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第十三幕 The meaning of First Love

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 ブザーが鳴った。上演の合図だ。
 客席の照明がゆっくりと落とされ完全に闇に落ちると、視覚と聴覚が覚醒し始める。

 いつも思う。
 この瞬間が、テンションの最高値だと。

 そしていつも、そんなものは勘違いに過ぎなかったと証明される。
 始まってもいない内に満足するな愚か者、と舞台は俺を引きずり込むのだ。
 際限のない感動の渦へ。

 うっすらと明かりが射す。

 舞台上手、三人の中年の男が楽しそうに酒を飲みながら賑やかに話をする傍ら、メイドが食事の終わった皿を片付けている。

『それじゃあ披露していただきましょうか、ムッシュー・ニコラーエヴィチ。どんな初恋だったのですかな?』

 ムッシュー・ニコラーエヴィチと呼ばれた男は手を振りながら答える。

『それがですねえ、あまりにも取るに足らないつまらないものでしてねえ。酒のつまみにもならないありきたりなものでしたよ』
『それでは盛り上がらない。私とて妻のアンナとは親の勧めで会ったところ、お互いに一目惚れでそのまま結婚して今日にいたる。平和だが平穏過ぎるのですよ。もっとこう、刺激的な話を聞きたい。ムッシュー・ペトローヴィチ、あなたはどうです?』

 ムッシュー・ペトローヴィチ。
 ウラジーミル少年の事だ。

『いえ、私もそんな、人に聞かせて面白い初恋をした訳ではありませんが…忘れがたい経験をいたしました』
『おお!それはいい!忘れがたい経験、そういうものを待っていたんだ!さあ、話してください。どんな初恋だったのですか』
『ではお聞かせいたしましょう。私が十六の頃、私は両親と…』

 三人を照らす明かりがゆっくりと細くなり暗くなると同時に音楽が流れ、下手からウラジーミル役の神林君が本を片手に登場した。

『僕の一日は決まっている。大学入学のために勉強をし、息抜きに散歩をしたり本を読んだり詩を暗唱したり。別荘の周りは散歩をするには最適だった。僕はよく本を持って散歩に出かけて、草むらの中で読書をしていた』

 座って読書をするウラジーミル少年の元へ、父役の長谷川さんが颯爽と近づく。

『こんなところにいたのか、お前』
『父さん、どうしたんです?』
『お前の母さんがひどく不機嫌だからな。独りの時間が必要だろうと思って出てきたんだよ』
『なぜ不機嫌に』
『うちの離れに人が越してきたようだ。ザセーキナ侯爵夫人の一家というのだが、新しい人付き合いが煩わしいのだろう』
『もう顔を合わせたんですか?』
『いや、まだだ。興味があるのか、お前』
『いえ、そんな。お隣さん程度にしか』

 それから短い会話のあと、父が捌けて一人になった少年は本を持って上手に向かって走りそのまま捌け、また同じところからゆっくり出ると、人を探す様に頭を動かしたり背伸びしたりする。

 その時、下手から高い笑い声と共に人影が出てきた。

 長い黒髪は毛先がくるんと巻かれ、薄い水色の洋風のドレスを着て花かごを腕に下げた真優莉が小学生位の男の子四人と共に登場した。

『たくさん摘めたわね。この辺りは花がたくさんあって楽しいわ。ほら、順番に飾ってあげるわよ。一番最初は誰かしら?』

 子ども達は、僕だ僕だとジナイーダを取り巻き、ジナイーダは花かごから取り出した花を髪やシャツの襟に付けて楽しんでいる。その様子をウラジーミル少年は見入っているが、ジナイーダに気付かれ声を掛けられても恥ずかしさのあまり逃げ帰ってしまう。

『僕は恥ずかしさと同時に、あの子ども達が羨ましくて、どうすればあの人にお近づきになれるのかと考えました。しかし僕が行動を起こすまでもなく、その機会はやってきたのです』

 ウラジーミルの母が手紙を持って現れ、ザセーキナ侯爵夫人が金銭的に苦しくお力添えを願いたいという旨の手紙を寄こした事に対する不満を延々と述べる。

『お前、ちょっと偵察に行っておいで。夫人には、取りあえず喜んで力になると言って、家の内情を見に行ってくるのよ』

 ザセーキナ侯爵夫人を訪ね挨拶をしていると、下手からジナイーダが現れる。

 夫人にウラジーミルを紹介され、ジナイーダは新しいおもちゃでどう遊ぼうかと企む笑顔で、対してウラジーミルは突然降ってわいた幸運に毅然としながらも喜びを隠しきない様子で対峙する。

『ねえあなた、お時間はある事?』
『僕ですか?ええ…』
『それじゃあ、毛糸をほどくのを手伝ってくれない?』

 神林君演じる少年は、繊細に、不器用に、ジナイーダを見つめ、表情の一つ一つで緊張や興奮を表す。
 真優莉演じるジナイーダはその純粋無垢さを容赦なく掌で転がす。少年の手に毛糸の束をかけ、毛玉を作りながら真正面からいじめてくる。

『この前、私の事を見ていたでしょう?いっしょに遊びたかった?』
『そんな…僕…』
『嘘はだめよ。私の方が年上なんだから、あなたは本当の事しか私に言えないのよ。いい事?』
『はい…』
『そうよ、正直にね。私が気になっているんでしょう?私を好き?』
『え!そ、そんな…』
『ほら、だめよ。ほんとの事を言いなさい』
『それは…その…もちろんです…ジナイーダさん…』

 恥ずかしくて目を逸らそうとしても、その度にジナイーダが笑顔で顔を近づける。見ていて可哀想になるほどからかわれているのに、伝わってくるのは少年の喜びだけだ。

 甘美な拷問。
 少年の恋心が加速する。
 
 罰金ごっこでの乱痴気騒ぎで、ジナイーダの手にキスをする。大きなスカーフに二人でくるまってお互いの秘密を告白し合う。一緒に踊って、帰り際に手を握られる。

『ぼくはもう、認めざるを得ませんでした。その夜は興奮して眠る事ができず、窓の向こうに見える稲妻を見つめ続け、自分が恋をしているのだと、これが恋なのだと、その喜びに胸を打たれていました』

 話は進む。
 少年の恋と共に。
 ジナイーダの様子の変化と共に。

『ねえ、あなた、私が好き?』
『どうしたんです?』
『聞いているのよ』

 少年はジナイーダを見つめる。ジナイーダも少年を見つめる。

『そうよね、私を好きよね。同じ目をしているわ』
『ジナイーダさん、一体どうしたんですか』
『私、もう何もかもいやよ。辛いの。こんなの耐えきれない。これからどうなるのか全く分からないわ』

 やがて少年は気付く。
 彼女もまた、誰かに恋をしているのだと。

『ルーシン先生、この子を叱ってください。最近氷水しか飲まないんですよ』
『ジナイーダ嬢、それはいけませんね。どうしてそんな事をするんです?風邪を引いて死ぬかもしれませんよ』
『あら、それで何か問題でも?別にいいわよ。氷水を飲むの好きなんだもの。先生は私に、一瞬の満足のために危険を冒すなと仰りたいの?別にいいのよ、人生なんて。もう幸福とかそんなものに興味はないわ』

 ジナイーダの苦悩も加速する。
 
 俺も練習したシーンだ。
 部屋の中で泣いているジナイーダを見つけるシーン。

『こっちへ来てくれる?』
 
 そう言って寄って来た少年の髪を指でぐるぐる回して引っ張る。
 
『痛いです…!』
『痛い?痛いですって?じゃあ私は痛くないって言うの?私は何にも苦しんでいないって言うの?』

 そう責めたあと、髪をむしり取っていた事に気付きはっとして呟く。

『ごめんなさい、許してね。あたし、あなたの髪をロケットに入れてずっと持ち歩くわ。そうすればあたしもあなたも報われるわね』

 そしてあのシーンが来る。

『そんな所で一体何をしているの?』

 塀の上にいる少年。
 パラソルを差しているジナイーダ。

『全くあなたって可笑しな子』

 力なく笑うと、背を向けようとする。

『あなたはいつも私の後を付いて回るわよね。そんなに私を愛しているの?そうね、それならここまで飛び降りてみて。私を本当に愛しているなら』

 少年は飛び降り、着地に失敗して転がる。

『何やっているの!』

 あの時同様、ジナイーダはパラソルを放り投げ駆け寄り、少年を抱き寄せる。

『坊や、何でこんな事するの。どうしてこんな事ができるの。どうしてあなたは私の言う事を聞くの…私だって、あなたを愛しているのよ』

 そう言ってジナイーダは少年の顔中にキスをして、それからゆっくりと唇にもキスをした。

 それから話は、一気に下っていく。
 ジナイーダに会いに行く父を見つける。
 父の不貞を暴く怪文書が投げ込まれる。
 一家はモスクワへ戻る事になる。
 ジナイーダとの別れ。

 そして遂に、あのシーン。
 父とジナイーダの最後のシーンだ。

 舞台袖でしゃがんで二人を見守る少年。
 何かを説得する様子の父。
 蝋人形のように表情の変わらないジナイーダ。
 
 ジナイーダが腕を差し出し、袖をまくると肌が剝き出しになる。その腕目掛けて振り下ろされる鞭。衝撃で、体制が崩れうずくまるジナイーダ。父は一瞬、どうしていいか分からない様子で立ち尽くしたが、何かを諦めた様に足早にその場を立ち去る。

(流れが違う)

 どういう事だと食い入る様に舞台を見つめると、中央に取り残されたジナイーダは腕を抑えたままうなだれている。だが、顔を上げて腕を目線の高さに持って行き、打たれた腕を見つめると、そのまま肩を震わせ声を出さずに泣き始めた。

 腕を抑えながら、泣き崩れる。

 そして天を仰ぎ、打たれた腕に唇を付けたかと思うと、激しく、舐め回すような口付けを繰り返した。その静かなる慟哭が、胸に抱く腕が、叶わなかった願いの儚さと彼女の愛の深さを物語る。


 そうだ。
 祈らずにはいられないんだ。




 どうか
 いつか
 あの人達が


 お互いのままでなく


 お互いのまま


 出逢う事が、できますように…





「素晴らしかったねえ」

 駅へ向かう帰り道、綾辻社長は満足そうに一人呟く。

「演出も出演者も素晴らしかったが、やはりウチの真優莉君が一番素晴らしい」
「そうですね」
 
 まだ耳の奥に残る拍手の音。何人もが涙を拭きながら拍手を送っていた。

「台本、変更していますよね?」
「あの鞭のシーンは、真優莉君がそうしたいと言ったらしいよ」
「そうなんですか…」

 確かに従来の流れより、今日観た方がずっと良い。
 
 傷跡さえ愛しい、そんなジナイーダの叫びが聞こえてくる迫力だった。
 
 ジナイーダ。男を翻弄する天性の小悪魔。

 最初はそう思っていた。でも今は、ただ一つ、一番欲しいものが手に入らず、裂かれんばかりの想いに泣き叫ぶ純粋な少女にしか見えなくなった。


『役作りって、つまるところその人を理解する事なの。人ってみんな、一番都合のいい自分という仮面を何枚も付けて生きているの。その幾重にも重ねて付けた仮面を一枚一枚剥がして、その人の真実を見つける。舞台演劇は、人間の理解の集合よ』


 真優莉の言葉が頭の中で響く。


「…綾辻社長」
「うん?なんだい?」
「…俺は、どうすればもっと理解できますか?」

 演劇を。
 人間を。

「優生君、そういう姿勢は素晴らしい。だけどね、失うものもあるんだよ」
「え?」

 どういう事だろう。

「目が肥えれば、並のものでは満足できなくなる。残念ながら、感動にも耐性のようなものは付くんだよ。そうなってしまえば、それは喜びを失う事でもある。愛するあまり多くを求め、気付いた時には何も手に入らない。この孤独に耐える覚悟はあるのかい?」

 愛するあまり多くを求め、何も手に入らない孤独。
 俺には、想像もつかない孤独だ。
 ただ、それでも…

「…分かりません。でも俺は、そういう事を聞いても、知りたいと思います」

 無謀かな。
 浅はかかな。

 でもその判断は、今でなくていい。

「そうか。じゃあ頑張りなさい。方法なんていくらでもある、手探りで見つけなさい。質問は受け付ける。でも私から全てのお膳立てはしないよ」
「大丈夫です」
「そうか」

 夕日が眩しい。夏だな、と思う。気持ちを燃やし、奮い立たせる季節だ。

「君なら行けるだろうね」

 綾辻社長のいつものニコニコ顔も、夕日に照らされている。

「果てなき道の、その果てまで」
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