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聖司
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さくらさんが住んでいるマンションは、僕や曜が住んでいる所から自転車で十五分の所にある。
僕はけだるい空の下、車庫に自転車を止めた。体は自転車をこいできた直後で熱いくらいなのに、肌は痛いほど冷たかった。耳の冷たさが地味にこたえる。毎年冬になると毎回思う、耳当てを買おうかなんてちらりと脳裏を掠めた。買おうかどうしようか悩んでいるうちにいつも冬は終わってしまうのだけれど。
「ポトスに水、やっていい? 」
さくらさんの部屋に入るなり、僕は如雨露に水をくみ、ポトスに水をちょろちょろとやった。部屋に五つほどあるポトスやライムの水やりは彼女の部屋で最初にする、僕の欠かせない儀式になっている。
青々とした葉をそっとなでてみる。柔らかく、つるりとした感触。頑丈なつる。観葉植物は彼女の部屋と相性が良いらしく、どれもすくすくと育っている。
「聖司君、水やり上手いのね」僕の様子を傍で見ていたさくらさんが言う。
「そう? 」
水やりに上手いも下手もあるの、と笑って聞き返すと、さくらさんは全然違う、と真剣な顔で言った。
「聖司君がやった後はよく育つのよ。本当に」
しゅわしゅわ、と台所からやかんの沸騰した音がした。立ち上がろうとすると、さくらさんは、いいわ、水やりやっててちょうだい、と台所へ歩いて行く。僕は水やりを続けながら、ふと思い出した。
「あ。一つ教えてもらおうと思ってたんだ」
何、と台所からさくらさんの声が返ってくる。
「前、曜が変な事言ってた」
言われた事をさくらさんに話すと、彼女は楽しそうに笑った。
「曜も上手い事言うのね」
「雰囲気が華奢って、どういう意味」
「そのままの意味よ」
僕は首をひねった。やっぱり分からない。さくらさんはまだくすくす笑っている。
「ぴったりよ、聖司君。言われた事ない? 」
「さあ。ずっと男子校だし」
「それは関係ないんじゃない」
しばらく笑っていたさくらさんは、ふと何かを思い出したかのように真顔になった。
曜、曜にね、と彼女は続ける。
「やっぱり分からないと言われたわ」
僕はポトスから目を離し、彼女を見た。
曜の問いの意味は、聞かなくても分かった。
さくらさんの言葉が思い出される。
一人を深く愛する事ができない人。
「曜の気持ちはよく分かるの。聖司君達の歳の頃は・・・信じていたと思うから」
永遠の愛と言う物を。
さくらさんは台所のテーブルに軽く身をもたれかけた。視線は僕を通り越して、どこか、遠くを見つめている。
「いつ頃だったかな、二十歳を過ぎた辺りからかしら。考えが変わったのって。それまではね、一対一の付き合いをしていたの。でも、ある日当時の恋人に、他にも彼女がいるって分かったのよ。その時、何故か嫉妬心は全く起こらなかった。裏切られたって悲しみもなくって」
「逆にすごくね、」
彼女はここで少し沈黙した。
「・・・すごく安心したのよ。ああ、この人は、私だけを見ていないって。私に何かあっても、生きていかれるって。・・・それがきっかけ」
「聖司君も、変だと思ってるでしょ」
そうしてぽつりとさくらさんは呟いた。
彼女は今三十一歳だと聞いた。
曜が教えてくれた。「絶対怒ると思ったけど」聞いてみたらあっさり教えてくれたそうだ。
元々年齢にはこだわっていないのかもしれない。他人に対しても、自分に対しても。
さくらさんは静かに続ける。
「・・・でもね、一人に夢中になるのが怖くて。自分が無くなっちゃうのが。恋に夢中になるなんて、その人がいなくなったらどうするのかしら。でも、相手が一人じゃなかったら、そう夢中にもならないでしょう。安心できるの。安心。今までの人もね、恋人は自分だけじゃないって聞いたら、逆に安心してたわ。私はとても幸せだと思う。一人を見ていける人も、それはそれで幸せだと思う。私には当てはまらないけれど・・・変よね、やっぱり」
そうぽつぽつと言い終わると、彼女は深呼吸した。全身をまっさらにするかのように。宣告を待つ人のように。
僕は少し考えて、言った。
「そうは思わないけど」
彼女は珍しく目を丸くした。元々喜怒哀楽の表現は激しくない。
「そんな事言う人初めてだわ。皆言うのよ。そんなの恋じゃないって」
「それも恋だと思う。人それぞれだから」
さくらさんはしばらく僕の顔を見つめると、
ありがとう、と静かに言った。
身を起こし、紅茶を入れ始める彼女を何となく眺める。
情熱的な恋は苦手だ。早急に相手を求める分、冷める事も早いような気がして。
ゆっくり、ゆっくり恋をしていきたいと思う。
そうすれば、その分その恋が長続きしそうに思えて。
どうせいつかこの思いが消えるなら、少しでもここに留めておきたいと思う。
破滅までのその日を、長引かせておきたいと思う。
ただ、それだけの事だ。
僕にとって恋愛は。
自分が無くなる事が怖いなんて、考えた事もなかったけど。
それほど恋に夢中になった事実も、僕にはない事に気付く。
恋は、人それぞれだから。
「どこを見ているの」
気が付くと、さくらさんがティーポットを持って傍らに立っていた。
僕はさくらさんを見ているようで、実は見ていなかった。
彼女を通り越して奥にある白い部屋の壁を、窓辺に飾られた可憐な花を、窓からこぼれる木漏れ日を、窓の向こう、彼女の目にも毎日映っているだろう外の世界を、
彼女を取り巻く世界を、見ていた。
「窓を・・・」
少し考えた。
「・・・窓や、外の世界を・・・見てた」
空気を。
その時、さくらさんはいつもの整った笑顔ではなく、
初めて心から嬉しそうな顔をして、
「私もよ」
と言った。
僕はけだるい空の下、車庫に自転車を止めた。体は自転車をこいできた直後で熱いくらいなのに、肌は痛いほど冷たかった。耳の冷たさが地味にこたえる。毎年冬になると毎回思う、耳当てを買おうかなんてちらりと脳裏を掠めた。買おうかどうしようか悩んでいるうちにいつも冬は終わってしまうのだけれど。
「ポトスに水、やっていい? 」
さくらさんの部屋に入るなり、僕は如雨露に水をくみ、ポトスに水をちょろちょろとやった。部屋に五つほどあるポトスやライムの水やりは彼女の部屋で最初にする、僕の欠かせない儀式になっている。
青々とした葉をそっとなでてみる。柔らかく、つるりとした感触。頑丈なつる。観葉植物は彼女の部屋と相性が良いらしく、どれもすくすくと育っている。
「聖司君、水やり上手いのね」僕の様子を傍で見ていたさくらさんが言う。
「そう? 」
水やりに上手いも下手もあるの、と笑って聞き返すと、さくらさんは全然違う、と真剣な顔で言った。
「聖司君がやった後はよく育つのよ。本当に」
しゅわしゅわ、と台所からやかんの沸騰した音がした。立ち上がろうとすると、さくらさんは、いいわ、水やりやっててちょうだい、と台所へ歩いて行く。僕は水やりを続けながら、ふと思い出した。
「あ。一つ教えてもらおうと思ってたんだ」
何、と台所からさくらさんの声が返ってくる。
「前、曜が変な事言ってた」
言われた事をさくらさんに話すと、彼女は楽しそうに笑った。
「曜も上手い事言うのね」
「雰囲気が華奢って、どういう意味」
「そのままの意味よ」
僕は首をひねった。やっぱり分からない。さくらさんはまだくすくす笑っている。
「ぴったりよ、聖司君。言われた事ない? 」
「さあ。ずっと男子校だし」
「それは関係ないんじゃない」
しばらく笑っていたさくらさんは、ふと何かを思い出したかのように真顔になった。
曜、曜にね、と彼女は続ける。
「やっぱり分からないと言われたわ」
僕はポトスから目を離し、彼女を見た。
曜の問いの意味は、聞かなくても分かった。
さくらさんの言葉が思い出される。
一人を深く愛する事ができない人。
「曜の気持ちはよく分かるの。聖司君達の歳の頃は・・・信じていたと思うから」
永遠の愛と言う物を。
さくらさんは台所のテーブルに軽く身をもたれかけた。視線は僕を通り越して、どこか、遠くを見つめている。
「いつ頃だったかな、二十歳を過ぎた辺りからかしら。考えが変わったのって。それまではね、一対一の付き合いをしていたの。でも、ある日当時の恋人に、他にも彼女がいるって分かったのよ。その時、何故か嫉妬心は全く起こらなかった。裏切られたって悲しみもなくって」
「逆にすごくね、」
彼女はここで少し沈黙した。
「・・・すごく安心したのよ。ああ、この人は、私だけを見ていないって。私に何かあっても、生きていかれるって。・・・それがきっかけ」
「聖司君も、変だと思ってるでしょ」
そうしてぽつりとさくらさんは呟いた。
彼女は今三十一歳だと聞いた。
曜が教えてくれた。「絶対怒ると思ったけど」聞いてみたらあっさり教えてくれたそうだ。
元々年齢にはこだわっていないのかもしれない。他人に対しても、自分に対しても。
さくらさんは静かに続ける。
「・・・でもね、一人に夢中になるのが怖くて。自分が無くなっちゃうのが。恋に夢中になるなんて、その人がいなくなったらどうするのかしら。でも、相手が一人じゃなかったら、そう夢中にもならないでしょう。安心できるの。安心。今までの人もね、恋人は自分だけじゃないって聞いたら、逆に安心してたわ。私はとても幸せだと思う。一人を見ていける人も、それはそれで幸せだと思う。私には当てはまらないけれど・・・変よね、やっぱり」
そうぽつぽつと言い終わると、彼女は深呼吸した。全身をまっさらにするかのように。宣告を待つ人のように。
僕は少し考えて、言った。
「そうは思わないけど」
彼女は珍しく目を丸くした。元々喜怒哀楽の表現は激しくない。
「そんな事言う人初めてだわ。皆言うのよ。そんなの恋じゃないって」
「それも恋だと思う。人それぞれだから」
さくらさんはしばらく僕の顔を見つめると、
ありがとう、と静かに言った。
身を起こし、紅茶を入れ始める彼女を何となく眺める。
情熱的な恋は苦手だ。早急に相手を求める分、冷める事も早いような気がして。
ゆっくり、ゆっくり恋をしていきたいと思う。
そうすれば、その分その恋が長続きしそうに思えて。
どうせいつかこの思いが消えるなら、少しでもここに留めておきたいと思う。
破滅までのその日を、長引かせておきたいと思う。
ただ、それだけの事だ。
僕にとって恋愛は。
自分が無くなる事が怖いなんて、考えた事もなかったけど。
それほど恋に夢中になった事実も、僕にはない事に気付く。
恋は、人それぞれだから。
「どこを見ているの」
気が付くと、さくらさんがティーポットを持って傍らに立っていた。
僕はさくらさんを見ているようで、実は見ていなかった。
彼女を通り越して奥にある白い部屋の壁を、窓辺に飾られた可憐な花を、窓からこぼれる木漏れ日を、窓の向こう、彼女の目にも毎日映っているだろう外の世界を、
彼女を取り巻く世界を、見ていた。
「窓を・・・」
少し考えた。
「・・・窓や、外の世界を・・・見てた」
空気を。
その時、さくらさんはいつもの整った笑顔ではなく、
初めて心から嬉しそうな顔をして、
「私もよ」
と言った。
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