ナイトステップ

内田ユライ

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第六章

阻止するもの

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「そんな出まかせで、ごまかしきれると思うのか」
 口をついて出た言葉は不信だった。須藤務は、自分の虚言を心底信じ込む癖があると知っている。

 務の胸ぐらをつかんではいる。だが、いつのまにか自分の両脚で地面に立ち、手を緩めればいつでも逃げ出せる機会をうかがっている。そのように思えた。

 務の目が鋭く尖ったのを見た。強い不満が顔にあった。
「――なんだと?」

 そう言い放った顔に、あからさまな疑心が浮いている。誰だ、こいつ? なんで俺を知ってる? そう言いたげだった。問われなくてもわかる。

 そうだ、ずっとそうだった。この子は思い込みで、真に迫った嘘をつく。

 視界の内で、務は耳をすませて背後の運転席に注意を向けていた。つられて車内に注意を向けるが、運転席に座る男は力なくうなだれたまま動く気配が無い。

 務がかすれかけた声で言う。
「弟のことを知ってるのは俺と死んだ母親、あとはひとりだけだ」
 そうか、と腑に落ちたように務が呻いた。
「おまえ、中野の仲間か」

「……中野――?」
 反芻する言葉に、なにかが引っかかった。
 とても重要な、なにか。
 じわじわと思考を侵蝕する。怒りや強い恨みまでが覆るかのような、惹かれる響き。

 なんだ? 中野、どこかで聞いたような――

 務の顔が自嘲に歪む。嘲笑う口調で言う。
「俺だって訳がわかんねえ。なんだってずっと、あのクソ野郎のいいなりになってたんだか……まさか人を操る変なワザでも持ってやがるんじゃねえかと思うくらいだが」

 頭を一振りすると、そんなバカな、虚構の世界じゃあるまいし、と口の中でつぶやく。続けて言った。
「なんだか目が覚めた気分だ」

 なあ、と務が呼びかけてくる。
「おまえ、中野の手下にしてはずいぶん毛色が違うよな」
 目だけで頭の上から下まで眺める。「身なりがきちんとしてる、育ちもよさそうだ」

 務はこちらを睨み上げて、凄んだ。
「そんなお坊ちゃんがなんで、あんなのと関わってる?」
「……」

 いいか、と急に務は宥める口振りになった。
「あいつは人の心を弄んでもなんとも思わねえ。他人の金に寄生して、あの歳まで生き延びてきた詐欺師だ」
 間を空けずに疑問をぶつけてくる。
「いくらなんでも住む世界が違うだろう。なんで、あんなのと知り合った? 道を歩いていて偶然道を訊かれたとしたって、胡散臭くてそうそう信用ならねえ」

 答えないのを知ってか、一息ついて核心を突きにくる。
「おまえ、いったいどんな弱味を握られてんだよ」

 弱味――? なんのことだ?

 その時、背後に厭な感触があった。
 凍えるような温度の強風が吹き抜けた。身体の中心をつかんで揺るがすような衝撃が貫く。

 さほどの不快はない。だが、肉体が異変を生じる。
 胸の奥で続く、重たい鈍痛。目の前が暗化する。急に時間が止まったかのような感じがした。

 内側から力が抜けて、ぐらりと姿勢が傾いだ。



 アカネは叫んでいた。
 シュウが見ない。こっちを見ない。見てくれないと通じ合えない。必要な、大切なものをもらうこともできない。
 両手で生者に触れようとする。差し入れても差し入れても、手応えがまったくない。

 こんなことになってしまうなんて想像もしていなかった。時間が過ぎるごとになにかがこぼれ落ちて、まともに考えるのが難しくなる。
 ふいに認めがたい現実が降ってくる。このままじゃあたしは、消える前にあたしでいられなくなってしまう。

 一刻も早く、なんとしても取り返さないと。

 そう考えた時に、ぞわりと心の奥底が冷えた気がした。
 恐ろしいほどの喪失感で焦りが湧く。盗られてしまった。あの温かい、ふわふわ柔らかくて優しい気持ちでいられる唯一のよりどころ。
 無くしてはいけない、大切なもの。たったひとつの重要なもの。

 満たされていたのに次第に失われて、激しい飢餓に襲われる。どうやっても手元に取り戻さねばならない。気が狂いそうになる。
 どうすればいい、と考えてアカネは目の前の生者の中を覗き込んだ。

 身体の奥、胸の内側に光を放つものがある。それに強くすがれば、この乾いてつらい心がすこしは癒えるかもしれない。
 残ったわずかな水分を搾り取られるかのような焦燥感。身をねじ切られるかのような痛苦が心を苛む。

 だめ、と思った。とても耐えられない。

 手を伸ばして、光るものに手をかける。そうすれば今よりずっと楽になれる気がする。
 これを握り潰してしまえば、きっと共に解放される。ひとりよりも、ふたりのほうがきっと寂しくない。

 ふたり? ふたりって、あたしともうひとり……だれのことだったっけ――?

 その時、横から腕をつかまれるのを感じて、狭まっていた視界が少しだけ外へと向いた。
 誰……? 邪魔をするのは――?

 視点の先に、大きな図体をした男が目に入る。
「なにしてるんですか、姐さん」
 男は地の底から響くような凄みのある声を放った。

「邪魔しないで」
「なにをしてるのかと訊いてるんです」

 アカネより上背がある。覆い被さるかのような迫力で睨め下ろされる。恐ろしくはない。巨漢だが、力のない小物だと見れば分かる。

 アカネは冷淡に言い放った。
「あんたには関係ない」
「関係ない?」

 一瞬、男の声が尖った。サングラスの奥の目が吊り上がる。
 しかし、すぐに押し殺して落ち着いた口調を保つ。

「いや、あるでしょう。姐さん、あんた自分がなにをしてるのか理解してますか」
「煩いのよ」

 相手が冷静に話そうと努めるほど、腹の底から煮えたぎるような憤りが生じる。「これは、あたしのよ」
 言葉にすると、なおさら口惜しい。奪われたの、大事なものを。情けない、気づいたらあの人憑きに盗られてた。もうあたしには取り戻せない。

 あたしが手放したあの子は、横取りをした人憑きに殺される。
 悔しい、苦しい、恨めしい――

「あんたにはわからないのよ! 離してってば!」
「そんなことをすれば兄さんがただじゃすまない」

 相手から放たれた、冷酷なほどの事実が身を貫く。
 男につかまれた腕はびくともしない。アカネは焦れ、抑えきれない憤怒に叫んだ。

「あの子はどうせ殺される! そうなるくらいなら、あたしが先に始末するわ!」
「駄目です」

 断言したのち、大男は言い含めるような口調になった。「明音さん、修哉さんが死んでしまいます。そうなれば終わりだ。それでいいんですか」

 憐れみの目をしている。それに気づいて、アカネは男の目に釘付けとなった。

 ふいに射抜かれたかのように理解する。
 感情だ、あれは……あたしに対する感情。いまも心からこぼれ落ちていって、無くなってしまいそうなもの。あたしが持っていた感情を失ったら、永遠にあたしでなくなってしまう。

 アカネは、大男につかまれた右腕を見つめる。
 まだこぼれ落ち切っていない理性を必死にかき集め、考える。
 そうだ、なんでこいつはあたしに触れる? 生者はあたしに気づかないのに、なんで声をかけてくる?

 声が、言葉の意味がわかる。生者の会話は聞き取れないのに。
 あたしはなにか――この男と約束をしていた。
 すこしずつ記憶を探る。確かに約束を交わした。ほんのすこし、前の話だ。約束、いや、契約のようなもの。思い出せ、忘れかけてる。思い出さなきゃ。

 酷い――有りさまだ、とアカネは自分の腕を見て思った。ああ、そうか。正気を失いかけてるから、取り繕うことができなくなってる。

 見られてしまった、こんな姿を。
 あちこち岩礁に打ち上げられて、傷だらけになった。海水のなかで魚に喰われて肉が削げ、骨まで露わになった。やつらは柔らかい組織からついばんで、身体のなかにも入り込む。

 見るに堪えない醜悪な姿。本性のようで、知られたくなくて、いつでもきれいなままの姿を保てるように気をつけてたのに。

 ずっと隠しておきたかった。 

 思い出した、……あたしに憑いたこの男のこと。
 同じ立場。同じ存在。それから、特別なつながりがある。
 ふっと凍えるような喪失感がやわらぐ。思い出さなきゃ。まだ完全に見失わないうちに。

「あんた……協力するって言ったじゃない。なんであたしの邪魔するのよ」
「姐さんがなさろうしてるのは自滅ですから」

 大男の断言に、アカネは手から力が抜けていくのを感じた。自滅、今ならその意味が分かる。

 奪われるくらいなら、自分で始末する。つまり、修哉の命を奪う。あの人憑きから奪い返せる。そう思っていた。けれど――

 命を奪えば、生者は死ぬ。
 修哉を殺す。憑いている生者が死ぬ。
 そんなことをしたら、とアカネは思った。

 あたし、まだなにも心残りを果たせてない。この状況下で、修哉を失いでもしたらあたしはこの先、どうなるだろう。

「私はおふたりの力になるためにいる。消えるのを臆するつもりはないが、恩義をお返しできなくなっては意味がない。だから絶対に阻止させていただく」

 修哉の中心をつかみかけた両手を緩ませる。こんなことしてる場合じゃない。
 なによりも、修哉を失ったら意味がないのに。

「あ――あんた、どうして……平気なのよ、あたしは修哉を奪われてこんなにも気が狂いそうなのに、あたしに憑いてて、どうしてあんたは大丈夫なの」

「私は土地縛りですよ」
 平然と言い放つ。まるで優位に立ったかのような口振りだった。
「姐さんを拠点にして、兄さんの実体を本拠地にしていますから。人憑きに奪われようがそこは変わりようがありませんのでね」

 傷ついた気がした。あたしがこんなになっても、この男は冷静なままでいられるのか。猛然と対抗心を抱く。

「なによ、糾くんに吹っ飛ばされたくせに、あんたなに偉そうにしてんのよ」
 腹立つわ、とつい本音を漏らすと、大男は肉のついた太い指を側頭へ添え、素直に頭を下げた。

「面目ありません。あの強力な祓いには、姐さんほどに免疫がありませんで」

 ふう、と、生きてもいないから呼吸をしてもいないのに、アカネは息を吐いたふりをした。気分がいくらか落ち着いたのは間違いない。
「おかげでここが冷えたわ」

 アカネは右手の人指し指でこめかみのあたりを軽く叩いた。
「あんたいつも一歩遅いのよ、グレ」
「はい、申し訳ありません」

 グレは再度、背を丸め、頭を下げてみせた。


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