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海に魅入られし娘1
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空が黎明の群青に染まる前、アーシェはぱちりと目を覚ます。
一秒たりとも遅れない。遅れるはずもない起床の時間だ。
ざっと惜しげもなくベッドを離れると、顔を洗い、服を着替え、鏡台に座り髪を整える。
鏡に映った自分はいつもと変わらなかった。
海水にさらされ続けている割には櫛の通りのいい金の髪に、強い日差しを浴びていてもそばかす一つない白い肌。まろやかな曲線を描く肢体は、同性にすらあこがれられる。
そして瞳は透き通るような鮮やかな青。
なにも知らない旅人は、アーシェを海生石のように美しいという。
その名の通り、どこまでも青く、波のしぶきを閉じ込めたような揺らめきを宿す、魔法の石。アーシェを含めたこの街の潜り手達が、命がけで採る海生石に。
もっと着飾れば、きっと貴族だって求婚に現れるだろうと。
けれどアーシェを知るものは、こそこそと言い合う。
美しいが、海に見入られたかわいそうな娘だと。
そんな反応にはもう慣れた。
アーシェにとって大事なのは、ただ一つだ。
だけど、あのヒトがほめてくれるのであれば、アーシェはきっと化粧だって髪結いだって、大嫌いなコルセットだって締めるだろう。
でも、そんなことにはならないから、アーシェはじゃまにならない程度に髪を引っ詰め、最後に祖母の形見の守り石を首から下げる。
あれ以来、革紐からより丈夫な鎖に変わったそれが首筋にひんやりとした重みを伝えるのを確認すれば、アーシェはそっと部屋を抜け出した。
父の経営する商会の裏手から涼しい外へ出れば、アーシェを止めるものは何もない。
はやる気持ちを抑えて、アーシェは眼下の港へ走った。
日の出前の紺青色に染まる白亜の町並みは未だに静かだが、港へ近づくにつれて、あふれる活気が胸を高鳴らせる。
港にはすでに潜り手の女達と、船員たちが船に乗って待っていた。
「おはようっ、今日もよろしく」
「アーシェが来たぞ、出航だ!」
「おうともよ!!」
渡し橋を軽やかに渡って船へ乗れば、待ちかまえていた海の男たちがすぐさま縄をはずし、魔法動力で船が動き出す。
ほう、とアーシェが吐息をつけば、先輩の潜り手であるトキがサンドイッチを差し出してきた。
「どうせまた何も食べてないんだろ? あたしたちの仕事は体力勝負だ、食べて英気を養いな」
「ありがと、トキさん。リンゴをかじってきただけだから助かった!」
アーシェは笑顔で受け取り、こぼれんばかりの具材が挟まったそれに豪快にかぶりついた。
油漬けにしたさ魚の塩気と、赤々とした実野菜の酸味が空腹の腹にしみる。
料理人に頼めば作ってもらえるだろうが、さすがに朝早くに起こして頼むのは気が引けた。
大事にかみしめていれば、その姿をトキが赤茶けた髪を抑えつつ、あきれた顔で眺めていた。
「全く、今でも不思議だねぇ。雇い主のお嬢さんと一緒に潜るなんて。しかも誰もがいやがる海底都市周辺に自ら志願するなんて」
「だってあそこじゃなきゃだめなんだもの。私はあそこ以外潜らないわ」
「まあね、あんたよりもあそこをうまく潜れる子は居ないんだけど、よくもまあ続くさね」
肩をすくめるトキに、アーシェはパンくずをはたきつつ曖昧な笑みを返した。
しばらく進んだ船が予定区域にたどり着くと、アーシェ達は即座に準備を始める。
余計な体力を奪われないようシャツの裾はしまい、袖やズボンをひもで縛り、水中でもよく見えるように水晶石をレンズにしたゴーグルで目を覆った。
ほかの潜り手たちも準備を済ませたものから、腕や足、首に身に着けた海生石に触れていた。
アーシェも一呼吸して、胸元にしまった守り石を服の上からにぎりこんで、唄う。
「”我、陸に上がりし一族の末裔 しかし今一度海に抱かれることを望むもの也”」
たちまち海生石から淡い光がこぼれ、全身を優しくすべるのを感じた。
ふんわりと体に重みがかかり、水の気配が色濃くなる。
このはっかのようなすっとした清涼感は、アーシェの心を浮き立たせる。
「いつものことながら、あんたの起動詩は早いもんだねえ」
トキが握っている海生石も光をこぼしているが、全身を覆うにはまだかかかる。
それでもずいぶんと早いほうで、ほかの女達は未だに胸を覆う程度だ。
たしかにアーシェの起動詩は早い。けれど特別だと胸を張る気は毛頭ないし、ここまで来たら頭を占めるのはたった一つのことだけだ。
だからアーシェは、トキに一つ微笑むと、船の柵にもうけられている柵を開けた。
眼下にあるのは、暁を照り返して波打うつ海面だ。先が見通せないほど黒々としていて、新米の潜り手なら不安を覚えるだろうが、その先に待つものを知っているアーシェは高揚しかおぼえなかった。
「……トキさん、先行きます」
「アーシェ、一刻で帰ってこいよ。いいな一刻だぞ」
「うん」
船長の念押しに生返事を返し、アーシェはためらいなく海へと飛んだ。
一秒たりとも遅れない。遅れるはずもない起床の時間だ。
ざっと惜しげもなくベッドを離れると、顔を洗い、服を着替え、鏡台に座り髪を整える。
鏡に映った自分はいつもと変わらなかった。
海水にさらされ続けている割には櫛の通りのいい金の髪に、強い日差しを浴びていてもそばかす一つない白い肌。まろやかな曲線を描く肢体は、同性にすらあこがれられる。
そして瞳は透き通るような鮮やかな青。
なにも知らない旅人は、アーシェを海生石のように美しいという。
その名の通り、どこまでも青く、波のしぶきを閉じ込めたような揺らめきを宿す、魔法の石。アーシェを含めたこの街の潜り手達が、命がけで採る海生石に。
もっと着飾れば、きっと貴族だって求婚に現れるだろうと。
けれどアーシェを知るものは、こそこそと言い合う。
美しいが、海に見入られたかわいそうな娘だと。
そんな反応にはもう慣れた。
アーシェにとって大事なのは、ただ一つだ。
だけど、あのヒトがほめてくれるのであれば、アーシェはきっと化粧だって髪結いだって、大嫌いなコルセットだって締めるだろう。
でも、そんなことにはならないから、アーシェはじゃまにならない程度に髪を引っ詰め、最後に祖母の形見の守り石を首から下げる。
あれ以来、革紐からより丈夫な鎖に変わったそれが首筋にひんやりとした重みを伝えるのを確認すれば、アーシェはそっと部屋を抜け出した。
父の経営する商会の裏手から涼しい外へ出れば、アーシェを止めるものは何もない。
はやる気持ちを抑えて、アーシェは眼下の港へ走った。
日の出前の紺青色に染まる白亜の町並みは未だに静かだが、港へ近づくにつれて、あふれる活気が胸を高鳴らせる。
港にはすでに潜り手の女達と、船員たちが船に乗って待っていた。
「おはようっ、今日もよろしく」
「アーシェが来たぞ、出航だ!」
「おうともよ!!」
渡し橋を軽やかに渡って船へ乗れば、待ちかまえていた海の男たちがすぐさま縄をはずし、魔法動力で船が動き出す。
ほう、とアーシェが吐息をつけば、先輩の潜り手であるトキがサンドイッチを差し出してきた。
「どうせまた何も食べてないんだろ? あたしたちの仕事は体力勝負だ、食べて英気を養いな」
「ありがと、トキさん。リンゴをかじってきただけだから助かった!」
アーシェは笑顔で受け取り、こぼれんばかりの具材が挟まったそれに豪快にかぶりついた。
油漬けにしたさ魚の塩気と、赤々とした実野菜の酸味が空腹の腹にしみる。
料理人に頼めば作ってもらえるだろうが、さすがに朝早くに起こして頼むのは気が引けた。
大事にかみしめていれば、その姿をトキが赤茶けた髪を抑えつつ、あきれた顔で眺めていた。
「全く、今でも不思議だねぇ。雇い主のお嬢さんと一緒に潜るなんて。しかも誰もがいやがる海底都市周辺に自ら志願するなんて」
「だってあそこじゃなきゃだめなんだもの。私はあそこ以外潜らないわ」
「まあね、あんたよりもあそこをうまく潜れる子は居ないんだけど、よくもまあ続くさね」
肩をすくめるトキに、アーシェはパンくずをはたきつつ曖昧な笑みを返した。
しばらく進んだ船が予定区域にたどり着くと、アーシェ達は即座に準備を始める。
余計な体力を奪われないようシャツの裾はしまい、袖やズボンをひもで縛り、水中でもよく見えるように水晶石をレンズにしたゴーグルで目を覆った。
ほかの潜り手たちも準備を済ませたものから、腕や足、首に身に着けた海生石に触れていた。
アーシェも一呼吸して、胸元にしまった守り石を服の上からにぎりこんで、唄う。
「”我、陸に上がりし一族の末裔 しかし今一度海に抱かれることを望むもの也”」
たちまち海生石から淡い光がこぼれ、全身を優しくすべるのを感じた。
ふんわりと体に重みがかかり、水の気配が色濃くなる。
このはっかのようなすっとした清涼感は、アーシェの心を浮き立たせる。
「いつものことながら、あんたの起動詩は早いもんだねえ」
トキが握っている海生石も光をこぼしているが、全身を覆うにはまだかかかる。
それでもずいぶんと早いほうで、ほかの女達は未だに胸を覆う程度だ。
たしかにアーシェの起動詩は早い。けれど特別だと胸を張る気は毛頭ないし、ここまで来たら頭を占めるのはたった一つのことだけだ。
だからアーシェは、トキに一つ微笑むと、船の柵にもうけられている柵を開けた。
眼下にあるのは、暁を照り返して波打うつ海面だ。先が見通せないほど黒々としていて、新米の潜り手なら不安を覚えるだろうが、その先に待つものを知っているアーシェは高揚しかおぼえなかった。
「……トキさん、先行きます」
「アーシェ、一刻で帰ってこいよ。いいな一刻だぞ」
「うん」
船長の念押しに生返事を返し、アーシェはためらいなく海へと飛んだ。
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