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指導医と豚足
しおりを挟む「下手くそ。不器用。木偶の坊。包帯くらい普通に巻けないのか。巻きが甘くてすぐに解けるぞ。それに針くらい10分もかけずに刺せ。患者が怖がるだろうが」
「申し訳ございません!」
申し訳ございません、ごもっともです、勉強します。
もう何度この言葉を言ったかわからない。
回診を終えてから副院長室に篭った途端に始まった月ヶ瀬の小言が私のガラスのハートを粉々に打ち砕く。
「真中に一体何を教わってたんだ。血管もまともに探せない。刺したら刺したで血管も無駄に傷つける。神経まで傷つけたらどうするんだ!苦痛なのは患者だぞ!」
「…ごもっともです」
(返す言葉もございません。)
だんだんと謝罪の言葉も底を尽きてきた。
月ヶ瀬との回診は散々だった。糖尿病を長年患っていた患者さんは血管も脆かったために、静脈からは血液が取れなかった。
そのために今まで経験してこなかった動脈穿刺(動脈に直接針を刺す方法)で採血を急にやれと言われて、心の準備もしない中、震える手で患者の腕の血管を必死に探した。
探して触れたと思った血管に、針を刺したが角度がいけなかったようで、血管内で針を動かしてしまい大出血してしまった。
患者さんは痛かっただろうに、「いいよ、いいよ。痛いの慣れてるし」と言って軽く流してくれたが、月ヶ瀬は許してくれなかった。
「ド下手もいいところだ。これじゃ、オペなんぞ参加させられない」
分かりきったことだったが、はっきりと言葉に出されると、流石に凹む。
真中先生は優しいからあまり言ってくれないが、同じ時期から研修に入った鳩羽君が先にオペに参加できていて、私が参加出来ないのはそういうことだろう。
私が唇を噛み締めていると、はぁ…と深い溜息をついた月ヶ瀬が、徐に白衣を脱ぎ出した。
「ちょ…あの!月ヶ瀬先生!?何故今脱ぐ必要が…!」
「あぁ、言ってもわからなそうだからな、お前の脳味噌。身体で覚えてさせようと思って」
「だからって、脱ぐ必要性を感じません…!」
「いいから黙れ。指導医の話は最後まで遮らずに聞け、豚足女」
「と…豚足女…⁈」
「人体じゃなくていつまでも豚足しか縫えない女だから、豚足女で充分だろ?」
「それに関しては、返す言葉もございません…」
月ヶ瀬の暴言に一瞬怯みそうになるが、私だって負けてられない。
この人より、真中先生の方が絶対優しいに決まってる。
「そ、それに…!まだ私は月ヶ瀬先生が指導医になることを了承していないはずですが!?」
「お前、こんな状態で拒否できると思ってるのか?研修医なんぞにそんな権限ないぞ」
会話の間にもどんどん衣類を脱いでいく。
上半身が露わになると、月ヶ瀬はそのまま私の側まで来て手を取った。
急に、昨夜の光景がデジャヴし、頭に血が上っていくのがわかる。
緊張で胸が張り裂けそうな私を知ってか知らずか、月ヶ瀬は手を自分の首に滑らせた。
貼りつくような人の柔肌に全身が総毛立つ。
性的意味がないのはわかっていたが、個室で二人きりのこの状況は、なかなか背徳的だった。
「わかるか?柴宮。これが頸動脈。しっかり触ってみろ。俺の血管は奥まったところにあるから、わかりにくいか」
仄かに暖かい皮膚の下に、確かな鼓動が息衝いているのを感じた。
人が生きている証。
月ヶ瀬は私の手に自分の手を重ねて動かしていき、鎖骨をなぞらせる。
「鎖骨下動脈だ。更にその下、上大静脈、大動脈と、それと心臓がある…」
鎖骨をなぞらせた手を、今度は胸元に滑らせる。
彼の心臓の動きをダイレクトに感じ、あまりにも非現実的な光景に顔を逸らすと「目を反らすな。血流を感じろ」と、窘められた。
「全ての血液はここに戻ってくる。肺で酸素を取り込み、綺麗な朱色になって再び動脈を通って全身を駆け巡る。分かるか?柴宮」
「はい…」
名前を呼ばれて私は頷く。
「指先に行く血流は何処を通る?今のように手でなぞって見ろ」
月ヶ瀬に開放された手を引っ込めようとしてやめた。
彼は医者として本気で指導してくれている。
本気の指導には本気の答えで返さないといけない気がしたから…
胸で鼓動する心臓を手の平でしっかりと感じ、必死に頭の中で医学書に書いてあった血管のイメージを膨らませる。
この血液はどこに行くのだろうか…
私は、イメージとおりにゆっくりと鎖骨まで手を滑らせて、指先まで答えを導いた。
「正解だ」
重なり合った指先を絡めとられ、ゆるく引っ張られらバランスを崩して前のめりになる。
無防備だった私の唇は、彼の唇に掠めとられてしまい…
「ご褒美」と言って、ふっと目を細めて口角を上げた月ヶ瀬に、しばらく目が奪われた。
顔だけは非常に上等なのだ…。
真っ赤になってしまったであろうこの顔も、このうるさい心臓の音も、きっとこの顔に騙されてるんだ。
「医者はイメージが大事だ。いくら知識があっても、イメージ出来なきゃ上手く出来ないものだ。イメトレもできたことだし、ステップアップしよう」
月ヶ瀬は部屋の仕事机に近寄ると、大きな箱を私に手渡す。
「動脈穿刺の続きをやるぞ。俺の腕を使え」
そう言って、ドカリと応接用に備え付けてあるソファに寝転んで腕を差し出した。
成人男性の腕は、血管が浮き出ていて針が刺しやすそうだな…
うるさい心臓を落ち着かせる為に何となくそんな事を考えながら、私は月ヶ瀬の腕を取った。
※※※※※
「カンファレンスになかなか来ないと思ったら、二人で何やってんの?修は上半身裸だし、柴宮は血だらけだし」
大きな溜息を吐きながら、真中はソファやフローリングに垂れた血を拭いていく。
「ワイシャツが汚されたら堪らないからな。この馬鹿たれが案の定、動脈穿刺が上手くできなかったんだぞ?動脈刺したら刺したで針引き抜いて止血しないせいで血が吹き出すしな」
「本当にすみません…。私が手技が苦手なせいでご迷惑をおかけして…」
腕を圧迫して止血を待っているが、なかなか止まらずにガーゼを次々と赤く染めていくのに、絶望感すら感じる。
項垂れた私を気遣ってか、真中先生はそっと頭を撫でてくれた。
「ずっとそのまま押さえてれば自然と止まるよ。それよりびっくりなのが、修が身体張ってるってことなんだけどね。何々?柴宮は特別ってこと?」
「馬鹿か、お前は。こんな医者、放置してたら患者の迷惑になるからだろうが」
「照れるな照れるな。他人になんか全くと言っていい程興味のない奴が、ここまで身体提供するなんて天変地異じゃん!とうとう修にも春が来たー!って痛い!」
月ヶ瀬のかかと落としが綺麗に真中の頭にクリーンヒットした。
「お前、狸親父みたいな事これ以上言うなら衣類剥いで部屋から叩き出してやるからな」
「滅相もございません」
真中は涙目になりながら首を振る。
「柴宮の件だが、報告以上だとわかった。このままだと外科以外でも何も出来ない医者になるのは確実だ。真中も腕はいいが、レベルの違う研修医を抱えるとどっちかにしか時間が裂けない。オペに入る時間が長いお前には悪いが…これでは柴宮が上達しない」
「それは俺も薄々感じてた。何とかしてあげたいって思ってたんだけどね。気付けなくてごめんね、柴宮」
「いいえ、そんなこと…!真中先生にはお世話になりっぱなしで。飲み込みが悪い私が悪いんです」
全ては私のせいと、必死に首を振る。私が不器用なのは昔からだ。
小学校での家庭科の授業で、針で手を滅多刺しにしたのと変わりないくらい、上達していない。
不甲斐ない自分に涙が出そうだ。
「柴宮、自分が悪いと思い込む事で逃げてやしないか?患者からしてみれば、研修医も医師免許を持ってる医者という枠組みでどうしても見られる。良いも悪いもない。ただ、医者だから治せて当たり前なんだ」
だが、月ヶ瀬が思っていたことは違う様で、静かな声が私を諭す様に問いかけてくる。
その内容にハッとさせられた。
---そうだ。
何もかも月ヶ瀬の言う通り。
私はアタマを鈍器で殴られた様な衝撃を受けた。
「確かに、そうです」
私は回診の度に「先生!」と言って慕ってくれる患者達の顔を思い出していた。
あの人達にとっては、私は病気を治してくれる「医師」だ。
それ以外の何者でもない。
「一体おまえはどうしたい?」
「…私は、このままではいけないと思います」
「そうか」
「なので、真中先生からも、月ヶ瀬先生からも、両方から沢山学びたい。強欲すぎますね…」
「まぁ、知識に貪欲なのは俺達も同じだ。医学は日々進歩しているからな。あぁ、そろそろ外しても大丈夫だぞ。止血したから」
「あ、はい…」
血塗れのガーゼを外すといつの間にか止血していたようだ。
月ヶ瀬は手慣れた様子で絆創膏を手に取ると自ら傷口にピタッと貼った。
「お前の意志はわかった。ならば、指導医の変更も飲めるな?真中には無論上級医としてフォローしてもらうから安心しろ。真中も異論はないな?」
「元はと言えば、俺の指導力不測が原因だからね。今は柴宮の成長を最優先で考えたい。だから異論はないよ」
真中先生に向いていた月ヶ瀬が再び向き直る。
「と、言う事だ。俺を選べ、柴宮」
あまりにも真剣な顔で告げられた言葉と、握手を求めるような手に戸惑って真中先生に視線を向けると、困った様な顔をしているが、微笑んでいてくれている。
あくまで、二人は最後の最後に私に選択権を委ねてくれているんだ。
「はい。よろしくお願いします」
私は月ヶ瀬と握手をし、深々と頭を下げた。
その形式の様な一連の動作が終わるまで沈黙がしばらく続いたが、その場の雰囲気に耐えられなくなったのか、真中先生が「ブッ」と突然吹き出す。
「俺を選べ、なーんて。何だかプロポーズの言葉みたいだね」
「え!ぷ、プロポーズ、ですか?!やめて下さい、心臓に悪いですからっ…!」
あまりに急なことで慌てて否定するが、私の気持ちを知ってか知らずか、月ヶ瀬は鼻で笑うと
「あぁ、そうとってくれて俺は構わないが」
とか真面目な顔で変な事を言い出した。
どうやら私は選択肢を間違えてしまったのかも知れないと思い始めたのは、私一人だけの秘密だ。
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