78 / 133
第四章 砂糖でできた甘い楽園
故郷に帰り、わたしは王都を思い出す
しおりを挟む
川があった。
森もあった。
少しも変わらない姿で――。
だけど、両親がいない。ルーカスもいない。家に帰っても、誰も迎え入れてはくれない。
幼い頃よりも小さくなってしまった風景の中に、ロキシーだけがいた。あの頃、いなかった男と一緒に。
しばらく歩いて、それを発見した。
たまらず走り出す。
すっかり生い茂った雑草を掻き分け進むと、記憶の中と寸分違わないブラットレイの屋敷の姿があった。
「レット! 全然変わってないわ、ほら!」
後から来たレットに叫んだ。
「わたしが出迎える前に、ぶしつけにもあなたが勝手に開けた扉だわ!」
「そうでしたっけ?」
とぼける彼の手を引き、荒れた庭を回る。思い出が次々と蘇ってきた。
「見て、あっちで水浴びをしたのよ! 冬には雪だるまを作って、ルーカスったら下手くそで、上手く丸まらないから泣いちゃったこともあったのよ。今日は曇ってるけど、晴れた日には星がよく見えて、流れ星に何度もお願いしたんだから」
「何を願ったんです?」
「とりとめの無いことよ――」
――ずっとこの日々が続いていきますように。
いつもそう願った。
浮かんでは消えていく思い出たちはどれも鮮明で、手を伸ばせば届くようだ。だがそれらは全て過ぎ去った過去で、掌が掴んだのは、夏にしては冷えた空気だけだった。
ロキシーが黙ったため、静寂を埋めるように蝉の声が響く。
喧嘩別れとなった弟のことを思い出した。
「……ずるいわルーカスは」
レットに言うのは恐らく一番間違っている。それでも口は動いた。
「わたしも忘れたい……。ルーカスのことを、忘れてしまいたい!
だってルーカスは、わたしを好きだと言ったのよ? キスだってしたのに! わたしすごく辛かった。なのにルーカスだけ、苦しみも、痛みも全部忘れて自分だけ幸せになっているなんて! わたし一人ここに置き去りにして!」
「馬鹿を言っちゃいけない。あなたが忘れたら、彼は本当に消えてしまいますよ」
レットはなだめるように言った。その瞳は穏やかだ。
「他に誰が彼の過去を知っているんです? 言っておきますけど、私は覚えてませんよ。彼がどんな子供かなんて、興味がなかったものですから」
ロキシーだって分かっていた。
忘れることの方が、覚えていることよりも、時にはるかに辛いということくらい。それでも思い出は、まばゆすぎるほど強すぎた。一人では持て余してしまうほどに。
「……ずっとここで過ごしていくんだって思ってたわ。お母様が亡くなっても、ルーカスと一緒に、ずっと二人で、この場所で。それが幸せなんだと思ってた」
初めてレットの瞳が悲しげに揺れる。
「私があなたを幸福から引き剥がしたのか」
彼が現れて、怒涛の日々が始まったのは確かだ。
だがロキシーは首を横に振った。
「結局、災厄の封印は自分で解いたの。あなたを責めてるわけじゃない。どの道、あの日々は続きなどしなかった」
女王としての記憶は、いずれロキシーを蝕んだだろう。もしかするとあの悪女と寸分違わぬ性格になっていたかもしれない。
同じように苦しむモニカと、痛みを分け合えたから今があるのだ。
そうだ、あの子と一緒に、たくさん笑った日もあった。
ルーカスもフィンもリーチェもいて、くだらない冗談を言い合って、大口開けて、笑い合った。争いが王都を包み込む前の、少女の時代は、光り輝いていた。
ここじゃなくても、幸せはあったのだ。その日々はロキシーにとって、確かに幸福だった。
それがどうして、今は皆バラバラだ。それぞれの思いを抱えて、本心を語らなくなって、全く違う方向を向いて生きている。個々が信じるものを見つめながら。
あらゆるものが変わっていく。もう二度と、ロキシーの時は戻りはしない。
「変だわ。王都にいたときは、ずっとこの場所のことを考えてたのに、いざここで思うのは、王都での日々なんて――」
レットの両手がロキシーの顔を包む。
「ロキシー様。どこか行きたいところはありますか?」
問いかけに、答えることはできなかった。自分の望みなど、とうの昔に分からなくなってしまったから。
「どこでもいいんですよ。行ったことのない場所は?」
「……海、かしら」
絵で見たことはあったが、実物を見たことはなかった。
「じゃあ、明日は海に行きましょう」
彼はまだ、この逃避行を続けるつもりらしい。
そのまま、そっとキスをされた。彼を目の前にすると、まるで夢の中にいるようで、ふわふわと落ち着かない。
「あなたは現実? それとも、過去の憧憬が見せた幻なの――?」
「多分、現実だと思いますよ。家の中に入りましょうか?」
レットが玄関の扉を開けると、抵抗なく開いた。鍵などかかっていなかったらしい。
ロキシーも続く。彼に手を引かれながら。
森もあった。
少しも変わらない姿で――。
だけど、両親がいない。ルーカスもいない。家に帰っても、誰も迎え入れてはくれない。
幼い頃よりも小さくなってしまった風景の中に、ロキシーだけがいた。あの頃、いなかった男と一緒に。
しばらく歩いて、それを発見した。
たまらず走り出す。
すっかり生い茂った雑草を掻き分け進むと、記憶の中と寸分違わないブラットレイの屋敷の姿があった。
「レット! 全然変わってないわ、ほら!」
後から来たレットに叫んだ。
「わたしが出迎える前に、ぶしつけにもあなたが勝手に開けた扉だわ!」
「そうでしたっけ?」
とぼける彼の手を引き、荒れた庭を回る。思い出が次々と蘇ってきた。
「見て、あっちで水浴びをしたのよ! 冬には雪だるまを作って、ルーカスったら下手くそで、上手く丸まらないから泣いちゃったこともあったのよ。今日は曇ってるけど、晴れた日には星がよく見えて、流れ星に何度もお願いしたんだから」
「何を願ったんです?」
「とりとめの無いことよ――」
――ずっとこの日々が続いていきますように。
いつもそう願った。
浮かんでは消えていく思い出たちはどれも鮮明で、手を伸ばせば届くようだ。だがそれらは全て過ぎ去った過去で、掌が掴んだのは、夏にしては冷えた空気だけだった。
ロキシーが黙ったため、静寂を埋めるように蝉の声が響く。
喧嘩別れとなった弟のことを思い出した。
「……ずるいわルーカスは」
レットに言うのは恐らく一番間違っている。それでも口は動いた。
「わたしも忘れたい……。ルーカスのことを、忘れてしまいたい!
だってルーカスは、わたしを好きだと言ったのよ? キスだってしたのに! わたしすごく辛かった。なのにルーカスだけ、苦しみも、痛みも全部忘れて自分だけ幸せになっているなんて! わたし一人ここに置き去りにして!」
「馬鹿を言っちゃいけない。あなたが忘れたら、彼は本当に消えてしまいますよ」
レットはなだめるように言った。その瞳は穏やかだ。
「他に誰が彼の過去を知っているんです? 言っておきますけど、私は覚えてませんよ。彼がどんな子供かなんて、興味がなかったものですから」
ロキシーだって分かっていた。
忘れることの方が、覚えていることよりも、時にはるかに辛いということくらい。それでも思い出は、まばゆすぎるほど強すぎた。一人では持て余してしまうほどに。
「……ずっとここで過ごしていくんだって思ってたわ。お母様が亡くなっても、ルーカスと一緒に、ずっと二人で、この場所で。それが幸せなんだと思ってた」
初めてレットの瞳が悲しげに揺れる。
「私があなたを幸福から引き剥がしたのか」
彼が現れて、怒涛の日々が始まったのは確かだ。
だがロキシーは首を横に振った。
「結局、災厄の封印は自分で解いたの。あなたを責めてるわけじゃない。どの道、あの日々は続きなどしなかった」
女王としての記憶は、いずれロキシーを蝕んだだろう。もしかするとあの悪女と寸分違わぬ性格になっていたかもしれない。
同じように苦しむモニカと、痛みを分け合えたから今があるのだ。
そうだ、あの子と一緒に、たくさん笑った日もあった。
ルーカスもフィンもリーチェもいて、くだらない冗談を言い合って、大口開けて、笑い合った。争いが王都を包み込む前の、少女の時代は、光り輝いていた。
ここじゃなくても、幸せはあったのだ。その日々はロキシーにとって、確かに幸福だった。
それがどうして、今は皆バラバラだ。それぞれの思いを抱えて、本心を語らなくなって、全く違う方向を向いて生きている。個々が信じるものを見つめながら。
あらゆるものが変わっていく。もう二度と、ロキシーの時は戻りはしない。
「変だわ。王都にいたときは、ずっとこの場所のことを考えてたのに、いざここで思うのは、王都での日々なんて――」
レットの両手がロキシーの顔を包む。
「ロキシー様。どこか行きたいところはありますか?」
問いかけに、答えることはできなかった。自分の望みなど、とうの昔に分からなくなってしまったから。
「どこでもいいんですよ。行ったことのない場所は?」
「……海、かしら」
絵で見たことはあったが、実物を見たことはなかった。
「じゃあ、明日は海に行きましょう」
彼はまだ、この逃避行を続けるつもりらしい。
そのまま、そっとキスをされた。彼を目の前にすると、まるで夢の中にいるようで、ふわふわと落ち着かない。
「あなたは現実? それとも、過去の憧憬が見せた幻なの――?」
「多分、現実だと思いますよ。家の中に入りましょうか?」
レットが玄関の扉を開けると、抵抗なく開いた。鍵などかかっていなかったらしい。
ロキシーも続く。彼に手を引かれながら。
36
お気に入りに追加
481
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
虐げられた令嬢は、姉の代わりに王子へ嫁ぐ――たとえお飾りの妃だとしても
千堂みくま
恋愛
「この卑しい娘め、おまえはただの身代わりだろうが!」 ケルホーン伯爵家に生まれたシーナは、ある理由から義理の家族に虐げられていた。シーナは姉のルターナと瓜二つの顔を持ち、背格好もよく似ている。姉は病弱なため、義父はシーナに「ルターナの代わりに、婚約者のレクオン王子と面会しろ」と強要してきた。二人はなんとか支えあって生きてきたが、とうとうある冬の日にルターナは帰らぬ人となってしまう。「このお金を持って、逃げて――」ルターナは最後の力で屋敷から妹を逃がし、シーナは名前を捨てて別人として暮らしはじめたが、レクオン王子が迎えにやってきて……。○第15回恋愛小説大賞に参加しています。もしよろしければ応援お願いいたします。
【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。
みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」
魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。
ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。
あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で運命的な出会いをする。
【2024年3月16日完結、全58話】
【完結】お荷物王女は婚約解消を願う
miniko
恋愛
王家の瞳と呼ばれる色を持たずに生まれて来た王女アンジェリーナは、一部の貴族から『お荷物王女』と蔑まれる存在だった。
それがエスカレートするのを危惧した国王は、アンジェリーナの後ろ楯を強くする為、彼女の従兄弟でもある筆頭公爵家次男との婚約を整える。
アンジェリーナは八歳年上の優しい婚約者が大好きだった。
今は妹扱いでも、自分が大人になれば年の差も気にならなくなり、少しづつ愛情が育つ事もあるだろうと思っていた。
だが、彼女はある日聞いてしまう。
「お役御免になる迄は、しっかりアンジーを守る」と言う彼の宣言を。
───そうか、彼は私を守る為に、一時的に婚約者になってくれただけなのね。
それなら出来るだけ早く、彼を解放してあげなくちゃ・・・・・・。
そして二人は盛大にすれ違って行くのだった。
※設定ユルユルですが、笑って許してくださると嬉しいです。
※感想欄、ネタバレ配慮しておりません。ご了承ください。
夫が愛人を離れに囲っているようなので、私も念願の猫様をお迎えいたします
葉柚
恋愛
ユフィリア・マーマレード伯爵令嬢は、婚約者であるルードヴィッヒ・コンフィチュール辺境伯と無事に結婚式を挙げ、コンフィチュール伯爵夫人となったはずであった。
しかし、ユフィリアの夫となったルードヴィッヒはユフィリアと結婚する前から離れの屋敷に愛人を住まわせていたことが使用人たちの口から知らされた。
ルードヴィッヒはユフィリアには目もくれず、離れの屋敷で毎日過ごすばかり。結婚したというのにユフィリアはルードヴィッヒと簡単な挨拶は交わしてもちゃんとした言葉を交わすことはなかった。
ユフィリアは決意するのであった。
ルードヴィッヒが愛人を離れに囲うなら、自分は前々からお迎えしたかった猫様を自室に迎えて愛でると。
だが、ユフィリアの決意をルードヴィッヒに伝えると思いもよらぬ事態に……。
【完結】この地獄のような楽園に祝福を
おもち。
恋愛
いらないわたしは、決して物語に出てくるようなお姫様にはなれない。
だって知っているから。わたしは生まれるべき存在ではなかったのだと……
「必ず迎えに来るよ」
そんなわたしに、唯一親切にしてくれた彼が紡いだ……たった一つの幸せな嘘。
でもその幸せな夢さえあれば、どんな辛い事にも耐えられると思ってた。
ねぇ、フィル……わたし貴方に会いたい。
フィル、貴方と共に生きたいの。
※子どもに手を上げる大人が出てきます。読まれる際はご注意下さい、無理な方はブラウザバックでお願いします。
※この作品は作者独自の設定が出てきますので何卒ご了承ください。
※本編+おまけ数話。
白い結婚三年目。つまり離縁できるまで、あと七日ですわ旦那様。
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
異世界に転生したフランカは公爵夫人として暮らしてきたが、前世から叶えたい夢があった。パティシエールになる。その夢を叶えようと夫である王国財務総括大臣ドミニクに相談するも答えはノー。夫婦らしい交流も、信頼もない中、三年の月日が近づき──フランカは賭に出る。白い結婚三年目で離縁できる条件を満たしていると迫り、夢を叶えられないのなら離縁すると宣言。そこから公爵家一同でフランカに考え直すように動き、ドミニクと話し合いの機会を得るのだがこの夫、山のように隠し事はあった。
無言で睨む夫だが、心の中は──。
【詰んだああああああああああ! もうチェックメイトじゃないか!? 情状酌量の余地はないと!? ああ、どうにかして侍女の準備を阻まなければ! いやそれでは根本的な解決にならない! だいたいなぜ後妻? そんな者はいないのに……。ど、どどどどどうしよう。いなくなるって聞いただけで悲しい。死にたい……うう】
4万文字ぐらいの中編になります。
※小説なろう、エブリスタに記載してます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる