止まない雨はない

結城りえる

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第三章 君を想えば

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 J.F.ケネディ空港のロビーでルカを陰から見送ったあと、タカシはしばらくその場を離れることが出来なかった。ピアノはあきらめない。そんな風にルカに誓ったものの、ルカという自分のなかの「情熱」を失ってしまった今、夢を持続させる力まで失ってしまったことを、彼はイヤというほど思い知らされていたのだった。
「のォ…お若いの、こんなところで誰か見送りかのォ…」
 ぼんやりと立ち続けるタカシの後ろから、ふいに老紳士が声をかけてきた。
「…いや、あいすまん。ついな、こんなところで元気のない日本人の若いのを見たら、声を掛けたくなってしまった。ワシの悪い癖でなァ…」
 銀髪の老紳士は奇妙なことに黒服のボディガードのような付き添いを数人連れていた。普通の一般人ではなさそうだ。
「………大切な“友人”を、たった今、失ったところですよ」
 見知らぬ紳士だからこそ、自分の胸の内を自然に吐露することが出来るのかもしれない。タカシは素直に答えていた。
「……そうか。だが、相手は生きておるんだろう?ユーレイは飛行機には乗らんからのォ…」
「…………。」
「生きておれば必ず会える。ところでお前さんは、NYここで何をしておるんだ?」
「……ジャズピアノを勉強しに来ていました。でも、そろそろ日本に帰ろうかと思って。アパートも引き払ってしまったし、今じゃしがない無宿者です」
「…そうか、ならば今晩、ウォルドルフ・アストリアホテルに来んか?ひとつ、お前さんをテストしてやろう」
 豪快な物言いをするこの紳士に、タカシは不思議と抵抗を感じなかった。ルカがこの場にいない以上、自分の身の振り方は自由だ。
「オレを…テスト…?ですか?」
「そうだな、お前さんが度胸のある日本人かどうか、試してやろう。ワシの名は“堺谷”だ。フロントでこの名刺を見せろ。ボーイが案内してくれるよう、手配しておく」
「……え?…ちょっと…まだ行くとは決めかね…」
 ボディガードたちに時間を告げられた堺谷は、タカシの返事を聞くことなく、立ち去ろうとした。
「お前は絶対に来る。ワシの若い頃に似ておるような気がするからのォ…」

 ザ・ウォルドルフ・アストリアホテルは、J.F.ケネディ空港から、20マイル以内にある高級ホテルだ。1931年に開業した老舗のホテルでもあり、要人や大統領、ハリウッドスターなどが利用している。
「あの紳士、いったい何者なんだ…?こんなホテルに宿泊しているなんて、タダモノではないとは思うけど…」

≪お前さんをテストしてやる≫

 あの紳士の言葉がどうしても気になったタカシは、躊躇いながらも、ここへ辿りついてしまったのだ。エントランスに足を踏み入れた途端、場違いな自分の存在を恥じた。

………来るんじゃなかった。

 フロントに立ち寄らず、そのまま背を向けて帰りかけたとき、それに気付いたフロントマンが、慌てて声を掛けてきた。
「Excuse me sir. Are you Mr. Takashi  Uesugi ? I will must be going. It receives it from Mr. Sakaiya. Here please. (失礼ですが、ウエスギタカシ様でいらっしゃいますね?堺谷様より承っております、こちらへどうぞ。)」 
 フロントマンは直接タカシの前に立ち、案内をしてくれた。そんなことまでさせることが出来てしまう、堺谷というあの紳士、一体何者なのだろうか?
 ぱっと見ただけで装飾が違う、豪華なフロアで降りるよう勧められ、タカシはフロントマンの後に付いて行った。しばらくしてたどり着いたキングスイートの前に立ち、フロントマンが呼び鈴を押すと、部屋のドアが開き、空港で見た数人の黒服の男性の一人が、タカシを部屋に通してくれた。
「よォ?来たかのォ?待っておったぞ」
「お招きいただいて…恐縮です」
「まぁ…堅いことは抜きだ。そこに掛けて楽にしろ。」
 広い豪華なリビングを思わせるソファに、タカシは腰かけた。ゴブラン織りのきらびやかな装飾が施されたファブリックだった。
「……お前さんを呼んでテストといったのは…アレ、だ…」 
 堺谷の視線の先にはあったものは、この部屋の続きとなっている隣室に置かれた、ウォルナット色のグランドピアノだった。
「………ピアノ」
「……おぅ、そうじゃ。お前さんの腕がモノになるものかどうか、ワシが試してやる」

  …そういえば、ルカと別れる決心をしてから、ほとんどピアノには触れていなかった。

 と、いまさらのようにタカシは気付いた。
「申し訳ないですが……オレ、今、全力で弾ける自信が…」
 ピアノにわざと背を向け、避けるようにしてタカシは堺谷に断ろうとした。そんなタカシを堺谷は一喝する。
「つべこべ言わんと、弾いてみろ!何か得意なナンバーは弾けるか?」
 タカシは言われるままに、ピアノの前に座る。有名な曲を今までいろいろコピーしてきた。でも今だけは、そんな陽気な曲ばかりを弾く気にはなれない。だったら……この狂いそうなほどの胸の痛みを、ルカを思いだせるような曲を弾いてみせるだけだ。

 そして思い出せ…!オレはそもそもこの地で何がしたかったのか?本場のジャズを身につけたかったんじゃないのか?そしてその途上で、ルカにありったけの情熱を注いでいたんだ。

 躊躇いながらも、タカシの指は白と黒の鍵盤の上で踊る。

 ルカ………ルカ………オレの!!大切な………ルカ………。

 躍動感あるリズムのなかに、タカシはいた。指先が、その感触を覚えている。どんなに離れていても、忘れることのなかった感触。鍵盤の冷たい固さ。それに相反した、ルカの柔らかでぬくもりのある肌。その片翼を失った今、自分は飛ぶことをあきらめようとしていた。どちらも全力で愛した。愛しているからこそ、あきらめることを選んだ。
 叶わぬ恋ほど美しい。いつかどこかの詩人がそんなことを言っていた。ルカのまなざしを今も想えば、胸の内を全て簡単に焦がすことができる。
ほろ苦い板チョコを二つに割って、コーヒーカップを片手に、微笑んだルカ。目の傷のせいにして逃げようとした自分に、その激しい愛でぶつかってきたルカ。メスを握って、ためらうことなく自らの顔面を傷つけ、噴き出す血に驚くこともなく、悲しい眼でみつめてきたルカ。
 そんないくつものルカの顔を思い出しながら、タカシは激しいリズムを指先で奏で、作り上げていく。そしてタカシの演奏を、肘掛け椅子にもたれながら、堺谷は目を閉じて聴いていた。

 ルカ………オレは………。愛しているんだよ、今も…そしてこれからも。お前に恋をすることで、ピアノを弾いているこの瞬間でさえ、楽しくも、悲しくも色を変えられるんだ…。

 ルカ…………。お前に触れたい。その唇、その細い肩、腕、指先…全て。時を忘れて愛し合った。腕のなかでお前は、いつも幸せそうに笑ってくれた。
「オレとタカシさんは、出会うべき運命だったのかも……なんてね」
 かたくなに運命を信じていた。夜勤明けで眠そうなお前に、オレはだだをこねたガキのように無理矢理愛を強要したこともあったけど…。わがままに生きてきたオレに、唯一出来ることはお前の背中を押すことだけだったから…。

「………………!!」
 
 タカシは突然両手で鍵盤を叩き、大声を上げ、そして…………子供のように泣いた……。

 愛していたんだ、ルカ……。お前の邪魔になんて……絶対になりたくなかった。そんな惨めで苦しい磔刑なら、オレはお前の幸せだけを願おう、と。

 お前を傷つけたくて、傷つけたんじゃない。愛しているから……一緒にいられなかった。

 ……………愛してるよ…。ごめん、ルカ。



**************

「………お前さんはとんだ見込み違いだったようだな…」
 堺谷はぽつりと呟いた。
「……お前さんは野心家にはなれそうにない。だが、いいミュージシャンにはなれそうだ…」
「……………」
「音楽は愛によって生まれ、人を生かす。ミュージシャンもしかり。お前さんは……自分でその大切なものを今、失くしたようだが…戻ってきたら……どうなるかのォ…」
 堺谷は立ち上がり、窓辺へと歩いていった。マンハッタンを見渡すその素晴らしい景色を見たあと、振り返る。
「………タカシ、一緒に日本に来い。ワシがお前さんにひとつ、投資をしよう。店を一軒くれてやる。それがお前さんを今後生かすか殺すかは…お前さん次第だがのォ…」
 口元だけで堺谷は静かに笑うのだった…。
Ein Lehrer ルカ!ルカ先生朝食が出来たわよ…」
 階下で彼を呼ぶのは、この下宿の女主人、シュトライト婦人だ。歳は60歳を越え、ふくよかで丸い眼鏡をかけた、やさしい銀髪の婦人だ。
「フラウ・シュトライト!今行きますよ…」
 階段の手摺に手を掛け、自室から出てきたのは、J.F.K.空港でタカシと別れてから、既に三ヶ月が過ぎようとしていたルカだった。
 食卓に着くと、シュトライト婦人は彼に自家製のBrotパンをたくさん勧めてきた。
「ハムは?それともチーズは如何かしら、ルカ?」
「いえいえ…そんなにも食べられませんよ!僕の友人なら…朝から食欲旺盛でしたけど」
 僕の友人……それは今は行方の知れない、タカシだった。
「まぁ?たくさん食べてくれる男性は大好きよ!亡くなった主人も、朝からたくさん食べてくれる人だったもの…。ルカの友人、バイエルンには来ないの?」
「……そうですね…」
 ルカはふと、淋しげな微笑を浮かべた。
「…ケンカをしたわけではないのですが…事情があって、一緒にはいられなくなりました。僕もこちらのアカデミーに招聘されたし、彼には…大切な夢があったので」
「……そうなの。ごめんなさいね。そのお友達、あなたにとって、とても大切な人だったのね?よくわかったわ」
 シュトライト婦人はすまなさそうな顔をして、そのままキッチンへと消えてしまった。
「そういえば…タカシさん、朝っぱらからモグモグよく食べる人だったなぁ…」
コーヒーの入ったカップを両手で包むようにして持ちながら、ルカは目を閉じた。

『おーい、ルカ!今日の朝飯、何がいい?オレ、腹減って早起きしちまった』

『あーあ、目玉が潰れちゃったよ…。やっぱオレは目玉は苦手だし、眼科のルカ先生には敵わないみたいだから、今朝のメニューはスクランブルエッグだよ?』

『ルカの作る飯って、どーしてこんなに美味いんだろうーねぇ…?やっぱ、愛情ってヤツ?』

『あー、腹減った。あ、もっとちょうだい、それ!!』

 タカシとのNYでの暮らし全てが、自分の人生の中で最も充実し、最も幸せな日々だった。思い浮かぶのは必ず、タカシの茶目っ気たっぷりの笑顔だった。大の大人に茶目っ気という表現はふさわしくないかもしれないが、タカシは時として、素敵な大人でもあり、子供のようにピュアな人でもあった。
 そして…とてもやさしい人だった。自分を犠牲にしてでも、愛する人を守り通すのがタカシだった。今なら、それが痛いほどわかる。空港に最後まで来なかったのではない…と。
 きっとあのとき、タカシは何処かで自分を見ていてくれたに違いない。
「……ダメだな、オレって…独りになるとつい、あのひとのことばかり考えてしまう」
 出逢った時からそうだった。不思議な力で引寄せられた。無防備にあれは何かの魔法だったのかもしれない。無防備に、同性の彼のなかへ恋をして飛び込んでしまったのだから。
 けれども…自分は彼に突き放された。
 頬杖をつきながら、ルカは窓を眺めた。所在さえ判れば、手紙だって書けるのに…。いい大人なのに…何故、こうも泣きたくなるような想いをしなければならないのだろう?
 タカシと別れても今なお、身も心も彼に支配されている自分がいる。

 タカシさん…。オレ、バイエルンで毎日、研究と論文の生活です。ドイツ語はちょっと難しくて…最近になってようやく、会話に慣れました。あなたと一緒にこちらに来ていたら、ドイツ珍道中で、楽しかったかもしれない。きっと、フランクフルトをかじりながら、美味しいビールが飲めたと思うのに…。

 タカシさん……。

 遠い空のむこうで、必ず会えると信じて、ルカは想いを馳せる。目を閉じれば、背中を包むように抱きしめてくれる彼がいる。それが当たり前の毎日だった。言葉が多くなくても、決して切れない絆で結ばれていたはずだった。ルカは思う。タカシは一方的にその絆を切ったつもりだとしても、自分は確かに感じるのだ。未だに、堅く結ばれた、見えない二人の絆が。
 数年後、タカシはホテルの人気バーテンダー兼、ピアノマンとして、東京で名が知られるようになっていた。その後は、Bar Lucasのマスターとして、歓楽街の片隅に身を寄せるのだった。
 店にあるピアノは、NYに居たときに彼と共に過ごしたルームメイトだ。
「……ルカ、ドイツで…元気にしているか?」
 目を閉じて、今でも想うのは自分を全力で愛してくれた、眼科医のこと。

 たとえ遠く離れても…この地でお前を想って生きていく…。

  まるでルカにそう誓うかのように、今日もネオンが輝く星のない空を見上げる。
「佐屋!鳴海!看板出しといてくれよ…」
 タカシはバーの従業員であるバイトの二人に声をかけた。店に暖かな灯りが灯るように、タカシの心のなかにも、ルカへの愛は灯り続けるのだった…。


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