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第五章
接触
しおりを挟む日が沈んだ。
街灯や店の照明、看板のライトが煌々と光を放ち、夜になっても表通りには暗がりがない。
人通りがいくらか減るかと思いきや、周辺は観光客と会社帰りに立ち寄る集団が入り交じり、日中よりも増えているように見えた。
七時を過ぎて、駐車場の車に戻った。人通りのわりに、夕方を過ぎると駐車場の利用者はさらに減っていた。飲酒する者が多いせいだろうか。
修哉が戻った時には左側の車はすでにいなくなっていた。後部座席のドアを開け、乗り込む。
深く身を沈ませて、待つ。
大したことは起こらないとわかっていても落ち着かない。緊張を紛らわせるために、スマートフォンをいじる。さっき充電器につないで充電量を百パーセントにしたのに、すでに三分の二ほどに低下した表示が出ている。
時刻は午後八時。
この建物の出入り口はエレベーターホールを兼ね、照明もかなり明るい。運転手だけ駐車場に向かって、そのあいだ出庫を待つ者も多いのか、待合用のベンチとテーブルが置かれ、壁際にドリンクの自動販売機と精算機が設置されている。
だが駐車する階には最低限の照明しかない。入出の往来をしながら、通路の歩行者を見分けるぶんには問題ない。だが、夜間は車の影に入ってしまうと薄暗くて、人が潜んでいても気づきづらい。
この時間に入庫する車はまばらだった。空いているので、駐車するにしても階下ですむ。わざわざ最上階を選ぶ必要はない。
つまり、自然と人目につきづらいということになる。
「一台、上がっていきます」
重低音の声が頭に響く。階下で見張っていたグレの声に、目線を上げる。
しばらくすると、タイヤが滑る耳障りな接触音が近づいてきた。薄暗いコンクリートの壁に、ヘッドライトの光が広がる。
「来た、けど」
小声で言っていた。白のSUVが正面を通り過ぎていく。窓から見えるのは空の助手席。そしてその向こうの運転手の横顔。
車内は暗く、はっきりとは認識できないが人違いだったと気づく。なによりあの、巨大な肉塊の異形が見えない。
「違うな……」
「ちょっと待って、あのひと――」
アカネが身を乗り出して言った。「あれ……、糾くんが言ってた人じゃない?」
「梶山が? なにか言ってたっけ?」
アカネは修哉に倣い、後部席に座って視点を巡らせていた。だが、ふいに立ち上がると、空間を無視してするりと車外へと抜け出した。
「アカネさん?」
修哉の問いに答えず、背後の壁へと消えていく。バックドアガラスから壁を見つめているしかない。しばらくするとアカネが頭から現れて、こちらの階へ戻ってきた。
「車ね、ちょうどこの壁の真裏に停まったんだけど」
修哉のいる席の外に立ち、こっちの手前側、と手で示している。
「横から窓越しに見ただけじゃ自信なくて、フロントガラスから車内に入って確認してみたのよね」
アカネが腰を折り、上半身だけを車内に差し入れる。より左耳に声が近づいた。アカネがどこにいようが、声は左耳だけに聞こえる。すっかり慣れたはずなのだが、つい無意識にアカネのいるほうへ左耳を向けたくなる。
「やっぱりそうじゃないかな」
「って、誰?」
「あれ、見栄えのする中年じゃない?」
「……え? なに?」
「ほら、くたびれたホストだってば」
「ホストって……?」
脳内でここ数日の記憶とアカネの言動を照らし合わせ、相当するものがないかフル稼働させる。目の前の現実が薄らいで、過去の光景とともに関連する語彙が次々と切り替わる。見栄えのする中年、くたびれたホスト、梶山が発言した――
はっとした。瞬時に目が晴れた気がした。
「ああ、須藤の母親の交際相手か!」
「そうよ、どっちかというと歳がいって人気なくなっても未練たらしくずるずる業界にしがみついて、華と派手さが無くなったヴィジュアル系音楽バンドの、顔のいいのを少し一般寄りにした感じ」
「はあ……?」
かなり主観が入った、微妙な表現だと思った。うまく想像できなくて困る。しかも、純粋にまっとうな活動を続けている関係者には、ずいぶんな言い草じゃないか。というか、連想する人間がアカネにあるのではという言い回しだった。
「あたしはああ言うの好みじゃないけど、……あれがいいっていうひとはいるのね」
よく見えなかったので相手の評価を下しようがないが、アカネの口調ではとても肯定しているように聞こえない。
「でももうとっくに八時過ぎてるわよね、違うのかしら」
修哉がスマートフォンの画面をオンにすると、二十時十五分の表示がやけに明るく輝き、薄暗い車内に光を放った。
アカネは再び、車から離れた。後方の壁に近づき、腰から先をかがめて壁の向こうを窺っている。
「誰か待ってると思うんだけど……じゃなきゃ、もうとっくに車外に出てるわよね。中でいらいらしてるみたいだし。あ、煙草吸いながら」
電話してる、とアカネの報告が聞こえ、そのまま黙り込む。
「――アカネさん?」
気になって、後部座席から背面に向けて伸び上がる。修哉がリアウインドウから外を窺うと、アカネの姿が壁の向こうにすり抜けていくところだった。
それでもアカネの声は鮮明に耳に届く。
「シュウ、グレから連絡」
あら、と不思議そうに訊ねる。「聞こえてないの?」
「いえ、なにも」
「ちょっと離れてるからかしら。アレが到着したって」
アレと呼ぶあたり、アカネにとって主となるのは憑いている母親のほうで、須藤務は付属物らしい。
「原付を停める場所が一階にあるみたい。これからエレベーターで上がってくるって。打ち合わせどおりにそろそろ配置について――」
あ、とアカネが小さく声を上げる。妙な反応に修哉はアカネに訊ねた。
「どうしました?」
「糾くんが来てるって」
「えっ?」
なんであいつがここに、と思った。可能性があるとすれば――、梶山も単独で須藤を追跡してきたくらいしか考えつかない。
「なんか……グレ、糾くんに接触したみたいよ」
口もとへ片手をやって話しているかのように、アカネの言葉がこもって聞こえた。
「声が聞こえなくなっちゃった。まさかと思うけど、糺くんの無自覚祓いで吹っ飛ばされたのかも」
「吹っ飛ばされた?」
修哉が訊き返すと、アカネは首を傾げた。「なんか変」
ふいにアカネの声が遠ざかっていく。たしかにおかしい、と思ったとき、車内の空気が変わるのを肌で感じた。
意図せず、ざあっと総毛立った。
膝元に置いた左手に持っていたスマートフォンのロック画面が、なにかの通知を着信して急に明るくなる。
目に入る。梶山からの連絡だった。「どこにいる?」という短い文面が表示されている。
画面から放たれた光が、手元から助手席の背面を照らし出した。後部座席に腰を下ろした状態で、開いた両脚の間に違和感を覚える。
気を取られて反射的に覗き込む。
目にとらえるものがなにか、認識するのに数秒を要した。
見てはいけなかったのに。
自分がやってはならない過ちを冒したと悟る。畏怖の感覚に、背筋が凍る。
声を出そうとしたが、できなかった。
床から垂直に伸び上がる棒のようなもの。固さがなく、見るからにぶよぶよとしていそうな灰色の表面。融かした蝋を上から幾重にも重ねたような形状で、鈍く照りを放っている。
視覚から強烈な嫌悪が起こった。床から生える根元に、青や赤紫のまだら模様が見えた。
灰色の先端が伸びる。中央に裂け目が入る。黒い線が現れる。
なかから潤いが蒸発した茶色の組織が現れる。中央に、白く濁った円形がある。
人の眼――、茶色い虹彩の中心にあるのが白濁した瞳孔であると理解した瞬間、射すくめる眼がじわりと細まり、歪んだ。
獲物を捕らえる視線。
狡猾に笑ったのを認める。身体が硬直する。瞳と白目の境が緩んでいる。腐りかけた眼が修哉を見ている。
乱れて汚くよれた黒いアイライン。淡い茶色から濃茶のアイシャドウで染められているが、病的な隈にしか見えない色となっていた。
狭い空間にこもった、ぬるく湿気た臭い。顔をそむけたくても身体が硬直している。
呼吸ができない。
ぬめるような、重たくよどんだ空気。肺が酸素を求めて訴えかけてくる。
ようやくわずかに開いた口から吸い込もうとしたとき、こちらを見る眼球が肉の内側に埋まるのを見た。
足元から直立する物体は、見る間に幾つもの枝分かれを起こした。
細い紐状が線虫を想起する。不快なうねりかたでしきりと蠢く。
ぴたりと狙いを定めると、鞭のようにしなって修哉へと覆い被さってきた。
絡みつかれる。服の上から生身へ染み入り、細胞の内へと食い込んでくる。おぞましさに最悪を体験した。
寄生される。
拒否しても逆らえない。逃れるすべがない。
容赦がない。救いがない。無力感と底なしの恐怖が同時に湧き上がる。
なにも見えなくなり、外界と遮断されて感覚が奪われ、生きているという自覚が失われていく。ただ絶望に浸され、氷の中に閉じ込められたかのような感触に、身体が凍えてだんだんと呼吸が細くなっていく。
じわじわと侵蝕を許し、自分が変わっていく感触が耐えられない。
視界が歪む。息も出来ず、正気を保つのが難しい。
まともでいられるための理性がはじけ飛ぶ。
暗黒へと墜落していく感覚があった。
ようやく手に入れたチャンス。意志が伝わる。融け合う瞬間、修哉は相手の記憶に触れた。
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