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第9話
五夜目 人もどきとの約束(1)
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一度決めたら迷いはなかった。
目覚めてすぐに辞意を綴り、出社してすぐに退職を願い出ることにした。
上司への面談を申し出て、会議室で話をする時間を取ってもらった。失敗をなすりつけられた事実を訴え、信頼できない環境で働くのは難しいと正直にうち明けると、上司はすこし慌てたように映った。
届け出を受け取り、「預かっておく」とだけ言われた。
無言の時が流れる。室内が殺伐とした雰囲気に包まれる。
「話はそれだけ? もういいかな」
一方的に切り上げられた。あっさりと話し合いが終わって、上司は会議室から出て行った。
ひとり取り残されて、あっけにとられた。救われない気分で突っ立っていた。
担当する人数が減るから、現状では確実に困ると思った。だから、引き留められるかと想像していたのに。
預かる、とだけ上司が発したのは、次の手を練るための時間稼ぎかもしれない。そう考えると、口調に厭な雰囲気があった気がしてならない。もしかしたら揉めるかもなぁ、と気が重くなる。
あとはどうあっても引き下がらないこと。最後までやりきるのみだ。
猫の執事に現状を吐露していくうちに、はっきりしたことがある。このまま、なあなあにしたところで近い未来に破綻する。長い先を見通せば、ここに留まる選択肢はない。
夕刻ころになると、職場での同僚からの目と対応が微妙に変わった気がした。ああ、もう筒抜けになってるのか、それとも自意識過剰になってるだけなのか。
知ったことか。ひとまずのゴール、会社を辞めるまで走りきる。昨日、眠りにつくまでは考えもしなかった。
すでに一歩は踏み出した。もう立ち止まらない。そうだ、転職先も探さなきゃ。
なんとか最終電車に間に合わせて仕事を終え、自宅にたどりつく。
古いアパートの玄関扉は質素なもので、白い塗装はところどころ汚れて目立つ傷もついている。鍵こそはマシなものに取り替えられているが、新築の最新鋭と比べればとても堅牢とは言いがたい。
こんなボロっちいところに、金持ちが住んでるわけもないから泥棒すら寄りつかないだろうけどね。
はは、と乾いた笑いが出る。
我ながら情けない。忙しく働いても、つつましくしていても、我が暮らしは楽じゃないし、けっして上向きにはならないのよね。
溜め息が漏れる。
私の人生、ろくなもんじゃないな。
なげやりな気分で鍵を確かめる。二階の廊下は庇がなくて吹きさらしとなっている。夜空の星が見える。周囲の住宅に囲まれているせいか、月は見えない。
玄関扉の右上に小さな照明が取りつけられていて、鍵と鍵穴を確認するには困らないくらいの明るさがある。
親指と人差し指で挟んだ鍵の先が、淡く照明を反射する。間違いなく、ここの部屋の鍵。
そしてポケットのなかにある、もうひとつの鍵に触れて確認する。溝が一本きりになった、きれいな飾りが施された小さな鍵。
もし、想像のとおりなら。不思議な夢も、今日限りということになる。
もし、許されるなら。もう一度、そう、もう一回だけ、昨日の猫の執事と話してみたいけれど。
期待の興奮、なにが出るかという不安、これが最後という失意が込み上げる。
家に入ったら、寝るだけ。眠ってしまったら最後。
鍵穴に差し込むのをためらう。
ゆっくりと差し入れて、一息ついてから、鍵をひねる。
玄関の扉を開けて、照明のスイッチに手を伸ばす。
だれもいないはず、と思ったのに違った。
ふと視線を感じ、正面へと目を向ける。暗がりにふたつの光を認めた。
さながら夜中、車のヘッドライトに照らされ、自転車の反射板が強烈な輝きを放つ。暗闇で、灯りを向けられた野生生物が眼球を輝かせる。いまこの部屋のなかに、同じ反射の光を見る。
明るくなった空間の向こう、狭い六畳間の暗がりから大きな人影が現れて、思わず声が漏れた。
ヒイッ、と呼吸を引いた悲鳴が自分の耳に届いた。
泥棒と出くわしたのかと思った。男の姿。やけに縦にひょろっこい長身。一瞬にして見極める。白いTシャツにブルーのジーンズ姿の相手には、明らかにおかしい点があった。
なんなの、あの耳!
頭の上に、大きなケモノ耳がついている。まるで夢の国のキャラクターグッズであるカチューシャみたい。
なに? えっ、ちょっと待って、私まだ寝てないよね?
ぎゅっと手を握る。爪先が手のひらの肉に食い込んで、そこそこの痛みを感じる。夢──じゃない。
意想外の光景に目を見張り、体が硬直する。
なんでこんなとこに男がいるの? なにあれ、コスプレ?
男は、ものすごくキレイな顔をしている。身体は成人だが、顔にはまだ幼さが残る。成人したばかりの高校生くらいだろうか。
昨日までの夢のリアルさが、頭の中で渦巻いて判断がつきにくい。
夢──、違う、まだ現実なら、あれは不審者?
頭の中でさまざまな思考がぐるぐる巡る。ひるんで、後ずさる。それだけじゃ足りない。他人の家に無断で上がり込んでるなんて、ヤバイ相手でしかない。
いますぐ逃げなくちゃ。
よく美形だったらなんでも許されるんでしょ、とか巷の声で聞くけど、あんなの嘘っぱちだ。
いくら相手が美形だろうが、不法侵入は犯罪。どんなにきれいだろうが真逆で汚かろうが、まともな人間ならば頭のおかしい相手と関わりたくないに決まってる。
怖いよ! しかもデカいんだよ!
160センチに届かない身長の私にとって、180センチもあろうかという長身は巨人と対峙する感覚に近い。
判断が遅れた。というか、相手が俊敏すぎた。飛びかかられた。
こんどこそ渾身の悲鳴が漏れた。それもかなり潰れた濁声、まるで巨大な悪魔に踏み潰された瞬間の、地獄から上がる断末魔みたいな酷さだった。
対して、相手の呼びかけは喜びに満ちていた。
「──おかえりなさぁい!」
相手の声はまだ若かった。声変わりが終わったばかりのような、やや高音が残る、輝くような甘え声が耳に届く。
「やっとあえた、おねえちゃぁああん!」
私は悲鳴を上げつつ、突進してくる相手を突き放そうと両手で制した。
だが相手のほうが上手だった。瞬時に見極め、なめらかな動作で両手をすり抜け、するりと間合いに入りこんできた。そして絶妙な力加減で抱きしめられた。
近接されて気づく。本能的に悟る。
ふつうなら初対面でこんな行動をされたら生理的な拒絶を感じるはずなのに、意外にも嫌じゃない。
温かさと鼓動が伝わる。こんなにも相手の律動が早い。興奮しているだけでもない気がする。息が切れているわけでもない。
なぜだろう、やけに懐かしい感じがする。
「おねがい、いやがらないで」
頭上から相手の顔が寄せられて、耳もとで話される。柔らかに染みこむ声。これは人の声じゃない。
目覚めてすぐに辞意を綴り、出社してすぐに退職を願い出ることにした。
上司への面談を申し出て、会議室で話をする時間を取ってもらった。失敗をなすりつけられた事実を訴え、信頼できない環境で働くのは難しいと正直にうち明けると、上司はすこし慌てたように映った。
届け出を受け取り、「預かっておく」とだけ言われた。
無言の時が流れる。室内が殺伐とした雰囲気に包まれる。
「話はそれだけ? もういいかな」
一方的に切り上げられた。あっさりと話し合いが終わって、上司は会議室から出て行った。
ひとり取り残されて、あっけにとられた。救われない気分で突っ立っていた。
担当する人数が減るから、現状では確実に困ると思った。だから、引き留められるかと想像していたのに。
預かる、とだけ上司が発したのは、次の手を練るための時間稼ぎかもしれない。そう考えると、口調に厭な雰囲気があった気がしてならない。もしかしたら揉めるかもなぁ、と気が重くなる。
あとはどうあっても引き下がらないこと。最後までやりきるのみだ。
猫の執事に現状を吐露していくうちに、はっきりしたことがある。このまま、なあなあにしたところで近い未来に破綻する。長い先を見通せば、ここに留まる選択肢はない。
夕刻ころになると、職場での同僚からの目と対応が微妙に変わった気がした。ああ、もう筒抜けになってるのか、それとも自意識過剰になってるだけなのか。
知ったことか。ひとまずのゴール、会社を辞めるまで走りきる。昨日、眠りにつくまでは考えもしなかった。
すでに一歩は踏み出した。もう立ち止まらない。そうだ、転職先も探さなきゃ。
なんとか最終電車に間に合わせて仕事を終え、自宅にたどりつく。
古いアパートの玄関扉は質素なもので、白い塗装はところどころ汚れて目立つ傷もついている。鍵こそはマシなものに取り替えられているが、新築の最新鋭と比べればとても堅牢とは言いがたい。
こんなボロっちいところに、金持ちが住んでるわけもないから泥棒すら寄りつかないだろうけどね。
はは、と乾いた笑いが出る。
我ながら情けない。忙しく働いても、つつましくしていても、我が暮らしは楽じゃないし、けっして上向きにはならないのよね。
溜め息が漏れる。
私の人生、ろくなもんじゃないな。
なげやりな気分で鍵を確かめる。二階の廊下は庇がなくて吹きさらしとなっている。夜空の星が見える。周囲の住宅に囲まれているせいか、月は見えない。
玄関扉の右上に小さな照明が取りつけられていて、鍵と鍵穴を確認するには困らないくらいの明るさがある。
親指と人差し指で挟んだ鍵の先が、淡く照明を反射する。間違いなく、ここの部屋の鍵。
そしてポケットのなかにある、もうひとつの鍵に触れて確認する。溝が一本きりになった、きれいな飾りが施された小さな鍵。
もし、想像のとおりなら。不思議な夢も、今日限りということになる。
もし、許されるなら。もう一度、そう、もう一回だけ、昨日の猫の執事と話してみたいけれど。
期待の興奮、なにが出るかという不安、これが最後という失意が込み上げる。
家に入ったら、寝るだけ。眠ってしまったら最後。
鍵穴に差し込むのをためらう。
ゆっくりと差し入れて、一息ついてから、鍵をひねる。
玄関の扉を開けて、照明のスイッチに手を伸ばす。
だれもいないはず、と思ったのに違った。
ふと視線を感じ、正面へと目を向ける。暗がりにふたつの光を認めた。
さながら夜中、車のヘッドライトに照らされ、自転車の反射板が強烈な輝きを放つ。暗闇で、灯りを向けられた野生生物が眼球を輝かせる。いまこの部屋のなかに、同じ反射の光を見る。
明るくなった空間の向こう、狭い六畳間の暗がりから大きな人影が現れて、思わず声が漏れた。
ヒイッ、と呼吸を引いた悲鳴が自分の耳に届いた。
泥棒と出くわしたのかと思った。男の姿。やけに縦にひょろっこい長身。一瞬にして見極める。白いTシャツにブルーのジーンズ姿の相手には、明らかにおかしい点があった。
なんなの、あの耳!
頭の上に、大きなケモノ耳がついている。まるで夢の国のキャラクターグッズであるカチューシャみたい。
なに? えっ、ちょっと待って、私まだ寝てないよね?
ぎゅっと手を握る。爪先が手のひらの肉に食い込んで、そこそこの痛みを感じる。夢──じゃない。
意想外の光景に目を見張り、体が硬直する。
なんでこんなとこに男がいるの? なにあれ、コスプレ?
男は、ものすごくキレイな顔をしている。身体は成人だが、顔にはまだ幼さが残る。成人したばかりの高校生くらいだろうか。
昨日までの夢のリアルさが、頭の中で渦巻いて判断がつきにくい。
夢──、違う、まだ現実なら、あれは不審者?
頭の中でさまざまな思考がぐるぐる巡る。ひるんで、後ずさる。それだけじゃ足りない。他人の家に無断で上がり込んでるなんて、ヤバイ相手でしかない。
いますぐ逃げなくちゃ。
よく美形だったらなんでも許されるんでしょ、とか巷の声で聞くけど、あんなの嘘っぱちだ。
いくら相手が美形だろうが、不法侵入は犯罪。どんなにきれいだろうが真逆で汚かろうが、まともな人間ならば頭のおかしい相手と関わりたくないに決まってる。
怖いよ! しかもデカいんだよ!
160センチに届かない身長の私にとって、180センチもあろうかという長身は巨人と対峙する感覚に近い。
判断が遅れた。というか、相手が俊敏すぎた。飛びかかられた。
こんどこそ渾身の悲鳴が漏れた。それもかなり潰れた濁声、まるで巨大な悪魔に踏み潰された瞬間の、地獄から上がる断末魔みたいな酷さだった。
対して、相手の呼びかけは喜びに満ちていた。
「──おかえりなさぁい!」
相手の声はまだ若かった。声変わりが終わったばかりのような、やや高音が残る、輝くような甘え声が耳に届く。
「やっとあえた、おねえちゃぁああん!」
私は悲鳴を上げつつ、突進してくる相手を突き放そうと両手で制した。
だが相手のほうが上手だった。瞬時に見極め、なめらかな動作で両手をすり抜け、するりと間合いに入りこんできた。そして絶妙な力加減で抱きしめられた。
近接されて気づく。本能的に悟る。
ふつうなら初対面でこんな行動をされたら生理的な拒絶を感じるはずなのに、意外にも嫌じゃない。
温かさと鼓動が伝わる。こんなにも相手の律動が早い。興奮しているだけでもない気がする。息が切れているわけでもない。
なぜだろう、やけに懐かしい感じがする。
「おねがい、いやがらないで」
頭上から相手の顔が寄せられて、耳もとで話される。柔らかに染みこむ声。これは人の声じゃない。
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