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第五章
計画
しおりを挟む男が病室を訪れた時の顔は忘れない。
みっつ歳上だったが、もっと老けて見えた。こちらに視線を向け、青ざめた顔で立ちつくす。かすかに身体が震えているのがわかった。
あとで同室の入院患者に話しかけられた。直接会いにくることなんてまずありませんよ、と興味津々で言ってくる。
珍しいんじゃないですか、ふつうは保険会社に任せるもんでしょ。
下手に謝っちゃうと、あとで面倒になるから当人同士で勝手に会っちゃ駄目って釘刺されちゃうのよ。
そんなものなのか、と思った。
額の傷は残ると医師に診断され、そのまま男に伝えた。なぜかうろたえているように見えた。
一週間と空けずに見舞いに来るようになった。退院するときもひとりで、家族はいないと言ったら、足が不自由だから大変だろうと勤めを休んで手伝いに来た。
タクシーを使えば足代がかかる。利用できるものは利用させてもらう。
今までなにもいいことがなかった。だから、それくらい許されると考えた。
入院代を出してもらい、働けずにいる間の生活費も受け取った。
男の好意を当然のように受け取り続けた。別にかまうものか。利用できるなら利用するだけだ。
べつにどうなろうとかまわなかったから、過去のことを隠さず伝えた。もらえるものは受け取り、表面上は好意的な反応を返した。
男の中では、都合良く恋人の関係となったようだった。どうという感想も持たぬまま短期間で親密な間柄となり、男からは初めての彼女だと告白された。別に心は動かなかった。態度からしてそうだろうな、とは思った。
そして当然のように妊娠した。
男が言った。臨月近く、になって働けなく、なくなる前に、引っ越、ししないか。一緒に暮らそう。
緊張からかずいぶんと口ごもりながら、命乞いをするかのような形相をしていた。汗だくで顔色は蒼白となっている。あまりに必死で、なにをそんなに慌てふためいているのかと不思議でしかなくて、今にも笑い出してしまいそうになった。
家賃がかからないからと言われ、はじめは男の実家の敷地に建つアパートに移り住み、暮らし始めた。
義実家の母屋には義両親と長男夫婦の家族、隣家に長女夫婦家族、次男は海外に転勤をしていた。
男と生活をはじめるまえから、人付き合いが苦手なのは予測がついた。私生活では、できるだけ人目を避けている。
いつも家族の会話に流されて自分の意見を持たない。返事をせず、なにを考えているかよくわからない薄笑いでごまかす。
あとから親族の集まりで話題になった。事故を起こしたあと、放っておいたら人目を怖がって家に引きこもりそうだったから、無理にでも病院に見舞いに行け、と言ったんだ、と義理の父親が酒の席で話した。
どういうふうに男が事故の経緯を伝えたのかわからないが、親族はこちらの過失を知らないようだった。
このままじゃ一生、女に縁が無い。いい機会だから、きちんと自分で片づけろ、とけしかけたのだと語った。
いつまでも独り者でいられたら世間体が悪い。いい加減、独り立ちしてくれなければ困る。三男の末弟だからと言って甘やかすつもりはなく、早く厄介払いがしたかったようだ。
だからなのか、男には子どもが出来れば責任を取るほか選択肢がなかったらしい。むしろ好都合だったと言える。お互いに、だれでもよかったのだ。
男の毎日は淡々としたもので、仕事に行って深夜近くに家に帰って食事をとって、事務的にいくつか言葉を交わし、風呂に入って寝る。土日は自分の身の回りを最低限に片づけ、あとは寝ている。
夫は関心が薄かった。大きな変化を好まない。同室の同居人が増えただけ、それだけだった。
金の心配だけは無くなった。男はなにも言わず、毎月稼ぎは入れてくる。足りない分は親にもらっているらしかった。
働かずにいても食べて暮らす場所が得られ、生活にも困らない。
だが臨月を迎え、子どもが生まれると事情が変わった。隣家の親族――姑、小姑が毎日のように押しかけてくる。
男とは正反対に、女たちは気が強かった。母屋と隣家で大家族を前提として暮らす。そのせいか自己主張が激しく、群れのリーダーを主張し合う猛獣のように思えた。新生児を見ては、誰々に似ていると勝手に言い合う。我が物顔に赤子を抱き上げ、家の中を好き放題にいじくり回した。
許せなかった。小姑――夫の実姉が上からの目線で、やたらと面倒を見たがる。いい歳して芸術家気取りで、好きなことをやっている。才能なんて大げさで、どうせたかがしれている。
ただ偶然、生まれた場所がよかっただけ。金銭に困らない親がいたというだけで、好きなものを選べた。妬ましい。いらつく。腹立たしくて苦しくなるほどだった。
自慢げな会話が我慢ならなかった。一秒でも聞きたくない。
安全で恵まれた環境に生まれついた。それだけの違いが大きな差となる。知識を買い、財力で能力を手に入れられる。
苦労知らず。態度だけはでかい。いちいち口出ししてきてうっとおしい。
悩みなんてなさそうな笑顔が気持ち悪い。大嫌いだった。
我慢できなくなって夫にこのアパートから出たいと訴えた。反論もせず、夫は素直に従った。ようやく親族から離れて、気にくわない相手に絡まれる不満から解放された。
ひとつ大きな悩みが減ると、好きでもない赤ん坊の面倒を見る時間が耐えられなくなった。
思い出したくもない過去の記憶がちらつく。私はこれを大切にしなくちゃいけない。
私は毎日、暴力を振るわれてきたのに。おかしいじゃないか、なんでこいつは安全に暮らせるんだ。
こんなもの大切でもなんでもないのに、どうして大事だと思えたりするのだろう。
だが、なにもしないで放っておいたら死んでしまう。父親みたいに警察の世話にはなりたくない。捕まったりして、せっかくの自由を失うなんて馬鹿らしい。
赤ん坊は手がかかる。要求をかなえてやらなければならない。私は叶えられたことがないのに。うらやましい。ねたましい。
だけど、私は馬鹿じゃない。つまらない失敗はしない。
どうにかしたい。このままでは赤ん坊に手を出してしまいそうだった。
頭をひねって理由を考えた。もっともらしい言葉で、夫である男を納得させる。
この男は赤ん坊が無事に生きていれば、けっして面倒ごとに首を突っ込もうとしない。
関心がない。だから、申し出にあっさりと応じた。当然、気を回したりしないし、手を貸そうなどと考えもしない。
かまわない。方々駆け回り、情報を求めて探し回って、ひとりで長男の預け先を決め、すぐに働き先を見つけて家を空けた。
家に帰れば赤ん坊が泣く。だけど、泣こうが気にしない。
耳を塞いで意識を切り離す。あたしは手は出さない。最低限の世話をしさえすれば、放っておいても死にはしないから。
ろくに学校も出ていない者にできる仕事は限られている。
やりがいなんてものがあるわけもなく、働く内容と給料は薄っぺらい。それでも外に出た甲斐はあった。
あるとき、街で声をかけられた。
見栄えのいい年下の青年だった。こんなふうに街中で声をかけられたことなどなかったから珍しく気持ちが弾んだ。
お金がないという青年を誘い、奮発して高級な料理を出す店に連れて行った。
親しくなる努力をした。相手にしてもらえるのが嬉しかった。
彼は学生だった。自分より四歳も若い。一緒にいるとつまらない現実を忘れられる。
冴えない夫にはないものを彼は持っている。華やかな容姿、すこし舌足らずの喋りかた、生まれ持った身体のつくりから発する、鼻腔の奥に反響させる独特な甘い声。
不思議に惹かれる。優しげな両眼がこちらを見て、笑いかけられるだけで胸が苦しくなる。
いっしょにいると周囲の視線がまるで違うことに気づいた。自分に向けられたものではないと知っている。
過去に、一度でも向けられたことのない感覚を味わう。強い満足感が奥底から湧き上がって、とめどなくあふれる。
まぶしげに向けられる羨望の眼差しは、隣にいる私に止まるとすうっと冷える。僻みが見え隠れする。ここまであからさまだと、かえっていい気分になれる。
彼を見る目は皆、はっきりとわかる。潰されてきた自尊心が満たされて膨らみ、楽しげに跳ね回る。
この人と一緒にいる時間を、独占しているのは私。
この私。彼が選んだのは、私。
他の誰でもない。他人には絶対に渡さない。
二重の生活を送るのは大変だった。それでも彼に会えると思えば苦でもなかった。
ふだんは仕事が終え、帰宅すれば育児と家事で一日は終わる。夫は仕事で深夜まで帰ってこない。手のかかる幼児の相手をするだけで神経がすり切れる。
だけど、と思い直す。すでに過去の縁は切れて、ひどい怒鳴り声でののしられることもない。
夫は無関心だが暴力はしない。やかましい親族からも離れられた。やることさえこなしておけば自由でいられる。
若くて、きれいな顔をした彼にのめりこんだ。彼は夫と違い、優しかった。年下なのに、気持ちを快くとろかせてくれる。蜜のような時間に浸ると夢が叶うようで嬉しい。
気づかってやる。甘やかした。彼も心を許すようになった。
これまでに与えられなかった時間が、過去の分まで満たされるように思えた。不幸な過去が帳消しになる。頭や身体の芯から幸せを感じ
る。生きるつらさを忘れた。
時間は流れる。すこしずつ増える思い出。夢と現実。ふたつに分かれた生活をなんとしてもやりこなそうと努力を重ねた。
彼と身体の関係を持ち、数年経つころに心変わりを感じた。成人し、大学生活も慣れて、同い年の恋人ができたようだった。
苦しい。嫉妬で気が変になりそうになる。他の若い女に盗られてしまう。
すこしでも多く、関心を引きたい。どうすればいい。
彼にとって価値のある人間になろう。
そうだ、必要なものを渡せば離れずにいてくれる。いくらあっても困らないもの。
けっして裕福でない家計からやりくりして、彼に渡した。
受け取った彼の顔は嬉しそうだった。
安堵した。
だが、ここから関係が変わってしまったのを、私は後になって知ることになる。
季節が幾度か過ぎ、私は妊娠した。
間違いなく、彼の子だった。堕ろす気はなかった。
そしらぬふりをしてやるべきことをするだけ。つじつまを合わせ、なんとしても夫をだましきる。
彼にも、これは夫の子だと言い張った。
そして、出産の日を迎えた。
子は彼に似て、生まれた瞬間から美しかった。
新しい命を抱き、乳を含ませ、面倒を見て、大きくなっていくのを見届ける。
なによりも大切なもの。片時も離れずにすむ。
いつも腕の中にある、彼の分身。
心から思えた。
これは奇跡。幸せのかたち。
これは彼から与えられた宝物。生きる証し。
こんなにも嬉しく、身が震えるほどに幸福だと思える日は一度としてなかった。
夫はなにも言わなかった。
疑いもしなかったのか、それともただ同じ家に暮らしているだけで、家族に興味がなかったのか。たぶんそうなんだと思った。
変わらずに夫の仕事は忙しく、日々の帰宅は遅く、いつしか煙草をはじめ、酒の量が増えた。
勝手に病気になろうがかまいはしない。好きなようにすればいい。だから放っておいた。
小学校に上がっていた長男は、半分しか血の繋がっていない弟をなにも知らずにかわいがった。
馬鹿な子。なにも知らないで。
私は他人の世話を強いられてきた。自分以上に、ずっと。どんなに面倒でもやらされ続けた。そう、今でさえも。
私がやってきたのだから、当然、長男もやるべきだと考えた。
兄として弟の面倒を見るように言いつけ、なにかあったら全部あんたのせいだからと命じた。
夫に似た性格の長男は、夫と同じようになにも言わずに従う。そんな無気力なところがたまらなく気にくわなかった。
美しい彼の子は無邪気にふるまい、長男のあとをくっついて回った。長男と違って、なにをしても可愛いと思えた。
一方で、彼との関係も変わった。
点々と職を変え、羽振りが良くなると連絡が途絶え、金に困ると思い出したように私の職場に現れる。
複数の女の家に出入りしているのは知っていた。
しかし、最後には私の元に帰ってくる。疑わずに信じていた。
必要とされている。そう思って、安堵と優越感を感じていた。
それなのに。
別れ話を持ち出された。突然だった。
相変わらずきれいな顔で、申し訳なさそうな顔すらせず、世間話をするように切り出された。
だってさ、きみといてもあんまり楽しくないんだよね。
そう言って、慣れた手つきで人差し指と中指のあいだに煙草を挟み、口の端で加える。口全体を覆うようにして軽く吸う。
同じ仕草にしても、夫とはまったく違う。同じ人間だというのに、なんでこうも違うのか。
絶対に離れたくなかった。手放したら、なにも残らない。彼を失ったら、自分の生きる意味がなくなってしまう。
本当のことを洗いざらい話した。あの子はあなたと私の子だと。
あなたにそっくりで、どんなにかきれいな顔をしていて、素晴らしい子どもであるかを。
彼は、ふうん、と軽い調子で唸った。
心が動いたようには見えなかったが、目つきは変わった。
これまでにない視線を見て思い出した。あの時と同じだと感じた。
過去に巻き戻る気がした。犯罪者の従兄の目と重なった。上から下まで舐めるように値踏みする、あの視線。
意外にも、彼は優しげに微笑んだ。
いつもより意味深な、魅惑の笑みを浮かべ、言った。
旦那には知られたくないんだろ?
黙ってるからさ、そのかわり、毎月用立てしてほしい。
今さら夫に知られても困りはしない。とっくに別れたいと思っていた。
夫に、離婚したいと話したことがある。しかし、絶対に別れるつもりはない、と返答された。
頑固だった。けっして譲らない。理由はなに、と問いかけても、子どもがいてまだ小さいんだから、と先を濁した。
そして、ほかは好きにすればいい、と夫は言い放った。
好きにする。その言葉どおりに彼との関係を続けた。
彼と会えなくなるのは嫌だった。なによりも大事なのは、彼と過ごす時間だった。
だから要求を飲んだ。
毎月渡す金を用意するために、仕事を増やした。夜勤に出るようになり、夫とはますます顔を合わせることはなくなった。
いつものように、毎月の生活費を渡す名目で彼に電話する。ホテルを予約し、待ち合わせる。
一緒に暮らせば、こんなふうに面倒な手間もなくすぐに渡せるのに。そう言うと、物憂げに煙草をくゆらせる彼が小さな声で漏らすのを聞いた。
「それもいいかもな」
続けた言葉、それはまるで天から届く、神の導きのように聞こえた。
「おまえと俺の子と、三人だけなら」
彼の言葉は全身を貫いて熱く、身体の芯に火をつける。
そうだ、邪魔なものはいなくなればいい。そうすれば一緒になれる。やっと幸せになれる。
夫と上の息子がいなくなれば、ようやく願いが叶う。
曲が聞こえる。嫌な記憶。
調子外れな機械音。
――トーリャンセ、トーリャンセ。
コーコハドーコノ細道ジャ――
仕事帰りに夜の街を歩いていると、遠くから聞こえてくる。雑踏のなか、耳鳴りに似た雑音にかき消される。
この旋律には、思い出したくない記憶が暗く重く澱んでいる。
計画を立てた。うまくいくと確信した。
夫の煙草癖は悪くなっていた。最近は放っておけばいくらでも灰皿に溜め込んで片づけずにいる。
疲れているのか床に横たわると眠り込み、床を焦がすのも一度や二度ではなかった。
いっそ小火でも起こしてしまえばいいのに。
そうすれば、離婚の理由にできる。
想像してみる。とうとう火災の寸前にまでなってしまった。いつもだらしない父親だからこんなことになる。頼りない夫。もう我慢できない。
そうだ、小火を起こしたように見せかけて――なすりつけてしまえば。
筋は通る。
万が一を考えて、侑永だけは守らなきゃいけない。
子どものイタズラを疑われてしまうのはまずい。
当日は自宅にいないほうがいい。そうすれば、なにかあってもあの子は安全だから。
友だちの家に預けてしまおう。
まずは日を決めて、約束を取り付けておかなければ。
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