ナイトステップ

内田ユライ

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第一章

死者たちが立つ駅

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 長期に渡る春休みのあいだ、アルバイトにいそしみ、明け暮れた週末。

 夕食にはすこし遅い時刻、帰宅を急ぐ会社帰りの人波に紛れ、乗り換え駅のホームを先頭車輌のほうへ向かって歩いていた。

 見上げると、鉄骨に固定された薄い金属板が見える。太陽光を遮り、雨避けするために斜度がついた屋根。波形を作り、歩く先へずっと続く。軒先に夜の闇が広がり、駅周辺の繁華街から大量に溢れる照明のせいで、夜空が薄く白んで見えた。

 頭上の液晶パネルに、次にくる電車が『特急・通過』であるのを知らせる掲示が出ている。
 電車の接近を伝えるアナウンスが流れた。男性駅員が独特な節回しで発するのを構内の拡声器が伝えている。

 都心への乗り換えで、相当な数の乗降する客がいるにも関わらず、このホームには転落防止柵の設置がいまだに間に合っていない。

 まだ遠くを走る電車の走行音がかすかにレールを振動させはじめる。レールの継ぎ目で区切りをつけながら、次第に甲高い金属音とともに背後から近づきつつあるのを耳で聞いた。

 人の波を分け、乗り込みを待つ整列を避け、合間をすり抜けて白線よりも内側、点字ブロックの黄色まで下がった場所を歩く。

 ふと視線を感じる。線路を挟んだ先の真横のホームからだと気づき、目を向ける。
「あ……、あれ」

 背後のアカネが耳元で告げる。「いるわね」

 距離があるから、直接なにかされる心配はない。心理的にも余裕が生まれる。
 ホームの縁ぎりぎりに立っている。うつむき加減で、魂が抜けたような表情。だぶついた、サイズの合わない背広を身につけている。周囲の闇に紛れそうな暗い存在感を放つ。

 誰にでも見えたならば、間違いなく駅員が気づく。そうであればもっと後ろに下がるように、アナウンスで注意を呼びかけているはずだ。

 ちらと見やった。妙に印象が薄い。土地に縛られているらしいが、そのわりに毒気のある気配はなかった。あの程度なら、間近ですれ違っても大した霊障も受けないだろう。

「見ないで、気づかれると面倒」

 アカネの言葉に視線を落として、歩みを進める。
 そんなに危険な相手に感じないけどな、と修哉が思っていると、進行方向に立つたくさんの人の合間から、差し向かいにきれいに磨かれた黒い革靴のつま先が立ち止まるのを見た。

 反射的に左へ逸れ、相手も右に歩を出した。ぶつかり合う予測がつき、とっさに「あ、すみません」と声が出た。

 左耳でアカネが叫ぶのを聞いた。

「――シュウ!」

 瞬時に勘違いに思い至った。修哉とアカネ、見ていた対象が違ったのだ。危険なのは、アカネが見ていた、こっちだ。
 相手がなおも動く。

 はっとして、目を上げて相手の顔を見ようとした。
 男だ。

 身体が大きい。上背もある。黒に近い紺、細いストライプが入った仕立てのいいスーツを身につけている。太く、短めの指に厚い手のひら、手首に金の腕時計、肉の詰まった腕。腹回りが少しきつそうに見えた。

 きっちりと締められた派手な色のネクタイ、ピンと張ったワイシャツの襟、太く短い首が収まっている。

 耳が顔に貼り付くように寝ている。自分よりは一回りほど年高だろうか、まともな職についているとは思えぬ雰囲気を放ち、濃い色のサングラスで両目を覆う。平坦な面立ちからは感情が読めない。

 肉付きのいい頬に、厚い唇を認め――
 ぐい、と引き上げられた口角。

 横目で視た。
 耳まで裂けた、凶暴な笑い。

 黒いレンズの向こう、悪意を湛えた両眼が細まる。
 息を飲む。頭から冷たい水をぶっかけられたかのように感じた。

 耳元でアカネが叫ぶ。
「馬鹿! よけて!」

 アカネの声量で、ハウリングのような耳鳴りが生じた。
 脳が揺さぶられる。視界に妙な色がまだらになって入り混じり、左右に激しく流れる。

 アカネが後ろから左の肩をつかんだ気がした。その瞬間、男がいる側の右半身に強烈な不快感を食らった。
 大男がぶつかってきたと思った。だが、そのまま身体に入り、通り抜けられた。細胞内によくないものが浸潤して、ぞわっと重たい戦慄が突き抜ける。神聖な場を好き放題に穢されたかのようなおぞましさが残った。

 右肩から先が痺れ、自己の感覚が失われる。右足の力が抜け、ぐらりと軸が傾いだ。

 視界にいる巨漢の姿が変化する。生前のかたちが見る間に崩れていく。短い髪から赤い色が染み出し、滴りとなって流れ落ちる。両目から、鼻から、耳、口、毛穴から吹き出す。
 血染めの男に右腕を捻られる。引き寄せられて関節が抜けそうなほどの力が加わる。豪腕で従うように強いる。逆らえない。

 列に並ぶ乗車客からは、修哉が泥酔し、自ら線路へと一歩、歩み寄ったかのように見えただろう。さらに二歩、黄色の点字ブロックを踏み超えて前へと出る。

 非常事態を告げる脈動が頭の中で鳴り響いていた。重心が前のめりになる。 
 特急電車からの長い警笛が近づき、迫る。風の圧が顔に届く。光景が目に焼き付く。

 ヤバイ、ヤバイと内心で叫び続ける。死ぬ。このままだと飛び込んでしまう。

 視界の外から急接近する電車の気配に、鼓動が痛いほどに猛打し、音が聞こえなくなる。
 開く口から出ない声。自分の身体なのに抵抗しようにも思うようにならない。やめろと全力で叫びたかった。ふざけんな、オレは飛び込み自殺なんかしたくねえぞ!

 混雑する時間帯に人身事故とか、どんな迷惑野郎だよ!

 背後でアカネの気配が強まるのを知覚した。
「――……こ、ンの!」

 逆上している。伝わってくる。胃の腑が焼けるほどの、それでいて身を切りつけるような苛烈な憤り。

 同調したかのように、感覚が、感情が重なる。
 喉の奥から絞り出すようなアカネの怒号。クソガキが、と発したように聞こえた。声はひどく反響して、修哉の思考を空白に染める。

 その刹那、恐怖すらも思い出せなくなった。

 背骨の中央から心臓に向けて、強打を食らう。背後からズドンと撃ち込まれた重たい衝撃に思わず身が反った。

 体内の核心をアカネの片手で摑まれ、握り潰されて息が止まる。目を見開く。

 毎度これだ。目の前に閃光が走る。
 肉体の視野が狭まる代わりに、アカネの見る世界が脳裏に広がる。

 修哉の後方から突風が駆った。駅構内にいる人々の衣服がなびいてバタバタとはためく。軽いもの――おそらく空のペットボトル――を巻き上げてホームの床に転がる音が、強風に混ざって聞こえた。

 生命力を集約されて、身体の芯が冷える。内側からせり上がってくる感覚に、すべてを明け渡す。無抵抗のまま。

 ただ、一気に放出させられる。

 溢れ出る、凄まじい解放の感覚。続くのは空白のみ。

 目前で、巨漢男の腕が消し飛んだ。
 修哉から無色の閃光が放たれ、弾けて放射状に空間を裂く。

 男を包んでいた赤い色が霧散した。修哉の腕をつかんでいた、巨漢の厚い手を滅する。

 血飛沫はなかった。吹き飛んだ手首より先が、空中に薄まる。

 線路側で、なにかが高速で弾けた。慌てた男が反撃をしようとしているらしい。
 だが、この場はすでにアカネの支配下にあった。もはや周囲に与える影響力は失われている。まぼろしの石礫が跳ね飛び、音だけが金属板の屋根や鉄骨の柱に着弾する。

 突如として奇っ怪な破裂音が連発する。なにもない空間になにも起こらないまま、周囲の障害物に跳弾して縦横に飛び交う。

 駅のホームに乗車の列を作っていた者たちにもその音は聞こえ、度肝を抜いて恐怖を与える。

 周囲に悲鳴が上がった。

 ある者は立ちすくみ、ある者は反射的に傍らにいた者の身を守った。身を丸めてしゃがみ込む者もいれば、振り向かずに逃げ出す者もいた。散り散りに、蜘蛛の子を散らすがごとくの大騒ぎと化す。

 更なるアカネの攻撃に、男の巨体が線路上の空域へと跳ね飛んだ。後ろ向きに線路側へと。
 特急列車の、正面の窓。その向こうに通常の操作を続ける車掌の姿があった。高速で接近する。

 引き延ばされた秒が、やけにゆっくりと時の長針をひとつ、またひとつと進めていく。

 巨漢の顔が迫る車体へと向けられる。接触を予期したのか、いびつに変化するさまが見えた。

 視える者ならば、横向きにひねった体勢で列車の前面と重なる巨体のさまを目撃しただろう。まさに特急列車が真っ向に、受け身を取る猶予も与えず、人のかたちを捉えた――その時。

 ヘッドライトが目前を通り過ぎた。

 食らいつくかのように、先頭車両の横っ面に姿が消える。そのまま車体に隠されて、轢死の瞬間は目撃できなかった。

 ゴウッと音を立てて風がうねる。

 短い警笛音が、ドップラー効果で周波数が変化し、すこし間の抜けた音質となって駆け抜けていく。車両が通り過ぎる時に逆巻いた風圧が、駅に立つ者に衝撃を与えて衣服をはためかせた。

 修哉は自分がアカネの支配から解放され、元に戻ったのを知った。

 しっかりと地に足をつけて、ようやく現実を取り戻す。だが、アカネの霊体に摑まれた胸――心臓のあたりの筋肉が緊張して鈍く痛み、息が上がって、苦しい。
 なんども静かに、深く息を吸い込んで吐くを繰り返す。

 まずい、足が震える。倒れそうだ、と思った。

 修哉は背後にベンチを見つけ、力が抜けそうな足を叱咤しつつ十歩の距離を歩いた。

 背後で、列車の走行音が続く。連結された車両が次々と通り過ぎていく。

 目前に焦げ茶色の艶のある樹脂製、一人がけの席がみっつ並び、背合わせにして設置されている。激しい疲労感に、やっとの思いで中央の席に腰掛けて安堵を漏らした。

 よかった、助かった。

 自身の頭が重くて支えていられない。膝の上に肘を乗せ、うつむき加減の顔を両手で覆う。
 特急の最終車両が走り去り、空気の流れが落ち着くと、再び周囲のざわめきが聞こえるようになった。

 小声で修哉は訊ねた。
「アカネさん、……ヤツはどうなった」

 視界は閉じているのに、アカネの見る世界が視える。アカネが身長よりも高く、ホームの屋根近くまで、するすると伸び上がる。視野の位置が高くなった。

 ホームの縁、その下の線路を覗き込む。あら大変、とアカネが口を片手で押さえたような声を出した。
「――ばらンばらん」
 そう告げる言葉が聞こえた。

 どこ吹く風の口調で、派手な最期だわね、と言った。

「列車の勢い凄かったし、車輪が乗り上げちゃうとこんなふうになるものなのかしらね」とうそぶく。

 うつむいているのに角度の違う、上空から見る光景が瞼の裏に映った。身体は座っているのに夜空に浮き、自分の目で見ているかのような不思議な視覚。
 そこに在ったのは、マネキン人形が電車に接触して轢断されたかの様相だった。ただし、モノはスタイル抜群の美女ではなく、筋肉と皮下脂肪がついた巨体である。いくつかのパーツが、敷石、枕木、レールに転がる。

 ホーム下近くには、頭上からの照明が届かずに夜の闇がよどんでいる。そのあたりまで、おそらく車輪に巻き込まれて轢かれたときに散ったと思われる小片が飛んでいた。

 おそらく再現された瞬間。過去と同じ、大男の死に様。

 うえ、と思わず声が漏れた。
 男の頭部が枕木に寄りかかるかたちで留まり、頬の肉が重力のまま口回りにほうれい線の陰影を作る。衝突の反動でサングラスはどこかへ消えたらしく、裸の両目がぐるりと動いてこっちを見た。

 まるで映画の特殊造形みたいだな、と思った。どういうわけか流血が無いので断面が作りもののように見える。
 死んだ後にもう一回死ぬと血が出ないものなのか? でも、すでに死んでるから死ぬわけないし、最初に血まみれになってたよな。もしかして、あれで血糊は在庫切れにでもなったのか。

 そんな馬鹿な。

 現実感が薄いせいか、冷静でいられる。いや違う、冷静じゃない。感情が振り切れてついてこないだけだ。

「もういいよ」

 修哉がそう告げたとたん、目の前から光景が失せた。げんなりする。瞼の裏に砂嵐のような明暗がちらつき、しっかり意識を保たないと気絶しそうだった。
 長い吐息を漏らす。

「シュウ、大丈夫?」

 正面から頭に触れられる感触。地肌に直接、ひやりとした冷気が届いた。ぼんやりする思考に触れる冷たい手が、いまは気持ちがいい。

 ああ、と答えて、しばらく放心していた。

 複数の足音が近づいてきて、駅員と先ほどの騒ぎに立ち会った乗客数名が一方的に大声で説明しているのが聞こえた。

 ふと顔を上げる。目で追うと、駅員は乗客の訴えをもとに柱や屋根、路線標識、自動販売機といった備品を目視で確認している。
 だが、異常らしき跡もなにも見当たらず、困惑しているのがわかった。

 気を取られていると、線路の下からなにかが這い出してくる動きが目の端に映った。ホームの縁に肉を叩きつけるような、べたん、と奇怪な音がする。

 アカネさん、と呼ぶ。背後に気配があるのに、返事が無い。
 逃げたほうがいいかな、と考えるが、さきほど失った気力と体力が回復せず、いますぐ動けそうにない。

 なにか――と言っても、想像はつく――が、上がってくるのを眺める。
 あれ、と思った。なんだか、毒気が抜けている気がする。

 剥き出しの悪意の塊だったのに、妙に存在の気配が小さくまとまってしまったように感じた。ふつうだ、という台詞が頭に浮かんだ。

 気になって挙動を見つめる。

 左手……手のひらを下にして、乗降口付近の滑り止めがついたコンクリートタイルを、確かめるようにぺたぺたと叩いている。

 ぬっと、短髪の丸い頭が床面より上に出た。

 すでに生前の姿に戻っていて、アカネ同様、恐怖の対象ではなくなっている。よっこらしょ、と重力と格闘しながらホームに這い上がろうとする。
 酔っ払って線路に転落した乗客が、ホームに戻ろうとしてひとり奮闘しているようにも見えた。

 なんか――と思ったことを、自分で否定する。

 なんだよ、あれオレを殺そうとした霊だぞ。ちょっと面白いとか考えてる場合じゃないだろうが。

 でも、と思い直す。

 なんでとっくに死んでるくせに、こっちに上がるだけでもたもたしてんだよ。この世の重力なんかもう関係ないはずだろ。

 やばい、と思いはするが、あれほどの恐怖から解放された後で、感情は図らずも対極に振れた。つい笑いのスイッチが入ってしまう。

 男がなんとかその巨体でよじ登ると、四つん這いで乗り場の中央へと進み、ようやっと立ち上がると、さぞ当然の動作でスーツについただろう汚れのあたりを両手ではたいた。

 なにごともなかったかのように向き直ると、胸のポケットからサングラスを取り出し――どこから出てきたんだよ、さっきどっかに飛んでってただろ、と修哉は内心でツッコミを入れ――当然のように顔に装着してから、巨漢のわりに軽い足取りでこちらへ颯爽と近づいてくる。

 そして、どっかりと修哉の右隣のベンチに座った。

 こいつ、生前はきっとヤクザだ。状況下では笑うところじゃない。わかっている。それなのに笑いを押し殺すどころか、よけいに加速してしまいそうになる。

「兄ちゃん」

 隣にいるはずの声は、直接頭に響いた。周囲の雑音にかき消されず、はっきりと聞こえる。意外にも、重低音の良い声だった。

「すまんかったな」

 思いがけない言葉を聞いた。唖然として笑いの発作が途切れた。

 視線を向けていた。

 男は修哉を見ずに、真正面を見ていた。視線の先。つられてその方向を見やると、そこには最初に見た背広の中年がいた。線路に視線を漂わせ、背中をやや丸めて薄い存在感で立っていた。

 向こうの視線が上がり、こちらを見る。

「――あ」
 身体の輪郭がほどけ、薄くなる。背広の色が背景と同化し、表情が和らぎ、周囲に融け出して、かたちがなくなっていく。
 修哉の目でもとらえられなくなり、存在がふっと消え失せた。

「上がった……?」
 無自覚に発した言葉に、男が返すようにしゃべる。
「首根っこ引っ捕まえて手伝いさせるために縛ったからな」

「え」
「ああやってるとまずむこうに気を取られんだろ。あっちにいるって気ィ取られてるときに、こっちにもいるってのが効率いいんだ」

 なんの効率だよ、と思ったが黙っておいた。

「アレもな」と左手の親指の先で、消えた背広男が立っていたあたりを示す。

「生意気に先輩面するもんだから、ちょっくら撫でたらすっかりおとなしくなっちまった。そのままかわいがってたんだが、すっかり未練もなくなったとみえてこの場所から離れたがってた。潮時だろうよ」

 男の顔が修哉に向いた。濃い暗色のレンズ越しに、くっきりとした二重の両目が見えた。この体型でなければ、もしかしたら男前の部類だったかも、と余計なことを考える。

 視線は修哉から逸れ、背後へと流れてやや上を見る。アカネがおとなしくしているのが、妙な感じがした。

「兄ちゃん、凄え姉さん連れてるな」

 そう言って、アカネを凝視する。修哉の背後で、アカネが立ちつくしている。
 ふわりと軽く腰を折り、修哉の左肩にアカネは両手を置いてしなだれる姿勢になった。

「これは、あたしのよ」

 男は無言だった。厚い唇の端が上がったかのように見えた。

 その時、男の背後から近づいた、生きた人間――若いサラリーマンがスマートフォンを片手に眺め――周囲が目に入らないようすで、どすんと巨漢の男の上に腰を下ろした。

 座面に着いたかと思うと、ひゃっと裏返った悲鳴を上げ、立ち上がってベンチと床面を見回す。
 もうその時には、ヤクザの巨体は消えていた。

 頭上のスピーカーから、電車の到着を告げるアナウンスが響く。
 修哉は若いサラリーマンの慌てぶりを横目に、立ち上がった。目線を落とし、そして珍しく左側を見上げる。

 アカネの横顔が見えた。
 なぜだろうか、アカネは眉をひそめ、どことなく険のある目で睨んでいた。

「――?」

 風を引き連れて、列車がプラットホームに滑りこんでくる。
 これから電車に乗る。車内の通話はマナー違反になるから通話のふりはできない。
 いま声をかけたら他人には見えないアカネ相手に、一人言を続ける怪しい人物になりそうでやめた。

 乗車の列の最後尾に並ぶと、停車した電車の乗降口の扉が開く。乗客が入れ違う。これに乗れば自宅の最寄り駅に着く。

 車内は身体が触れ合わない程度に混み合っていた。
 アカネの機嫌が悪いのがなんとなく気配で伝わってくる。なんだろう、と疑問に思いつつ、車輌内の奥へ進む。

 扉が閉まります、とアナウンスが響いて、近くの扉が一度閉まり、再び開いてから閉じた。音程を上げていくモーター音が床から響く。

 窓の外を見ると、照明で明るい駅構内が後方へと流れ、唐突に夜の闇へと続いた。
 右から左へと走り去る街の灯。居並ぶ住宅の向こうに高層マンションの群れが建ち並んでいるのが見えた。


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