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第五幕 一皮ムくわよ!
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次の日は雨こそ止んだものの曇天の薄暗い空模様だったが、一晩明けて今日は久しぶりに太陽が雲の切れ間から顔を見せ朝から眩しい日差しが降り注いだ。明日はまた雨が降るとの事だったので、洗濯物を外に干してから家を出る。事務所へ行く道すがら、あちこちに広がる水溜まりは陽の光が反射して鏡となり空を映す。
悪天候が続く日々の中の、降ってわいたようなきらきらとした夏日。
普段は避けて通る水溜まりの上をあえて自転車で通って水しぶきが立つ音が聞きたくなる。子どもっぽいとは思うが、俺は心が躍ると色んな音を聞きたくなるのだ。
バタバタと忙しい午前が終わり、遅めの昼休憩を取るために昼飯をコンビニに買いに行ったが、出遅れたのか品物はあまり残っていなかった。食べたかったうどんの代わりに冷やし担々麺を買い、戻ってきた時にポストを除くと茶封筒に包まれた分厚い郵便物が入っていた。差出人は地方の古本屋だから中身は本のようだ。綾辻社長がネットで頼んだんだろう。
「戻りましたー。綾辻社長、本届いてますよー」
社長室のドアを開け声を掛けると、綾辻社長は顔を上げ
「あら、届いたかい?ありがとう、優生君」
と言って俺から茶封筒を受け取り、それから誰かに電話し始めた。
買ってきた担々麺を食べながら、テレビを点けお昼の情報番組を見る。三崎さんは今日一日ユビキタスの方に行っていていないから、俺の好きな番組を見る事ができた。今日は横浜の中華街の人気食べ放題特集をやっていて、ウマそうな中華を見ていると食べたくなる。夕飯は麻婆豆腐かな。昼も夜も中華だけど、そんな事は気にしない。
休憩を終え、請求書のチェックなどの事務作業をしていると、綾辻社長が社長室から出てきた。
「優生君、今日は急ぎの仕事はあるかい?」
「いや、ないですよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけど、ちょっとお使いを頼まれてくれるかい?」
「あ、はい。何買ってきますか?」
「いやね、届けものをして欲しいんだ」
綾辻社長の手にはさっきの茶封筒がある。
「これを真優莉君に届けて欲しいんだよ」
げっ。真優莉かよ。
「今日どこで稽古してるんですか?」
「今日は休みなのよ。今渋谷の美容院にいるから、そこに行ってくれるかな?」
休みなら自分で来いや!
そう言いたいけど、仕方ない。
場所を教えてもらい、本をリュックに入れて事務所を出て、自転車を漕ぎ出すと爽やかな風を感じる。天気が良いから気分転換だとでも思うか。
再開発が進み新しいビルが増える一方で、複雑さも増す渋谷はちょっとした迷宮だ。
自転車をどこに置けばいいのかがまず分からない。持って行かれるのは嫌だから、駅からかなり離れたコンビニの前に止め、念のため店でペットボトルの飲み物を買ってから俺は駅に向かって歩き始めた。
新しくできた商業ビルの一つ、渋谷スクランブルプラザ。
その十二階のヘアサロンに真優莉はいるらしい。エレベーターで十二階まで上がって、ドアが開くと真正面にそのサロンが見えた。ガラスのドアから中を覗くと、奥の方のガラス張りの壁からは渋谷の街並みが一望できる。夜は夜景が綺麗だろう。白い大理石の床の上には、黒い革張りの椅子と背の高い全身鏡が等間隔で並ぶ。シンプルでスタイリッシュで高級感溢れる店内。立地といい内装といい、高いんですオーラが漂い俺は怖気づく。しかし本を渡すだけだと自分に言い聞かせ、勇気を出してドアを押し中に入った。
「いらっしゃいませ」
不意に右側から声を掛けられその方を見ると、受付のカウンターに俺と同年代と思われる男の子が立って、笑顔を浮かべている。
頭の上の方にボリュームがある髪型は、金髪だけどツヤがある、今流行りのK-POPアイドル風の髪型で、白いシャツを第一ボタンまで留めているのにウチの東大コンビと違ってダサく見えずオシャレなのは、耳にいくつか付けられたシルバーのピアスとこの髪型のおかげか。
「あ、あの、こちらに室町真優莉がいると聞きまして…あ、俺、オフィス綾辻の小峰と申します…」
馴染みのない空間にしどろもどろになってしまう俺だが、男の子は丁寧な笑顔で少々お待ちくださいませと言って、後ろのドアの向こうに消えていった。
店内を見ると、何人かのお客さんが白いケープに包まれ、髪を切られたり乾かされたりしていて、雑誌を読んでいる人もいるが、真優莉の姿はない。店を間違えたのかと思い不安になっていると、さっき男の子が入って行ったドアが開き、中から出てきたのは背の高い男性だった。
さっきの韓国アイドル風の男の子とは全く違い、こちらは短い黒髪をワックスでツンツンに立たせ、掛けている眼鏡も東大コンビのビン底眼鏡とは違う、スクエアフレームのお洒落なもので、レンズの奥では切れ長の目が柔らかくも鋭い眼光を放っている。黒い細身のワイシャツの、まくった袖からはうっすらと筋肉のついた腕が覗く。
やっべぇー!
この人超かっけぇー!
美容師ってこんなにオシャレなのかと驚いていた、
ら。
「いやあだ!あなたが優生ちゃん?も~う、超キュートじゃなあい!」
??!!
目の前のオシャレイケメンが、その風貌とは全く噛み合わない声と話し方で体をクネらせながら俺ににじり寄ってきた。
「え?え、あの…」
「やだもう、近くで見るとますます可愛いわあ!もろアタシの、こ・の・み!」
「そ、それはどうも…」
反応に困り、冷や汗だけが流れる。
「あ、そうそう、真優莉ちゃんよね。こっちよ、VIPルームにいるわよ」
オシャレイケメンが歩き出したので、俺は取りあえずついて行きながら、混乱して処理能力がダウンした脳を必死に回転させる。渋谷を見下ろすガラス壁の手前側にドアがあり、開けるとそこも引き続きガラスの向こうに渋谷の景色が広がる。しかしこの部屋はVIPルームだから、この景色は他のお客とではなく一人だけでゆっくりと眺める事ができる。そして今この景色を独占しているのはウチの看板女優だ。
「真優莉ちゃん、優生ちゃんが来たわよお」
部屋の中央の椅子には、スマホをいじる真優莉の姿がある。足元ではエプロンを掛けた女性がしゃがみ込んで、真優莉の足の爪を磨いていた。
「本持ってきてくれた?」
「ほら、これだろ」
茶封筒を手渡すと、さっそく真優莉は封を破り中から本を取り出した。
「ありがとう。ご苦労様」
オシャレイケメンはすかさずゴミとなる茶封筒を引き取り、ネイルをやっている女性は真優莉が膝に置いたスマホを傍らのテーブルに移動させる。
ちょっと皆さん。真優莉に使われ慣れてません?
まあいいや、これで任務は完了だ。とっとと帰ろうと思い、じゃあこれで、と声を掛け振り向こうとした、その瞬間。
「待ちなさい、優生」
真優莉が俺を引き留めた。
「何だよ、本は渡しただろ」
「まだ帰っちゃダメよ」
「なんで?」
驚く俺に、オシャレイケメンがまたにじり寄る。
「これから優生ちゃんの髪をカットするわよ!」
「え!」
なぜ俺が?!金なんてないぞ!
「大丈夫よ、お代は真優莉ちゃんが払ってくれるわ」
「ええ?!」
ビックリして真優莉を見ると、本を開きながらシレっと
「そんなボサボサ頭でこのサロンから帰す訳にはいかないでしょう?それにこの仕事をするなら、例え裏方でも少しは見た目を気にした方がいいわよ」
と言い放つ。
「いや、でも俺今、勤務中だし…」
「綾辻社長には了承してもらっているから安心しなさい」
真優莉はもう本に意識を奪われているらしく、俺の戸惑いには興味がないようだった。するとさっきの韓国アイドル風の男の子が姿を見せた。
「武雄さん、お席御用意できました」
「ありがとう、リー君。さ、行くわよ、優生ちゃん」
男の子はリー君、このオシャレイケメンは武雄さん。もう何がなんだか。
「大丈夫よ、優生」
真優莉は本を読みながら、声を掛ける。
「武雄さんのお客様は芸能人ばっかりよ。腕は絶対なんだから」
「そうよ、優生ちゃん!アタシを信じなさい!」
俺の肩をぐっと掴んで引き寄せる腕の力が、なんとも猛々しい。
「一皮ムくわよ~!」
「え、あの、それは、比喩ですよね?!」
「あら、比喩じゃなくてもいいのよ~!」
そのまま俺はなし崩し的に武雄さんに連れていかれ、店の一番奥の椅子に座らされた。武雄さんは俺に白いケープを着せ、霧吹きで俺の髪を湿らせていく。
「あれ?シャンプーとかはしないんですか?」
普通、美容院という場所はまず最初に髪を洗うはずだが。
「シャンプーは真優莉ちゃんから禁止令が出ているのよ。触っちゃダメって」
なんで?
ああ、料金が別なのか。
「でも大丈夫よ、ちょっと濡らすだけでも十分だわ」
武雄さんは手際よく霧吹きを吹きかける。耳元でシュッという音がすると、なんだかくすぐったくて思わず肩が跳ねる。
「もーう、優生ちゃんったら本当に可愛いわねえ」
武雄さんはクネクネしながらも、腰にぶら下げているポーチから櫛を取り出し俺の髪を梳かしてから、ハサミを軽快に操る。ハサミがリズミカルに動く度に、湿った俺の髪がパラパラと落ちてくる。
ふと気付くとリーさんがいない。
「あれ、リーさんは?」
「リー君はお客様のところに戻ったわ。今シャンプー台でパーマ液流しているわよ」
聞けばリーさんはやはり韓国出身らしく、韓国のアイドル風の髪型にしたい若者から絶大な支持を誇るそうだ。
「リー君はねえ、本当に気が利くし礼儀正しいし勉強家だし、掃除とかも率先してやってくれる美容師の鑑なのよ」
「へえ、凄いですね」
「他のサロンから引き抜きの話もたまにあるんだけど、その度にアタシがリー君の給料上げて話を断ってもらっているの。それでも天狗になったりしないのよ」
素晴らしい。
その謙虚さ、誰かさんも見習うべきだ。
「武雄さんはどうして美容師になろうと思ったんですか?」
「アタシ?そりゃーもう、これしかないって思ってたからよ」
武雄さんはキャスター付きのイスを引き寄せ、それに腰かけながらハサミを動かし続ける。
「アタシね、昔っからおしゃれなものや綺麗なものが好きだったの。妹がいるんだけど、妹の服は全部アタシが選んでたくらい。その内に服だけじゃなくて妹の髪型もアタシがやるようになったんだけど、これが楽しくて楽しくて。妹も喜んでくれたし、周りからも褒めてもらえたし、自分の手で誰かを綺麗にできるって最高の感覚だって、子どもの頃から知っていたの」
それから武雄さんはこの仕事に就くまでの事を俺に話してくれ、俺はその話に聞き入った。
「優生ちゃんは今年から入ったアルバイトなのよね?」
「あ、はい。そうです」
「どう?楽しい?」
「それはもちろん」
この半年で俺が知る事ができた事なんて、砂漠の中の砂一粒程度のものだろう。きっともっと大変な事は山ほどあるに違いない。実際今でも胃が痛くなる事もあるが、しかしそれらを吹き飛ばす輝きがある。
「それなら良かった。芸能の世界はね、表に出る子も裏で支える人も並の覚悟じゃ務まらないわ。物凄い多くの人が目指すけど、その分離れていく人の数も同じくらいいるからね」
「武雄さんはやっぱりお客さんが芸能人ばっかりだから、業界の事に詳しいんですね」
武雄さんは立ち上がって俺の頭を両手で抑え、鏡を見ながら水平になるように落ち着かせる。もう顔つきがさっきまでと違う。
「まあね、芸能プロや出版社の人とはよく話すわよ」
「じゃあ、武雄さん的に、売れる女の子ってどういう特徴があると思いますか?」
「女の子?女優?モデル?」
「どっちでも…」
「そうねえ」
今まで事務所の人以外に業界に詳しいという人に出会った事がなかったから、つい突っ込んだ質問をしてしまった。
「やっぱり覚悟じゃないかしら」
「やる気って事ですか?」
「やる気よりももう一段上ね」
「と言うと?」
イスに座り直し、キャスターの転がる音を立てながら移動して俺の髪型を観察する。
「みんなやる気はあるのよ。でも仕事なんだから、当然自分の理想とは違う事もやらなきゃいけない事だってあるわ。明らかにおかしい仕事はしなくてもいいけど、友達に自慢できるような仕事ばっかりじゃない時だってあるの。そういう時に、これも勉強と思って取り組めるかが大事よね」
「なるほど…」
武雄さんは鏡の横からドライヤーを取り出し、俺の髪を乾かし始めた。
「美容師も似たようなモンなのよ。最初からカットなんてできないわ。アタシだって新人の一年目は来る日も来る日も掃除とシャンプーしかしてなかったもの」
「へえー!」
そうなのか。美容師さんも下積みがあるのか。
「美容学校の同期はほとんど辞めちゃったわ。まあそうよね、サロンによっては毎日駅前でフライヤー配りしかさせてもらえない所もあるし、そうするとこれが自分のやりたかったことなんだろうかって思考になるわよ。店によっては軍隊みたいな所もあるしね」
「でも武雄さんは辞めなかったんですよね?」
「当然よお。アタシはアタシの手でお客さんを人生最高に綺麗な自分にしてあげたいのよ。その想いがアタシの覚悟を支えたの」
「うわ!武雄さんかっけえー!」
「あら、ありがとう。そして出来たわよ」
武雄さんは俺の首の後ろのマジックテープを剥がし、ケープを取り払う。
「どう?優生ちゃん。素敵になったでしょ?」
「俺かっけえー!」
ほんの少し切っただけなのに、鑑に映る自分はさっきまでの自分と違う。
多摩川の土手をチャリンコでフラフラしていそうな小僧から、原宿のインフルエンサーグループの一員になったような感じだ。
ただの優生が、スーパー優生に格上げである。
「すげえ!武雄さん!すげえっす!」
「あーん、喜んでもらえて嬉しいわあ!」
武雄さんは笑顔でケープを畳んでから、俺を再度VIPルームに連れて行った。
「真優莉ちゃん、お待たせ。優生ちゃん終わったわよ」
もうネイルは終わったのか、一人で本を読んでいた真優莉が顔を上げた。しかし俺と目が合ったと思ったら突然がばっと体を屈めて下を向く。
「ん?どうした?」
動かないな、と思ったら
「…くしゅん!」
という音がした。
なんだ、くしゃみか。
真優莉は顔を上げる。
「良くなったじゃない。さすが武雄さんね」
ぶっきらぼうに言ってサイドテーブルに置かれたティーカップを手に取り口を付ける。
「でしょ~!女の子ならみーんな惚れちゃうわね!」
「ぶっ!」
突如真優莉が飲み物を噴き出した。
「あらあら真優莉ちゃん、お洋服大丈夫?」
「変な事言わないで!誰が優生なんかに惚れるもんですか!」
むっ。
まあでも確かに武雄さんも言い過ぎだろ。
「そうっすよ、むしろ俺が武雄さんに惚れちゃいますよー」
「あらヤダ、優生ちゃんったら!」
「なんですってえ‼」
またいきなりキレた!
「なんだよ、こんな高い店で騒ぐなよ」
「あんたがバカな事言うからでしょ!」
「バカとはなんだよ!実際武雄さんはカッコいいだろ!」
「ちょっと髪いじってもらっただけで好きになるなんてどんだけ単純なのよ!」
「ほらほら二人とも、喧嘩しないの」
武雄さんがスマートでエレガントな大人の余裕で真優莉を宥めると、イキり立っていた真優莉も大人しくなった。
「いいからさっさと事務所に戻りなさい!勤務中でしょ!」
そっちが引き留めたくせに!
しかし金を出してもらっているので文句は言えまい。俺は武雄さんとVIPルームを出た。
「すいません、騒いじゃって…」
「いいのよ、いいのよ。若いっていいわねえ」
武雄さんは入口のドアを開けて見送ってくれた。リーさんもお客さんの髪を乾かす手を止め、笑顔で一礼してくれた。
「優生ちゃん、また遊びに来てね。優生ちゃんには学割も適用して二割引きでやってあげるから」
「いいんですか?!」
「内緒よ~!」
俺はお礼を言って店を後にした。
来たときはエレベーターに乗ったので、帰りはエスカレーターに乗って各フロアの様子を眺めながら下へ向かう。途中、所々設置されている鏡に自分の姿が映る度に、ニヤけそうになってしまう。
人は見た目が九割と言われる所以が分かる。女の子がメイクや髪型に力を入れる訳だ。
それから元来た道を引き返し、さっきのコンビニで再度おやつを買ってから自転車に乗って事務所へ戻った。結構な時間事務所を空けてしまったが、本当に綾辻社長は了承していたらしく、戻ってきた俺を見るなり
「あらら、優生君、見違えたねえ。いいじゃないか」
と褒めてくれた。
「いや~すみません、時間貰っちゃって…」
「いいよいいよ、これも仕事のうちだ」
「ですよね!俺、武雄さんからすっげえタメになる話聞いたんですよ!」
俺は綾辻社長に、さっきの武雄さんとの会話をまるっと話した。
「俺もう感動しましたよ!やっぱその道のプロって仕事だけじゃなくて考えている事がすげえなって!」
「そうだろう、そうだろう」
綾辻社長はいつもの笑顔で頷いてくれる。
「優生君、そういう経験は大事だよ。プロがなぜプロになれたのか、一流はなぜ一流と呼ばれるのか。なぜ彼らの仕事や想いに感動するのか。常に観察して考えなさい。我々は人に感動を届ける立場にあるんだからね」
「はい!」
俄然やる気が沸いた俺は、さっそく中断していた仕事に取りかかった。
「そういえば」
綾辻社長は何かを思い出したように、俺に声を掛けた。
「真優莉君はあの本で良いって言ってたかい?」
「え?いや特に何も言ってなかったですけど」
「そうか、じゃあ良かったのかな」
綾辻社長は、ふむ、と小さく頷いた。
「あれ何の小説ですか?」
「小説ではないよ。まあ学術書の一種だ」
「え?何で真優莉が学術書なんて読むんですか?」
正直、そんなにインテリなイメージはないのだが。
「ああ、次の舞台の役作りでちょっと苦戦しているようでねえ」
「へえ。どんな役ですか?」
「美貌の侯爵令嬢だよ」
ハマり役じゃないか。
「…苦戦するポイントあります…?」
「まあ、大体予想は付くけどね」
「え?そうなんですか?」
あの真優莉が、ハマり役で苦戦。
一体どんな舞台なんだ?
「あの、その舞台がどんななのかって、俺が聞いてもいいんですか?」
「もちろん、問題ないよ」
綾辻社長は立ち上がって社長室に入り、すぐさま一冊の文庫本を手に戻ってきた。
「読んだ事あるかい?」
テーブルに置かれた文庫本に目を落とす。
「ロシアの作家、ツルゲーネフの『初恋』の舞台だよ」
「…すいません、読んだ事ないです…」
「そうか、まあ若い子にツルゲーネフは馴染みがないか」
いや、そもそもロシア文学そのものに触れた事がない。さらに正直に言っていいのなら、俺は芸術方面だけでなく、文学も興味がなかったから全く詳しくないのだ。
「よかったら読んでみるといいよ。貸してあげるから」
「あ、ありがとうございます」
手に取ると随分と薄い。文学とか小説は、まずあのボリュームに苦手感を覚えるのだが、この分量ならとっつきやすいような気がする。
「綾辻社長はロシア文学って好きなんですか?」
「そうだねえ、良いと思っているよ」
「あ、そうなんですか…」
世の中色んな人がいるもんだ。まあ綾辻社長は演出家だから間口が広いんだな。
しかしいくら真優莉が出るからといって、ロシア文学の舞台化で客は集まるのか?
「綾辻社長…つかぬ事お伺いしてもよろしいでしょうか…」
「なんだい?」
「この舞台、成功…します…かね?」
「どうしてだい?」
「え、だって、言っちゃなんですけど、ロシアの文学って全然知られていないじゃないですか。シェイクスピアなら俺でも名前は聞いた事ある話ばっかりですけど…」
「つまりマイナー過ぎて出演者のファンにしか響かないんじゃないか、という事だね?」
「あ、まあ…」
「ロシア文学には興味ないかい?」
「すいません、全然ないです」
ハッキリ白状し過ぎたか?でも事実だからしょうがない。
「どうして興味がないんだい?」
「え?どうしてって…」
興味がない事に理由なんてあるんだろうか?
「だって…有名じゃないですよね。俺の周りでロシア文学が好きって言っている奴は一人もいなかったです」
「そうだね、確かに大学の学部でも文学部といえばイギリス文学や日本文学の方が人気だね」
「そうですよ、それになんかロシアって海外旅行でも人気の国って感じじゃないし…」
どうせ金出して海外に行くならやっぱりアメリカとかの方が楽しそうだ。大学の時だって、海外行ってお土産配っている子はみんな韓国や台湾やタイみたいな、日本人に馴染み深い場所に行っていた。単純に旅行代が安いってのもあるだろうが。
「ロシアに旅行は行きたくないかい?」
「ええーロシア?いや、ちょっとなあ…」
「優生君は、どうしてそんなにロシアに抵抗感を覚えるんだい?」
怒られているのかと思ったが、綾辻社長はいつものニコニコ顔だ。つまり俺との会話を楽しんでいる。
「なんか怖くないですか?」
つい本音が漏れた。
「何が怖い?」
「いやなんか…得体が知れないっていうか…」
「情報が少なすぎるのかな」
「そう!そうですよ!アメリカとかだとドラマも映画もたくさんあるし、観光客もお互いに行き来しているじゃないですか!でも、これだけグローバル化とか言っているのに、ロシアはなんか手の内晒さない感じありません?!」
偏見かもしれないが、純粋にそう思うのだ。
「それに多分、こういう言い方はアレかもしれませんけど…政治がちょっと…」
「ああ、それはあるかもねえ。政治体制が違うと、不安になるかもね」
綾辻社長は、うんうんと頷く。
「でも優生君、よく考えてみるんだ。今の世界情勢が確立したのは第二次世界大戦後だ。だけど優生君がとっつきにくいと感じている古典文学はそれ以前に書かれたものがほとんどで、『初恋』は一八六〇年に出たものだ。優生君が不安に思う現在の政治要素の影響は受けていないはずだよ」
「…あ、そうか」
確かにそうだ。日本の文学にしたって、その時代毎に特徴は違うはずだ。平安時代に異世界転生系のラノベはないもんな。
「でも、やっぱりその国の人の感性とかって何百年たってもそう変わらないんじゃないですか?日本なら、ワビサビとか…」
「優生君、茶道やっているのかい?」
「…いえ、やってません…」
「ほら、だろう。イメージと実際が離れているなんて事はよくあるもんだ」
綾辻社長は、『初恋』の小説を手に取り表紙を撫でた。
「ロシア文学の良し悪しは各々が決めればいい。私も強制はしないよ。ただ、古くから読まれる文学を読む意味は、知っておかなければならない」
「え、何ですか?」
俺は体を前にのめり出させて、綾辻社長の言葉を待つ。
「人間というものは」
そう言って一呼吸おいて、綾辻社長は俺を見つめた。
「恐ろしいほどに変わっていない。どれだけ時代が変遷して技術が進化して政治に革命を起こそうと、人である事だけは変わろうとしない。その愛おしさが描かれている」
綾辻社長は俺に再度、『初恋』を差し出した。
「優生君、君が本気でこの世界を知ろうと思うなら、役者と同じように本を読みなさい。役者がどこに行っても本を読めと必ず言われるのは、登場人物の人生をなぞる事で自分以外の人間になることができるからだ。その感覚を君も実感しなさい」
「分かりました」
なるほど。役者がどういう事をしているのかを理解する事は大切だ。
「そうすれば君もその過程で知る事ができる」
「何をですか?」
「己の中に生まれる感情と行動が、どう結びつくのか、がね」
悪天候が続く日々の中の、降ってわいたようなきらきらとした夏日。
普段は避けて通る水溜まりの上をあえて自転車で通って水しぶきが立つ音が聞きたくなる。子どもっぽいとは思うが、俺は心が躍ると色んな音を聞きたくなるのだ。
バタバタと忙しい午前が終わり、遅めの昼休憩を取るために昼飯をコンビニに買いに行ったが、出遅れたのか品物はあまり残っていなかった。食べたかったうどんの代わりに冷やし担々麺を買い、戻ってきた時にポストを除くと茶封筒に包まれた分厚い郵便物が入っていた。差出人は地方の古本屋だから中身は本のようだ。綾辻社長がネットで頼んだんだろう。
「戻りましたー。綾辻社長、本届いてますよー」
社長室のドアを開け声を掛けると、綾辻社長は顔を上げ
「あら、届いたかい?ありがとう、優生君」
と言って俺から茶封筒を受け取り、それから誰かに電話し始めた。
買ってきた担々麺を食べながら、テレビを点けお昼の情報番組を見る。三崎さんは今日一日ユビキタスの方に行っていていないから、俺の好きな番組を見る事ができた。今日は横浜の中華街の人気食べ放題特集をやっていて、ウマそうな中華を見ていると食べたくなる。夕飯は麻婆豆腐かな。昼も夜も中華だけど、そんな事は気にしない。
休憩を終え、請求書のチェックなどの事務作業をしていると、綾辻社長が社長室から出てきた。
「優生君、今日は急ぎの仕事はあるかい?」
「いや、ないですよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけど、ちょっとお使いを頼まれてくれるかい?」
「あ、はい。何買ってきますか?」
「いやね、届けものをして欲しいんだ」
綾辻社長の手にはさっきの茶封筒がある。
「これを真優莉君に届けて欲しいんだよ」
げっ。真優莉かよ。
「今日どこで稽古してるんですか?」
「今日は休みなのよ。今渋谷の美容院にいるから、そこに行ってくれるかな?」
休みなら自分で来いや!
そう言いたいけど、仕方ない。
場所を教えてもらい、本をリュックに入れて事務所を出て、自転車を漕ぎ出すと爽やかな風を感じる。天気が良いから気分転換だとでも思うか。
再開発が進み新しいビルが増える一方で、複雑さも増す渋谷はちょっとした迷宮だ。
自転車をどこに置けばいいのかがまず分からない。持って行かれるのは嫌だから、駅からかなり離れたコンビニの前に止め、念のため店でペットボトルの飲み物を買ってから俺は駅に向かって歩き始めた。
新しくできた商業ビルの一つ、渋谷スクランブルプラザ。
その十二階のヘアサロンに真優莉はいるらしい。エレベーターで十二階まで上がって、ドアが開くと真正面にそのサロンが見えた。ガラスのドアから中を覗くと、奥の方のガラス張りの壁からは渋谷の街並みが一望できる。夜は夜景が綺麗だろう。白い大理石の床の上には、黒い革張りの椅子と背の高い全身鏡が等間隔で並ぶ。シンプルでスタイリッシュで高級感溢れる店内。立地といい内装といい、高いんですオーラが漂い俺は怖気づく。しかし本を渡すだけだと自分に言い聞かせ、勇気を出してドアを押し中に入った。
「いらっしゃいませ」
不意に右側から声を掛けられその方を見ると、受付のカウンターに俺と同年代と思われる男の子が立って、笑顔を浮かべている。
頭の上の方にボリュームがある髪型は、金髪だけどツヤがある、今流行りのK-POPアイドル風の髪型で、白いシャツを第一ボタンまで留めているのにウチの東大コンビと違ってダサく見えずオシャレなのは、耳にいくつか付けられたシルバーのピアスとこの髪型のおかげか。
「あ、あの、こちらに室町真優莉がいると聞きまして…あ、俺、オフィス綾辻の小峰と申します…」
馴染みのない空間にしどろもどろになってしまう俺だが、男の子は丁寧な笑顔で少々お待ちくださいませと言って、後ろのドアの向こうに消えていった。
店内を見ると、何人かのお客さんが白いケープに包まれ、髪を切られたり乾かされたりしていて、雑誌を読んでいる人もいるが、真優莉の姿はない。店を間違えたのかと思い不安になっていると、さっき男の子が入って行ったドアが開き、中から出てきたのは背の高い男性だった。
さっきの韓国アイドル風の男の子とは全く違い、こちらは短い黒髪をワックスでツンツンに立たせ、掛けている眼鏡も東大コンビのビン底眼鏡とは違う、スクエアフレームのお洒落なもので、レンズの奥では切れ長の目が柔らかくも鋭い眼光を放っている。黒い細身のワイシャツの、まくった袖からはうっすらと筋肉のついた腕が覗く。
やっべぇー!
この人超かっけぇー!
美容師ってこんなにオシャレなのかと驚いていた、
ら。
「いやあだ!あなたが優生ちゃん?も~う、超キュートじゃなあい!」
??!!
目の前のオシャレイケメンが、その風貌とは全く噛み合わない声と話し方で体をクネらせながら俺ににじり寄ってきた。
「え?え、あの…」
「やだもう、近くで見るとますます可愛いわあ!もろアタシの、こ・の・み!」
「そ、それはどうも…」
反応に困り、冷や汗だけが流れる。
「あ、そうそう、真優莉ちゃんよね。こっちよ、VIPルームにいるわよ」
オシャレイケメンが歩き出したので、俺は取りあえずついて行きながら、混乱して処理能力がダウンした脳を必死に回転させる。渋谷を見下ろすガラス壁の手前側にドアがあり、開けるとそこも引き続きガラスの向こうに渋谷の景色が広がる。しかしこの部屋はVIPルームだから、この景色は他のお客とではなく一人だけでゆっくりと眺める事ができる。そして今この景色を独占しているのはウチの看板女優だ。
「真優莉ちゃん、優生ちゃんが来たわよお」
部屋の中央の椅子には、スマホをいじる真優莉の姿がある。足元ではエプロンを掛けた女性がしゃがみ込んで、真優莉の足の爪を磨いていた。
「本持ってきてくれた?」
「ほら、これだろ」
茶封筒を手渡すと、さっそく真優莉は封を破り中から本を取り出した。
「ありがとう。ご苦労様」
オシャレイケメンはすかさずゴミとなる茶封筒を引き取り、ネイルをやっている女性は真優莉が膝に置いたスマホを傍らのテーブルに移動させる。
ちょっと皆さん。真優莉に使われ慣れてません?
まあいいや、これで任務は完了だ。とっとと帰ろうと思い、じゃあこれで、と声を掛け振り向こうとした、その瞬間。
「待ちなさい、優生」
真優莉が俺を引き留めた。
「何だよ、本は渡しただろ」
「まだ帰っちゃダメよ」
「なんで?」
驚く俺に、オシャレイケメンがまたにじり寄る。
「これから優生ちゃんの髪をカットするわよ!」
「え!」
なぜ俺が?!金なんてないぞ!
「大丈夫よ、お代は真優莉ちゃんが払ってくれるわ」
「ええ?!」
ビックリして真優莉を見ると、本を開きながらシレっと
「そんなボサボサ頭でこのサロンから帰す訳にはいかないでしょう?それにこの仕事をするなら、例え裏方でも少しは見た目を気にした方がいいわよ」
と言い放つ。
「いや、でも俺今、勤務中だし…」
「綾辻社長には了承してもらっているから安心しなさい」
真優莉はもう本に意識を奪われているらしく、俺の戸惑いには興味がないようだった。するとさっきの韓国アイドル風の男の子が姿を見せた。
「武雄さん、お席御用意できました」
「ありがとう、リー君。さ、行くわよ、優生ちゃん」
男の子はリー君、このオシャレイケメンは武雄さん。もう何がなんだか。
「大丈夫よ、優生」
真優莉は本を読みながら、声を掛ける。
「武雄さんのお客様は芸能人ばっかりよ。腕は絶対なんだから」
「そうよ、優生ちゃん!アタシを信じなさい!」
俺の肩をぐっと掴んで引き寄せる腕の力が、なんとも猛々しい。
「一皮ムくわよ~!」
「え、あの、それは、比喩ですよね?!」
「あら、比喩じゃなくてもいいのよ~!」
そのまま俺はなし崩し的に武雄さんに連れていかれ、店の一番奥の椅子に座らされた。武雄さんは俺に白いケープを着せ、霧吹きで俺の髪を湿らせていく。
「あれ?シャンプーとかはしないんですか?」
普通、美容院という場所はまず最初に髪を洗うはずだが。
「シャンプーは真優莉ちゃんから禁止令が出ているのよ。触っちゃダメって」
なんで?
ああ、料金が別なのか。
「でも大丈夫よ、ちょっと濡らすだけでも十分だわ」
武雄さんは手際よく霧吹きを吹きかける。耳元でシュッという音がすると、なんだかくすぐったくて思わず肩が跳ねる。
「もーう、優生ちゃんったら本当に可愛いわねえ」
武雄さんはクネクネしながらも、腰にぶら下げているポーチから櫛を取り出し俺の髪を梳かしてから、ハサミを軽快に操る。ハサミがリズミカルに動く度に、湿った俺の髪がパラパラと落ちてくる。
ふと気付くとリーさんがいない。
「あれ、リーさんは?」
「リー君はお客様のところに戻ったわ。今シャンプー台でパーマ液流しているわよ」
聞けばリーさんはやはり韓国出身らしく、韓国のアイドル風の髪型にしたい若者から絶大な支持を誇るそうだ。
「リー君はねえ、本当に気が利くし礼儀正しいし勉強家だし、掃除とかも率先してやってくれる美容師の鑑なのよ」
「へえ、凄いですね」
「他のサロンから引き抜きの話もたまにあるんだけど、その度にアタシがリー君の給料上げて話を断ってもらっているの。それでも天狗になったりしないのよ」
素晴らしい。
その謙虚さ、誰かさんも見習うべきだ。
「武雄さんはどうして美容師になろうと思ったんですか?」
「アタシ?そりゃーもう、これしかないって思ってたからよ」
武雄さんはキャスター付きのイスを引き寄せ、それに腰かけながらハサミを動かし続ける。
「アタシね、昔っからおしゃれなものや綺麗なものが好きだったの。妹がいるんだけど、妹の服は全部アタシが選んでたくらい。その内に服だけじゃなくて妹の髪型もアタシがやるようになったんだけど、これが楽しくて楽しくて。妹も喜んでくれたし、周りからも褒めてもらえたし、自分の手で誰かを綺麗にできるって最高の感覚だって、子どもの頃から知っていたの」
それから武雄さんはこの仕事に就くまでの事を俺に話してくれ、俺はその話に聞き入った。
「優生ちゃんは今年から入ったアルバイトなのよね?」
「あ、はい。そうです」
「どう?楽しい?」
「それはもちろん」
この半年で俺が知る事ができた事なんて、砂漠の中の砂一粒程度のものだろう。きっともっと大変な事は山ほどあるに違いない。実際今でも胃が痛くなる事もあるが、しかしそれらを吹き飛ばす輝きがある。
「それなら良かった。芸能の世界はね、表に出る子も裏で支える人も並の覚悟じゃ務まらないわ。物凄い多くの人が目指すけど、その分離れていく人の数も同じくらいいるからね」
「武雄さんはやっぱりお客さんが芸能人ばっかりだから、業界の事に詳しいんですね」
武雄さんは立ち上がって俺の頭を両手で抑え、鏡を見ながら水平になるように落ち着かせる。もう顔つきがさっきまでと違う。
「まあね、芸能プロや出版社の人とはよく話すわよ」
「じゃあ、武雄さん的に、売れる女の子ってどういう特徴があると思いますか?」
「女の子?女優?モデル?」
「どっちでも…」
「そうねえ」
今まで事務所の人以外に業界に詳しいという人に出会った事がなかったから、つい突っ込んだ質問をしてしまった。
「やっぱり覚悟じゃないかしら」
「やる気って事ですか?」
「やる気よりももう一段上ね」
「と言うと?」
イスに座り直し、キャスターの転がる音を立てながら移動して俺の髪型を観察する。
「みんなやる気はあるのよ。でも仕事なんだから、当然自分の理想とは違う事もやらなきゃいけない事だってあるわ。明らかにおかしい仕事はしなくてもいいけど、友達に自慢できるような仕事ばっかりじゃない時だってあるの。そういう時に、これも勉強と思って取り組めるかが大事よね」
「なるほど…」
武雄さんは鏡の横からドライヤーを取り出し、俺の髪を乾かし始めた。
「美容師も似たようなモンなのよ。最初からカットなんてできないわ。アタシだって新人の一年目は来る日も来る日も掃除とシャンプーしかしてなかったもの」
「へえー!」
そうなのか。美容師さんも下積みがあるのか。
「美容学校の同期はほとんど辞めちゃったわ。まあそうよね、サロンによっては毎日駅前でフライヤー配りしかさせてもらえない所もあるし、そうするとこれが自分のやりたかったことなんだろうかって思考になるわよ。店によっては軍隊みたいな所もあるしね」
「でも武雄さんは辞めなかったんですよね?」
「当然よお。アタシはアタシの手でお客さんを人生最高に綺麗な自分にしてあげたいのよ。その想いがアタシの覚悟を支えたの」
「うわ!武雄さんかっけえー!」
「あら、ありがとう。そして出来たわよ」
武雄さんは俺の首の後ろのマジックテープを剥がし、ケープを取り払う。
「どう?優生ちゃん。素敵になったでしょ?」
「俺かっけえー!」
ほんの少し切っただけなのに、鑑に映る自分はさっきまでの自分と違う。
多摩川の土手をチャリンコでフラフラしていそうな小僧から、原宿のインフルエンサーグループの一員になったような感じだ。
ただの優生が、スーパー優生に格上げである。
「すげえ!武雄さん!すげえっす!」
「あーん、喜んでもらえて嬉しいわあ!」
武雄さんは笑顔でケープを畳んでから、俺を再度VIPルームに連れて行った。
「真優莉ちゃん、お待たせ。優生ちゃん終わったわよ」
もうネイルは終わったのか、一人で本を読んでいた真優莉が顔を上げた。しかし俺と目が合ったと思ったら突然がばっと体を屈めて下を向く。
「ん?どうした?」
動かないな、と思ったら
「…くしゅん!」
という音がした。
なんだ、くしゃみか。
真優莉は顔を上げる。
「良くなったじゃない。さすが武雄さんね」
ぶっきらぼうに言ってサイドテーブルに置かれたティーカップを手に取り口を付ける。
「でしょ~!女の子ならみーんな惚れちゃうわね!」
「ぶっ!」
突如真優莉が飲み物を噴き出した。
「あらあら真優莉ちゃん、お洋服大丈夫?」
「変な事言わないで!誰が優生なんかに惚れるもんですか!」
むっ。
まあでも確かに武雄さんも言い過ぎだろ。
「そうっすよ、むしろ俺が武雄さんに惚れちゃいますよー」
「あらヤダ、優生ちゃんったら!」
「なんですってえ‼」
またいきなりキレた!
「なんだよ、こんな高い店で騒ぐなよ」
「あんたがバカな事言うからでしょ!」
「バカとはなんだよ!実際武雄さんはカッコいいだろ!」
「ちょっと髪いじってもらっただけで好きになるなんてどんだけ単純なのよ!」
「ほらほら二人とも、喧嘩しないの」
武雄さんがスマートでエレガントな大人の余裕で真優莉を宥めると、イキり立っていた真優莉も大人しくなった。
「いいからさっさと事務所に戻りなさい!勤務中でしょ!」
そっちが引き留めたくせに!
しかし金を出してもらっているので文句は言えまい。俺は武雄さんとVIPルームを出た。
「すいません、騒いじゃって…」
「いいのよ、いいのよ。若いっていいわねえ」
武雄さんは入口のドアを開けて見送ってくれた。リーさんもお客さんの髪を乾かす手を止め、笑顔で一礼してくれた。
「優生ちゃん、また遊びに来てね。優生ちゃんには学割も適用して二割引きでやってあげるから」
「いいんですか?!」
「内緒よ~!」
俺はお礼を言って店を後にした。
来たときはエレベーターに乗ったので、帰りはエスカレーターに乗って各フロアの様子を眺めながら下へ向かう。途中、所々設置されている鏡に自分の姿が映る度に、ニヤけそうになってしまう。
人は見た目が九割と言われる所以が分かる。女の子がメイクや髪型に力を入れる訳だ。
それから元来た道を引き返し、さっきのコンビニで再度おやつを買ってから自転車に乗って事務所へ戻った。結構な時間事務所を空けてしまったが、本当に綾辻社長は了承していたらしく、戻ってきた俺を見るなり
「あらら、優生君、見違えたねえ。いいじゃないか」
と褒めてくれた。
「いや~すみません、時間貰っちゃって…」
「いいよいいよ、これも仕事のうちだ」
「ですよね!俺、武雄さんからすっげえタメになる話聞いたんですよ!」
俺は綾辻社長に、さっきの武雄さんとの会話をまるっと話した。
「俺もう感動しましたよ!やっぱその道のプロって仕事だけじゃなくて考えている事がすげえなって!」
「そうだろう、そうだろう」
綾辻社長はいつもの笑顔で頷いてくれる。
「優生君、そういう経験は大事だよ。プロがなぜプロになれたのか、一流はなぜ一流と呼ばれるのか。なぜ彼らの仕事や想いに感動するのか。常に観察して考えなさい。我々は人に感動を届ける立場にあるんだからね」
「はい!」
俄然やる気が沸いた俺は、さっそく中断していた仕事に取りかかった。
「そういえば」
綾辻社長は何かを思い出したように、俺に声を掛けた。
「真優莉君はあの本で良いって言ってたかい?」
「え?いや特に何も言ってなかったですけど」
「そうか、じゃあ良かったのかな」
綾辻社長は、ふむ、と小さく頷いた。
「あれ何の小説ですか?」
「小説ではないよ。まあ学術書の一種だ」
「え?何で真優莉が学術書なんて読むんですか?」
正直、そんなにインテリなイメージはないのだが。
「ああ、次の舞台の役作りでちょっと苦戦しているようでねえ」
「へえ。どんな役ですか?」
「美貌の侯爵令嬢だよ」
ハマり役じゃないか。
「…苦戦するポイントあります…?」
「まあ、大体予想は付くけどね」
「え?そうなんですか?」
あの真優莉が、ハマり役で苦戦。
一体どんな舞台なんだ?
「あの、その舞台がどんななのかって、俺が聞いてもいいんですか?」
「もちろん、問題ないよ」
綾辻社長は立ち上がって社長室に入り、すぐさま一冊の文庫本を手に戻ってきた。
「読んだ事あるかい?」
テーブルに置かれた文庫本に目を落とす。
「ロシアの作家、ツルゲーネフの『初恋』の舞台だよ」
「…すいません、読んだ事ないです…」
「そうか、まあ若い子にツルゲーネフは馴染みがないか」
いや、そもそもロシア文学そのものに触れた事がない。さらに正直に言っていいのなら、俺は芸術方面だけでなく、文学も興味がなかったから全く詳しくないのだ。
「よかったら読んでみるといいよ。貸してあげるから」
「あ、ありがとうございます」
手に取ると随分と薄い。文学とか小説は、まずあのボリュームに苦手感を覚えるのだが、この分量ならとっつきやすいような気がする。
「綾辻社長はロシア文学って好きなんですか?」
「そうだねえ、良いと思っているよ」
「あ、そうなんですか…」
世の中色んな人がいるもんだ。まあ綾辻社長は演出家だから間口が広いんだな。
しかしいくら真優莉が出るからといって、ロシア文学の舞台化で客は集まるのか?
「綾辻社長…つかぬ事お伺いしてもよろしいでしょうか…」
「なんだい?」
「この舞台、成功…します…かね?」
「どうしてだい?」
「え、だって、言っちゃなんですけど、ロシアの文学って全然知られていないじゃないですか。シェイクスピアなら俺でも名前は聞いた事ある話ばっかりですけど…」
「つまりマイナー過ぎて出演者のファンにしか響かないんじゃないか、という事だね?」
「あ、まあ…」
「ロシア文学には興味ないかい?」
「すいません、全然ないです」
ハッキリ白状し過ぎたか?でも事実だからしょうがない。
「どうして興味がないんだい?」
「え?どうしてって…」
興味がない事に理由なんてあるんだろうか?
「だって…有名じゃないですよね。俺の周りでロシア文学が好きって言っている奴は一人もいなかったです」
「そうだね、確かに大学の学部でも文学部といえばイギリス文学や日本文学の方が人気だね」
「そうですよ、それになんかロシアって海外旅行でも人気の国って感じじゃないし…」
どうせ金出して海外に行くならやっぱりアメリカとかの方が楽しそうだ。大学の時だって、海外行ってお土産配っている子はみんな韓国や台湾やタイみたいな、日本人に馴染み深い場所に行っていた。単純に旅行代が安いってのもあるだろうが。
「ロシアに旅行は行きたくないかい?」
「ええーロシア?いや、ちょっとなあ…」
「優生君は、どうしてそんなにロシアに抵抗感を覚えるんだい?」
怒られているのかと思ったが、綾辻社長はいつものニコニコ顔だ。つまり俺との会話を楽しんでいる。
「なんか怖くないですか?」
つい本音が漏れた。
「何が怖い?」
「いやなんか…得体が知れないっていうか…」
「情報が少なすぎるのかな」
「そう!そうですよ!アメリカとかだとドラマも映画もたくさんあるし、観光客もお互いに行き来しているじゃないですか!でも、これだけグローバル化とか言っているのに、ロシアはなんか手の内晒さない感じありません?!」
偏見かもしれないが、純粋にそう思うのだ。
「それに多分、こういう言い方はアレかもしれませんけど…政治がちょっと…」
「ああ、それはあるかもねえ。政治体制が違うと、不安になるかもね」
綾辻社長は、うんうんと頷く。
「でも優生君、よく考えてみるんだ。今の世界情勢が確立したのは第二次世界大戦後だ。だけど優生君がとっつきにくいと感じている古典文学はそれ以前に書かれたものがほとんどで、『初恋』は一八六〇年に出たものだ。優生君が不安に思う現在の政治要素の影響は受けていないはずだよ」
「…あ、そうか」
確かにそうだ。日本の文学にしたって、その時代毎に特徴は違うはずだ。平安時代に異世界転生系のラノベはないもんな。
「でも、やっぱりその国の人の感性とかって何百年たってもそう変わらないんじゃないですか?日本なら、ワビサビとか…」
「優生君、茶道やっているのかい?」
「…いえ、やってません…」
「ほら、だろう。イメージと実際が離れているなんて事はよくあるもんだ」
綾辻社長は、『初恋』の小説を手に取り表紙を撫でた。
「ロシア文学の良し悪しは各々が決めればいい。私も強制はしないよ。ただ、古くから読まれる文学を読む意味は、知っておかなければならない」
「え、何ですか?」
俺は体を前にのめり出させて、綾辻社長の言葉を待つ。
「人間というものは」
そう言って一呼吸おいて、綾辻社長は俺を見つめた。
「恐ろしいほどに変わっていない。どれだけ時代が変遷して技術が進化して政治に革命を起こそうと、人である事だけは変わろうとしない。その愛おしさが描かれている」
綾辻社長は俺に再度、『初恋』を差し出した。
「優生君、君が本気でこの世界を知ろうと思うなら、役者と同じように本を読みなさい。役者がどこに行っても本を読めと必ず言われるのは、登場人物の人生をなぞる事で自分以外の人間になることができるからだ。その感覚を君も実感しなさい」
「分かりました」
なるほど。役者がどういう事をしているのかを理解する事は大切だ。
「そうすれば君もその過程で知る事ができる」
「何をですか?」
「己の中に生まれる感情と行動が、どう結びつくのか、がね」
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