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第八幕 恋する少年の気持ち

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 その夜は大変だった。

 綾辻社長は変な姿勢で寝たせいかまさかのギックリ腰になってしまった。俺と真優莉は、動けなくなった社長をタクシーで送り届けようとしたのだがそもそもタクシーに乗せるのに一苦労、というよりも事務所を出るのに大変苦労した。
 タクシーの運転手さんにも手伝ってもらい(親切な人で良かった)なんとか車に乗せ、代々木上原にある自宅まで付き添ってご家族に無事引渡し、そのまま真優莉も家まで送り届けようとしたのだが、新人だからという理由で、俺の方が先に送られた。そしてぎっくり騒ぎで一瞬忘れていたが、タクシーから降りる間際、真優莉が俺に渡した台本で俺はこの週末の宿題を思い出した。

 土日は家に籠って何かをするのに最適な雨模様だった。

 買い物と掃除を済ませて、俺は言われたとおりひたすら台本を読み込んだ。社長に貸してもらった原作小説と台本では、内容は同じでも受け取る印象が違うなあと思いながら、二巡、三巡と読んでいく。時々原作の小説の方も読みながら、言われたとおりに音読をしまくったのだがそもそも暗記に慣れていない頭では二日間での丸暗記は無理だった。

 そして迎えた月曜。演技レッスン・ⅮAY1。

 悲惨な特訓だった。

 真優莉は俺にウラジーミル少年の役を演じさせ、自分はジナイーダの役を演じながら、なんとか俺を少年に仕立て上げようとしたのだが、これがまったく噛み合わない。

「そこは恥ずかしそうに、でも喜びに満ちた表情をするのよ!」
「どんな表情だよ!」
「もじもじしながら口許を緩めて、目を合わせづらそうにしながらも上目遣いに相手を見るのよ!」

 実際にやってみた。

「…怖いわ!何か企んでる!」
「お前今の顔ウケんぞ!ラインのスタンプにそういうのあった!」
「いやあ、見事な悪人面だねえ」

 三崎さんと綾辻社長はポップコーンの袋片手に俺らの練習を面白がって見ている。定時過ぎているのに三崎さんは帰る様子はないし、綾辻社長も腰の痛みなんてなんのその、と言わんばかりだ。俺は完全に見世物である。

「もっと純粋な、恋する少年の気持ちを感じて表現して!」
「簡単に言うなよ!」
「お前そんなのも出来ないのかよ、マジでセンスないんだなあ」
「じゃあ三崎さんは出来るっていうんですか?!」

 抱えていたポップコーンをテーブルに置き、三崎さんは真優莉の前に進み出た。

 両手をポケットに入れたまま、きまり悪そうに斜め下を向いていたかと思うと…微妙に泳ぐ視線を真優莉に送り、捕らえてからは逸らさない。

 今にも、俺、お前の事ずっと好きだったんだけど…とかいうセリフが飛んできそうな雰囲気だ。

「ほら!見て!これよ、これ!眼差しが気持ちを表しているわ!」
「ちょっと三崎さん!アンタ役者だったんですか?!」
「この業界にいりゃコレ位はできんだろーよ」

 三崎さんはすこぶるバカにした表情で俺を一瞥しテーブルに戻り、ポップコーンをもっしゃもっしゃと食べ始めた。

「いやあ三崎君、案外うまいねえ。目で語れるとは大したもんだよ」
「視線で語れなきゃダメっすよねー」

 今見せられた違いに愕然とする俺の傍ら、三人は演技とは目だとか言う演劇論を展開し始めた。

「ほら、もう一度よ!三崎さんに出来るんだから優生だってできるわ!」
「オラ小峰、気合入れろ」

 それはレッスンというよりもただの恥の塗り重ねだった。何度やってもダメ出しされ、運動しているわけではないのにグテングテンに疲れ果てた。

「お前なんでそんなにできないんだよ」
「おかしいねえ、誰しも一回位は演劇の経験ってあるんだけど…」

 憐みの視線が痛い。無理言わんでくれ。俺が人生で唯一劇を演じたのは小学校五年のお遊戯会で下手人その十三だったのだ。

「台本の読み込みが足りないのよ!とにかく時間の限り台本と向き合いなさい!」
「ええー…」

 だから俺は役者じゃないのに…と反論しようにも疲れ果ててその気力が沸かない。床に座り込んで水を飲むとさらに疲れがドッと来た。

「まあ今日初めてやったんだから上手くできなくても仕方ないさ。優生君、もう休みなさい」

綾辻社長は俺にそう言って、それから台本を開いた。

「ねえ真優莉君、この罰金ごっこのシーンはどう演じるつもりなの?見せてくれないかい?」

 罰金ごっこのシーンとは最初の方に出てくるシーンだ。

 ジナイーダに「夜、ウチに来て」と言われウラジーミル少年は家を訪ねる。そこにはジナイーダの他に彼女に想いを寄せる男が五人すでにいる。この「初恋」では少年と五人の男達がしょっちゅう彼女の家を訪れみんなで時間を過ごすシーンが描かれるが、罰金ごっこのシーンは少年が大人達の輪の中に入っていくきっかけとなるシーンである。

 ちなみに罰金ごっことは今風に言うなら王様ゲームだ。

「いいですよ。他のセリフは社長が読んでくださいね。優生はウラジーミルをやって」
「え、俺?」
「大丈夫、ここはほぼセリフがないから立っているだけでいいわ」
  
 勝手にそう指示すると、真優莉はテーブルの上に置いてあった郵便物入れのカゴから郵便物を全て出し、それを持ってソファの上にひらりと軽やかに飛び乗った。そしてくるりと振り向いた時、その顔は完全に別人のもの、ロシアの美しき侯爵令嬢のものになっていた。

『皆さんお待ちになって!新しいお客様よ!』

 不純物を一切含まない水晶の様に透明で気高い声の矢が真っ直ぐ放たれたこの瞬間、この場は舞台と化した。

『皆さんにご紹介させていただきますわ』

 ソファから降りて持っていたカゴをローテーブルに置き、真優莉は跳ねるような小走りで俺の方に近寄ってきた。そして俺の手をぐいっと引っ張ったかと思うと肩を掴んでくるりと後ろを向かせた。

『さあ、ご挨拶を。皆さん、こちらはウラジーミルさん、お隣の家の坊ちゃまです。ウラジーミルさん、こちらからマレーフスキイ伯爵、お医者のルーシンさん、詩人のマイダーノフさん、大尉のニルマーツキイさん、軽騎兵のベロウゾーロフさんよ。皆さん、このお若い坊ちゃまと仲良くしてくださいね』

 俺の前には、三崎さんと綾辻社長しかいない。ここはオフィス綾辻の事務所だ。それなのになぜか、目の前にいないはずの男達が、ジナイーダが住む天井の低い古びた屋敷の居間が、見え始めた。

『伯爵、ウラジーミルさんの分の札も書いて差し上げてくださいな』
『それはいささか不公平ではありませんか、ジナイーダ嬢』

 綾辻社長がマレーフスキイのセリフを読んだ。

『ウラジーミル君は罰金ごっこの仲間には入っていないじゃないですか』
『そうですよ、不公平です』

 綾辻社長の隣の三崎さんがベロウゾーロフのセリフを読む。

『あら、皆さん。何がそんなにご不満なのかしら。ウラジーミルさんは今日初めていらしたお客様よ。仲間に入れてあげて頂戴。さあ、文句を言ってないで。私がそうしたいんだから』

 丁寧な物言いから突然わがままな口調に豹変する。しかしそれでも一寸の気品も失われない声と態度で、男達をあっという間に服従させる。

 綾辻社長が医者のルーシンのセリフを読む。

『では私からウラジーミル君に説明して差し上げましょう。すっかり緊張してしまっているじゃないですか。我々は罰金ごっこをしていましてね、今罰金を払うのは令嬢なんですよ。そしてその罰金は令嬢の麗しきお手に口付けができる権利なんです。幸運のくじを引いた者だけがその権利を手にできます』

 台本の流れでは、そのままジナイーダは椅子の上に乗り、くじがはいった帽子を皆に差し出し、男達が一斉に手を伸ばす。出遅れた少年は余ったくじを引くが、それが当たりで少年はジナイーダの手にキスする事ができる。

 真優莉は帽子に見立てたカゴを持ち再びソファの上に飛び乗った。そしてカゴを揺らしながら邪悪で美しい笑みを口許に浮かべ、カゴを持った両手を前に差し出した。

(早くくじを引かなきゃ!当たりを引かれちゃう!)

 突如俺の頭に声が響いた。そして俺が反射的にカゴの中に伸ばした手を入れると、真優莉が一瞬驚いた顔をした。

『キスだ!』

 俺はないはずのくじを引き、見えないはずの文字を読んで叫んだ。

 一瞬間があったが、

『まあ、ウラジーミルさんが当たりを引いたわ!』

 大輪の花が咲いたような笑顔で真優莉は叫び、椅子から降りてこちらを向く。

『私とっても嬉しいわ。あなたはどう?嬉しいかしら?』

 両手を後ろで組んで体を屈めながら俺の顔を下から覗き込む悪戯っ子なその目は、ただ一つの返事しか許さない。

『僕は…』

(嬉しくないわけないじゃないですか)

 また声がしたと思ったら

「はいカットぉ」

 という綾辻社長の声が響いた。

「いやあ実にいいねえ、真優莉君。ジナイーダそのものだ」
「そんな、少ししかやってないじゃないですか」
「充分だよ。身のこなし、声、目線、どれをとっても完璧な仕上がりだ。それにしても…」

 綾辻社長の視線が俺に注がれた。

「優生君、よく反応できたねえ」
「あ、はあ…」
「ねえ、どうしてくじを引いたの?」

 どうしてと言われても…

「…なんとなく?」
「あ、そう…」

 真優莉は釈然としない顔だったのだが、俺も上手い説明が思いつかなかった。

 あの時、何故だかよく分からないのだが、俺に少年の気持ちが流れてきた、ような気がした。そしてそうなったのは全部、真優莉が演じるジナイーダがあまりにも美しかったからだ。

 目つき、笑い方、喋り方、全てに男を翻弄する悪意が含まれているのにその悪意にもっと虐げられたいと思わせる何かがあった。
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