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第七章
その9
しおりを挟む「降伏しろ、命までは取らない」
グレーシャの喉に突きつけた長剣は、寸毫の乱れるもない。
震えも揺らぎもない剣先を見下ろしながら、グレーシャは答えた。
「お子様だと思ってたけど、大きくなったのねぇ。グレーシャ驚嘆」
うっとりとした表情を浮かべた黒ずくめの女が、上半身を僅かに前に倒す。
キャルルは反射的に、半歩下がって剣先を下げた。
「あら、喉でなく胸を突いてくれるの? そちらの方が美しい死に方かしらねえ」
グレーシャとキャルルの視線が、剣身の真ん中でぶつかる。
「女の子は殺さない、お前の負けだ!」
キャルルの勝利宣言は、周囲の者に言い聞かせるように少し大きな声になった。
「キャルるん……素敵……マジ惚れしそう……」
リリカが体をくねらせ、その隣でバスティは大きく頷いて言った。
「あいつ、うちが育てたんだぞ?」
「えーバスちーが? 嘘だー」
「ほんとだにゃ! キャルルはうちの加護を持ってる、つまりうちの信徒だにゃ!」
バスティの台詞は嘘ではないが、決戦の行方には影響がない。
「お、女の子だなんて! グレーシャ感激!」
潤んだ瞳に桜色の頬になったグレーシャが、少年の翠瞳を見つめながら続けた。
「ねえ……ひょっとして、もう男になってるのかしら?」
さらに上体を屈めて、キャルルの前に大きく開いた胸元を突き出す。
グレーシャの黒い衣服は、胸の谷間をあらわにした大人の服。
ミュスレアよりもたわわな果実に、キャルルの視線が一瞬引き寄せられ、剣の先端が大きく動揺した。
次の瞬間、上体を起こしたグレーシャが後ろに倒れ、キャルルの鼻をハイヒールがかすめていった。
「あぶねっ!」
「あら、これが当たらないのは初めてだわ。男相手なら百発百中だったのに。まだ子供だったのかしら」
後方宙返り縦回し蹴り――サマーソルトキック――を直立から繰り出したグレーシャが、数歩後ろに立っている。
もしもキャルルが、恥ずかしさで胸から視線を外さなければ直撃を食らっていたところ。
これがアドラーならば、高確率で顎につま先の一撃を貰っていた。
「キャルル、気をつけろ! このババァ、さっきから全部演技だぞ!」
参謀役のアスラウから決死の助言が飛ぶ。
「四度目ね、やっぱり死になさい」
再びグレーシャの杖が地面を叩くと、今度はアスラウに向けて土属性の魔法が飛んだ。
「ぎゃあ!」
避けきれない数の土塊と石片に襲われたアスラウがひっくり返る。
土まみれになった友人を見たキャルルは、ようやく状況を理解した。
追い詰めた時の殊勝な態度は嘘で、色気に惑わされた隙にあっさり逃げられたと。
「卑怯だぞ!」
「戦いに汚いも綺麗もないわよ」
追いかけたキャルルが剣を振り、グレーシャの杖が受け止める。
五合十合と互いの武器がぶつかる度に、魔法の火花が七色に飛び散る。
キャルルが手にするエルフの剣は、膨大な魔力を内包して刃全体を覆って強化する。
この伝説級の武器を相手にするため、グレーシャは己の杖に魔力を回して対抗していた。
「なんて奴だにゃ。使い手がキャルルとはいえ、あの剣相手に立ち回るとは」
女神のバスティも感心するほどの強さが黒のヒーラーにはあった。
「だ、だが……勝負は見えてる……もうキャルルの剣を受けるので精一杯だ……」
顔中を土まみれにして、リリカに回復魔法をかけてもらいながらアスラウが言った。
「お前は全然役立たずだったけどにゃ」
「うう……」
容赦のない一言に、天才少年魔術師は涙目になった。
一歩一歩着実に、キャルルは追い詰めていた。
攻撃は見切られていても、魔力を込めた杖では速さに劣る。
桁違いの実力者ばかりを相手に訓練してきたキャルルに、グレーシャの攻撃が届くことはない。
そして今度は、ダンジョンの壁際に追い込む。
「逃げ場はないし、さっきの技も使えない! 負けを認めろ!」
あくまで正々堂々とキャルルは勝ちたがる。
「どうしましょう。こんなにやる子だったとは」
負け惜しみを言いながらも、グレーシャの目は諦めていなかった。
左手側に五歩ほどいけば更に地下へと進む穴があり、飛び込めばまだ戦いは続く。
だが壁に手を当てて様子を探ったグレーシャが意外な行動に出る。
「まいったわぁ、負けよ負け。お願い、もう許してぇ? グレーシャ泣いちゃう」
両手をあげて魔法も解き、涙目で許しを請うた。
「おっ、ああ、うん……」
ようやくエンジンがかかって来たキャルルは少し拍子抜け。
「もう追いかけたりしないわ、この先の探索も邪魔しない。このエリアとここから先は、全て貴方に任せるわ。それで許してくれない? 駄目だって言うならカラダで払うけど」
再びグレーシャが肢体を捻ってキャルルに胸元を見せつける。
今度は油断しなかったが、キャルルは恐怖から三歩下がった。
「あら、傷つくわその態度。何なら、わたしの体なしでは生きられないようにしてあげるわよ?」
勝ったはずのキャルルが青い顔をして更に五歩下がる。
「ま、交渉成立でよろしいかしら? ほらあんた達、さっさと引き上げるわよ!」
意外なほどにすんなりと、むしろ急き立てるようにしてグレーシャが去っていく。
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キャルルのとこへやって来たアスラウが聞いたが、「ババァ」と口にした瞬間グレーシャが消えた方向を振り向いてしまう。
少年魔術師にとってトラウマになりつつあった。
「なんだか、勝ったのに勝った気がしないや」
後味が悪いと言うほどではないが、最後まで場の空気を支配していたのは黒衣のヒーラー。
キャルルは、自分の団の大人達以外にも、世間には強い奴がいると実感していた。
「けど、世界って広いな!」
振り払うように笑顔を浮かべたキャルルのところへ、バスティとリリカも走ってくる。
キャルルの最初の冒険は、貴重な経験を積んで大団円になる……かと思われた。
「んんにゃ!?」
女神バスティの猫髭が激しく震えた。
「どうしたの?」
「どした?」
強敵についての感想戦を始めていたキャルルとアスラウが、少女姿のバスティを見る。
「こ、これは、なんかとんでもないのがやって来てるにゃ!」
バスティが、ダンジョンの下層へと伸びる穴を指差した。
「とんでもないって、どれくらい?」
「分からんにゃ、逃げた方が無難かも……」
グレーシャのあっさりとした降伏は、これが原因だった。
壁を伝わる微妙な魔力を捉えた超A級のヒーラーは、キャルル達を足止めに残して逃げ出した。
あのグレーシャでさえ退却を選ぶ魔物が来る。
生き物が呼吸をする時に出る生暖かい空気、湿度の高いダンジョンで醸された体臭、そして巨体がダンジョンの壁や天井にぶつかる音。
「やばい、すぐそこだ!」
アスラウが魔法の準備を始めた。
横穴の端に手をかけて、角の生えた頭が現れる。
草食獣に似た頭を持つが、二足歩行の巨体はオークよりも分厚く高い。
習性は凶暴そのもので戦いに使う知恵があり、「冒険者を試す為にダンジョンが生み出す」とまで言われる上位モンスター。
「ミ、ミノタウロス!」
一言と共に恐怖も吐き出し、キャルルが再び剣を構える。
牛頭魔人ミノタウロス――単独での討伐はA級以上の冒険者でしか知られていない。特殊な攻撃は行わないが、その皮膚は牛皮の鎧で両腕で馬の首すら引きちぎる。そして武器を使うこともあり、B級以下の冒険者が最も恐れる迷宮の門番。
「なんで、なんでこんなとこにいるしー!」
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「バスティ、リリカ、逃げろ! 上層に知らせて! タックスがいれば伝えてくれ!」
B級以上の冒険者と、サポートが多数いれば一体なら何とかなるはずだ。
キャルルは半歩踏み出し、そして宣言した。
「ここは俺が食い止める!」
「俺達が、だろ?」
二人の少年が、短い人生で最強の敵に立ち向かう。
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