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第7話

四夜目 人化生物との会合(1)

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 深夜の帰り道、コンビニで買った度数の高い安酒と、つまみにするには合わないお菓子をまとめ買いし、品物が入ったレジ袋を振り回しながら歩く。

 誰にどう思われようが知ったことか。

 仕事がうまくいかないどころか、厭なことばかり。しかし吐き出すことも出来ず、腹が煮えてどうにも収まらない。
 アパートの階段を上がり、吹きさらしの廊下を歩いて自分の部屋を目指す。

 解錠し、ノブを回して玄関の扉を開ける。狭い三和土たたきで靴を脱ぎながら上がりかまちをまたぎ、右手にある照明のスイッチに手を伸ばす。

 その時、かくんと身体が前に揺らいだ。

──えっ、地震?

 ちょうど壁のスイッチに手が届き、勢いよく叩いてしまったものの、倒れかける前に姿勢を保てた。
 頭が下に向いて、廊下の床面に木目が見える。

 なにかの気配を感じる。正面から。恐る恐る目線を上にあげる。
 あれ? なんか……部屋の感じが……?
 薄暗い。ただ、青白い不安な色、というよりはオレンジ色の暖色の明かりが周囲を照らしている。

 まっすぐに向けた視線の先に、相手がいた。

 ここは自分の部屋じゃない。どこか外国の古い書店か、図書館のなかのようだった。印刷のインクと古い紙のにおいがする。
 心が落ち着くような優しい光に照らされた空間には、木製の本棚が連なり、大量の書籍が整然と差し込まれている。

 え……どういうこと? どうなってるの?
 おかしいでしょ、いったい私の部屋は? どこに行ったの?

 確かめるために周囲に視線を走らせていると、正面から声が届いた。

「おかえりなさいませ」

 空間に広がる声質は、とても良かった。すっと耳に馴染んで、低く、心に染み入る、ちょっと鼻腔にこもるような甘い声。

 声の主は正面に座っていた。よく磨かれたアンティークのテーブルに猫足の椅子。艶やかなビロードの座面は渋い臙脂えんじ色をしている。
 深い照りを放つテーブル面には、宝石のような美しい彩色が施されたティーセットが並ぶ。

 声の主は立ち上がり、深くお辞儀をした。
 そして顔を上げる。私は相手の顔に魅入られて、息を飲んだ。

 大きくて美しい青の瞳。やや縦長の瞳孔。ガラス玉のように透明で、半球状の角膜が照明を映して、きらりと光る。

 鼻の色は黒、そして鼻を中心にして、額や顎にかけて黒から濃い灰色、わずかに鼻筋や眉のあたりに縞模様が浮き上がり、薄い灰色へとグラデーションを作る。
 淡い体色に特有のシールポイントのある顔は、シャム猫サイアミーズかトンキニーズ、ラグドールやバーミーズ、バリニーズなどを連想させる。

 大きな耳。外側は濃い毛色だが、耳の中の毛はやや白っぽい。薄い皮膚がうっすらピンク色に透けている。こちらの返答を待っているのか、耳の正面がこちらに向いている。

 一目見て思った。猫の顔をした紳士。洋装、しかも正装を身につけている。まるで由緒ある貴族に仕える、執事の姿だった。白いワイシャツに黒の燕尾服。首元に白い蝶ネクタイが見える。
 頭が小さい。手足が長い。細身の体型は、目を見張るほどに均整が取れている。

「あ、……の……ここ、私の家ですよね」
 なんとも間の抜けた質問をしていた。

「ええ、 然様さようでございます」
 お疲れでしょう、と良く通る声で話す。

 テーブルに沿って移動し、隣の椅子を引く。
「どうぞおかけになってください」と言って、白い手袋を嵌めた手で指し示す。
 手のひらを上に向け、揃えた指先は人とまったく変わらない形状だった。

 警戒しながら、猫足の椅子へと足音を立てずに近づく。
 たぶん……大丈夫。この雰囲気の相手がいきなり襲いかかるとは考えにくい。

 でも、これが無慈悲な物語のはじまりだとしたら。つい悲惨な光景を思い浮かべてしまう。
 生き残りをかけたデスゲームだと、まずはこんなふうに平穏な場面が映る。でもって親切な隣人が唐突に変貌して、脇役モブキャラの首を落としたりする。

 まさにこんな紳士的なモンスターが、悪魔の顔つきに変わる。それでもって、ここにいる脇役モブは当然、私。

 びくびくしながら椅子に座る。肩に力が入ってしまって、すくめたまま上向きにとがらせた姿勢で固まる。

 猫の執事はどこから持ってきたのか、湯の入った銀のティーポットを手にして、お茶の用意をはじめている。
 見上げると目が合った。

 大きな青い瞳がゆっくりと閉じられる。二度三度、しばたく。最後に目をしっかりと閉じて、朗らかな笑顔になった。
 半円状にWの形を作る口もとがわずかに開いて、肉食獣の証しである尖った牙と血色の良い舌がちらりとのぞいた。

 猫の幸せそうな笑顔。たとえ人間が勝手に、笑っていると決めつけている表情だとしても。
 この、両眼が上弦に閉じられた微笑みの表情を見て、不機嫌になる輩がいたら、きっと人の心を持っていないに違いない。

 見たとたんに、胸がぎゅんと締めつけられた。これはやばい。ストライクだ。
 めちゃくちゃ紳士姿でこの笑顔、破壊力抜群じゃないですか。尊すぎて椅子ごと後方に吹っ飛ばされちゃいそう。

 どうぞ、と差し出された紅茶の香りは素晴らしかった。
 今まで飲んだ紅茶とは別もの、甘く華やかで、心地よい香りがする。

 もう迷いはしなかった。きれいな絵付けをされたカップを持ち上げ、ひとくち口に含む。

「いかがですか」
 素敵な声音にうっとりする。

「あ、美味しい……!」
「それはよろしゅうございました」

 こちらもお召し上がりください、と小さな皿を置かれる。
 小花の絵付けがされた小皿に、一口大の焼き菓子がみっつ乗せられていた。半円状のフィナンシェ。バターが香るきつね色の焼き目の上に、カリッと焼かれたナッツが乗っている。ちょっぴり塩味がきいて、甘みが際立つ。

 深夜の帰宅に、誰もいないと思っていた自宅。殺伐とした心を抱えて、寒々しくて散らかりまくった部屋に戻るはずだった。
 なのに思いがけなく、心づくしのおもてなしをされている。

 ふいに気持ちが緩んでしまった。

「あれ……?」
 張り詰めていた風船のような気持ちに小さな針を刺したら、ぱちんと弾けてしまった。そんな感じがした。

 両眼からぽろぽろと涙がこぼれて止まらなくなった。ぽとりぽとりと転げ落ち、スカートの布地に小さな雫のあとを作る。

「どうかなさいましたか?」

 半分ほど細められた、優しい目つきで見つめられている。

 もういいや、と思った。洗いざらいしゃべってしまっても、きっとここでなら許される。
 話し始めたら、つぎつぎと押し込めていた思いがあふれてくる。
 

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