借金は残ったまま。どこで働こうが返済に回されちまう」

 身元保証人に、借金……
 どうあがいても、二千万シグルの借金がわたしに付いてまわるということだ。

「お兄さんが、わたしの身元保証人になるとかは?」
「そりゃ無理だな」

 アッサリ言われて、わたしは眉を下げる。

「どうしてですか! わたし、ちゃんと自分の借金は働いて返しますよ?」

 借金二千万、しかも一文なしではあるけど、コツコツ働けば返せない金額ではないはずだ。

「身元の保証人っていうのは、しっかりした職業じゃないといけないんだよ。船乗りの下っ端なんて、話にもならない。可哀想だけど、無理なものは無理だ」
「船乗りも立派な職業ですよ! お兄さん」
「だーかーらー……っと! ととっ!」

 船が大きく揺れ、お兄さんとわたしは危うく転びそうになるのを、なんとか耐える。
 その時、船からミシミシと危ない音を聞いたような気がした。

「何、今の音?」
「波でも出てきたか……?」

 お兄さんはげんな顔をして、目を閉じて耳を澄ます。
 わたしは音を立てないように、残りのリンゴをもそもそとゆっくりかじる。
 しばらくすると、またミシミシと音がして、船が左右に大きく揺れた。

「きゃあっ!」
「っ! 大丈夫かチビ助!」

 お兄さんがわたしをかばい、一緒に壁に叩きつけられた。
 船は相変わらず揺れ動いて、船からはバキバキと聞こえちゃいけない音がしている。

「まさか、魔物……いや、そんなはずないよな……魔物けがあるはずだし」
「魔物?」
「チビ助、鍵は開けといてやる。もし、魔物だったら船はヤバいから逃げろ! でも、別だったらここに戻って大人しくしとけ! わかったな!?」

 それだけ言うと、お兄さんは急いで扉を開けて出ていった。
 なんだかわからないけど、これはチャンス?
 魔物という単語は不吉だけど、ここから出られるチャンスを逃すわけにはいかない。
 わたしは倉庫から出て、廊下を歩く。けれど船は激しく揺れて、一歩進むのだけでも一苦労だった。ようやく階段を見つけて甲板に出ると、船が巨大な白いイカの足に絡みつかれていた。

「魔物けの魔道具はどうした!?」
「ニルヴァーナ国で買ったヤツ全てが不良品です! 動きませんっ!」

 そんな会話が飛び交う中、ボキボキと嫌な音を立てて、船の船尾がイカにへし折られた。
 うわぁーっ!! ヤバいよね? これは沈没待ったなし?
 さすがにこれは、お兄さんが逃げろって言うわけだわ。でも、そんなこと言ったって、どこに逃げればいいの? この船の上でどう逃げろっていうの? 逃げ場なんてないじゃない……

「うわああぁぁぁーっ!!」

 船の船員たちは悲鳴のようなたけびを上げている。もりを手にイカに挑んだり、パニックになった船員が黒い玉を投げて甲板で爆発が起きたりと、きょうかんの地獄絵図だ。
 しかも反撃されたイカが怒ったのか、船の半分がイカの足にメキメキいわされてる!

「反対側から逃げるぞ!」
「皆、急いで逃げろ!」

 救命用らしい小さな船を海に下ろし、船員たちが海へ身を投げていく。
 しかし、もうその救命艇は定員オーバーで、無理やり乗り込もうとした船員といさかいが起きていた。

「これ以上は無理だ! てんぷくする!」
「助けてくれ! 頼む! 乗せてくれ!」
「すまない! 許してくれ!」

 救命艇に乗り込むのは諦め、他になにかないかとわたしは周囲を見渡す。
 いざとなれば海に飛び込むしかない……でも、この高さから下りられるだろうか?
 甲板から海を見下ろすと、マンションの二階か三階ぐらいの高さで、足がすくんで震えてしまう。

「無理……無理、無理、絶対無理!」

 イカは怖いけど、飛び降りるのも怖い。

「チビ助! 大丈夫か!?」
「あ……お兄さん」

 お兄さんは木のたるを持ってわたしのところまでやってきてくれた。

「チビ助、このたるなら海に浮かぶはずだ。海に飛び込むぞ!」
「でも、こんな高い場所から下りるなんて……できないよ……」
「ここにいても、沈没して死んじまうだけだろうが! 中にリンゴとか入っているから、数日は生き延びられる! 生きて、オレは妹のところに帰る! お前も一緒に生きるんだよ!」

 震える足で船から下りようとした時、船がバキッと音を立て二つに割れた。

「ヤバい! 沈むぞ!」

 お兄さんはわたしを海へ放り投げた。わたしが必死に海面に顔を出すと、お兄さんはわたしの近くにたるを投げ落とす。お兄さんも海に飛び込もうとした瞬間、船がうずを巻きながら沈みはじめ、わたしは引きずり込まれないように、必死でたるにしがみつくことしかできなかった。


 塩辛い海水が口に入って、慌てて顔を上げる。
 あれからどのくらい経ったのか定かではないけれど、少なくとも二時間以上はたるにしがみついたまま海上を漂っている。
 周りには大破した船の破片が浮かび、船体は海の底へ沈んでしまった。
 褐色の肌のお兄さんは、必死に探したけど見当たらなかった。
 助かっていてほしい。でも、他人の心配ばかりをしている場合でもない。
 気を抜けばたるから手が離れそうになり、寒さで意識が遠のいていく。
 春とはいえ、水温はまだ低い。
 今は陽が高いからなんとかなっているけれど、時間の問題だ。
 海で長時間漂流する時に恐ろしいのは、海水の温度が下がるごとに生存率も下がるということだ。
 低温になればなるほど息切れを起こし心拍数が乱れ、気を失いやすくなる。気を失っている間に海水を飲んでしまうと、塩分で喉が渇き脱水症状を起こす。
 こうした知識は、毎年テレビなどで海難事故が報道されていたから、覚えてしまった。
 まさか、自分の身に降りかかるとは思わなかったけど。
 もう、いい加減疲れた……
 こんなオマケに厳しい異世界で、どうやって生きていけばいいの? 助かっても、首のチョーカーがある限り、わたしは『商品』で、人間扱いはされない。
 そんなことが頭をよぎり、わたしは頭を振る。
 低体温になりかけて気力が落ちているみたい。
 わたしには夢がある。だから、夢の為にも諦めちゃいけない。
 わたしは将来、キッチンカーでお弁当を売るのが夢で、この世界にキッチンカーなんてないだろうけど、こんなところで諦めたくない!
 波が穏やかな時を見計らって、たるの中からリンゴを一つ取り、海水が入り込む前にふたをする。

「いただきます!」

 何日漂流するかわからないから、食料は無駄にできない。でも、喉の渇きをうるおし体温を上げるには、食べ物を口に入れることが一番だ。
 カシュッと音を立てリンゴにかじりつくと、涙がぽろりと零れて海に吸い込まれていく。

「っ、なんで、わたし、こんなところにいるんだろう……ふっ、ぅ……」


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