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第三章
手慰みに弄ぶもの
しおりを挟む「姐さん、」
唐突に暗がりから重低音の声がした。「――助けが必要ですか」
「グレ!」アカネが首だけで後ろを振り返る。「遅いじゃない!」
「面目ありません」
「あんた、シュウを助けるって言ったじゃない、なんのためにいるのよ!」
「姐さんだけで対処できるかと考えました」
アカネの表情に焦れと怒りが表れる。
「本気で言ってるの」
「――はい」
「土地縛りだったあんたにはわからないだろうけど」
アカネは己に言い聞かせるかのように、低く静かに言い放った。必死にこらえようとしている。「あたし、人憑きを相手にできないのよ」
いいえ、と言い直す。「したらだめなの」
「それは、姐さんの問題ですか」
「そうよ」苦しげにうなずく。「だから、あんたがあたしの代わりに追っ払って」
「事情は理解しました」暗がりから滲み出るようにグレが現れる。
「姐さんの命ならば――、」駐車場の砂利を踏むかのようにはっきりと足元まで具現化して、その巨体が降り立つ。
「如何様にも従います」
アカネの脇で上空を見上げる。ようすを伺いつつ、訊ねる。
「姐さん、兄さんをここから連れ出せませんか」
アカネが修哉の身体に、横から片手を差し入れるが反応がない。そのままなにもすくえずに反対側へと通り抜ける。
「あたしを見ないのよ。全然、手応えがないの。たぶん無理に扱えばシュウが保たない」
「わかりました」
「早くなんとかして!」とアカネが急かす。グレは片手を上げ、アカネの発言を制止した。
「慌てんでください」
修哉の両眼を覗き込む。焦点が合わない目線で上空を見たまま、動かない。意志の光が消えている。こちらを見ない。
「どうやら当てられちまってるんでしょう、あれが出す毒気に」
「なに……? どういうこと?」
「ありゃあ、悪影響を撒き散らすほどに肥え太っちまってる。生者から多量に吸い上げたに違いない」
憑かれてる生者はよく無事でいられるものだ、と感心した口調になる。
「ただでさえ姐さんと絡まってるせいで、兄さんは薄皮一枚なんですよ。人の身には相当な負担となる。ここらの悪い空気に浸けられて、あれに頭ん中を丸呑みにされてるようなもんです。いますぐ死にゃあしないが、放っときゃ心が弱る」
「冗談じゃないわ」
早く助けなきゃ、とアカネが悲痛な声を出す。
「大方、留守中に縄張りに入られたのが気に食わなかったんでしょう。手慰みに兄さんを弄んで面白がってる」
「なぁに? まさか、あたしたちを格下に見てるって言うの?」
「まともに相手をせんでください。そもそもあれの執着は我々には向きません。さして頭も良くなさそうだ。気をそらせてやればすぐに忘れるでしょうから、その隙にここから立ち去ればいい。どうせさっきの生者からは離れられやしません。追ってはこんでしょう」
そこまで言って、グレは両眉をひそめた。
「と言っても……私には、姐さんほどの対抗できる力もありゃしないんですがね」
「もう、この役立たず!」とアカネが焦れて、噛みつくように叫ぶ。
「策はあります」
じゃ、やりますか、と言ってアカネの前に出る。
「私の得意技と言っても、馬鹿のひとつ覚えでお恥ずかしいかぎりなんですが」
上空の相手を鷹揚に眺める。暗色のサングラスの奥の目が鋭く尖る。
「驚かす程度なら、わりと効果があるもんでしてね」
右手を上方へと向ける。手のひらを上にし、なにかを握る手つきになる。流れるように五指を動めかし、空間を揉む。グレの手の内で見えないものが圧縮されていく。
親指、人差し指、中指の三本を軽く曲げ、残りは握る。
圧した弾をつかみ、左胸に引き寄せた姿勢から斜め上へ、手の甲から外側へと腕を振り抜き、上空へと放った。
空気が震え、笛のような高音が鳴る。
上空の肉塊に当たって、爆竹がはぜるのに似た破裂音が周囲の建物に残響する。小さな青白い光が闇に散ったかと思うと、鋭い閃光が夜空を明るく染める。
もう一投。再度、発光が命中する。
グレの挑発に怯んだのか、それともまぶしさから瞬いただけなのか。須藤務に憑く悪霊は、生乾きにしぼんだ眼球を肉厚の目蓋の裏へと隠した。
「もう一発」
斜めにグレが手を走らせる。今度はグレの手元で炸裂音が鳴り、銃撃を思わせる音が響く。
放たれた一閃が上空を駆る。アパートの端に当たり、音を立てて跳ね返った。
奥のマンションの壁に跳弾する。さらに地面に飛び、コンクリートに当たって固い音を放ち、弾き返されて悪霊のまわりを縦横に駆る。
威力は無い。ただ音だけは真に迫る。跳弾の方角に入って直撃を食らう恐怖が、居合わせる者の行動力を鈍らせ、抵抗の意欲を削ぐ。
駅のホーム上でアカネとグレが対決したときに、高速で放たれたまぼろしの石礫。あの晩の攻撃が再現されている。
ふつうの日常に、ふつうでないものが与える影響が入り混じる。
駐車場を照らす照明と、電線で繋がった先の街灯が不規則に明滅する。急激に明るくなったかと思うと、電源を落としたかのように乱高下する音を立てて、幾度も点いては消える。
雨天の湿気を含んだ大気に触れた時のような、ジリジリと電流の振動する音が周囲に響いた。
記憶を呼び覚まされたのか、かすかに修哉の両眼が反応する。どこを見ているのかわからない視点がふらりと揺れる。
まばたきをする。開きっぱなしで乾く目に生気が戻る。
シュウ、とアカネが名を呼ぶ。「しっかりして。聞こえる? こっち見てよ」
見上げたままの修哉に寄り添い、アカネは回り込んで上空に背を向けて目線を遮った。
頬を叩こうとするが、アカネの皮膚を通り抜ける手では気付けにもならない。話しかけ、意識に働きかけるしかない。
修哉の視線が動き、ゆっくりとアカネへと焦点を結ぶ。
グレが夜空を見上げ、片方の口もとをぐいと引き上げて言う。
「まあ、あの威力じゃ到底、目くらましにもなりませんね」
「ちょっと! ぜんぜん意味ないじゃない!」
たまりかねてアカネが苛立ち、叫んだ。
上空の敵が動じたようには見えなかった。灰色の肉の塊は、相変わらず上空で悠然と構え、修哉に注視を向ける。
周囲に窺い、聞き耳を立てていたグレが、会心の表情を浮かべる。
「実は、私は他力本願も悪くないと考えてましてね」
アカネが、だめなやつじゃない、と言い捨てる。
「力及ばずなら、利用できるものを使って場をひっくり返す。多少やりかたが強引だろうがやれることをやる。それが私の信条です」
「え……?」
「天敵を呼び戻したんで、あとは任せましょうや」
グレの視線が敷地の外の公道へと向いた。言葉どおり、離れた場所から足音がする。
建物に反響して近づく。かなりの俊足であるとわかる。
アスファルトの上を駆ける乾いた音。目を向けると、アパートの壁向こうから現れ、急停止する。
圧倒的な存在感を放つもの。
それが、小声で「シュウ」と呼ぶ。
「なんかあったのか、今の音はなんだよ?」
梶山の声がする。
小走りに近寄ってくる梶山の姿に、グレは「おっと」とこぼし、じりじりと後ろへと下がった。
「――糾くん」
放心したアカネが、梶山を見つめてつぶやいた。
「さすがにあれは今の私には強すぎる。姐さん、あとは頼みます」
そう言い置いて、現れたときと同じく、暗がりのなかへ滲むように消え失せる。
グレが消えるのを見やり、アカネは確かめるようにアパートの敷地から出入り口へと目を向けた。
「ああ」と、腑に落ちた表情になる。
「……そういうこと」
天敵。だが、修哉には力強い味方でもある。アカネの顔に安堵の色が浮かんだ。梶山から目を離し、上空へと視線を向ける。
場の雰囲気が変わった。
おそらく、自分の存在を危うくするものが現れたからだろうか。相手の興味が削げたのは明白だった。
もはや無関心となっている。こちらを見ることもなくアパートの二階、サイディングの白い壁――夜の闇にあって灰色に見える――をぬるりと突き抜け、室内へと退き、姿を消した。
修哉は立ち尽くしたまま、梶山のほうへと目を向けた。そのようすを認め、梶山が血相を変える。
「おいシュウ、大丈夫かよ」
公道から敷地内の砂利を踏んで、足音が立つのも気にせず入ってくる。
修哉は、梶山が足早にこちらに向かってくるのを認めた。
まるで姿が違って視えた。厚く、透明な膜のようなものを身に包み、内側から強い影響力を放つ。あれが……アカネさんが言っていた状態か。まさに、ほかと別格。
梶山が近づくにつれて、影響が直に届く。
本人はまったく無自覚なままに、死者に排除を強いる効果がある。しかもこれは、梶山がどうにかしなければと打開の思考が強まるにつれて、さらに強固になるようだった。
その意味がわかる。体感する。身の内に入り込んだ、悪いものを含んだ滴が揮発してすっと失せる。
死なずにすんでよかった、と修哉はあらためて思った。
身体の自由が利くようになって、頭を包み込んでいたどす黒い負の感情が消え失せていくのを自覚する。
やがて目の見えかたも元に戻る。梶山がそばにいることで、ふつうの人間の感覚を取り戻せる。
もう大丈夫。そばに居さえすれば、なにも心配ない。確かな安心感にそう思える。
「なにがあったんだ、立て続けになんか音がしたけど」
梶山に訊ねられるが、答えようがない。
「須藤が……帰ってきたんだ。だけど、どうしたらいいかわからなくなって、木の陰に隠れてやり過ごした。悪い……けど、なにもできなくて」
まさか、自分があんなふうになるなんて思いもしなかった。己の無力さに打ちのめされる。なにもできなかった。
抵抗できずにされるがまま、助けがなければどうなっていたかわからない。
駐車場の照明と、アパートのそれぞれ玄関先にある外灯に挟まれ、照らされた自分の影が、足元に薄く二方向へ別れて地面に伸びている。修哉は自分のふたつの影を方角を見ていた。ひとつは正面の梶山のほうに、ひとつは背後のアカネに。
どこかの雨戸が引かれる音がする。隣接するマンション三階の窓で、遮光カーテンが細く開いた。外で響いた妙な音を聞いて、原因を気にしたのかもしれない。室内からの照明で人影が動く。眼下の駐車場を窺っているようだった。
それを察したらしい。梶山が早口になって言った。
「そうか、わかった」
梶山に肩を叩かれる。「とにかくここを離れよう。どうも長居しないほうがよさそうだ」
アパートの敷地から公道へと戻って、大きく呼吸をする。距離はじゅうぶんにある。ここまでは追ってこない。
現場から遠ざかるにつれ、逃げ帰るような気分が募る。あんなものを背負う須藤務と、果たして対等に話ができるのだろうか。
修哉はちらりと背後へと目を向けた。
そこにはもう恐ろしいものはいない。ありきたりの夜空を背景に、普通の人々が営む平穏な時間があるだけだった。
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