sweet darling

結城りえる

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sweet darling

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 ヨーロッパを何箇所か周りながら、確かなビジネスチャンスの手ごたえを感じていた山崎隆矢は、滞在先のドイツのホテルで共同経営者にメールで報告書を送付していた。
「やはりドイツはビールが美味いよなぁ。これぐらい軽い口当たりの方がボクの好みだ」
 ビットブルガーの瓶ビールを手に、隆矢は上機嫌だった。なんとか仕事のメドがついたことが一番の要因だった。それを自分へのご褒美と称して一人でホテルの部屋で祝杯をあげている。
 そんな彼が静かな夜を堪能していると、ふいにルームテレフォンが鳴った。
「Hallo…?」
 受話器を取るとロングディスタンスコールの呼び出し音に切り替わる。
Guten Tagグーテンタークあ、あの…Mr.Yamazaki, on the line ?」
 たどたどしいドイツ語と英語まざりのその声は意外な人物からだった。
「あれ?その声はもしかして、河野君かい?」
「ああ!よかった。山崎さん!!今、お電話よろしいですか?」
「構わないよ。それにしてもよくここの電話がわかったね?」
 ほろ酔い気分で応えた隆矢だったが、河野が自分に電話をかけてくる意外性に少し身構えてしまった。河野は共同経営者であり、先輩の恋人でもある。

(ひょっとして…また輝也せんぱいに何かあったのだろうか?)

「ホテル名だけ、輝也さんに教えてもらいました。実は…山崎さんにSNSの動画サイトでデュッセルドルフ、弾き逃げ…で今、検索して見て頂きたいものがあるんです!」
「へぇ?何それ?轢き逃げって…物騒な」
「違うんです!その轢く…じゃなく、鍵盤をの方です。Oberbilker Markt駅で帽子を被った女性がピアノを演奏してるんですが、UPしたのが今日の日付なんです!」
 山崎は河野が言わんとしていることにすぐ要領を得た。さっそく机の片隅にあったノートパソコンを開き、言われるままに検索する。
「え……まさかと思ったけど…冴子嬢?」
 そのパフォーマンスを見た山崎は一瞬で酔いが醒めていた。
 忘れもしない。彼女は…日比野冴子は自分にとって恋焦がれていても聖域に存在する女神だ。初めて紹介された日に一瞬で恋に墜ち、そして失恋した相手だ。冴子は、当時輝也の恋人だったのだから。
 その動画の中の演奏者は駅に設置されたピアノを陽気に弾く、日比野冴子の姿だった。いつもエレガントな装いを見慣れていたせいか、気付くのが遅くなってしまったが、ジーンズにラフな格好をした彼女は歩みを止めたオーディエンスの輪の中で、楽しげに曲を弾いていたのだ。
「それって……冴子さんですよね?帽子を被っていても、その弾き方ですぐにわかりました。それにその動画のコメント欄、気付きましたか?」
「……コメント…?ちょっと待って、今スクロールする!」
 山崎は河野に言われるまま、コメント欄にカーソルを動かす。
「明日……ミュンヘン駅で午後パフォーマンスします…って予告がありますよね?」
「本当だ……これって一体…」
 山崎には困惑しかなかった。少なくとも、冴子がイタリアではなく、ドイツに滞在していたことに驚いていた。しかもストリートパフォーマンスとは!これはまるでピアノの武者修行のように思える。半ば呆然と動画を見ていた山崎に対し、河野は強い口調で話す。
「山崎さん…。余計なお世話だと思われるかもしれませんが、ミュンヘンに行って下さい!絶対に後悔しないために!」
「ちょ……ちょっと待って、河野君。ボクが何故…」
「輝也さんには何も話していません。今は僕の考えだけでお電話しました。デュッセルドルフからミュンヘンへは飛行機ルフトハンザで一時間ちょっとで着けます!」
「ボクにミュンヘンに行けっていうのかい?」
「そうです!今度こそ、冴子さんを捕まえに行くべきです、山崎さんっ」
「……………………!」
「…僕にはわかります。これ、冴子さんのメッセージです!!山崎さんだって、気付いてるはずですよっ!?どうして……あなたは冴子さんに向き合わないのですか?冴子さんのこと……ずっと守っていくだけですか?」
 冴子と輝也の関係は冴子がフィレンツェにピアノ留学をすることで事実上は終わっていた。その間、輝也は河野と知りあい、恋仲になった。一方冴子は輝也が自分が帰国するのを待ってくれていると思っていた。両者の間には食い違いがあり、トラブルになったものの、冴子が身を引く形となったのだ。失恋した冴子を山﨑はしばらく支えるようにそばにいた。だが、冴子はいつしか姿を消してしまった。山﨑のなかでは自分は冴子には役不足だとどこかで思わずにはいられなかったのだ。
「僕……判っていました。山﨑さんは、冴子さんを想っているってこと。だから、どんなことになったとしても、絶対に諦めて欲しくないんです」
 そんなふうに河野からの思いも寄らなかった強い口調のせいで、結局、山崎は数時間後、機内の人となったのだ。
 電話を切ったあと、山崎はいわゆる「駅ピアノ」というものの存在を調べて知った。ほぼ善意やピアノ製作会社のプロモーションの一環で駅などの公共施設に設置された、誰もが自由に弾ける粋なピアノのことだった。日本にも近年登場しつつあるが、ヨーロッパの方がちらほら見かけるものであるとか。

『山崎さんは……冴子さんを自分自身よりも大切に想っていると僕は感じています。だから、ちゃんとあのひとを掴まえてあげてください。それとも、輝也さんが障害なのですか?』

 河野が電話の向こう側でそう言い切った言葉が山崎の胸に突き刺さるようだった。
「……参ったなぁ。彼があんなことを言うコだったとは」
 自分の想いは誰にも知られていない自信があったというのに、河野にあっさり見抜かれていたことに山崎は苦笑した。
「思えば…河野君は不思議なコなのかもしれないな」
 当初の出会いといえば、輝也が混雑したコンビニでトラブルを起こし、彼が買い損なったヘアムースを河野がバイトしていたコンビニで買うため、入れ替わるように入店し、自分は興味本位で輝也が憤慨した相手である店員を店内見回して探したものだ。
(ああ、あの店員のコか…)
 第一印象は輝也が言うほど融通の利かない性格のひねくれた店員というわけでなさそうに見えた。まぁ、後ほど河野の性格や性質はさらに詳しく知ることとなるのだが。
「とにかく、河野君は周りをいつの間にか巻き込んでいくコなのだろうな」
 山崎は一人、彼のことをこう分析していた。少なからず、輝也や冴子は彼に強い影響を受けた人たちだ。そして今、自分も彼によって思わぬ方向へと引っ張られているような気がした。
 ただ、山崎は彼に巻き込まれていることを自覚しつつも、嫌な抵抗感を感じることはなかった。それはまるで風や波に攫われ、どこかに連れてゆかれるような、良い意味で彼が皆を幸せに導いているような気がしていたのだ。
 
 ミュンヘン空港のターミナル1からはルフトハンザ・エキスプレスのバスが中央駅まで出ている。始発の6時台のバスにうまく乗ることが出来たが、着いたところで冴子がいつ現れるか、など見当もつかない。
 ほぼ設定通り45分ほどで目当てのミュンヘン中央駅にたどり着いた。深夜は若干治安が悪いと聞いていたが、通勤ラッシュも始まる頃となっており、人も多くなっていた。コンコースを歩いていくと、左手にアップライトピアノが設置してあった。予告どおりなら、冴子はここへピアノを弾きに来るはずなのだ。
「さてと…こうなったら、聞き込み調査といきますか」
 山崎は鼓舞するように独り言を呟き、駅務員を見つけ声をかける。
「ああ、ちょっと…あそこにあるピアノがよく弾かれる時間帯ってわかります?」
 あまり流暢とはいえない英語で話しかけてみたのだが、意外にも駅務員はご機嫌に答えてくれた。
『やぁ!お前さんは日本人か?ハセベとオオサコはいい選手だねぇ…』
 駅務員は熱烈なサッカーファンらしく、尋ねもしていないのにブンデスリーガに過去に所属し、活躍していた日本人選手名を挙げた。彼が友好的に接してくれた分、山崎は彼らサッカー選手に心の中で感謝した。
『あのピアノが弾かれている時間帯ねぇ…あまり気にしちゃいなかったが、昼や午後が多いんじゃないのかい?』
「そうなんですね…なんだか長丁場になりそうだな」
『お前さん、そんなことを聞いてどうするんだい?わけありかい?』
「ああ…まぁ、ボクの大事な人がここに来るかもしれなくてね」
『なら、頑張れ。応援してるぜ』
Vielen Dankありがとう
 駅務員が去って行くと、山崎は想定内とはいえ冴子と遭遇出来るかどうかもわからない今の状況を考え、ため息をついた。
「まぁ……午後までこの辺りで粘るつもりではいるけど」
 そう決心はしたものの、気分はまるで犯人待ちで張り込みの刑事のようだ。ただ、待ち人が犯罪者ではないことだけが違ってはいるのだが。
 コンコースを行き交う人並みを見つめながら、とりあえず目立たない場所のベンチを今の自分の“拠点”とした。駅の高い吹き抜けの天井には、万国共通のコカ・コーラのサイン看板が最大級に掲げられている。
「ここはビールやヴァイスブルストのイメージがあるけど、あの看板はアメリカンだよなぁ、どう見ても…」
 大いに時間があり過ぎるせいか、あらゆる周囲の疑問に独りツッコミをしてしまう。そんなふうにほぼ5時間が経過した頃、山崎は空腹を満たすため、駅構内のショップでヴァイスブルストサンドをテイクアウトし、再び位置に定位置に戻って来てすぐに目の前の光景の変化に気付いたのだ。
 “そこ”はすでにちらほらと人の輪が出来ており、その中心に一人の背の高い東洋人らしき人物が、アップライトピアノの鍵盤の音を確かめつつあるような動作を繰り返していた。
(冴子嬢!?)
 それは確かに数ヶ月ぶりに見る、彼女だった。彼女は胸に右手を当て、一礼をしてからピアノの前に座った。そして快活なメロディーを幸せそうに弾き始めた。The Harmonious Blacksmith。ヘンデルの「調子の良い鍛冶屋」と日本では称されている曲だ。ゆったりと始まりながら、第二楽章、第三楽章へは軽快にオクターブを駆け抜ける、まるで人々を元気に、そして癒すような旋律だった。
 曲の選択といい、デニムに白シャツという以前の彼女からは信じられないようなラフな彼女を目の前にしたとき、山崎はもうこれ以上は自分の気持ちを抑えてはいけないような気がした。
 最後の楽章が終わった瞬間、周囲から拍手の輪が彼女を包んでいた。そして…

「日比野冴子、確保」

 オーディエンスの輪を潜り抜け、山崎は彼女の手首をつかみ引き寄せた。周囲からはすぐにざわめきが起きている。
『彼女を助けなくていいのか?』
『あの男は誰だ?』
『大丈夫かしら?あのお嬢さん…』
 手首をつかまれた瞬間、冴子は驚いたようにその男を見上げた。スローモーションのように周囲の時間が止まったようだ。
「まったく、世話が焼けるお嬢さんだ。ボクが何時間ここで張り込み刑事ごっこをしていたかわかるかい?」 
 冴子はしばらく山崎を見つめたまま、微動だにしなかった。が、やがて微笑を浮かべた。
「……驚いたわ。私はピアノを弾いて王子様を召還するつもりだったのに、いつか私にあんぱんをくれた、なんちゃって刑事さんが来てしまったのね」
「参ったね…。君はボクをゲームの英霊みたいに呼んだつもりなのかい?」
 冴子はそう言うと、自分から山崎の胸に飛び込み、両手を背中にまわして抱きしめた。忘れもしない。自分が失恋し、身を切るような想いをしていたとき、そばにいて、海外生活が長かった自分に、行列に並んで買ったあんぱんだといって手渡してくれた、あの優男がここにいる。あの日の記憶が蘇る…。


*****************


「車で送るよ」
「……ありがたいのは山々だけど、正直なところ、今は独りになりたいところなんだけど」
 冴子の泣き顔はいつもの凛としたものとは違い、まるで子供のようだった。自分は輝也にふさわしい人間になりたくてピアノのスキルアップのために留学したのだが、その行動こそが輝也に誤解を生じさせ、終わってしまった恋だと思われていた、という現実を彼女なりにやっと受け入れる気になったのだから。
「あいにく、ボクは泣いている子には弱くてね、ほっておけないんだ」
 半ば強引に山崎は彼女の腕を取り、エレベーターに乗って地下駐車場へとエスコートした。
「子供扱いするなんて、ホント、悪趣味だわ。あなた、兄にそっくり…」
 駐車場に着くと、数メートル離れた先の黒塗りの高級外車に近づき、山崎はドアを開けた。
「さぁ、乗って。そうそう、君にあげたいものがあったんだ」
 山崎は後部座席に手を延ばし、可愛いロゴの入った紙袋からあるものを取り出した。
「……なぁに?コレ………あんぱん?」
 彼にそれを手渡され、冴子は不思議に思った。
「“大仕事”をした君が疲れただろうから、労いの甘いものさ」
「……あんぱんなんて……何年ぶりかしら?フィレンツェにいたときは食べられなかったから」
 奇妙に思いながらも、山崎のその差し入れに冴子は思い切り齧り付いた。素朴な優しい甘さが口のなかに拡がった。途端に、堰を切ったようにさらに涙が止まらなくなる。
「………なによ。こんなあんぱんまで、私に優しいって……!」
「美味いだろ?ここに来る前にちょっと並んで買ってみた」
 くすくすと笑う山崎に冴子はくしゃくしゃの泣き顔でまた一口、二口とあんぱんを口にする。
「驚いたな。美人は泣きながらあんぱんを食ってても、やっぱり綺麗だ」
「冗談にしては失礼よ」
「………冗談に思ったのか?ボクは本気でそう思ってる」
「………………からかわないで。同情するならもっと別の方法でお願いしたいわ」
「じゃあ、ボクは君の気が済むまで下僕になろう。それでどうかな?」
「……………」
「………ボクの前ではもっと泣いてもいいんだ」
「…………バカみたい……私………こんなのって………ない」
 泣きじゃくる彼女の頭を抱き寄せ、山崎は黙ってそれを受け止め続ける。そう、彼女が泣き止むまで、自分はいつまでも待とうと思う。
「ねぇ……ここにあるの、あんぱんだけ?ミルクはないの?…」
 拗ねたように無理矢理つぶやく彼女に、山崎は涙を拭ってやりながら微笑む。
「そうだな。ボクは張り込みの刑事じゃないから、ミルクはここにはない。ドライブしながら買いに行くのに付き合ってくれるかい?」

********************

途端に周囲のオーディエンスらは状況を理解したのだろう、再び拍手の渦が沸き起こる。
『心配して損したぜ、よかったなー』
『ロマンチックな出会いだったのね』
『お幸せに』
 言語が何語かなどと、今は意味をなさない。周囲の人々は彼らに祝福の言葉をかけている。
「今はあんぱんを持ってないよ」
「……じゃあ、私にキスをちょうだい」
「そうだね…。それなら王子様っぽく出来そうだ」
 異国の地で二人は長い長い遠回りをしながら、ようやく想いを伝えることが出来たのだった。
 


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