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マンションですごす二年目
春が来たので
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「来月二、三日まとめて有給休暇、使っていいですか?」
昼休みが終わる前、愛妻弁当を食べる上司に相談すると上司が口に入れかけていたブロッコリーをぽろりと落とした。ブロッコリーは重力に逆らうことなく真っ直ぐに落下し、お弁当箱の中にうまく着地した。
健康診断で二年連続引っかかったのに、脂っこいものばかり食べる上司は、奥様にこっぴどく怒られてから毎日お昼ご飯が愛妻弁当に変わった。本日の献立は白ごはんの代わりのブロッコリー、サラダチキン、レタス、ミニトマト。とってもヘルシーな内容だ。
これは余談だが、「お昼代はもういらないでしょ」ということでカロリーとともにお小遣いもカットされた上司。弁当生活が始まった頃、上司の顔は財布と同じくいつもどこか寂しそうに見えた。
「もちろん、しっかり休んでくれ。でも中澤さんがまとまった休みを取るなんて珍しい。どこか行くの?」
不思議そうな上司の顔を見て、私はつい笑いそうになってしまった。そうか、そういえば連休を取るなんて入社してから初めてのことだった。
「ちょっと温泉に」
隠すのも変な話なので私は素直に答えた。
「温泉! いいなー、どこの温泉?」
私がこの街から山を五つほど越えたところにある、温泉街の名前を出すと上司は「いいなー!」と子どものような無邪気な笑顔で言った。年上男性の無邪気な笑顔ってなんだか癒されるなあと私は思ったけれど、それを伝えると誤解されかねないので心の中に留めておいた。
「それで旅行は友だちと?」
おい、上司よ。その発言は今の時代だと人によっちゃセクハラ認定されるぞ。癒された心が一瞬で冷め切ったけれど、そのことは先ほどの笑顔に免じて黙っておくことにした。
「いいえ、ご近所さんとです」
「へー、ご近所さんと。仲がいいんだな!」
「……はい、そうなんです。何かお土産買ってきますねー」
上司のコメントが少し引っかかりながらも、私は会話を続投した。仲がいい。確かに仲はいいけれど、どうなんだろう。うまくいえないけれど何か引っかかる。まあ、いいか。とりあえず私は連休を獲得した。そう、クマと旅行に行くために。
春になり、クマが起きた。春とは言えクマが起きたのは三月下旬、気温はまだまだ低いままでふとんもコートも分厚いのが手放せない。
朝からマンション中に「やったー! 春だー!」という大声が響き渡り、私が様子を見に行くと「うわ、まだこんなに寒い! でも、春だー! うおー!」とクマが家の前で叫んでいた。寒いのか腕を抱えてどしどし足踏みしている。クマは相変わらず元気だ。
「今年は起きるのが早いのね」
「ゆり子さん、おはようございます! いやー今年は早く起きたいなーと思って」
クマはそう言うと照れ臭そうに笑いながら頭をかいた。
「なによそれ。でも、早く起きたら寒いでしょ」
「寒いです! でも、起きて早々ゆり子さんに会えたからいいんです!」
「なによそれ……」
私は思わず呆れてしまった。このクマはしれっとこういうことを言うから困る。こいつは天然の人たらしだ。
冬眠明けのクマを喫茶店のモーニングに誘ったけれど、寒さ耐性が冬眠明けで皆無だからという理由で断られた。私がぶーぶー文句を言うと、クマがホットケーキとコーヒーを出してくれると言うので私はしぶしぶクマの提案に乗ることにした。
大急ぎで家の中の掃除をし、しっかり換気をしてから部屋を温かくしておくから一時間後に来てくれと言われ、私は一度自分の家に戻った。モーニングに行けないのは残念だけどホットケーキが食べられるならいいか。階段を上がる私の足取りは軽かった。
クマのホットケーキにコーヒー、久しぶりだからなんだかうきうきする。クマが掃除をしている一時間の間に、私も家の掃除をし、それから余った時間は本を読むことにした。最近流行りの作家さんの本で、何気なく寄った本屋さんで買ってみたのだ。
『最強の恋愛小説』
本屋の手書きのポップには大きくそう書いてあった。ありきたりだけれどシンプルなキャッチコピーに、私はまんまと射抜かれてしまった。
あらすじはこうだ。単位を落とし、ストレートでの卒業を諦めた男子大学生の荒井。登校したが期末テストをサボって帰ろうとしたところ、校内で何度か見かけたことのある男子学生が突然話しかけてくる。
どこにでもいそうな普通の見た目の男子学生、成宮は自分のことを『死神に取り憑かれている』と言い、自分に関わった人は皆んな死ぬと語り出す。
『ストレートに卒業するのを諦めたのならさ、僕を手伝ってくれないか? 僕は愛が知りたいんだ』
不気味な人物からの奇妙な依頼だが、報酬金額の誘惑に負けた荒井。彼はすぐにその判断を後悔することになるのだが、成宮とともに愛を知るための旅に出る。
これは二人の学生が愛を知る過程を描いた物語である……と、まあ文庫本の背表紙に書かれたあらすじによるとそんな内容のようだ。
変な本を買ったなあと思いつつ、テーブルの上にしばらく置きっぱなしにしていたのだ。そろそろ読もうかしら、と思いつつも放置していたけれど、今日は読んでもいいかなと思えたのでそっと手に取ってみた。クマを待つ間に何ページか読めたらいいや、そんな気持ちで最初のページを読み始めた。なのに私はすぐにどっぷり本の世界に引きづり込まれてしまった。
「やったー! 掃除終わったー!」
クマの大声がマンション中に響き渡り、私は思わずびくっと体を震わせてしまった。時計を見ると約束の一時間が経過している。ああ、なんてことだ、どうして私はこんなに面白い本をずっと放置していたんだろう。
クマがどしどしとマンションを軽く震わせながら、私の家を目指して階段を登ってくるのを感じる。まだ20ページしか読めていないのに、まだ成宮の死神の説明の途中なのに、こんなに先が気になる状態で私はホットケーキを食べなきゃいけないのか。
クマは何も悪くない。でも、ドアの向こうで私の名を呼ぶ彼が、今日は少し憎らしく思えた。
昼休みが終わる前、愛妻弁当を食べる上司に相談すると上司が口に入れかけていたブロッコリーをぽろりと落とした。ブロッコリーは重力に逆らうことなく真っ直ぐに落下し、お弁当箱の中にうまく着地した。
健康診断で二年連続引っかかったのに、脂っこいものばかり食べる上司は、奥様にこっぴどく怒られてから毎日お昼ご飯が愛妻弁当に変わった。本日の献立は白ごはんの代わりのブロッコリー、サラダチキン、レタス、ミニトマト。とってもヘルシーな内容だ。
これは余談だが、「お昼代はもういらないでしょ」ということでカロリーとともにお小遣いもカットされた上司。弁当生活が始まった頃、上司の顔は財布と同じくいつもどこか寂しそうに見えた。
「もちろん、しっかり休んでくれ。でも中澤さんがまとまった休みを取るなんて珍しい。どこか行くの?」
不思議そうな上司の顔を見て、私はつい笑いそうになってしまった。そうか、そういえば連休を取るなんて入社してから初めてのことだった。
「ちょっと温泉に」
隠すのも変な話なので私は素直に答えた。
「温泉! いいなー、どこの温泉?」
私がこの街から山を五つほど越えたところにある、温泉街の名前を出すと上司は「いいなー!」と子どものような無邪気な笑顔で言った。年上男性の無邪気な笑顔ってなんだか癒されるなあと私は思ったけれど、それを伝えると誤解されかねないので心の中に留めておいた。
「それで旅行は友だちと?」
おい、上司よ。その発言は今の時代だと人によっちゃセクハラ認定されるぞ。癒された心が一瞬で冷め切ったけれど、そのことは先ほどの笑顔に免じて黙っておくことにした。
「いいえ、ご近所さんとです」
「へー、ご近所さんと。仲がいいんだな!」
「……はい、そうなんです。何かお土産買ってきますねー」
上司のコメントが少し引っかかりながらも、私は会話を続投した。仲がいい。確かに仲はいいけれど、どうなんだろう。うまくいえないけれど何か引っかかる。まあ、いいか。とりあえず私は連休を獲得した。そう、クマと旅行に行くために。
春になり、クマが起きた。春とは言えクマが起きたのは三月下旬、気温はまだまだ低いままでふとんもコートも分厚いのが手放せない。
朝からマンション中に「やったー! 春だー!」という大声が響き渡り、私が様子を見に行くと「うわ、まだこんなに寒い! でも、春だー! うおー!」とクマが家の前で叫んでいた。寒いのか腕を抱えてどしどし足踏みしている。クマは相変わらず元気だ。
「今年は起きるのが早いのね」
「ゆり子さん、おはようございます! いやー今年は早く起きたいなーと思って」
クマはそう言うと照れ臭そうに笑いながら頭をかいた。
「なによそれ。でも、早く起きたら寒いでしょ」
「寒いです! でも、起きて早々ゆり子さんに会えたからいいんです!」
「なによそれ……」
私は思わず呆れてしまった。このクマはしれっとこういうことを言うから困る。こいつは天然の人たらしだ。
冬眠明けのクマを喫茶店のモーニングに誘ったけれど、寒さ耐性が冬眠明けで皆無だからという理由で断られた。私がぶーぶー文句を言うと、クマがホットケーキとコーヒーを出してくれると言うので私はしぶしぶクマの提案に乗ることにした。
大急ぎで家の中の掃除をし、しっかり換気をしてから部屋を温かくしておくから一時間後に来てくれと言われ、私は一度自分の家に戻った。モーニングに行けないのは残念だけどホットケーキが食べられるならいいか。階段を上がる私の足取りは軽かった。
クマのホットケーキにコーヒー、久しぶりだからなんだかうきうきする。クマが掃除をしている一時間の間に、私も家の掃除をし、それから余った時間は本を読むことにした。最近流行りの作家さんの本で、何気なく寄った本屋さんで買ってみたのだ。
『最強の恋愛小説』
本屋の手書きのポップには大きくそう書いてあった。ありきたりだけれどシンプルなキャッチコピーに、私はまんまと射抜かれてしまった。
あらすじはこうだ。単位を落とし、ストレートでの卒業を諦めた男子大学生の荒井。登校したが期末テストをサボって帰ろうとしたところ、校内で何度か見かけたことのある男子学生が突然話しかけてくる。
どこにでもいそうな普通の見た目の男子学生、成宮は自分のことを『死神に取り憑かれている』と言い、自分に関わった人は皆んな死ぬと語り出す。
『ストレートに卒業するのを諦めたのならさ、僕を手伝ってくれないか? 僕は愛が知りたいんだ』
不気味な人物からの奇妙な依頼だが、報酬金額の誘惑に負けた荒井。彼はすぐにその判断を後悔することになるのだが、成宮とともに愛を知るための旅に出る。
これは二人の学生が愛を知る過程を描いた物語である……と、まあ文庫本の背表紙に書かれたあらすじによるとそんな内容のようだ。
変な本を買ったなあと思いつつ、テーブルの上にしばらく置きっぱなしにしていたのだ。そろそろ読もうかしら、と思いつつも放置していたけれど、今日は読んでもいいかなと思えたのでそっと手に取ってみた。クマを待つ間に何ページか読めたらいいや、そんな気持ちで最初のページを読み始めた。なのに私はすぐにどっぷり本の世界に引きづり込まれてしまった。
「やったー! 掃除終わったー!」
クマの大声がマンション中に響き渡り、私は思わずびくっと体を震わせてしまった。時計を見ると約束の一時間が経過している。ああ、なんてことだ、どうして私はこんなに面白い本をずっと放置していたんだろう。
クマがどしどしとマンションを軽く震わせながら、私の家を目指して階段を登ってくるのを感じる。まだ20ページしか読めていないのに、まだ成宮の死神の説明の途中なのに、こんなに先が気になる状態で私はホットケーキを食べなきゃいけないのか。
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