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第七章
夜の階段 1
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その場に残された修哉は、静かになった須藤務を見た。
自我が抜けたかのように表情が失われている。まばたきをゆっくりとひとつ、そして二回しばたたいた。
須藤務のなかに、すとんと自覚がおりてきたように思えた。
呪縛が解けたかのように。
両眼が見開かれる。
意志が戻り、須藤務は修哉へと視線を向けた。一瞬、いぶかしげな色が表情に浮く。
記憶と現実が合致したらしく、同時に驚愕が表れた。
「おまえ……あの時の、子ども――か?」
「――え」
問われて戸惑った。発声が違う。声質や話しかたが違う。今までと顔つきまで別人だった。
ふいに時間が巻き戻る気がした。
雨上がりの、濡れたアスファルトのにおい。湿気が身体にまとわりつく感じ。靴先が濡れて、なかまで染みてくる。水たまりを避けて、跳ねるように歩く。
後ろから急激に近づく足音が聞こえる。
振り返る間もなく、すくいあげられて頭から落下する感覚に背筋が凍る。頭の上から徐々に足元にかけて、血の気が引くのを感じた。
修哉はやっとの思いで口を開いた。
「教えてくれ、あんた――どうしてあんなことをしたんだ」
須藤務は、ただこちらを見るだけで答えない。
「オレは、あんたの気に障ることでもしたのか?」
そんなはずはない。わかっている。橋の上の舗道には、ほかに誰もいなかった。ただ家に帰ろうとしていただけだ。こちらに落ち度があるはずがない。
まっすぐ見据えられる。ふと目線が下がった。
「いや」
務はそう答えた。続く言葉がない。
「じゃあどうして」
「すまない」
あっさりと謝罪の言葉を吐いた務に対し、修哉は言葉を失った。こんな、容易に言ってのけるとは思わなかった。
次第に怒りが湧いた。本当に欲しいのは、理由と悔恨だ。心ない台詞をもらっても、ちっとも響かない。
「ふざけるなよ、オレがどれだけいろんな思いを抱えてきたと思ってるんだ。そんなていどで済むわけがないだろう」
須藤務はふたたび修哉へと目を向けた。そこには強い感情はなにもない。いったい、なにを考えているのかわからない。
平坦な表情のまま、穏やかな口調で話す。
「そうか、おまえも俺を責めるのか」
諦観の響き。開き直りとも写る態度に、修哉は声を荒げた。
「――なんだと?」
食ってかかる勢いで反応した修哉を見て、須藤務は小さく頭を振った。いや、そうじゃないな、と許容する声を出した。
「それは違うよな、当然の言い分だよ。いまとなっては、俺の罪を問えるのは生きてる君だけだからな」
「……」
思うように話が噛み合わない。なにを言えばいいのかわからなくなった。相手の出方を見守るしかない。
小さく溜め息を漏らすのを聞いた。
「俺は――長居し過ぎた」
視線を漂わせる。なにかを探しているかのように。
須藤務は姿勢を起こした。立ち上がろうとしている。
その時、頭の中でアカネの声が響いて、反応するのが遅れた。
「シュウ!」
「――え」
ふいに務は身体を沈み込ませたかと思うと、反動で勢いをつけた低いタックルの体勢となって体当たりを食らわせてくる。
体格差にもかかわらず不意打ちで力負けした。
修哉が後方へ吹っ飛び、腰から上半身を強かに打ち付けて転がる。思わず声が出る。
「痛ッ! ……ううっ」
修哉に重なっていたアカネが抜け出し、方向転換する務の前に飛び出す。
両腕を広げ、制止をしようとする。だが務はアカネに気づかず、彼女の半透明の姿をこともなげに通り抜けた。
通過していく務に、アカネはひどく狼狽した表情を見せた。
駆け去る務の後ろ姿へと反射的に目をやる。唐突に意味を理解したかのように両の眼を見開く。
「や、やば、――だめだめだめ、ちょっ、まずいまずい」
意表を突かれてアカネが口走った。
「え、なに?」と顔をしかめて床から起き上がりながら修哉が訊ねたと同時にアカネが叫んだ。
「ああ、もうまじでやばいやばい、早く早く止めて!」
とにかく急き立て、慌てふためく。
「シュウ! 早く起きて追いかけて!」
起き上がる視界の端で、アカネが両腕をじたばたさせている。
焦れたアカネは勢いよく修哉のなかに飛び込んできた。そのとたん痛みがすっとんで、驚くような速度で身体が跳ね起きた。
「だめ! だめよ!」
勝手に叫びが口から飛び出る。手を伸ばすが、走り去る務とはすでに距離があって届かない。
脱兎のごとく、疾駆する。務は非常口へと向かった。丸ノブに手をかけ、全力で勢いよく引く。
凄い勢いで、重たい金属製の扉が最大限に開いた。
「アカネさん、須藤が逃げる!」
「違う! シュウ、あの子、」
追いかける、追う。秒が詰まる。ぐん、と身体が前にのめる。
扉の向こう、縞鋼板の踏み板が張られた踊り場に出る。
まったくの屋外のために、びゅうと風が身体に吹きつける。ジャケットの裾がはためく。
階段のステップが階下へと続く。手すりを兼ねた落下防止の鉄柵が取り付けられている。鉄の棒の間に、夜の闇と店舗の照明が透過して見える。
下を覗いて確認するまでもない。高い。
「飛び降りるわ!」
え、と思う間もなかった。
間に合わない。間に合わなくなる。アカネの焦りが伝わる。
急くあまり、全身にずうんと重くて鋭い痛みが走る。心臓が苦しいほどに猛打する。自分の呼吸音が耳に届く。
「あの親子! なんでなにも告げずに消えるのよ!」
ヒステリックにアカネが叫んだ。
「どうして自分たちがここにいるかくらい、ちゃんと言ってから消えなさいよッ!」
なんなのよもう、腹立つ! と勝手に口が動いて、喚き散らす。
「あの父親! 言葉が足りなすぎるのよ!」
馬鹿じゃないの、と毒づく。だから伝わらないのよ、と頭と、外気に響く自分の声とが聞こえた。混乱しそうになるが、それどころではない。
須藤務は眼下の踊り場に到達している。追いつこうと、両足で思い切り地面を蹴る。
数段を飛び降り着地する。足をつくと、金属の板を叩く体重分の打撃音が周囲に響いた。
務は迷いなく、非常階段の外側に設置されている落下防止の柵に手をかけた。続いて右手で、踊り場の対角線上にある主柱へと手を伸ばす。
こともなげに身体を支え、柵の上に足をかけて立った。
務は一瞬、眼下へと視線を落とした。
突き動かされているような切羽詰まった顔。これからやろうとしている行為に迷いと怖れがない。
「――やめろ!」
叫んでいた。
目の前で、柵の上に立つ務の両脚が屈伸する。手が離れる。足が宙に立つ。
落下、する。重力が下方へ移動する。
「くそっ、」
息を詰め、修哉は秒の間に全力で手を差し出した。
「逃すかよッ!」
つかめ、届け、必死にすがる。
死なせたりしない。死なせるものか。
逃がすものか。
務が飛び降りた時に、わずかに上方へ掲げられた腕が修哉の片手に届いた。しっかりとつかめる感覚があった。
瞬時に身体を投げ出し、もう片方の手で追いかける。もの凄い加重が両腕に伝わり、柵で二つ折りになった腹部に強烈な衝撃が走った。
柵が内臓に食い込む。骨が軋む。姿勢のバランスが悪い。
つかんだ腕が滑る。じりじりと限界が近づく。この体勢では起き上がれない。支える力が足りない。自分も落ちる。
焦る。離したくないが、このままでは――ふたりとも死ぬ。
死者に近づきすぎると死のほうから寄ってくる。そうグレに言われた。そのとおりだ。まさに今、その状況にある。
それでもいいかと心を許してしまうときが危ない。
「離せよ」
脱力したままの須藤務がこちらを見上げ、冷えた声で言う。
「いやだ」
口では言えるが、限界は近い。どうする、どうすればいい。務の顔、腕と身体の向こうに、眼下の光景が迫って目に飛び込んでくる。
距離感がおかしくなる。妙に大地が近い。一瞬、この高さなら無事に着地できるんじゃないか、という錯覚が訪れる。
アカネも支えてくれているが、とても足りない。じりじりと決断の時が迫る。
「シュウ、もういい、あなたまで死んでしまう」
自力で支えて身体を引き戻すだけの余力がない。全身の血が引く。冷たい汗が吹き出して肌を伝う。ああ、もうこれまでかもしれない――
でも、……でも、もう誰も死んでほしくない。
だけど、このままでは手を離すしかない。
眼下の大地に紅く広がる色と、ありえない角度で曲がって転がる死体の幻影を見る。
目をつぶる。目前が暗黒に染まる。必死に力を振り絞るせいで、判断力は落ちこんでいくような感じがする。息が詰まる。息がつけない。星のような光点が幾何学模様のようになって渦巻いて見える。
助けられないくらいなら、こいつの死体を見るくらいならこのまま共に終わろうか、と悲観の考えがよぎる。
手が、握る力が弱まっていく。
人は他人に迷惑をかけて生きるものです、と言ったのは、グレだ。力強く言い切った言葉。
生者は、ともに生者と生きるべきだ。死にとらわれてはいけない。
その時だった。
頭の中に聞き慣れた、重低音の良い声が届いた。
「加勢しますよ、兄さん」
身体のなかにとてつもない熱が入り込んできた。内側から肉体が膨張するような感触が走る。
筋肉が張り、かあっと熱くなる。ぐん、と引き上げられるだけの自信がみなぎり、加重のかかりかたが明らかに変わった。
「そのかわり明日は、死ぬほど酷い筋肉痛を堪えてくださいよ」
頭の中で、グレが鼻先で笑うのが聞こえた。
軽々と須藤を支え、修哉の体勢も安定して落ち着く。素早く後方へ、構造物の安全な内部へと引っ張り上げる。だが一方で限界を越えた過重に、ブチブチと微細な筋肉が断裂する嫌な音が聞こえる。体内から響く振動が限界を訴え、悲鳴をあげているように思えた。
脂汗が額に浮くのを修哉は感じた。日頃の体力不足を思い知らされる。
体勢が浮き上がり、今までつま先で立っていた。踊り場の床にしっかりと自分の踵がついて、足場に力が入るのを感じた時にこれ以上ないほどの安堵がやってきた。大きく息を整える。
須藤の両脇をつかみ、安定して引き上げられるようになった。ずるずると須藤はされるがままになっている。須藤の身体をたぐり上げ、踊り場の上に引き戻す。
須藤務の全身を床板に下ろし終える。
務は無言のまま力なくへたりこんだ。現実を受け入れがたいのか、両手ですこしずつ背後へと擦り退いていった。建物の壁面と金属製の柵に後退を留められ、身体を丸める。膝を抱え込み、額を膝頭につけて顔を伏せる。まるで叱られて表に出され、行き先を無くした子どものように。
修哉は肩で大きく息をつきながら、立っていられず膝から崩れ落ちた。そのまま両手を床につく。両腕の筋肉が勝手にわななく。
「覚悟しといてくださいよ、修哉さん」
「ああ……とんでもないことになりそうだけど、……助かったよ、ありがとうグレさん」
「いえ、お役に立てたなら何よりです」
大きく深呼吸をする。
身体のなかからグレが抜け出る感触があった。背後に巨体の気配がする。左肩にアカネが手を添えているのが目の端で見えた。
自我が抜けたかのように表情が失われている。まばたきをゆっくりとひとつ、そして二回しばたたいた。
須藤務のなかに、すとんと自覚がおりてきたように思えた。
呪縛が解けたかのように。
両眼が見開かれる。
意志が戻り、須藤務は修哉へと視線を向けた。一瞬、いぶかしげな色が表情に浮く。
記憶と現実が合致したらしく、同時に驚愕が表れた。
「おまえ……あの時の、子ども――か?」
「――え」
問われて戸惑った。発声が違う。声質や話しかたが違う。今までと顔つきまで別人だった。
ふいに時間が巻き戻る気がした。
雨上がりの、濡れたアスファルトのにおい。湿気が身体にまとわりつく感じ。靴先が濡れて、なかまで染みてくる。水たまりを避けて、跳ねるように歩く。
後ろから急激に近づく足音が聞こえる。
振り返る間もなく、すくいあげられて頭から落下する感覚に背筋が凍る。頭の上から徐々に足元にかけて、血の気が引くのを感じた。
修哉はやっとの思いで口を開いた。
「教えてくれ、あんた――どうしてあんなことをしたんだ」
須藤務は、ただこちらを見るだけで答えない。
「オレは、あんたの気に障ることでもしたのか?」
そんなはずはない。わかっている。橋の上の舗道には、ほかに誰もいなかった。ただ家に帰ろうとしていただけだ。こちらに落ち度があるはずがない。
まっすぐ見据えられる。ふと目線が下がった。
「いや」
務はそう答えた。続く言葉がない。
「じゃあどうして」
「すまない」
あっさりと謝罪の言葉を吐いた務に対し、修哉は言葉を失った。こんな、容易に言ってのけるとは思わなかった。
次第に怒りが湧いた。本当に欲しいのは、理由と悔恨だ。心ない台詞をもらっても、ちっとも響かない。
「ふざけるなよ、オレがどれだけいろんな思いを抱えてきたと思ってるんだ。そんなていどで済むわけがないだろう」
須藤務はふたたび修哉へと目を向けた。そこには強い感情はなにもない。いったい、なにを考えているのかわからない。
平坦な表情のまま、穏やかな口調で話す。
「そうか、おまえも俺を責めるのか」
諦観の響き。開き直りとも写る態度に、修哉は声を荒げた。
「――なんだと?」
食ってかかる勢いで反応した修哉を見て、須藤務は小さく頭を振った。いや、そうじゃないな、と許容する声を出した。
「それは違うよな、当然の言い分だよ。いまとなっては、俺の罪を問えるのは生きてる君だけだからな」
「……」
思うように話が噛み合わない。なにを言えばいいのかわからなくなった。相手の出方を見守るしかない。
小さく溜め息を漏らすのを聞いた。
「俺は――長居し過ぎた」
視線を漂わせる。なにかを探しているかのように。
須藤務は姿勢を起こした。立ち上がろうとしている。
その時、頭の中でアカネの声が響いて、反応するのが遅れた。
「シュウ!」
「――え」
ふいに務は身体を沈み込ませたかと思うと、反動で勢いをつけた低いタックルの体勢となって体当たりを食らわせてくる。
体格差にもかかわらず不意打ちで力負けした。
修哉が後方へ吹っ飛び、腰から上半身を強かに打ち付けて転がる。思わず声が出る。
「痛ッ! ……ううっ」
修哉に重なっていたアカネが抜け出し、方向転換する務の前に飛び出す。
両腕を広げ、制止をしようとする。だが務はアカネに気づかず、彼女の半透明の姿をこともなげに通り抜けた。
通過していく務に、アカネはひどく狼狽した表情を見せた。
駆け去る務の後ろ姿へと反射的に目をやる。唐突に意味を理解したかのように両の眼を見開く。
「や、やば、――だめだめだめ、ちょっ、まずいまずい」
意表を突かれてアカネが口走った。
「え、なに?」と顔をしかめて床から起き上がりながら修哉が訊ねたと同時にアカネが叫んだ。
「ああ、もうまじでやばいやばい、早く早く止めて!」
とにかく急き立て、慌てふためく。
「シュウ! 早く起きて追いかけて!」
起き上がる視界の端で、アカネが両腕をじたばたさせている。
焦れたアカネは勢いよく修哉のなかに飛び込んできた。そのとたん痛みがすっとんで、驚くような速度で身体が跳ね起きた。
「だめ! だめよ!」
勝手に叫びが口から飛び出る。手を伸ばすが、走り去る務とはすでに距離があって届かない。
脱兎のごとく、疾駆する。務は非常口へと向かった。丸ノブに手をかけ、全力で勢いよく引く。
凄い勢いで、重たい金属製の扉が最大限に開いた。
「アカネさん、須藤が逃げる!」
「違う! シュウ、あの子、」
追いかける、追う。秒が詰まる。ぐん、と身体が前にのめる。
扉の向こう、縞鋼板の踏み板が張られた踊り場に出る。
まったくの屋外のために、びゅうと風が身体に吹きつける。ジャケットの裾がはためく。
階段のステップが階下へと続く。手すりを兼ねた落下防止の鉄柵が取り付けられている。鉄の棒の間に、夜の闇と店舗の照明が透過して見える。
下を覗いて確認するまでもない。高い。
「飛び降りるわ!」
え、と思う間もなかった。
間に合わない。間に合わなくなる。アカネの焦りが伝わる。
急くあまり、全身にずうんと重くて鋭い痛みが走る。心臓が苦しいほどに猛打する。自分の呼吸音が耳に届く。
「あの親子! なんでなにも告げずに消えるのよ!」
ヒステリックにアカネが叫んだ。
「どうして自分たちがここにいるかくらい、ちゃんと言ってから消えなさいよッ!」
なんなのよもう、腹立つ! と勝手に口が動いて、喚き散らす。
「あの父親! 言葉が足りなすぎるのよ!」
馬鹿じゃないの、と毒づく。だから伝わらないのよ、と頭と、外気に響く自分の声とが聞こえた。混乱しそうになるが、それどころではない。
須藤務は眼下の踊り場に到達している。追いつこうと、両足で思い切り地面を蹴る。
数段を飛び降り着地する。足をつくと、金属の板を叩く体重分の打撃音が周囲に響いた。
務は迷いなく、非常階段の外側に設置されている落下防止の柵に手をかけた。続いて右手で、踊り場の対角線上にある主柱へと手を伸ばす。
こともなげに身体を支え、柵の上に足をかけて立った。
務は一瞬、眼下へと視線を落とした。
突き動かされているような切羽詰まった顔。これからやろうとしている行為に迷いと怖れがない。
「――やめろ!」
叫んでいた。
目の前で、柵の上に立つ務の両脚が屈伸する。手が離れる。足が宙に立つ。
落下、する。重力が下方へ移動する。
「くそっ、」
息を詰め、修哉は秒の間に全力で手を差し出した。
「逃すかよッ!」
つかめ、届け、必死にすがる。
死なせたりしない。死なせるものか。
逃がすものか。
務が飛び降りた時に、わずかに上方へ掲げられた腕が修哉の片手に届いた。しっかりとつかめる感覚があった。
瞬時に身体を投げ出し、もう片方の手で追いかける。もの凄い加重が両腕に伝わり、柵で二つ折りになった腹部に強烈な衝撃が走った。
柵が内臓に食い込む。骨が軋む。姿勢のバランスが悪い。
つかんだ腕が滑る。じりじりと限界が近づく。この体勢では起き上がれない。支える力が足りない。自分も落ちる。
焦る。離したくないが、このままでは――ふたりとも死ぬ。
死者に近づきすぎると死のほうから寄ってくる。そうグレに言われた。そのとおりだ。まさに今、その状況にある。
それでもいいかと心を許してしまうときが危ない。
「離せよ」
脱力したままの須藤務がこちらを見上げ、冷えた声で言う。
「いやだ」
口では言えるが、限界は近い。どうする、どうすればいい。務の顔、腕と身体の向こうに、眼下の光景が迫って目に飛び込んでくる。
距離感がおかしくなる。妙に大地が近い。一瞬、この高さなら無事に着地できるんじゃないか、という錯覚が訪れる。
アカネも支えてくれているが、とても足りない。じりじりと決断の時が迫る。
「シュウ、もういい、あなたまで死んでしまう」
自力で支えて身体を引き戻すだけの余力がない。全身の血が引く。冷たい汗が吹き出して肌を伝う。ああ、もうこれまでかもしれない――
でも、……でも、もう誰も死んでほしくない。
だけど、このままでは手を離すしかない。
眼下の大地に紅く広がる色と、ありえない角度で曲がって転がる死体の幻影を見る。
目をつぶる。目前が暗黒に染まる。必死に力を振り絞るせいで、判断力は落ちこんでいくような感じがする。息が詰まる。息がつけない。星のような光点が幾何学模様のようになって渦巻いて見える。
助けられないくらいなら、こいつの死体を見るくらいならこのまま共に終わろうか、と悲観の考えがよぎる。
手が、握る力が弱まっていく。
人は他人に迷惑をかけて生きるものです、と言ったのは、グレだ。力強く言い切った言葉。
生者は、ともに生者と生きるべきだ。死にとらわれてはいけない。
その時だった。
頭の中に聞き慣れた、重低音の良い声が届いた。
「加勢しますよ、兄さん」
身体のなかにとてつもない熱が入り込んできた。内側から肉体が膨張するような感触が走る。
筋肉が張り、かあっと熱くなる。ぐん、と引き上げられるだけの自信がみなぎり、加重のかかりかたが明らかに変わった。
「そのかわり明日は、死ぬほど酷い筋肉痛を堪えてくださいよ」
頭の中で、グレが鼻先で笑うのが聞こえた。
軽々と須藤を支え、修哉の体勢も安定して落ち着く。素早く後方へ、構造物の安全な内部へと引っ張り上げる。だが一方で限界を越えた過重に、ブチブチと微細な筋肉が断裂する嫌な音が聞こえる。体内から響く振動が限界を訴え、悲鳴をあげているように思えた。
脂汗が額に浮くのを修哉は感じた。日頃の体力不足を思い知らされる。
体勢が浮き上がり、今までつま先で立っていた。踊り場の床にしっかりと自分の踵がついて、足場に力が入るのを感じた時にこれ以上ないほどの安堵がやってきた。大きく息を整える。
須藤の両脇をつかみ、安定して引き上げられるようになった。ずるずると須藤はされるがままになっている。須藤の身体をたぐり上げ、踊り場の上に引き戻す。
須藤務の全身を床板に下ろし終える。
務は無言のまま力なくへたりこんだ。現実を受け入れがたいのか、両手ですこしずつ背後へと擦り退いていった。建物の壁面と金属製の柵に後退を留められ、身体を丸める。膝を抱え込み、額を膝頭につけて顔を伏せる。まるで叱られて表に出され、行き先を無くした子どものように。
修哉は肩で大きく息をつきながら、立っていられず膝から崩れ落ちた。そのまま両手を床につく。両腕の筋肉が勝手にわななく。
「覚悟しといてくださいよ、修哉さん」
「ああ……とんでもないことになりそうだけど、……助かったよ、ありがとうグレさん」
「いえ、お役に立てたなら何よりです」
大きく深呼吸をする。
身体のなかからグレが抜け出る感触があった。背後に巨体の気配がする。左肩にアカネが手を添えているのが目の端で見えた。
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