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第十二幕 日本語に囚われては視野は広がらないよ
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怯える日々を送る俺の予想に反して、綾辻社長も三崎さんもいたって普通に、何事もなかったかのように俺に接するので、これは辛うじて命拾いしたのかと安心してしばらく経った頃、綾辻社長から「初恋」の本番を観に行こうと誘われた。
「え、いいんですか?!」
「もちろん。ただやっぱりキャストが豪華だからねえ、千秋楽ではないんだよ」
「いやいや、全然構いませんよ!」
全部で十日間、計十二公演。綾辻社長と観に行くのは日曜日の千秋楽の前日、土曜のマチネ(昼公演)。三崎さんは一足早く金曜のソラネ(夜公演)を観に行くらしい。
「チケットよく余っていましたね」
「いや、真優莉君が買ってくれたらしいよ」
「え?!」
「優生君には、ちゃんと本番を見て勉強するようにって」
そうなのか。いや有難い。自分もなぞった台本を、プロの演技で見る事ができる。これは貴重な経験だな。
それから俺は、綾辻社長の勧めでウラジ少年を演じる神林隆太君の出演したドラマや映画を見続けた。神林君は大手芸能プロの所属で小学生の頃から役者をやっている。年齢毎にどう演技が変わって行くのか、役柄でどう演技しているのか、注意しながら観なさいと指示が出た。
神林君は俺よりも少し年上だけど、あどけない顔立ちのせいか実年齢よりも若い役がすごくよく似合う。きっとこの「初恋」のウラジ少年も、真優莉同様ハマり役だろう。
そしていよいよ待ちに待った当日、土曜日。
俺は困っていた。
なぜなら昨日、綾辻社長と待ち合わせを決めた時、俺が素朴な疑問を投げてしまったからだ。
「あの、花とかって持って行った方がいいんですかね…」
真優莉だけじゃない。公演の度に役者は花やらプレゼントやらたくさんいただくのだ。
「いやあ、いいよ。今回もすごい数貰うだろうから」
と言ったすぐ後で、綾辻社長は
「…いや、やっぱり持って行ってあげて。大きいのじゃなくて、一本だけ、とかでいいからさ」
とか言うもんだから、待ち合わせ前に俺は駅ビルの一階にあるこじゃれた花屋で花を選ぶ事になったのだが…。
どんな花を選んだらいいんだ?
思えば人生において花を買うなんて、母の日のカーネーション以外では初めてだ。
母の日というのは楽でいい。なぜならカーネーションを選べばいいからだ。しかし所属女優の舞台を見に行くために買う花とは何が最適解なんだろうか?
まず目に付いたのは深紅のバラ。美人に送るにはピッタリだろう。色白で黒髪の真優莉が赤いバラを手にしている姿は絵画のモチーフになってもおかしくない。
…あー、でもなー、ちょっとキザだよなー。
(えっ、優生が買ったの?この真っ赤なバラを?やだあ、ロマンチストなのね~)
とか言って小馬鹿にするように笑う真優莉の顔が浮かぶ。やめよう。
赤がダメならピンクはどうだろうか。柔らかくて優しいピンクのガーベラがあった。女の子はみんなピンクが好きだよな。勝手なイメージだけど、ハズさないはずである。
…あー、でもなー、なんかそれはそれで単純だよなー。
(女がみんなピンクが好きだなんてどういう思考よ。センスだけじゃなくて花を選ぶ芸もないわけ?)
とか言って残念な男を見る眼差しを向ける真優莉の顔が浮かぶ。却下。
なら間を取ってオレンジか?夏らしいし、変ないやらしさもない。さっきの赤バラとはちょっと違った花びらの集まり方をした柔らかいオレンジのバラがある。繊細だけど実に健康的だ!
…あー、でもなー、オレンジって花で貰って嬉しい色なのかなー。
(……)
コメントしようがなく眉間にシワを寄せている真優莉の顔が浮かぶ。ナシ。
じゃあ結局俺はどうすればいいんだ?!
どれ送れば正解なの?!
脳内で散々真優莉にケナされたせいか、若干イライラしてきた。片足をタンタンしながら腕組みして、店内を見る。
花。
花。
花。
花しかない。
大体都会の花屋は無駄に花の数が多い。多すぎる。品揃えが充実しているというのは良い反面悪影響もあるのだ。
大学の授業でこんな話を聞いた。
六種類のジャムしか置かないスーパーマーケットと二十四種類ものジャムを揃えるスーパーマーケットでは、なんと前者の方がジャムが売れるというアメリカの研究結果があるらしい。お客は迷うと買わなくなるのだ。
つまりこの状態は俺を、どの花を買うかではなく、そもそも花を買うべきなのかという思考回路に誘導するのだ!マズい!冷静になれ、俺!
そもそも真優莉は人気女優。
職業柄、花なんて腐るほど貰う。なんならIT社長の彼氏やモデル仲間のデート相手とかが花束をプレゼントする事もあるだろう。その時はきっと、やれグラジオラスだ、やれリシアンサスだ、やれデルフィニウムだと、舌を噛みそうな名前の都会的でお洒落な花を貰うに違いない。貰い飽きてるであろう花は送るもんじゃないのだ。
俺は店内の、無数の花の洪水をつぶさに見回す。
どれだ、どれだ、どれだ?!
と、その時、奥の方に、見覚えのある花の姿が目に留まった。懐かしい色と形。子どもの頃から慣れ親しんだ、夏の象徴。
「あの…すみません」
カウンターにいた店員の女性に声を掛けると笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「あ、えっと…」
俺はその花を指差す。
「あれ、一本プレゼント用に欲しいんですけど…」
細長い紙袋を手に、待ち合わせ場所の有楽町芸術劇場を目指す。思えば八月に入った今は夏休み真っ只中、普段はビジネス街の雰囲気を醸し出す有楽町も、どこか弾けた気配が漂う。入口で待っていると、綾辻社長が手を振りながら近付いてきた。
「やあやあ、優生君。待たせてしまったかい?」
「いや、来たとこです」
「そうかい。どうやらね、開演が遅れるらしいんだ」
「え、そうなんですか?」
どうやらトラブルがあったらしく、三十分程度遅れるそうだ。
「結構待つ事になりますね」
余裕を持って開場時間に待ち合わせをしていたから、ざっと一時間半の時間が出来てしまった。
「近くに美味しいコーヒーを淹れる店があるから、そこに行こう」
綾辻社長に誘われて、銀座方面に向かって歩き出す。細い路地を歩くと、ビルの二階に喫茶店があり中に入った。レトロな雰囲気で、カウンター席もテーブル席も八割位埋まっている。ふかふかしたソファのボックス席に通され、綾辻社長お勧めのブレンドを注文して一息ついた。
「いやはや、無事に本番まで辿り着けて良かった良かった」
出されたおしぼりで手をふきふきしながら、綾辻社長は嬉しそうだ。明日の千秋楽まで気は抜けないはずだが、それでもこれまでの公演に関する演劇専門サイトのレビューを見ても絶賛の嵐だから、満足なんだろう。
「優生君もお疲れ様だったね。演技レッスン大変だっただろう?」
「あはは、まあ」
俺も手を拭いてから、水を一口飲む。
「どうだった?プロの役者に演技と役作りを教えて貰うのは」
「…凄かったです」
ありきたりな感想、しかし適当に答えた訳ではない。
本当に、凄いと思ったんだ。
あの古い物語の中に、俺一人じゃ見つけられないいくつもの“真実”が眠っていた。掘り起こす人間によって違う“真実”が。
「…でもなんか悲惨ですよね」
「何がだい?」
「いや、この話、誰一人報われないじゃないですか」
人の不幸は蜜の味、とはよく言ったもんだ。こんな救いのない話が名作と言われ、舞台で上演すれば拍手喝采を浴びるのだ。
「まあ作り話だから安心して観られるって事なんですかねえ」
「いや、作り話ではないよ」
「え?」
「『初恋』はツルゲーネフの自伝小説と言われているんだよ」
「そうなんすか?!」
思わず大きな声が出てしまい、周りを見回す。しかし案外人は周りの事など気にせずおしゃべりに夢中になるものだ。誰も俺を見ていなかった。
「どの程度実話かは分からないけど、ほぼノンフィクションと見る学者もいるからね」
そうだったのか。実話だったとは。運ばれてきたブレンドを飲みながら、考え込んでしまう。
「…なんで『初恋』なんですかね」
「何がだい?」
ブレンドを飲んでいた綾辻社長が目線を上げた。
「タイトルが…」
「ほう。タイトルに疑問を持つとは新しいなあ」
「あ、いや、疑問というか…」
別に疑問を持ったんじゃない。ただ、なんとなくしっくりこないのだ。
「『初恋』なんてタイトルの割には、初恋の甘酸っぱさがないじゃないですか」
俺がそう言うと綾辻社長は、ふむ、と言った。
「優生君の初恋は甘酸っぱいものだったのかい?」
「え?いや、そういうものでは…」
別に俺の初恋なんて本になるほどのものでもない。幼稚園の時仲良かったユキちゃんに、帰り際、ほっぺにチューされて子ども心にドキドキしたのを覚えているというだけだ。
「いやあ、可愛らしい思い出だねえ」
「子どものやる事ですからね」
「まあ、そうだね。普通、初恋と言うと、小さな時の思い出を指すね」
綾辻社長はまた一口、ブレンドを啜った。
「しかし優生君」
カップを置いて続ける。
「日本語に囚われては視野は広がらないよ」
そう言って俺を見つめた。
「…え、どういう事…すか?」
綾辻社長はいつものニコニコ顔で、しかし黙ったままだ。
テストなのは分かった。社長はこういう会話が好きだ。自分から全ての解を見せない。相手がどういう道順を辿って答えに辿り着くかを観察するのだ。それは一向に構わないのだが、ハッキリ言ってチンプンカンプンだ。
「…すみません、分かりません…」
再度、ふむ、と言って綾辻社長は口を開いた。
「ファースト・ラブ」
「…へ?」
突然、なんだ?
「初恋は英語でファースト・ラブだろう?」
「え?あ、ハイ」
「日本語は恋と愛を明確に分けるよね。人それぞれ定義は違うけど、割と一般的には恋は前座的な意味合いが含まれて、愛は本番、という感じだよね」
「ああ、はい…そうですね」
綾辻社長はテーブルに両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せる。
「だけど英語では恋も愛も同じラブだ」
恋も愛も、同じ。
「そしてロシア語もおそらくそうだと思うよ」
言わんとする事が分かってきた。
ファースト・ラブ。
初めての愛。
そうか。これは、初々しい少年の、苦い初恋の思い出ではないのだ。
ウラジ少年。
ジナイーダ。
父。
初めて誰かを愛した、彼らの物語だったのか…。
「そろそろ行こうか」
綾辻社長は腕時計を見て、カップに残ったブレンドを飲み干した。俺も慌てて飲み干す。ここ数年で飲んだコーヒーの中で、いや、人生の中で、一番美味しいコーヒーだった。そう伝えると、
「そうだろう。ここは昔から私のお気に入りなんだよ」
と、綾辻社長は嬉しそうに頷いてご馳走してくれた。
再び劇場に着くともう開場していて、次々と人が客席へ繋がるドアの中に消えていくのが見える。なんだか急に緊張してきた。
「優生君、それは真優莉君への花だよね」
俺にチケットを渡しながら、手にしていた紙袋を見て綾辻社長は聞いてきた。
「あ、はい」
「じゃあこっちだ」
出演者へのプレゼントを預かるテーブルに俺を連れて行き、付箋に名前を書くように促す。誰からのプレゼントか分かるようにするためだ。
「ほう、いいチョイスだねえ」
紙袋の中からは黄色のひまわりが顔を覗かせている。
「俺が好きなだけなんですけどね」
名前を書いて、紙袋に付箋を貼る。
プレゼントを送る時に迷った時は、自分が送られて嬉しいものを送る。初心に戻ってみたのだ。
「素晴らしい選択だよ。『初恋』にぴったりだ」
「え、そうなんですか?」
ぴったりなのか?作中にひまわりって出てきたっけ?
「ひまわりの花言葉を知っているかい?」
綾辻社長は紙袋の淵を撫でながら言った。
「あなただけを見つめて、だよ」
「え、いいんですか?!」
「もちろん。ただやっぱりキャストが豪華だからねえ、千秋楽ではないんだよ」
「いやいや、全然構いませんよ!」
全部で十日間、計十二公演。綾辻社長と観に行くのは日曜日の千秋楽の前日、土曜のマチネ(昼公演)。三崎さんは一足早く金曜のソラネ(夜公演)を観に行くらしい。
「チケットよく余っていましたね」
「いや、真優莉君が買ってくれたらしいよ」
「え?!」
「優生君には、ちゃんと本番を見て勉強するようにって」
そうなのか。いや有難い。自分もなぞった台本を、プロの演技で見る事ができる。これは貴重な経験だな。
それから俺は、綾辻社長の勧めでウラジ少年を演じる神林隆太君の出演したドラマや映画を見続けた。神林君は大手芸能プロの所属で小学生の頃から役者をやっている。年齢毎にどう演技が変わって行くのか、役柄でどう演技しているのか、注意しながら観なさいと指示が出た。
神林君は俺よりも少し年上だけど、あどけない顔立ちのせいか実年齢よりも若い役がすごくよく似合う。きっとこの「初恋」のウラジ少年も、真優莉同様ハマり役だろう。
そしていよいよ待ちに待った当日、土曜日。
俺は困っていた。
なぜなら昨日、綾辻社長と待ち合わせを決めた時、俺が素朴な疑問を投げてしまったからだ。
「あの、花とかって持って行った方がいいんですかね…」
真優莉だけじゃない。公演の度に役者は花やらプレゼントやらたくさんいただくのだ。
「いやあ、いいよ。今回もすごい数貰うだろうから」
と言ったすぐ後で、綾辻社長は
「…いや、やっぱり持って行ってあげて。大きいのじゃなくて、一本だけ、とかでいいからさ」
とか言うもんだから、待ち合わせ前に俺は駅ビルの一階にあるこじゃれた花屋で花を選ぶ事になったのだが…。
どんな花を選んだらいいんだ?
思えば人生において花を買うなんて、母の日のカーネーション以外では初めてだ。
母の日というのは楽でいい。なぜならカーネーションを選べばいいからだ。しかし所属女優の舞台を見に行くために買う花とは何が最適解なんだろうか?
まず目に付いたのは深紅のバラ。美人に送るにはピッタリだろう。色白で黒髪の真優莉が赤いバラを手にしている姿は絵画のモチーフになってもおかしくない。
…あー、でもなー、ちょっとキザだよなー。
(えっ、優生が買ったの?この真っ赤なバラを?やだあ、ロマンチストなのね~)
とか言って小馬鹿にするように笑う真優莉の顔が浮かぶ。やめよう。
赤がダメならピンクはどうだろうか。柔らかくて優しいピンクのガーベラがあった。女の子はみんなピンクが好きだよな。勝手なイメージだけど、ハズさないはずである。
…あー、でもなー、なんかそれはそれで単純だよなー。
(女がみんなピンクが好きだなんてどういう思考よ。センスだけじゃなくて花を選ぶ芸もないわけ?)
とか言って残念な男を見る眼差しを向ける真優莉の顔が浮かぶ。却下。
なら間を取ってオレンジか?夏らしいし、変ないやらしさもない。さっきの赤バラとはちょっと違った花びらの集まり方をした柔らかいオレンジのバラがある。繊細だけど実に健康的だ!
…あー、でもなー、オレンジって花で貰って嬉しい色なのかなー。
(……)
コメントしようがなく眉間にシワを寄せている真優莉の顔が浮かぶ。ナシ。
じゃあ結局俺はどうすればいいんだ?!
どれ送れば正解なの?!
脳内で散々真優莉にケナされたせいか、若干イライラしてきた。片足をタンタンしながら腕組みして、店内を見る。
花。
花。
花。
花しかない。
大体都会の花屋は無駄に花の数が多い。多すぎる。品揃えが充実しているというのは良い反面悪影響もあるのだ。
大学の授業でこんな話を聞いた。
六種類のジャムしか置かないスーパーマーケットと二十四種類ものジャムを揃えるスーパーマーケットでは、なんと前者の方がジャムが売れるというアメリカの研究結果があるらしい。お客は迷うと買わなくなるのだ。
つまりこの状態は俺を、どの花を買うかではなく、そもそも花を買うべきなのかという思考回路に誘導するのだ!マズい!冷静になれ、俺!
そもそも真優莉は人気女優。
職業柄、花なんて腐るほど貰う。なんならIT社長の彼氏やモデル仲間のデート相手とかが花束をプレゼントする事もあるだろう。その時はきっと、やれグラジオラスだ、やれリシアンサスだ、やれデルフィニウムだと、舌を噛みそうな名前の都会的でお洒落な花を貰うに違いない。貰い飽きてるであろう花は送るもんじゃないのだ。
俺は店内の、無数の花の洪水をつぶさに見回す。
どれだ、どれだ、どれだ?!
と、その時、奥の方に、見覚えのある花の姿が目に留まった。懐かしい色と形。子どもの頃から慣れ親しんだ、夏の象徴。
「あの…すみません」
カウンターにいた店員の女性に声を掛けると笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「あ、えっと…」
俺はその花を指差す。
「あれ、一本プレゼント用に欲しいんですけど…」
細長い紙袋を手に、待ち合わせ場所の有楽町芸術劇場を目指す。思えば八月に入った今は夏休み真っ只中、普段はビジネス街の雰囲気を醸し出す有楽町も、どこか弾けた気配が漂う。入口で待っていると、綾辻社長が手を振りながら近付いてきた。
「やあやあ、優生君。待たせてしまったかい?」
「いや、来たとこです」
「そうかい。どうやらね、開演が遅れるらしいんだ」
「え、そうなんですか?」
どうやらトラブルがあったらしく、三十分程度遅れるそうだ。
「結構待つ事になりますね」
余裕を持って開場時間に待ち合わせをしていたから、ざっと一時間半の時間が出来てしまった。
「近くに美味しいコーヒーを淹れる店があるから、そこに行こう」
綾辻社長に誘われて、銀座方面に向かって歩き出す。細い路地を歩くと、ビルの二階に喫茶店があり中に入った。レトロな雰囲気で、カウンター席もテーブル席も八割位埋まっている。ふかふかしたソファのボックス席に通され、綾辻社長お勧めのブレンドを注文して一息ついた。
「いやはや、無事に本番まで辿り着けて良かった良かった」
出されたおしぼりで手をふきふきしながら、綾辻社長は嬉しそうだ。明日の千秋楽まで気は抜けないはずだが、それでもこれまでの公演に関する演劇専門サイトのレビューを見ても絶賛の嵐だから、満足なんだろう。
「優生君もお疲れ様だったね。演技レッスン大変だっただろう?」
「あはは、まあ」
俺も手を拭いてから、水を一口飲む。
「どうだった?プロの役者に演技と役作りを教えて貰うのは」
「…凄かったです」
ありきたりな感想、しかし適当に答えた訳ではない。
本当に、凄いと思ったんだ。
あの古い物語の中に、俺一人じゃ見つけられないいくつもの“真実”が眠っていた。掘り起こす人間によって違う“真実”が。
「…でもなんか悲惨ですよね」
「何がだい?」
「いや、この話、誰一人報われないじゃないですか」
人の不幸は蜜の味、とはよく言ったもんだ。こんな救いのない話が名作と言われ、舞台で上演すれば拍手喝采を浴びるのだ。
「まあ作り話だから安心して観られるって事なんですかねえ」
「いや、作り話ではないよ」
「え?」
「『初恋』はツルゲーネフの自伝小説と言われているんだよ」
「そうなんすか?!」
思わず大きな声が出てしまい、周りを見回す。しかし案外人は周りの事など気にせずおしゃべりに夢中になるものだ。誰も俺を見ていなかった。
「どの程度実話かは分からないけど、ほぼノンフィクションと見る学者もいるからね」
そうだったのか。実話だったとは。運ばれてきたブレンドを飲みながら、考え込んでしまう。
「…なんで『初恋』なんですかね」
「何がだい?」
ブレンドを飲んでいた綾辻社長が目線を上げた。
「タイトルが…」
「ほう。タイトルに疑問を持つとは新しいなあ」
「あ、いや、疑問というか…」
別に疑問を持ったんじゃない。ただ、なんとなくしっくりこないのだ。
「『初恋』なんてタイトルの割には、初恋の甘酸っぱさがないじゃないですか」
俺がそう言うと綾辻社長は、ふむ、と言った。
「優生君の初恋は甘酸っぱいものだったのかい?」
「え?いや、そういうものでは…」
別に俺の初恋なんて本になるほどのものでもない。幼稚園の時仲良かったユキちゃんに、帰り際、ほっぺにチューされて子ども心にドキドキしたのを覚えているというだけだ。
「いやあ、可愛らしい思い出だねえ」
「子どものやる事ですからね」
「まあ、そうだね。普通、初恋と言うと、小さな時の思い出を指すね」
綾辻社長はまた一口、ブレンドを啜った。
「しかし優生君」
カップを置いて続ける。
「日本語に囚われては視野は広がらないよ」
そう言って俺を見つめた。
「…え、どういう事…すか?」
綾辻社長はいつものニコニコ顔で、しかし黙ったままだ。
テストなのは分かった。社長はこういう会話が好きだ。自分から全ての解を見せない。相手がどういう道順を辿って答えに辿り着くかを観察するのだ。それは一向に構わないのだが、ハッキリ言ってチンプンカンプンだ。
「…すみません、分かりません…」
再度、ふむ、と言って綾辻社長は口を開いた。
「ファースト・ラブ」
「…へ?」
突然、なんだ?
「初恋は英語でファースト・ラブだろう?」
「え?あ、ハイ」
「日本語は恋と愛を明確に分けるよね。人それぞれ定義は違うけど、割と一般的には恋は前座的な意味合いが含まれて、愛は本番、という感じだよね」
「ああ、はい…そうですね」
綾辻社長はテーブルに両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せる。
「だけど英語では恋も愛も同じラブだ」
恋も愛も、同じ。
「そしてロシア語もおそらくそうだと思うよ」
言わんとする事が分かってきた。
ファースト・ラブ。
初めての愛。
そうか。これは、初々しい少年の、苦い初恋の思い出ではないのだ。
ウラジ少年。
ジナイーダ。
父。
初めて誰かを愛した、彼らの物語だったのか…。
「そろそろ行こうか」
綾辻社長は腕時計を見て、カップに残ったブレンドを飲み干した。俺も慌てて飲み干す。ここ数年で飲んだコーヒーの中で、いや、人生の中で、一番美味しいコーヒーだった。そう伝えると、
「そうだろう。ここは昔から私のお気に入りなんだよ」
と、綾辻社長は嬉しそうに頷いてご馳走してくれた。
再び劇場に着くともう開場していて、次々と人が客席へ繋がるドアの中に消えていくのが見える。なんだか急に緊張してきた。
「優生君、それは真優莉君への花だよね」
俺にチケットを渡しながら、手にしていた紙袋を見て綾辻社長は聞いてきた。
「あ、はい」
「じゃあこっちだ」
出演者へのプレゼントを預かるテーブルに俺を連れて行き、付箋に名前を書くように促す。誰からのプレゼントか分かるようにするためだ。
「ほう、いいチョイスだねえ」
紙袋の中からは黄色のひまわりが顔を覗かせている。
「俺が好きなだけなんですけどね」
名前を書いて、紙袋に付箋を貼る。
プレゼントを送る時に迷った時は、自分が送られて嬉しいものを送る。初心に戻ってみたのだ。
「素晴らしい選択だよ。『初恋』にぴったりだ」
「え、そうなんですか?」
ぴったりなのか?作中にひまわりって出てきたっけ?
「ひまわりの花言葉を知っているかい?」
綾辻社長は紙袋の淵を撫でながら言った。
「あなただけを見つめて、だよ」
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