サロメ

結城りえる

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第五章 何も知らないくせに

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 オレは帰宅してから、櫻井さんへの恨みつらみを抱え込むように部屋の隅に座っていた。バイトで疲れたのもある。彼から話しかけられない隙を与えないようにもくもくといつもよりも真面目に動いたせいで、なんだか気疲れしてしまったのだ。
「オレはどうかしてる。所詮、櫻井さんなんて赤の他人だし、オレよりもさっさと卒業して居なくなってしまうのだって判ってるのに」
 自分に言い聞かせるようにわりと普通のトーンで独り言を言う。まぁ、自分しか居ない部屋なのだから誰にも聞かれるわけないし、自分のなかで溜まりに溜まった愚痴は吐き出した方が精神的な健康には良いのだろうけれど。
 ただ、何か言ったところで。櫻井さんに惹かれていることを彼に告白したとして、果たして何かが報われたりするのかといえば、その逆だ。彼が普通のメンタルなら、オレを奇異に思うだろうし、彼がイメージ以上に優しい人間なら、彼を苦悩させてしまうだろう。
  さすがに肉体的にも、精神的にもくたくたになっていたようで、オレはさっさと風呂に入って寝ることにした。普段はシャワーだけ済ませたりするけれど、今日はちゃんとバスタブに湯を張って浸かりたかった。
 バスタブの端に両手を広げて背を預けて底に座る。熱すぎることもなく、ぬる過ぎることもない湯に身体を任せ、眼を閉じた。
 そう、オレの記憶はそこで止まっていたのだ。


*******************


 オレが目を覚ます原因となったものは、あまりにも不快なまでに揺さぶられたせいでもあった。当初、相当意識が朦朧としていたらしい。
「大丈夫?ねぇっ!!関君!目を覚まして!!関君!!ダメだって!!」
 オレは心地良い無の意識からまた、水面に引き上げられている気分だった。
余計なことをする奴がいる。オレの邪魔をする奴は誰なんだ…?
 ゆっくりと薄目を開けると、オレは居るはずだった風呂場ではなく、バスタオルを巻いてリビングの床に寝かされている。何なんだ?この状況…?そしてオレの傍らにはこの部屋を貸してくれているオーナー兼大家さんと、何故か櫻井さんがオレを覗き込んでいる。
「……え?」
「良かった!!関君!気付いた?気を失っていたからオレは君が死んでしまうんじゃないかって、慌ててしまったよ」
 櫻井さんは取り乱した様子でそう言った。
「この子の言う通りだよ。いや、他でもないんだけれどね、この子が関君の部屋のドアをガンガン叩いているから、何事かと思って家から出て来たんだよ。そしたらこの子が風呂場の電気が点いているのに返答が無いから外窓の隙間から覗いたら風呂の中で寝ちゃってるっていうからね。合鍵で開けたんだ」
 なんとなく話が繋がったような気がしたのだが、それにしても何故櫻井さんがこのアパートに来たのだろうか?
「あのさ、関君、今日、バイト先で様子が変だったからさ。それに黙って先に帰ってしまったのが気になって…。だから〇〇便で住所を教えてもらって、たまたまアパートに来たんだ。自分の家の沿線上だし。何か気に障ることをオレがしていたのなら謝らないとモヤモヤするし…と思って。もちろん先にスマホに連絡したんだけれど応答が無かったし、家の前で散々迷って悪いとは思ったけれど、風呂場の窓が少し開いてたから覗いたら大変なことになってたから」
 つまり、そういうことだった。櫻井さんのなんとなくの予感が的中したのだという。
「関君、お風呂は気を付けた方が良いんだよ?疲れている時はあまり長風呂は良くないよ?眠ってしまうからね。現に私の知り合いも風呂の中で亡くなってしまったケースが多くてね。気を付けないとダメだよ?この友達にちゃんと礼を言わないとダメだね」
 大家さんはそう言ってあくびをしながら部屋を出ていった。
 オレはしばらくぼんやりとしていたが、櫻井さんのお節介が腹立たしくもあり、無防備な自分にも怒りを感じた。よりによって助けてくれたのが櫻井さんこのひとだというのか?なんでだよ…。
「あ、関君、何か水分を口にした方がいいかもしれない。ミネラルウォーターとか冷蔵庫にある?」
 櫻井さんはそう言うと勝手にオレの部屋のキッチンの冷蔵庫の取手に手をかけようとした。
「待ってよ…。いいよ、もう。ほっといて」
「え?でもさっきまで気を失っていたんだよ?心配だな」
「心配だって!?」
 オレはもう自分の感情を抑えきれそうになかった。ひとの気も知らないで、のほほんと自分が何でも支えてくれているつもりでいるのだろうが、それは遥かにずれた自惚れだ。オレは櫻井さんの手首を力任せに掴んだ。

 さぁ、もうどうなってもかまわない。こいつを殴ればいい。

 オレの心の奥底で息を潜めていた獣が、耳元で囁いていた。
「え?どうして……。関君、何か怒ってる?」
「怒ってるだって?どうしてそう見えるんです?オレの何を解っているっていうんですか?何もしらないくせにっ!!」
 櫻井さんを確実に傷つける言葉を頭のなかで両手でかき分けて探し続ける。オレはこのひとが憎くてたまらない。オレを縛って、苦しめて、息の根を止めようとしてくる寸前でいつも手を離し、その手でオレの心を抱きしめるように微笑む彼が!!
 オレはいつの間にか感情の箍が外れ、双眸からボロボロと落ちる涙を拭おうともせず、壊れようとしていた。
「ちょっと……関君、落ち着こうよ?な?関君……っ」
 オレは彼の雑音をこれ以上聞けそうもなく、彼の左頬に拳を打ち込み、彼が怯んだ隙に唇を奪い、むさぼり吸い、床に押し倒したのだった。
櫻井さんの目は大きく見開き、自分にのしかかるオレの身体を引き離そうとして押し返す。ここは単純に腕力の強い方が勝者だ。今まで伊達に運送会社の荷物を持ち運びしてきたわけじゃない。オレには分があった。
「………………や……やめっ……!!」
 オレの腕力に敵わないと思った櫻井さんが悲鳴に近い声で訴える。
「………悪かった……オレは君を怒らせるつもりはなかった…っ!!」
 余裕のない状態で、彼は自分の正当性を訴える。そう、まだあなたは何もわかっちゃいない。あなたはオレが欲しいものを目のまえに晒し、手に入らないことを再認識させては絶望を強いる。

 殺シテヤリタイ………。

 どうしようもなく憎くて、傷つけたくなる。その無垢なまでに優しい武器。傷ひとつない刃を持って、あなたはオレの胸を刺し続けているんだ。あなたは知らない。あなたのその刃は、オレの胸から流れ続ける血糊がベタベタと付着しているというのに。
「……どうしたら……赦してくれるの?関君……君が泣くほど激高する理由が……オレには……解らないから」
 そうだろう。だからあなたはオレをこんなに傷つけることが出来ているのだ。理由を最初から知っていたら、最初からオレみたいなネクラで陰気な人間に近づくはずがないのだ。
 彼を抑えつけていると、再び獣が囁いた。“何をしている?早くコイツの血肉を食らうといい。それとも…一生消えない傷を与えてやるつもりか?”と。
 一生消えない傷……ふふ……。悪くないかもしれない。オレがあなたをどれだけ憎んでいて、どれほど欲しいと思ったのか、それを知らずして何を赦せるというのだろう。
 オレはゆっくりと呼吸をし、再び食らいつくように彼の唇を貪った。
「…………っ!!」
 彼は首を振り、もがいた。何処までもオレを拒絶するつもりなのだろう。だったら、最初から近づかないで欲しかった。オレの目からさらに涙が流れた。
オレは彼のシャツを力任せに左右に裂いた。彼が抵抗するたびに頬を平手で殴った。もう容赦はしない。憎しみには憎しみという方法で欲しいものを略奪するのだ。願っても叶わなかったものを手に入れる。
「や………やめろっ!……関君っ!!お前っ……おかしいだろっ!!」
 そんな彼の叫びさえ、オレには心地よく響いた。ああ、やっとオレはのだ。
 オレは彼の身体を反転させ、ねじ伏せ、両手を近くにあった電気コードで縛り上げた。
「関君っ……!?」
「………オレが狂ってるとでも?あなたは気付くのが遅いんです」
 彼の自由を奪ったことで、オレもやっと彼に対等に応じることにする。
「最初から、オレに近づかないで欲しかった。あなたは、オレの領域に入り過ぎたんですよ」
「……意味が……わからないよ、関君」
「解らないなら今から教えて差し上げますよ。オレの屈折した性格等々全て」
 オレは彼の顎を固定するように掴み、貪るようにまたキスをした。そんな奪うようなキスでも憎くて恋しい相手なのだと思う。柔らかく官能的に弾む唇にオレは悦びを感じた。
「ま……待って。関君……オレの話を……聞いて。ちゃんと話を…しようよ」
 それでもなお、櫻井さんはオレに言葉を投げかけてくる。それにどんな意味があるのだろう。赦し?哀れみ?それとも何?
「あなたに何かを発言する権利なんてとっくにないのに、この状況?解ってます?」
「……だから話し合おう…ね?だから…」
「そういう偽善的なところがうんざりなんだよ!」
 どんどん頭に血が上る。オレは彼のズボンのバックルに手をかけ、引きちぎるように無理やり引っ張り、性急すぎるほどの勢いでジッパーを下ろした。
「ま……待って!オレを……どうするの?」
 この状況でまだオレを信じ切っている櫻井さんの言葉はあまりにも間が抜けて聞こえた。










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