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第九話 黒猫の爪とぎ

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 ある日のこと。
 あたしはベランダにある砂場で、ごろんごろんと砂浴びをしていた。
 今日の午後はずっとここにいるつもりよ。
 え? 飼い主さんはどうしたって?
 いつもの通り、お仕事に決まってるじゃない。
 今日はね、柳都の仕事場にお客様が来ているの。
 お仕事関係の人のようだけど、一体、どんな人だろう?
 気になったあたしは砂場を出て、肉球についた砂をはたき落とした。

 お家に入って、仕事場とお家の間まで行ってみると、ほんのわずかだけ戸が開いていたの。彼からは、仕事場の中に来てはだめと言われているから、これ以上は行けないわ。大事な約束だから、これだけは守らなくっちゃ──気になって仕方がないけど、がまんがまん。

 でも、ちょっと覗くだけなら良いよね?
 別に、中に入るわけじゃないから、良いわよね?
 ちょっと覗くだけだし。
 
 あたしはそわそわしながら、その戸の隙間に顔を押し付けるようにして、こっそり中を覗いてみた。

 すると、少し離れた所で椅子に腰かけている、少しクセのある艷やかな黒髪が見えた。白いシャツ上から茶色のウエストコートを羽織った広い背中は、いつも見ている彼だ。う~んやっぱり、あたしのご主人様は、後ろ姿もすらりとしていて、素敵よねぇ。毎日見ているけど、いつもほれぼれしちゃう。
 その向かい側に座っているのが、今日のお客様のようね。

 ふんわりと、風を抱っこしているような栗毛色の毛先。
 それが、空色の上着に覆われた肩先についている。
 まつげに彩られている、ぱっちりとしたお目々。
 目鼻立ちが整った、こじんまりとした顔。
 さくらんぼうのような、小さな唇。

 お客様は凄く綺麗な女の人みたいね──ちょっとぼけて見えているから、あたしの想像がかなり入っているけど。年も、柳都と近そう。でもね、その人の視線が彼の瞳を行ったり来たりしているような気がして、何かすっきりしないの。
 何と言えば良いのかなぁ? 胸の中が、もやもやした感じがするのよ。
 二人は仕事の真面目な話をしていると、分かっているんだけどなぁ。
 何故か、いつもより楽しそうに見えちゃうのよ。
 一体どうしてかしら?
 あたしは後ろ足で耳の裏をかいた。

 すると、風に誘われたのか、あたしのところまで何か匂いがしてきたの。お花のようなみかんのような匂い。でも、その匂いが、あたしの鼻を刺してきたの。びっくりしちゃって、思わず目をまん丸に見開いちゃった。

 これ、あのお客さんがつけている香りなのかしら?
 何故かあたしには酸っぱく感じるの!
 これ、まさか腐った匂いじゃないよね?

 あたしは顎を引いて、下から見上げるようにしながら、目の前の光景を黙って眺めていた。

 柳都、こんな強い匂いを間近で嗅いでいて、良く平気ねぇ。
 ひょっとして、そう感じるのはあたしだけ?
 あたしの鼻がおかしいのかしら?
 試しに自分の舌で鼻をぺろりとなめてみたけど、特に変わりはなかったわ。
 あたし、今日は何か変! 一体どうしちゃったのかしら!
 あたしは、しっぽを大きくバタバタと動かした。

「みゃう~……」

 お話、まだ終わらないのかなぁ。
 何か、寂しい。
 柳都を毎日見ているのに、彼が他の誰かと一緒にいるのを見ると、もやもやしちゃう。
 いつもあたしのことだけを見ていて欲しいと、つい思っちゃう。
 あ~あ、どうしてなんだろう。
 何だかんだ言って、あたしはただの猫だし、人間じゃないからなぁ。

「ふぅ~っっ!」

 しっぽの先をピクピクさせつつそう考えていると、何かむしゃくしゃしてきた。砂遊びはちょっと飽きたし……久し振りにあれをしようかしら!

 思いついたあたしは、すぐ傍に置いてある爪とぎ器に飛び付いた。

 バリバリバリバリ………

 う~ん……前足の爪から伝わってくるこの心地良い感触……!
 たまらな~い!
 これって、人間が言っている「えくすたしぃ」というヤツかしら?
 凄く気持ちが良いのよねぇ!

 ガリガリガリガリ……

 久し振りだけど、たまにはこれをやった方が良さそうね。
 爪が綺麗になるし、ストレス解消にはうってつけかもしれない!

 そう思っていたところ、後ろから穏やかで優しい声が聞こえてきたの。彼ったら、ちょっと驚いているようね。一体どうしたのかしら。あたしは即、爪とぎ器から前足を離し、声がした方向に向かって瞬時に駆け出した。

「おや。これはこれは……。今日は盛大にいきましたね」
「なぁ~ごぉ~……?」
「爪とぎ器に穴が空いてます。いつの間に空いたのでしょうね。今度新調しましょうか」
「みゃぁ!?」

 あらやだあたしったら! 爪とぎについつい夢中になってたものだから、爪とぎ器に穴を開けていたとは思わなかったわ! 何か恥ずかしい……!

 つい下を向いてしまったあたしを、彼は大きな腕で抱き上げてくれた。自分の身体を包み込んでくれる温もりが、凄く嬉しい。でもあたしは何か恥ずかしくて、彼の顔をまともに見ることが出来なかったの。しっぽをだらんと下げている、そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、彼はあたしの頭を優しくなでてくれたの。

「ディアナも、今日はどうもありがとうございました。お陰様で、無事に商談成立出来ましたよ」
「みゃ~う~……?」
「今日は早いですけど、もう店じまいです。二人で少しゆっくりしましょうか」
「なぁ~ごぉ~……!」

 柳都~!
 やっぱりあたしは柳都が大好き!
 妬いちゃってごめんなさい!!
 あたしは思わず、彼の腕に向かって、左右の前足の肉球を交互に押つけちゃった。
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