ナイトステップ

内田ユライ

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第五章

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 閉じられていた視界が開けた。

 いくらかの時間が飛び、とりまく空気が変わる。
 夜を歩く。力強く路面を蹴るハイヒールの音が、周囲の家の壁面に反響する。

 寝静まった住宅地の人通りは絶えている。

 肌寒い風に鮮やかな青色のジャケットの首元を合わせる。手先の爪はきれいに塗られている。
 睫毛が重いのはマスカラだけでなく、長いつけまつげをのせているから。

 視界の先に自分の影が伸び、闇と同化している。
 電柱の上から落ちる外灯の光を背後に受けて、バッグの持ち手を握っている姿が影となり、アスファルトの上に落ちている。

 職場で話題になって、カタログを見せてもらった。さほど欲しくもなかったが、明るい色とデザインは気に入った。百貨店まで足を運んで、初めて買ってみた。
 新作のブランドバッグ。やけにうらやましがられた。なにがいいかわからないけれど、なぜか自分の価値が上がったように思えた。

 呼気にアルコールが混じる。働きはじめて、自分で自由に使える金が手に入るようになってわかった。化粧を覚えたら、周囲の見る目が変わった。近寄ってくる異性が増えたが、金を落とす肉の塊としか思えない。
 なんの才能もないと思っていたが、酒はいくらでも飲めた。心を消せば、なんとでも自分を偽れる。相手に合わせて別の人格を作り上げると、思いどおりになる女だと勝手に思い込み、喜んでくれる。

 馬鹿馬鹿しい。理想の相手なんているわけがない。すべて架空でしかない。嘘を平気でつけるようになった。

 無茶な飲み方してると、歳とってから身体壊すよ。指にはさんだ煙草から、ゆらゆらと煙が立ちのぼっている。癖のある香りを呼気に含ませて、目上の同僚が説教をしてくる。
 あんた、気をつけなよ。見ててなんか危なっかしいんだから。

 どうせ長生きするつもりなんかない。そう思ったが黙っていた。
 余計なことは言わないほうがいいに決まってる。ただ頷いておけば相手は満足する。
 どうでもいい。最悪、死を選べばいいだけだ。
 心の中は冷え切っている。いまは自分が楽になることだけを考える。そのほうがいくらか気分がましになる。

 細い道の奥に、古い二階建てのアパートがある。灰色に塗られた金属板の階段に近づく。

 ところどころ錆が浮いて、茶色い染みになっている。踏み板を登ると、やけに大きな足音が立つ。
 ハイヒールの踵が、居場所を知らせるかのように靴音となって鳴り響く。自分の帰宅を周囲に教えているかのように思えた。

 そんなふうに思ったのは、予感があったからだろうか。

 最上段の数段手前で立ち止まる。人の気配。身動きする衣擦れの音を聞き逃さなかった。

 見上げた視線の先。
 アパートの二階、コンクリートが張られた廊下。左側の壁に、茶色の扉がふたつ、並んでいる。
 その先はすこし幅が開き、その先にまたふたつ。さらにその先にもふたつの計六つ。上部の照明に照らされて、室外に設置された白い洗濯機が玄関扉の横に置かれている。

 灰色の床面に落ちる影。ひとつだけ長く伸びている。
 人影だと気づく。壁に張りついて息をひそめる者――あれは男の姿。

 全身に、大量の針を突き立てられた気がした。ぎゅうと心臓が絞られる。

 影が移動する。
 相手が身をよじり、こちらに向けて立つ。対峙する。

 姿が見えた。
 向けられた顔。視線が合う。大きく息を飲む。
 顔。あの顔。真っ黒に塗り潰された顔。

 動く。闇から滲み出る。視界が二分にされたかのように思えた。幻影が現実へと抜け出てくる。顔を包み込んでいた真っ黒な色が空中に溶けて霧消し、唐突に露わになる。

 造作が明らかになる。
 ぜんぜん好みじゃない。不愉快で出来損ないの顔立ち。

 見開いても半目に見える。瞳が小さい。突き出した鼻、骨張った頬、薄い唇。そんな顔が近づき、殴りつけては脅してくる。
 荒い呼吸音が耳元に近づく。
 ここにいたきゃ誰かに言うんじゃねえぞ、不細工なツラのくせに、文句が言える立場かよ――
 自由を奪われる。半笑いの醜い顔。それでいてぶざまな格好で、必死になって欲望を叩きつけてくる。
 冷めた頭で繰り返す。馬鹿みたいだ。馬鹿。くだらない。掃きだめの汚物。
 こっち見んじゃねえよ――使えんのはカラダくらいだ、どうせ今までもやってたんだろ――

 力任せに、モノのように扱われる。

 揺れる、前後に揺れる視界。白い天井の、細かな凹凸を眺める。
 あのころの自分はただ恐怖と脅威で身がすくんで、怯えるしかなかった。


 
 再び現れた男の顔には、激しい憎悪があった。
 あの頃よりも痩せて頬がこけている。

 テメエのせいで、と激しい呼吸とともに吐き出す。
 低い、男の声。ぞっとするような狂気をはらむ。

――おまえさえウチに来なけりゃ、俺はこんなふうにならずに済んだ。全部、おまえのせいだ。
 俺の人生は終わった。醜い男は、そう喚いた。 

 何を言ってるんだろう、なにが終わったって?
 人生? 生きてるのに、そんなわけがない。ずっとずっと続くんだから、勝手に終わるはずないじゃない。

 ああ、やっぱりこいつは馬鹿だ。自分の不始末を平気で他人のせいにする。あの家族全員が、揃いも揃って全部馬鹿。

 クソアマ、と相手が低く呻くのが聞こえた。
 こちらに投げつけられた両眼の殺意を認める。
 下げられた片手がこちらに向けられる。闇から照明の下に伸び、その手に握られた刃先が揺らいだ。

 照明を反射して、鈍く灰色の光を放つ。

 凶器を見て、身をひるがえすのに数秒かかったように思えた。
 飛び降りるように階段を駆け下りる。

 ヒールが鉄板を叩いて、音が鳴り響く。うるせえぞ、と滑舌の悪い怒声で、なにも知らない居住者が室内から発するのを聞いた。
 背後に投げつけられた言葉に、差し伸べられる救いの手などないと宣告された気がした。

 だめだ、捕まったら、きっと殺される。
 反射的に動く。
 必死に走る。方向もわからず、ただ逃げた。

 右側からまぶしい光源に照らされて、立ち止まり、硬直してしまった。
 あ、と思う間もなかった。

 ガードレールの隙間から車通りに飛び出していた。
 過去の記憶から幻聴が届いているのか、実際に聞こえているのかわからない。
 遠くで聞こえる。機械音が奏でる、無機質な旋律。
 
 チイットトオシテクダシャンセ、ゴヨウノナイモノ、トオシャセヌ。

 ひとりで生きられる、生きていけるようになったのに。
 日々を淡々と終えるだけだから、なにか得るものがあるわけでもない。満たされるものはなにもなかった。

 面白くもない、乾いた人生。

 車にぶつかるまでの、わずかな間。思ってしまった。
 ああこれで終わる。やっと。

 跳ね飛ばされる衝撃を感じた。運転手の表情がひどく驚いたまま止まっている。顔が緩んでいた。

 はは、変な顔。笑える、みんなぜんぶ、ホント馬鹿みたい――


 
 目覚めたら透明な管に繋がれていた。
 ラベルのついた透明な袋から吊り下げられた点滴の管に、ぽたりぽたりと薬液が垂れているのが見えた。

 なんだ、残念。生きてる。
 なんなの、これ。目が覚めても悪夢のなかにいるのか。そう思った。
 結局、車に轢かれても死ななかったのか。なんという不運。

 白い天井に、白い金属レールがL字の曲線状に下がっている。ベッド周りを仕切るカーテンレールに、薄いピンクのカーテンが下がっていた。
 大きな窓の向こうに、白い建物と曇天が広がる。まるでいまの気持ちそのままのようだった。

 病院のベッドの上だと気づいた。無意識のうちに溜め息をついていた。
 感慨もなにもない。こんなところに運ばれてしまって、どうしよう、とすぐさま考える。
 支払う金……安くはないだろう。貯蓄もそう多くない。迷惑な話だ。放っておいてくれればきっと死ねた。それでよかったのに。

 入院からしばらく経って、やっと自分だけで動けるようになった。松葉杖をついて洗面所の鏡をのぞいたら、予想以上に酷い有りさまに湧き上がる笑いが止まらなくなった。

 笑いの発作はなかなか収まらず、気づいた看護士が心配げに声をかけてきたほどだった。

 すごい、ケンカに負けてボコボコにやられた痕みたい。
 女なのに。こんなふうになるんだ。声をあげて笑うなんて、ずっとないことだった。

 生きている失望ばかりが頭にある。それ以上に、怪我の痛みが邪魔をする。実際の身体の苦痛に耐えている。自分の悪運の強さを嘲笑う。気分は悪くなかった。
 クソ親に殴られたときもここまでにならなかった。

 そもそも人の一撃で、ここまではできやしない。人相手ではなく、車とやり合って生き残った結果。
 思うより人間って頑丈だから、そう簡単には死なない。下手に生き残ってしまうと、かえって面倒なことになる。
 殺すつもりなら、確実にとどめを刺さなきゃいけないんだ。そう思った。

 なかなか血みどろな事故現場だったと聞いた。
 車に接触し左足を骨折、そのままボンネットに乗り上げフロントガラスに蜘蛛の巣状の模様を作った。急停止する反動で、舗道に転がり落ち、着地時に全身を支えようとして体重が乗った右手の小指と薬指の骨が折れて手首にひびが入った。
 運悪く舗道の段差に当たり、額から頬骨にかけてぶつけた。もうすこし落下位置がずれていたら失明するところだったらしい。
 傷からの出血で、アスファルトの上に大きな血だまりができた。

 死んでる、ヤバイと見た者が口々に話すのが聞こえた。たぶん追ってきた従兄もそのようすを見たに違いない。
 野次馬が動画を撮る。同時に証拠動画となるから、それ以上は従兄も近づけなかったのだろう。
 救急車で運ばれているあいだ、一度だけ開けた車内の光景が記憶に残る。救命士の動きが慌ただしい。うるさくていらつく。なにか尋ねられているが、よくわからない。記憶の断片をつなぎ合わせて思い返す。

 鏡の前で自分の包帯姿を確認して、実感した。
 生き残った。生き残ってしまった。

 アパートで待ち伏せしていたあの従兄は、刃物を持ちうろついているところを目撃されて、近所の住人たちに取り押さえられたと病室にやってきた警察官に聞いた。

 あっけない、と思った。私には好き放題を強いたのに。あいつは男数人に立ち塞がれて、刃向かえもしない腰抜けだった。
 ただただ腹が立つ。あまりにすごい怒りで、全身に火がついて燃えるように感じる。無能のくせに、一人前に相手を選んで踏みにじる。虫けらと同じ扱いを受けた。
 あいつは私を下に見ていた。だからなんのためらいもなく、あんな汚い行為ができたのだと知った。

 ひどく傷ついた。悔しい。悔しくて身体が震える。
 誰かに言われた。助かって運が良かったじゃない。

 運が良い?

 そんなものは、この世を楽しめる恵まれた者の考え。他者に怯えず、当然のように安心して暮らせる、おめでたい人間の考え。
 いいことなんてなにもない。そう思っていたが、ひとつだけ違った。

 交通事故をきっかけに、男と知り合った。
 飛び出した道路で、運悪く自分を轢いてしまった運転手だった。

 別に好きでもなかった。並べば自分より背が低く、印象は薄く、歳もそう変わらないのに生気がない。
 ぼそぼそと謝罪を口にした。言葉に感情がこもらないというのか、なにを考えているのかわかりづらい相手だった。

 表情はどんよりと曇っていて、どこか自信なげだった。見て気づいた。他人の誇らしさを、心の中で妬んでいる。
 自分にないものを持つ者を、面白くないと感じている。世のなかの楽しげな者たちをうらやましく思っている。そんな雰囲気を嗅ぎ取った。同じだからわかる。

 だが生まれた境遇には恵まれている。
 間違いなく私よりいい身分なのに、一体なにが不幸なのか。理解できなかった。
 男は三男一女の末っ子で、周辺では名が知られた地主の三男坊だった。

 そう、条件だけはよかった。
 これはチャンスだ。この不公平な世界、地の底を這う毎日から逃れる、やっと訪れた最大のチャンス。


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