下の階にはツキノワグマが住んでいる

鞠目

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マンションですごす二年目

一人暮らしの風邪は辛い

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「もう少し買い置きを普段からしときなさいよ。万が一ってことがあるんだから」
 ぴしゃり、ぴしゃりと耳の痛い言葉が音を立てて降ってくる。正論は時として人を傷つけるものだと改めて実感した。嫌になって目を閉じてみても、母が今どんな顔をしているのかがよくわかる。
「ねえ、聞いてるの? 仕事で忙しいのはわかるけど、やらなきゃいけないことはちゃんとしておかなきゃだめよ?」
「うん、わかってるって……」
 私は本日、もう何度目かわからない同じ返事をした。不思議なもので、同じフレーズを繰り返していると、言っている自分でも、自分が本心で言っているのか怪しいなと思うようになっていた。
「それならいいけれど、いい大人なんだから、本当にちゃんとしてよね、もう……」
 母の呆れ声に対して、私は弱々しく「はーい」とだけ返事をした。ああ、もうやめてくれ、耳が痛い。私は病人なんだから、もう少し優しくしてくれてもいいのに。ついそんな思いが頭をよぎる。

 風邪をひいた。それはもうしっかりと。熱が出て、食欲がなく、頭が痛い。これはどう誰がどう考えても風邪だろう。ここ数年ぶりに「これはちゃんと休まなきゃだめなやつだ」と思うぐらいしんどい。
 金曜日の朝、体調不良でダウンした。上司に電話で休ませてくれと報告すると、「大丈夫か? 仕事のことは心配しなくていい。ゆっくり休むように」と言ってくれた。普段はどこか頼りない上司が少しかっこよく思えたが、電話が切れる寸前に「中澤さん休みだって、どうしよう……」と誰かに泣きつくような声ご聞こえた。上司よ、せめてあと数秒我慢してほしかった。
 ダウン初日はなんとかなった。家にあったレトルトカレーや飲み物で過ごすことができた。まあ、一日寝たらなんとかなるだろう、なんて思いながら過ごしていたが土曜日の朝になっても症状は改善していなかった。
 風邪薬は金曜日の夜になくなっていた。熱が下がらず喉も変。昼過ぎに少し動けるようになり、仕方がないのでドラッグストアに風邪薬を買いに行こうとしたところ、母から電話がかかってきた。
「ねえ、今近くまで来たんだけど遊びに行ってもいいかしら?」
 いきなりの連絡にびっくりしたけれど、この申し出はありがたかった。私はとりあえず風邪をひいたことを伝え、食べ物と飲み物、それから風邪薬を買ってきてほしいとお願いした。

「もしかしてクマさんはもう冬眠しちゃったの?」
 風邪の私を見た母の第一声は、私の身を案じる言葉じゃなかった。私が、クマが冬眠していることを告げると、私を心配する様子もなく、「せっかく会えると思ったのにな……」なんて残念そうに呟いている。
「この近くで学生時代の友だちと何十年ぶりかに会ったのよ。その時にはちみつのパンケーキをもらったからあげようと思って来たのに、残念」
 そう言って肩を落とす母。母よ、そんなにがっかりしないでよ。目の前で娘が風邪でしんどそうにしているのが見えないのだろうか? 私がごほごほと咳をすると、母は「あ、そうだ、大丈夫なの?」とやっと心配の言葉をくれた。

 まさか母が私の家にやってくる日が来るとは思っていなかった。そもそも、一年前は母とこんなにちゃんとお話しすらできていなかった。そう考えるとかなりの変化だなあと思う。
 母との今の関係にしみじみしかけていると、「風邪をひいてるならさっさと横になりなさい」と背中を押され、ベッドに寝かしつけられた。そしてすぐにスポーツドリンクと風邪薬を持って来てくれた。
 薬を飲んだ後は、安心したのか私はいつの間にか寝てしまった。「洗い物がこんなに!」、「洗濯物が!」、「冷蔵庫空っぽじゃない!」と母が大きな声をあげているのか聞こえたが、私は聞いていないふりをすることにした。

「もう少し食べ物も飲み物も、それからお薬もストックしておきなさい」
 夕方に目が覚めると母の小言が雨のように私を襲った。小言を聞きながらお手洗いに向かうと、家の中は綺麗に掃除されていて、台所の洗い物も、畳むことなく山積みになっていた洗濯物の山もなくなっていた。看病してもらった上に、家事までしてもらったので私に文句を言う権利がないのは明白だった。
「ごめんなさい……」
 私はそう言うのがやっとだった。
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