早朝に鍵を拾ったら、夢路で異界への扉が開く

内田ユライ

文字の大きさ
上 下
5 / 15
第5話

三夜目 人型怪物との接触(1)

しおりを挟む
 翌日となる今日、朝からずっと、とにかく最悪な一日だった。
 失敗ばかりやらかして、なんとか挽回するのに終電間際までかかってしまった。

 泣きたいよ、もう。
 昨日の、ふつうじゃない生物ケモノのことを忘れられそうもない。

 なんなのよ、アレ。衝撃的過ぎて、あんな夢を見てしまった自分も信じられない。
 無意識下にある願望? 欲求不満なのかしら、私。

 異形の生物に襲われそうになるなんて。
 まるで現実みたいだった。思い出すとまだ心臓がどきどきして、鳥肌が立つ。
 ただひとつ言えるのは、間違いなく逃げ出せて良かった。

 なんであんなのを思いついたりするのよ、我ながらびっくりするわ。
 夢って本当に不思議。



 あんな経験はもういいと思っていたにもかかわらず、夢のなかで三度、扉を開く。
 すでに夢だと分かっている。

 開いた扉のむこうが見える。昨日とはうって変わって、ひんやりした空気が漂っていた。
 石造りの宮殿。古代ギリシャのパルテノン神殿に造りが似ている。違うのは長い廊下のごとく、延々と白い石柱の列が続くことだった。まっすぐ、消失点の先まで終わりが見えない。
 ずいぶんリアルで雰囲気のある風景だな、と思いながら、入り口から頭だけ出して周囲に目を配る。生き物の気配はない。

 音を立てないように注意しながら、しゃがんで扉をくぐる。
 立ち上がって耳を澄ます。だれもいない。昨日みたいなことは起こらないらしい、と安堵する。

 なんだか時間の進みかたが遅い気がする。身体がふわふわする。

 すごく静かだ。
 両側に石柱が等間隔に並ぶ。石柱には手彫りで細工が施されている。柱との間から外が見える。

 日差しは強い。乾いた白砂の大地が照りつけられ、反射したまぶしい光が目を射る。
 外は暑そうだが、石造りの空間には涼しい風がゆるやかに吹き抜ける。体感は快適だった。

 空はとても青く澄んでいる。薄く、刷毛で掃いたような長い雲がある。地平線まで砂地が続く。白砂の大地は海に似て、ところどころに緑の島が浮く。

 この光景は、なんだか砂漠のオアシスみたい。そう思った。
 ん……? これってギリシャの神殿と、エジプトのピラミッド風景を掛け合わせしたみたいなイメージじゃない?

 遺跡を連想したらこうなったって感じ。我ながら安直な夢だわね、とか思いながら左右を確認しつつ歩いていた。

 そのとき、かすかな布ずれの音を聞いた。反射的に、柱と柱の間へと目を向ける。
 外光を背にし、全身が影になって見える。二足で立つ黒い姿は、エジプト神の一柱に似ていた。

 真っ黒い豹の顔。でも確か、黒い猫の顔をしているのは女神のはずだ。

 目の前にいるのは漆黒の体毛に覆われた、ボディビルダー顔負けに筋骨隆々の体つきをした者だった。肩から腰まわりにかけて一枚、白い布を巻き付けている。
 ふだんなら照れ隠しに、風呂上がりかよ、とひとことツッコミを入れたかもしれない。だが、今は笑う気にもならない。緊張で顔が強ばる。

 短毛で、しっとりと艶のある毛並みは光を反射し、陰影で見事な筋肉の付きかたを浮かび上がらせる。
 上半身は人間のかたちをしているが、太ももから先が異なる。絵画に描かれる、ギリシャ神話の牧神パンを思わせる。あの神は両の足が山羊ヤギの後脚だが、目の前の相手は大型の猫の下半身を人間に近づけた姿をしている。膝が丸く曲がり、踵が高く上がって、つま先立ちの姿勢になっている。

 紀元前の彫像に見るような装束を身につけ、首から鎖骨のあたりまでを見事な金細工で飾る。金の板を半円状に加工し、半球に磨かれた紅と蒼のいくつもの色石を左右対称シンメトリーに配置した手工芸品。
 博物館に展示されていてもおかしくない。輝きに目を奪われる。
 両腕も同型の金細工で豪華に彩り、左足首だけに細い金の足輪を三本重ねてつけ、動くと微かに鈴に似た澄んだ音が立つ。靴は履いておらず素足だった。
 悠然とたたずむさまは神話に記される勇者を彷彿とする。

 ああ、なんて見栄えのする姿なんだろう。

 首から上の黒豹の顔に、金色の目が輝いている。目の周囲を金泥で隈取っている。表情はとても知的だった。
 息を飲んだ。不覚にもときめいた。

 即座に思った。鍛え抜かれた芸術品。筋肉を競う大会ならば、応援のかけ声をしたくなるレベルの仕上がりかただった。

 なんか……めちゃくちゃカッコ良くない? こんなすごい獣人を現実に間近で見られるなんて。

 これは夢だ、と自分に言い聞かせる。こんな生物は存在しない。
 美しい、と本心から思った。目を奪われて、その場から動けなかった。
 相手は足裏をつける音をまったくたてず、こちらへと歩み寄ろうとする。

 はっと我に返った。まずいかも、と思ったときには遅かった。

 予備動作がほとんどない。一瞬にして流れるような所作でその場に踏み込み、人間離れした跳躍をしてみせた。

 衝撃はあったが、床に押し倒された痛みはなかった。石畳の地面に横倒しにされたのに、ふわりと寝かされてあっけにとられた。

 いつのまに? なんで私、床に寝てるの?

 気づいた。頭を大きな手のひらで支えられている。完全に押さえつけられて身動きが出来ない。
 黒豹の顔に見つめられている。金色の瞳とわずかに茶色を帯びた虹彩、縦長の瞳孔、半円状に透き通った角膜が近づく。

 獣の顔をして、瞳は大型の猫そのもの。なのに、知的な意志を宿している。人間のように、ふっと表情を緩めるのが見て取れた。

 胸が高鳴る。でも、この姿勢はまずい。
 見事な体躯で迫られる。つやつやとした、黒く手触りの良い毛並みの下に、筋肉が漲っている。身を寄せられて、熱いほどの体温が伝わる。

 しかも、いま一番問題なのは、相手の股間──しかも体型に比例してご立派な──が、自分の太ももあたりに押しつけられているということだ。

 寄せられた顔。真っ黒の巨大猫の鼻の先端が、こちらの鼻に接触しそうに狭まる。
 やばいやばいまずいまずい、このまま流されるのはかなりまずい。

 だって、目を見れば分かる。わからないとすれば、相当のうつけかぼんくらか唐変木か愚鈍か愚物か、とにかくそれくらいわかりやすい雰囲気で迫られている。
 なんでこんなことになっているかはわからない。でも昨日の今日で、立て続けにこんな反応をされるとは妙だ。もしかすると私は、全身からマタタビにでも似た効果を放つようになったのかもしれない。

 近づいてきた鼻先が顔の左側に寄り、耳元に近づく。獣の口が開く、密閉から空気を取り込む音が間近で響く。
 その音が、ぞわりと背筋を凍らせる。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。

藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった…… 結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。 ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。 愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。 *設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 *全16話で完結になります。 *番外編、追加しました。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

【完結】竜人が番と出会ったのに、誰も幸せにならなかった

凛蓮月
恋愛
【感想をお寄せ頂きありがとうございました(*^^*)】  竜人のスオウと、酒場の看板娘のリーゼは仲睦まじい恋人同士だった。  竜人には一生かけて出会えるか分からないとされる番がいるが、二人は番では無かった。  だがそんな事関係無いくらいに誰から見ても愛し合う二人だったのだ。 ──ある日、スオウに番が現れるまでは。 全8話。 ※他サイトで同時公開しています。 ※カクヨム版より若干加筆修正し、ラストを変更しています。

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

処理中です...