ナイトステップ

内田ユライ

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第五章

破綻

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 決行の心づもりをした日の晩、念のために勤務先から電話をかけてみた。
 務が電話口に出た。

 確認をすると、夫の息子は単調に「侑永は家にいない」と言った。
 務に興味は無かった。用件を聞くと、すぐに通話を切った。

 夜勤の休憩時間に抜け出した。急いで行って戻れば間に合う。
 こっそりと戻る。住宅街は静まりかえり、人通りも絶えている。

 物音を立てないように最新の注意をしながら、鍵を開けた。扉の向こうは暗がりとなり、家の中は寝静まっている。
 胸の鼓動がうるさい。まわりに聞こえているように思えた。

 思い過ごしなのはわかっているが、自分がやろうとしていることが漏れ伝わっているような気がする。
 足音を立てないように最新の注意をして、居間に入る。机の上には雑然と積み上げられた雑誌と新聞。食べ残した菓子の袋。灰皿には無造作に煙草の残骸が盛られている。

 机の上を積み直し、細工する。
 慎重に重ねた。吸い殻が焦げるように。最悪を考えなくもなかった。でも今夜、この家にいるのは夫と長男だけだ。

 長居をすれば自分が疑われる。

 早く戻らなきゃ。だれかここにやってくるかもしれない。気が焦る。夫に見つかって、言い訳だけはしたくなかった。
 火種を灰皿の下に埋め、ろくに確かめもせず立ち上がった。

 家の鍵を閉めて、急いで勤務に戻る。心臓がどきどきして、なかなか落ち着かない。

 一歩を踏み出してしまった。

 ひとまずは仕掛けを作った。どんな結果になるだろうか。
 一度目でうまくいくだろうか。期待はしない。そうは思うが、興奮はだんだんと不安に変わる。

 どうせうまくいかない。いつもそうだ、私の人生は。

 しばらくすると上長から呼び出しを受けた。うわの空で仕事をしていたから、さっきも班長から注意を受けた。今日何回失敗してんのよ、ちゃんとやってよ。

 叱られるのかと思ったら、早く家に帰れと言われる。
 あんた、家が大変だってさっき連絡が入ったよ。よくわかんないけど、もういいから切り上げて帰って。
 上長は面倒臭そうに、迷惑げな口調で言った。

 建物から出ると、家の方角の空が明るかった。あれは照明の色じゃない。
 胸が騒いで落ち着かない。通りに出て駆け出そうとしたところに、ちょうど後方から空車のタクシーがやってくる。拾って自宅の町名を告げる。


 
 進むたび、赤信号が重なる。心の内の不安をあおる。
 歩行者用の信号機が青になっている。
 深夜の時刻。誘導音は鳴らないはずなのに、頭の中で不安な曲が流れて反響する。


 トーォリャンセェ、トォリャンセェーエ

 
 想像以上の光景が目に入った。
 道路は警察官によって封鎖されていた。これ以上近づけない。


 コォコハドォコノホォソミチジャア
 テェンジンサアマノホォソミチジャア


 慌てて飛び出そうとする後ろから、運転手に支払いを催促される。焦る気持ちで金を払い、タクシーから降りる。
 自宅の方角の空が赤く染まっているのが見えた。こんな大ごとになるとは思ってなかった。
 誰もこんなになるまで気づかなかったのか。


 チィイトトォシテクダァシャンセェ
 ゴヨーノナイモォノトオシャーセヌゥー


 そうか、深夜だから。だれも気づかなかった。
 あらためて、ずうんと身体の奥に重たい氷が詰め込まれる感じがする。

 走る、揺れる、視界がぶれる。たくさんの光が流れる。
 赤い色、回る色、揺らめく大量の色。

 逆巻く熱風に肌があぶられて熱く、痛い。
 巨大な火焔に家がまるごと飲み込まれて、激しく燃え上がる不快な音、消防車やパトカーのサイレン、道路にたかる野次馬の人の数、いろんなものがいっせいに目の中に飛び込んできて混乱する。
 鼓動が早くなって、息が荒くなる。
 誰かが取り乱したようすで駆け寄ってきて、必要以上に近づき、腕を取って喚き立てた。


 コォノコォノナナツノォオイワイニ――
 オーフダァヲォオサァメニマイリィマス――


 音程が狂っている。気分が悪い。

 なにを言っているのか、回りの騒乱でよく聞こえない。
 嘘だ、こんなのは間違いだ、なんで、こんなことになった――?
 聞こえない。違う、聞こえないのは自分が叫んでいるからだ。

 侑永が家にいた。

 電話で確認した時に、務はいないと答えた。
 それなのに、何故家にいた? どうして? どうして――?

 頭の中で火種が燻る。小さな炎はやがて身の内を焦がし、毛穴から放熱しながら煙を吹き出すかのようだった。視界が歪むのは自分が涙を流しているからだと気づいた。

 人混みのなか、救急車が近づく。黒い煤で汚れた格好の者たちを、数人の消防隊員が取り囲んでいる。ひとりは頭がはげ上がったずんぐりとした小男で、胡座をかき、興奮が収まらないようすで威勢よく隊員たちにまくし立てている。
 もうひとりは、細い身体の少年だった。見覚えのある輪郭。
 座り込んだまま、家だったものを舐める炎を呆けた顔で眺めている。消火活動をしている消防員を避け、早足で近づく。少年は燃えさかる光景を写して、炎の色に照らされていた。橙色の光を瞳が写している。見上げている顔に表情がない。

 なんでこいつは、どうして無事なんだ。


 イィキハヨォイヨォイ
 カァエリハァコワイ――


 なんで、どうして、なんで、
 叫ぶ、喚く、腹の中から湧き上がる憤りが収まらない。
 ぶちまけないと、燃え上がる憎しみが心臓を焼いて死んでしまいそうだ。


 コォワイナァガラモォ トォーオリャンセェ
 トォオリャンセェエ――――――――――


「おまえのせいだ」

 狂う。狂っている。
 ぷつり、と曲の最後の音が途切れた。
 
 目前に憎しみの対象がある。  
 ずっと、ずっと思い通りにならない。悔しくて恨めしい。なぜこんなにもうまくいかない。
 深い深い、深い怒りを抱えて、憎しみが呪いとなり、未練に繋ぎ留める。離さないし、手を離せない。決して。縛り付けて縛り付けられて自由にさせない、自由にならない。

 必ず。絶対になるものか。離れない。離れられない。

 私を裏切った。あの子は約束を破った。到底許せない。
 
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