都道府県戦争

浅野新

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 C県のニュースの後、課長に連れられ別室に入った矢口は一番入り口に近いテーブルに座らされた。
「大変な事になったな」
 会議机を挟んで遠くにずらりと部長達が座っている。地域活性推進課の部長が口火を切った。
「C県のやり方は得策とは言えないが、我々も思い切った方法を取らないと少子化対策に乗り遅れる危険がある。そこで――」
 いきなり何が始まるのか。思わず身を硬くした矢口のそばへ課長は歩み寄り、彼の肩をぽんぽんと叩いた。
 まあまあ、矢口君には急な話ですから、と課長が重い雰囲気をまとわりつかせている上司達をとりなし、くるりと矢口の方を向いた。
「前々から概要は説明させてもらっていたけれどね。矢口君、おめでとう。我々は満場一致で、正式に君を選んだよ。君は、念願の君の子供が持てるんだ」
 委任状は後日正式に渡すよと言いながら課長は別のテーブルに置いてあった分厚い冊子を静かに矢口の前に置く。矢口の瞳が驚愕で見開かれた。

少子化対策と時を同じくして男性妊娠法が施行されて十年。女性から健康な子宮を男性へ移植し体外受精で男性も妊娠、帝王切開で出産が可能になった。いくら子供を増やす為とは言え、最初はイロモノ扱いで見られていた方法は、とある愛妻家の男性が身体が病弱で産めない伴侶の代わりに妊娠、出産したニュースで一気に美徳に祭り上げられた。お涙頂戴の感動話は時にたやすく倫理をねじ曲げる。その後加速する少子化も相まって世論の支持を一気に獲得し、妊娠する男性はヒーロー扱いされるまでになった。移植される子宮の多くは発展途上国の女性から買っているのだが、子宮の入手やそれにかかる費用、入院、手術代も国で請け負うため金銭的負担は少ない。ただ、いくら医療技術が進歩したとは言え、移植には多くの危険を伴う。結果、妊娠する男性はまだ少数派だった。

 なぜ俺なんだ。
 矢口は背中を流れる冷や汗を感じながら絶望の淵に立っていた。

男性妊娠に関する理解と言うレクチャーは役所内で数ヶ月前から秘密裏に始まり、何故自分が受講者に選ばれたのか分からないほど愚かではなかった。しかし受講者は自分だけではなかった。不妊が珍しくなくなった今は、既婚で子供がいない職員は他にも結構いて、受講者は多かった事、自分は上司及び上層部のお気に入りだった事からまさか自分が選ばれるとは想定していなかった。

仮に、五十代以上の男は体力的に移植が無理だと、二十代と三十代は一般の不妊治療が成功する確率が高いとそれぞれ除外されたとして。ターゲットとして絞られるのは四十代男性。だとしても何故俺が。他にも――。

突然、矢口の頭の中に雷のような衝撃が落ちた。
林だ。
彼が最初のターゲットだったのではないか。

四十代の既婚者で子供がいなかったのは他にもいる。しかし、講義が始まった時期と林の調子がおかしくなった時期がぴたりと重なり、最初の候補者は彼以外考え付かなかった。彼が別れの際に何か言いたそうにしていたのも、実はこの事を伝えたかったのではないか。四十代で、彼の次に若手は俺だと。

途端に足元が崩れ落ちるような衝撃を感じ、矢口はテーブルの上に置いていた両手を握り締めた。汗ばんだ両手の爪が白くなっている。

林も同じ怖さを抱えていたのだろうか。男だった自分が、女でもない男でもないモノへと創りかえられていく恐怖に耐えられなかったのだろうか。

「課長」
 思わずすがる思いで目の前の男を見た。
「俺は、」
 喉がカラカラに渇いている。
 俺は男ですよね。
「君は男だよ。しかも勇気がある立派な男だ」
 下世話だけどね、と課長は矢口に顔を寄せ、声をひそめて話した。
「出産に成功すれば君はうちの市役所職員第一号と言う事で莫大な報奨金が出る。退職金に匹敵するかもしれないぞ。昇進ももちろん私からも推すが、子持ちになるんだ、君はもっと身軽になった方がいいんじゃないか? 身体に負担もあるだろうし。まあこの話はおいおい」
 無事に出産さえすればお払い箱になる可能性を言われた気がするが、矢口の頭の中は別の疑問が渦巻いており、それに頓着する余裕はなかった。
 もし出産に失敗すれば俺はどうなるんですかと尋ねる勇気はない。男性の帝王切開手術は、一度子宮移植手術をした負担がある為か、現在の所失敗すればほぼ死ぬことは免れなかった。出産がうまくいかなかったとしたら、かなりの確立で自分は死ぬだろう。却って挑戦するだけして死ねるのだから悔いはないのかもしれない。しかし俺は恐れているのはそこではない。
 出産以前の段階で妊娠しなかったら、受精しなかったら、そもそも俺の精子が使い物にならなかったとしたら。

 こんな恐ろしい、足元の地面が今にも崩れ落ちそうな、寄るすべもない不安定な気持ちを妊娠できない女達は抱えていたのか。
 元妻はどうだったか。離婚届を静かに受け取ったあの女の顔は、当時どんな様子だったかは、はっきりと思い出せない。ただ、あの時の妻はひどく疲れていたような気がする。いや。

 矢口はなぜかこの状況で唐突に思い出した。
そうだ。彼女は用紙を受け取った時、なんとも形容しがたい、しいて言えば泣き出しそうな顔になったのだ。湿っぽい展開は御免だと思いその場から離れたが、その後妻が泣いた様子はなかった。あれは泣き出しそうだったのではなく、安堵した表情だったのではないか。終わりが見えない不妊治療から開放され、「赤ちゃん待ちの誰々さんの奥さん」から個人名で呼ばれる自由を取り戻した顔をしていたのではないか。

「矢口君」
課長の声に矢口はびくりと身体が揺れた。
「やってくれるね」
 死刑宣告を受けたかのように頭の中が真っ白だ。動悸が早くなり、背中の汗は冷たく背中を濡らしてゆく。
 顔面蒼白の矢口を見て、課長はふ、と表情を緩めた。
「杉本君、若いよねぇ。いくつだったっけ? 」
 ことさら大きくなった課長の明るい声に再びびくりと矢口の肩が無意識に動いた。課長の意図が分からず思わず彼を見上げる。課長が楽しそうに笑った。
「大丈夫、クイズじゃないよ。気軽に答えて。ほんとに忘れちゃったんだよ」
「に、」
 のどから声を絞り出した。
「にじゅう、ろく、さいです」
「そうかあ、そんなに若いのか。それでね、彼、二人目ができたんだよ」
 矢口は一瞬息をとめた。
あはは、と突然課長は矢口の背中をばんと叩く。
「そんな葬式みたいな顔するなよ。めでたいじゃないか。ちゃんと祝ってやらなきゃ。あ、彼の事は誤解しないでやってくれ。まだ僕にしか報告はしてない。君の事を気にしていてね、いつ言ったらいいのか悩んでたから僕から皆に話すと言ったんだ。忙しくて中々機会がなかったんだけど明日にでも言うつもりだったんだよ」
 笑い声のまま課長は
「これで――うちの課の既婚者は大体皆子供が二人になったね」
 これ以上の苦痛は耐えられない。
 それ以上を言われる前に、矢口は立ち上がって両手をばんと机に置き、がばりと頭を下げた。
「も、申し訳ございません!! 」
「矢口君のせいじゃない。そうだろう? 君は至って健康なんだから。ほら、座って座って」
 課長がレストランのウェイターのようにパイプ椅子を矢口の後ろに寄せ、矢口は仕方なく座った。
「君には問題がないのにパートナーのせいで子供ができなかったなんて気の毒な話だよ」
 そこでだ、と課長は後ろを振り向いて分厚い書類の束を机に下ろした。
「今回、手術成功率百パーセントのT先生をお迎えしたんだよ。矢口君も知っているでしょう、あのTVで有名な。もちろん移植だから体への負担はもちろんある。術後の痛みもあるだろう。その点最高の先生と病院とスタッフを用意させてもらったよ。丁寧な資料も用意した。これを読んで事前に分からない事、不安な事は何でも専門のカウンセラーに言ってほしい」
「君が希望するなら、今誰かいい人がいるのなら彼女との体外受精でも構わないが、卵子カタログも用意したんだよ」
課長がパラパラとカタログをめくった。
「提供者は二十代ばかりだし、写真もついてる。君好みの可愛い女の子を選んでくれて構わないんだよ。子宮はさすがに分からないけれど、二十代の出産経験者から提供してもらうから安心していいよ。
文字通りきみの子供が授かるんだ。こんな好条件二度とないだろう」

力強く、一辺の後ろめたさもなくまっすぐにこちらを見詰める課長の瞳に、矢口は狂気を感じてぞっとした。

違う。林や俺が選ばれたのは、気に食わないからじゃない。ここにいる奴らは、お気に入りだからこそ最大級の栄誉を授けようと本気で考えているのだとしたら。子供をもうける事こそが人生で一番の名誉だと思っているのだとしたら。
課長のほがらかな声が静かな会議室に響いた。
「君は子供が欲しいし子宮と卵子はそろっている。しかも手術も含めて費用は一切かからない。休職中の給与も、特例で月収の満額保証される――これだけそろっていて、断る理由は、あるのかな」
 俺に選択権はなかった。

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