サロメ

結城りえる

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第三章 覚醒

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 約束の日曜日はオレの逡巡などお構いなしにさっさとやってきた。時間は個人の都合なんて関係なく、生きとし生ける者には平等にやってくるのだから。
 オレは櫻井さんと約束した場所に所定の時間よりも早めに着いた。『今日はごめんなさい。これから予定があるんです』そんな風に適当に用事を言い訳にしてドタキャンをするつもりだった。
「あ!関君!早いねー?待たせてごめん」
 櫻井さんはオレが楽しみにして逸る気持ちでここで待っていたと思っているらしい。
「あ、あの…いえ、今日は」
 喉の奥に綿でも詰まってしまったように、オレはあれだけ事前に用意していたセリフが出て来なくなってしまった。
「ささ、早めにここで合流出来たんだから、行こうよ?」
 オレの肩に右手をかけてやや押しやるように櫻井さんはクラッシックが聴ける喫茶店のある方向へと歩き出した。
 櫻井さんの教えてくれたクラッシック音楽の聴ける喫茶店は阿佐ヶ谷から少し住宅街に向かって歩いて奥まったところにあった。時代を感じさせる落ち着いた店構えで、そのまま中に入っていくと、照明が抑えられ、ノスタルジックな雰囲気が漂う空間が広がっていた。とても大きなスピーカーがあり、そこから聞き覚えのある音楽が流れてくる。
「ね?いいところだろう?まるでここだけときが止まっている」
 櫻井さんは空いているテーブルに座ろう、と勧めてくれた。こんな世界があるなんて、オレは想像すらしなかった。店内の全ての色がセピア色に見えた。家具や調度品も昭和……いや、もっと昔の時代を思わせるものばかりだった。
「クラッシックって音楽もだけど、アンティークな家具もいいよね?幸せのカタチだと思うんだ」
「幸せのカタチ?」
 櫻井さんは不思議なことを言う。
「ほら、今まで世界中で戦争や争いや災害があったじゃないか?それらに遭っていたらアンティークな家具も、クラッシック音楽も消失してしまっていたと思うんだ。それを乗り越えているから、“幸せのカタチ”だと思う」
 オレはそう語る櫻井さんを眩しく見つめていた。
 オレと櫻井さんはコーヒーを頼んだ。お店のオーナーはとても物静かで良い歳の取り方をされたことを思わせる紳士だった。コーヒーが運ばれてくるとふいに櫻井さんが言った。
「リクエストをお願いしたいんです」
 店内は程よいピアノ曲が流れていたのだが、せっかく連れて来た、とばかりに櫻井さんはオレの好きな曲をかけてもらうのだという。
「ええ、分かりました。何にしますか?一覧表がそこにありますよ」
 店のオーナーが何冊も積まれたクリアファイルを指さした。オレは言われるままにそのファイルを手に取って開く。そこにはびっしり手書きで作曲家ごとに曲名が書かれている。膨大な量で驚く。なんとも味があるというか、このお店の空気も空間も古きよき時代のイタリアを思わせるような調度品も、埃を少し被ったランプや巨大なスピーカーでさえ、全てがセピア色で美しく感じた。もちろん、いわゆる流行りものが好きな世代には理解されないかもしれないけれど、オレは連れてきてくれた櫻井さんに本当に感謝したいと思った。
「ビバルディのグロリア……ありますか?」
「うーん、ちょっと待ってね。合唱が付いてるアレだね」
「はい」
 リストから探すのが面倒だったため、オーナーに口頭で伝えるとすぐにどんな曲か伝わった。
「へぇ…。オレ、ビバルディって超有名どころの四季しか知らない」
 櫻井さんは興味があるといった顔をした。しばらくしてレコードの針を落とすプツプツという音がしてメロディが流れてくる。迫力のあるスピーカーは何よりも臨場感があって、すぐ目の前に一楽団が勢ぞろいしているようだ。
「……驚いたな。オレ、グロリアっていうタイトルなら明るい曲かと思っていたけれど……違うんだ」
 セピア色の空間に弦楽器と声楽が共鳴してまるで周りを取り囲まれていくようだった。
「うん、いい曲だね。さすが関君。オレもこの曲好きになった!」
 櫻井さんは無邪気に微笑んだ。その微笑みはオレの胸の奥にある何かをぎゅっと締め付けて痛みを与えるものだった。
「ねぇ…関君さぁ」
 運ばれてきた白いコーヒーカップを手にしながら、櫻井さんはオレを見た。
「はい…」
「もしかして……この曲って、今の関君の心境?」
 オレは全身の血液が沸騰するような、焦りと喜びと興奮で混乱せずにはいられなかった。そう…。明確に返事をするのを思わず躊躇ってしまう。自分は意識せずにビバルディのグロリアを選曲したけれど、この曲調は楽しげにも喜びにも不安にも悲哀にも聴く側の感情で解釈出来る不思議な曲だったりする。でも櫻井さんは……櫻井さんはオレが一番理解して欲しくせに、ことに触れてきたのだ。
 どうしよう…。どう返事したらいい?
正確にはこの曲は自分が櫻井さんに抱いている心象風景を音で表現した一番近しいものだった。まさかそんなものに彼は気付いたのだろうか?
「えっと……まぁ」
「やっぱり?うん……もしかしてオレのことだったり」

  ……………………ッ!?

 オレは櫻井さんがコーヒーを飲む横顔を見つめ、狼狽せずにはいられなかった。この人の感性と、自分を理解してくれる期待感とを手に入れたいと初めて切望した一瞬だった。

  高揚感に包まれてオレが何も話せないでいると、櫻井さんはぼそぼそと呟いた。
「オレ……こんなことを言うと笑われてしまうかもしれないんだけどさ、恋愛の始まりなんて、はっきり判るものなのかな?そういうの、ないなーってさ」
 櫻井さんの今日の言動は明らかに変だと思えた。まるで自分の内面を見透かしているようだったり、実は全然的外れなんじゃないか、とも思える。いや、後者の方が櫻井さんの言葉の真意だと思うけれど。
「幸恵にさぁ、相談されたんだよね。付き合ってもいいかなぁってひとがいるんだけれど、どう思う?ってさ」
 言葉は残酷だ。天使の羽のように優しくこの世の全てを覆う温かささえ持ちながら、肉体を掻きむしって一瞬で血染めにしてしまうような鋭い爪にだって成りうるのだ。何気なくそう言った櫻井さんのひとことは、オレをその爪で切り刻んで傷つけるものだった。そして、ほとんど交流のない幸恵さんにさえ、憎悪を抱かずにはいられなかったのだ。
「櫻井さんは……どう思っていらっしゃるんですか?」
 オレは喉がひりつくような気持ちになりながらそう尋ねた。
「どう…って、実はオレもよくわからないんだ。幸恵は幼馴染みだし、妹みたいだったり、家族みたいだったり……なんだろ?上手く言えないな」
 櫻井さんは自虐的に笑いながらも、心の奥底の想いみたいなものには自分では気づかないふりをしているように思えた。それが解ってしまう自分が酷くイヤだと思った。
「……たとえば、幸恵さんの相手の男があまり良くない噂の人間だったりしたら……櫻井さんは、交際を止めさせるんですか?」
 今日はやけに饒舌に話せるのだな…と我ながら思った。無神経に自分のプライベートをほのめかす櫻井さんにオレはイライラとしていた。このカフェに入るまでは有頂天だった自分のことさえ、罵ってやりたくなる。そう、だから今は一番の罪人である櫻井さんを責めずにはいられない気持ちになっていた。
「いいじゃないですか。幸恵さんが選んだ相手なら、彼女の気持ちを尊重してあげるのも優しさだと思うし」
「……でも、幸恵が傷つくのを黙って見てることになる」
「傷は…新しい恋が癒してくれるものだと……オレは思います」
吟遊詩人のようなセリフでオレは遠回しに櫻井さんを傷つけている気がした。それでも彼はオレをだと信じて疑わない。
「そういうもの…なのかな。なんだろ…。やっぱり幸恵からSOSが来たら手を差し伸べちゃうかもしれないなぁ……ははは。まだどうなるかわからないことをごちゃごちゃ言っても仕方ないんだけれどね」
 オレたちはぼそぼそと音楽の邪魔にならない程度に小一時間話したあと、店を後にした。店のオーナーには本当に素敵なお店ですね、と心から礼を言って。
 その後櫻井さんに“この後晩メシでも行く?”と誘われたが、オレはどうしても彼とそのまま一緒にいることが苦痛に思えてしまった。彼と知り合えたことが奇跡だとさえ思ったり、自分の古臭い趣味に共感してくれる彼にありがたみや嬉しささえ感じていたのに。いや、今この瞬間だって、彼の存在がとても大切なものになったとはっきり言える。それなのに、彼の口から幸恵さんという幼馴染の名前が出るたびに拒絶と不協和音で苛まれる。
「あの…バイトがあるので……失礼します」
「そっか……なら、仕方ないね。じゃあまたね!来週からバイトも同じだし」
 櫻井さんは無邪気な顔でオレにそう言った。オレはますます彼との関係と距離感に悩んでしまいそうだ。焦げ付くようにイライラしたり、寂しいときにそっと背中に触れてくれるような優しさを覚えたり、このひとはオレにとっていったいなんだろうか…。そう思いながら、オレは櫻井さんと別れ、家路に着いた。



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