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邂逅編

第四章 エウロス

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 心地よい風がカーテンをなびかせているのか、布がれ合う音がする。

 アシュリンが寝台の上でふと目を覚ますと、見たことのない景色が目に飛び込んできた。調度品やら家具など、明らかに今までいた町とは全く異なる。高貴な客人を泊まらせる部屋ということだけは分かった。自分が着ているものは、真っ白で艷やかな絹で仕立てられいる。寝かされている布団はふかふかだ。寝台に上質な生地を使った白い天蓋がかかっている。頭がまだ重い。ふと額に手をやると真っ白な包帯が巻かれていた。全身が鉛のように重く、あちこちがズキズキと痛む。

「……あの森は一体。あれは……夢? 此処は……?」

「お目覚めですか? まだ無理をなさらずに。貴女は怪我をなさっています」

 優しそうな中年女性がアシュリンに声をかけた。

「ここは月龍族げつりゅうぞくの国・エウロス。その一族・ガルシア家の屋敷でございます。私は坊っちゃまから貴女の身の回りのお世話を仰せつかっております、ハンナ・シートンと申します。何でもお申し付け下さいませ。貴女がお目覚めになられたこと、坊っちゃまに報告してきますね。坊っちゃまは貴女のことを大変心配なさっておられましたから、きっとお喜びになられるわ」

 このハンナ、坊っちゃま付きの世話係だとのこと。坊っちゃまとは一体誰なのだろうか? 自分は確か龍と共にいた筈だが。

 ハンナがいそいそと部屋から出て行き、ほどなくしてどこか急ぎ足のような足音がした。戸をホトホトと叩く音の後、「失礼」と穏やかな声がして一人の青年が姿を現した。
 漆黒の艷やかな髪、琥珀色の瞳を持ち白皙はくせきで鼻筋が通った美青年の登場にアシュリンは言葉を失う。会うのは初めてなのに何処かで会ったような懐かしさを感じた。その青年は寝台から急いで身を起こそうとするアシュリンをそのままでいるように手で制し、寝台の傍に設えてある椅子に腰掛けた。白のブラウスに薄藍色の上着を羽織った長身が、月のような美貌によく映えている。

「……身体の具合は問題ないか? 君は火事に巻き込まれたのだ。あと数秒で倒れた柱の下敷きになるところだった。家は……残念ながら全焼してしまったが、君に渡していた“月白珠げっぱくじゅ”が、君の命を守ってくれたようだ。渡しておいて正解だったよ。その石のお陰で私は君の異変に気が付くことが出来た。間に合って、本当に良かった」

 青年のゆっくりと落ち着きのある低い声がアシュリンの緊張を解した。

 アシュリンはふと胸元の首飾りに手をやった。首飾りは少女の胸元で光輝いていた。指先でひとなでしたところで、少女は瑠璃色の目を大きく見開き、縦に長い瞳孔どうこうを持つ青年の顔を見上げた。鼓動の音がやけに喧やかましく聞こえてくる。

「アーリー……私のことを覚えているか? 私はサム……サミュエル。私は君のことをずっと忘れることはなかった」

「貴方はひょっとして……あの時の……? でも……私が昔出会ったのは龍だった筈……」

 サミュエルは優しい色を浮かべつつ、目元を軽く細めながら答えた。

「龍族、特に私の一族である月龍族のガルシア家は人間の姿にもなれる家系でね。自分の意思でどちらの形態にもなれるのだ。龍族の国は他にもあるが、どの国も似たようなもので、全部の種族が人の姿を持てるわけではない。此処に住む龍族は皆好きな姿で日々を過ごしているよ。屋敷の中では動きやすい人間の形をしている者が多いが、外で空を飛ぶ際は龍体を取るものが殆ほとんどだ。どうか驚かないで欲しい」
 アシュリンはサミュエルの傍にある宵藍シャオラン色の鞘に収められた剣を視野に入れつつ、気後れしながら尋ねた。

「貴方……此処の若様だったのね……私が口を聞いていい身分ではないのでは?」

「気にせずとも良い。我らの遠い祖先の縁者に人間もいる。私のことをこれからも“サム”と呼んでくれ。私も君を“アーリー”と呼ぶ。これで対等だろう」

 サミュエルは長い睫毛を伏せながら、アシュリンにゆっくりと語りかけた。

「アーリー、此処なら心配はいらない。君のことは家のもの全員に説明してある。君はあれから三日間発熱と疲労で昏睡状態だった。顔色もまだ悪い上、医師の見立てではまだ万全とは言い難いようだ。今のうちに身体をしっかり休めると良い。後で何か食べるものを準備しておく。何かあったら何でもハンナに頼むと良い」

「何から何まで……どうもありがとう……」

「君は私の命の恩人だ。助けるのは当たり前だ。行くあてがもし無いのなら……いつまでも此処に居るといい」

「アシュリンさん?」

 アシュリンは我知らず涙が頬を伝うのに気が付いた。

「……ごめんなさい。何故だか良く分からないけど涙が止まらないの……」

「色々ありすぎてきっと疲れているのだろう。私はこれにて失礼する。ハンナ、後は任せたよ」

「承知致しました坊っちゃま」

「……ハンナ、私はもう十八だ。坊っちゃまはそろそろ卒業して欲しいのだが……」

「坊っちゃまは幾つになっても私の可愛い坊っちゃまですから、私の我儘わがままと思ってどうぞご勘弁を」

「……ハンナには敵わないよ」

 サミュエルとハンナの親子のような微笑ましいやり取りを聴きながら、アシュリンの意識はまた闇の中にゆっくりと沈んでいった。
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