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第9話 ひねくれ者
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「レイズナー、私、あなたのこと好きよ」
廊下の奥からそんな声が聞こえ、私とお姉様は立ち止まった。
二人は角の向こう側にいて、こちらから姿は見えない。
「ヴィクトリカお姉様よりも、ずっとずっと愛してあげられるわ。ここだけの話だけど、お姉様はヒースをまだ愛しているの。あなたと別れたいってさっきも言っていたわ」
――そんなことない!
飛び出しそうになるのを、ルイサお姉様に腕を掴まれ止められる。
お姉様は囁くように言った。
「待ちなさいヴィクトリカ。様子を見ましょう。これで二人がどんな関係なのかはっきりします」
お姉様は残酷だ。もしレイズナーがポーリーナを好きだと言ったらどうするの。もうポーリーナの言葉だけで、こんなにも辛いのに。
「ポーリーナ様。誤解しないでいただきたい」
長い沈黙の後で、ぞっとするほど冷たい声がした。
今まで聞いたこともないレイズナーの声だった。
「あなたをここに置いているのは、ヴィクトリカが望んだからで、俺の意思ではない。勘違いをさせたなら謝るが、あなたへ優しくするのは、ヴィクトリカの妹だからで、好意故ではない。俺の妻はヴィクトリカただ一人で、愛する人も、彼女だけです」
思わず、顔を両手で覆った。
こんなに簡単に泣くなんてありないと思うけど、目からは、安堵の涙が滴った。
彼は私を愛している。ただそれだけが、分かれば良かった。
続いて、ポーリーナの声がした。
「ヴィクトリカお姉様は確かに美人よ? だけど美しさなら私の方が上だわ! だってお姉様は、女のくせに乗馬が好きだし、本を読んで勉強してばかりなのよ! 賢さをつけたって無駄なのに!」
焦っているような、そんな震える声色で――妹にそう思われていたなど少しも知らなかった私は、衝撃を受けていた。
「あなたに気高さはない。愛も、希望も、強い意志も、自分というものがまるでない。俺を愛しているだって? 冗談はよしていただきたい」
レイズナーの声に、少しずつ、怒りの感情が乗っていく。
「満たされない空の器を、ヴィクトリカから奪ったもので埋めようとしているだけだ。ヒースの次は俺か?
だが俺がこの命を懸けて守りたいと思う女は一人だけだ。それはあなたではない、ポーリーナ様」
「私の方が、ヴィクトリカよりずっと素敵よ!」
そして駆け寄るような足音がしたかと思うと、ばさりと、人が倒れる音がした。
「何をする!」
レイズナーの尋常じゃない声色に私とお姉様は彼らの前に姿を現した。
まず目に入ったのは、床に倒れるポーリーナと、自分の唇を拭うレイズナーの姿だった。
こちらに気がついたポーリーナは大きな目から涙を流しながら私たちに訴えかける。
「レイズナーに無理矢理キスされたの! ヴィクトリカお姉様に隠れて、関係を結ぼうとしたのよ!」
「この……!」
レイズナーが片手をポーリーナに向けるのが分かった。
「止めなさいレイブン!」
叫んだのはお姉様で、レイズナーは向けた片手を握りしめる。つかつかと、お姉様は二人に歩み寄って行った。
「どんな理由があろうとも、レイブン、あなたがこれからしようとすることは許されません。平民であるあなたが、王族に手を上げるなんて」
お姉様は、レイズナーがポーリーナに魔法で危害を加えると思ったらしい。
ついに二人の前まで行ったお姉様は、ポーリーナを助け起こす。安堵の表情を浮かべるポーリーナに、にこりと微笑みかけると言った。
「ですから、同じ王族であるこのわたくしが鉄槌を下しますわ」
次の瞬間、お姉様は大きく手を振りかぶり、ポーリーナの頬に容赦ない平手打ちをかました。ポーリーナは再び床に倒れる。
ポーリーナが口を開こうとする前に、お姉様のお叱りの声が響き渡る。
「ポーリーナ! あなた、自分が何をしているか分かっているの! 全て聞いていましたよ。言い訳など聞きません!」
そしてポーリーナを掴むと、レイズナーと私を交互に見た。
「来たばかりですが帰ります。ついでにこのわがままな妹を連れて行きますわ」
「嫌よ!」
ポーリーナはお姉様の腕を振りほどく。
「どうしてヴィクトリカお姉様ばかりが愛されるの!? お兄様もお姉様も、お父様とお母様だって、いつだってヴィクトリカ、ヴィクトリカって! 私だって、王女だわ! 同じ娘で妹なのよ! 何が違うって言うのよ!」
だがお姉様は、有無を言わせずポーリーナを立たせると、ほとんど無理矢理引っ張っていく。
去り際、レイズナーに目を向けた。
「レイブン、ヴィクトリカを頼みます」
「ヴィクトリカなんて大嫌い! 大嫌いだわ!」
泣き叫ぶポーリーナの声だけが、いつまでも響き渡っていた。
* * *
外国へと向かう馬車の中で、ルイサはようやく泣き止んだポーリーナに尋ねた。
「どうしてレイブンを誘惑しようとしたんです?」
「彼から迫ってきたのよ」
「ポーリーナ。まだそんなことを言うの?」
咎めると、ようやくポーリーナはため息をつく。
「レイズナーは愛を持っている人だわ。あんな瞳で、私も見つめられたかった。ヴィクトリカお姉様ばかり愛されてずるいわ」
「愛が欲しいのですか?」
ポーリーナは素直に頷いた。昔から、大泣きした後はしゅん、と落ち込む子だったことを、ルイサは思い出していた。
「私、お父様とお母様みたいな政略結婚は嫌なの。愛のある結婚をしたかった。ヒースもレイズナーも、ヴィクトリカお姉様を愛していると言っていたわ。だったら、私を愛してくれてもいいじゃない。私の方がもてるし美人よ。ずっと尽くすし、言うことだって何でも聞くのに!」
「我が妹ながら捻くれていますわね」
「だって! 皆いつだってヴィクトリカが一番じゃないの! 私だって愛されたい! 良い子にしていたのに!」
ルイサの心は痛んだ。自分たちの態度が、そう思わせてしまったのだ。おそらくは、彼女たちが知るはずもない理由によって。だけど二人の妹に注がれる愛情に、差はなかった。
「愛情は同じだけ与えられていたのですよ。ポーリーナ、わたくしだってあなたのことを、いつだって大切に思っているわ」
だがポーリーナは頑なだった。
「嘘よ。ずっと昔、私とヴィクトリカお姉様が一緒に木から落ちたとき――大した高さじゃなかったわ。せいぜい、一メートル程度。だけど皆、先に駆け寄ったのはヴィクトリカお姉様の方だった」
「そうですね――そう。そんなことも、あったわ」
ルイサもその時のことはよく覚えていた。
もし、何かの弾みで、ヴィクトリカが死んでしまったら。あるいは、大けがでもしたら。もちろん、彼女自身を案じる気持ちもあったが、ポーリーナよりも先に駆けつけたのは誰もが必死になって守り続けたこの国を、破壊してしまいかねないからだった。
「ヴィクトリカは、特別なんです。わたくしや、あるいはカーソンよりもずっと。あなたは生まれる前で、知るはずもないけれど……」
もう、潮時なのかもしれない。ヴィクトリカは城という庇護を出て、一人前の女性になった。
ポーリーナの心に永遠に消えない傷を作る前に、真実を話そう。
ルイサは、ヴィクトリカが生まれる前と、そして生まれた時のことを話した。話している間、ポーリーナの目が見開かれていく。
話終えたとき、ポーリーナはゆっくりと首を振った。
「あり得ないわ。そんなことが起きていたなんて。それ……ヴィクトリカお姉様は知っているの?」
「いいえ。知らないわ。知らせてしまって、絶望させてはいけないと、わたくしたちは誓ったから。知っているのは、今はもう、わたくしとカーソンだけ」
「私、知らなかったの。知らなかったのよ」
ポーリーナは、自分を抱きしめるように両腕を抱えた。
ルイサはそんな妹の肩を優しく抱く。
「それにね、ポーリーナ。始まりは政略結婚だとしても、そこに愛がなかったとは言えないわ。燃えるような愛ではなかったかもしれないけれど、お父様とお母様の間には、信頼があったでしょう?」
「二人は愛し合っていたというの?」
「じゃなきゃ、子供を四人も作らないわ」
中の子供を撫でるように、腹をさする。ポーリーナは、再びぐすぐすと涙を流した。
「今度会ったとき、ヴィクトリカお姉様に謝れるかしら。許してもらえるかしら」
「レイブンにも、謝らないとね?」
こくり、とポーリーナは頷いた。
そのおでこに、ルイサはキスをする。人の思いは複雑だ。愛していても、憎むことができる。そして、その逆もまたそうだ。
願わくば――誰もが幸せになれる世界があるとよい。
だがそれは、ヴィクトリカが生まれた時に永遠に失われてしまったのだ。
廊下の奥からそんな声が聞こえ、私とお姉様は立ち止まった。
二人は角の向こう側にいて、こちらから姿は見えない。
「ヴィクトリカお姉様よりも、ずっとずっと愛してあげられるわ。ここだけの話だけど、お姉様はヒースをまだ愛しているの。あなたと別れたいってさっきも言っていたわ」
――そんなことない!
飛び出しそうになるのを、ルイサお姉様に腕を掴まれ止められる。
お姉様は囁くように言った。
「待ちなさいヴィクトリカ。様子を見ましょう。これで二人がどんな関係なのかはっきりします」
お姉様は残酷だ。もしレイズナーがポーリーナを好きだと言ったらどうするの。もうポーリーナの言葉だけで、こんなにも辛いのに。
「ポーリーナ様。誤解しないでいただきたい」
長い沈黙の後で、ぞっとするほど冷たい声がした。
今まで聞いたこともないレイズナーの声だった。
「あなたをここに置いているのは、ヴィクトリカが望んだからで、俺の意思ではない。勘違いをさせたなら謝るが、あなたへ優しくするのは、ヴィクトリカの妹だからで、好意故ではない。俺の妻はヴィクトリカただ一人で、愛する人も、彼女だけです」
思わず、顔を両手で覆った。
こんなに簡単に泣くなんてありないと思うけど、目からは、安堵の涙が滴った。
彼は私を愛している。ただそれだけが、分かれば良かった。
続いて、ポーリーナの声がした。
「ヴィクトリカお姉様は確かに美人よ? だけど美しさなら私の方が上だわ! だってお姉様は、女のくせに乗馬が好きだし、本を読んで勉強してばかりなのよ! 賢さをつけたって無駄なのに!」
焦っているような、そんな震える声色で――妹にそう思われていたなど少しも知らなかった私は、衝撃を受けていた。
「あなたに気高さはない。愛も、希望も、強い意志も、自分というものがまるでない。俺を愛しているだって? 冗談はよしていただきたい」
レイズナーの声に、少しずつ、怒りの感情が乗っていく。
「満たされない空の器を、ヴィクトリカから奪ったもので埋めようとしているだけだ。ヒースの次は俺か?
だが俺がこの命を懸けて守りたいと思う女は一人だけだ。それはあなたではない、ポーリーナ様」
「私の方が、ヴィクトリカよりずっと素敵よ!」
そして駆け寄るような足音がしたかと思うと、ばさりと、人が倒れる音がした。
「何をする!」
レイズナーの尋常じゃない声色に私とお姉様は彼らの前に姿を現した。
まず目に入ったのは、床に倒れるポーリーナと、自分の唇を拭うレイズナーの姿だった。
こちらに気がついたポーリーナは大きな目から涙を流しながら私たちに訴えかける。
「レイズナーに無理矢理キスされたの! ヴィクトリカお姉様に隠れて、関係を結ぼうとしたのよ!」
「この……!」
レイズナーが片手をポーリーナに向けるのが分かった。
「止めなさいレイブン!」
叫んだのはお姉様で、レイズナーは向けた片手を握りしめる。つかつかと、お姉様は二人に歩み寄って行った。
「どんな理由があろうとも、レイブン、あなたがこれからしようとすることは許されません。平民であるあなたが、王族に手を上げるなんて」
お姉様は、レイズナーがポーリーナに魔法で危害を加えると思ったらしい。
ついに二人の前まで行ったお姉様は、ポーリーナを助け起こす。安堵の表情を浮かべるポーリーナに、にこりと微笑みかけると言った。
「ですから、同じ王族であるこのわたくしが鉄槌を下しますわ」
次の瞬間、お姉様は大きく手を振りかぶり、ポーリーナの頬に容赦ない平手打ちをかました。ポーリーナは再び床に倒れる。
ポーリーナが口を開こうとする前に、お姉様のお叱りの声が響き渡る。
「ポーリーナ! あなた、自分が何をしているか分かっているの! 全て聞いていましたよ。言い訳など聞きません!」
そしてポーリーナを掴むと、レイズナーと私を交互に見た。
「来たばかりですが帰ります。ついでにこのわがままな妹を連れて行きますわ」
「嫌よ!」
ポーリーナはお姉様の腕を振りほどく。
「どうしてヴィクトリカお姉様ばかりが愛されるの!? お兄様もお姉様も、お父様とお母様だって、いつだってヴィクトリカ、ヴィクトリカって! 私だって、王女だわ! 同じ娘で妹なのよ! 何が違うって言うのよ!」
だがお姉様は、有無を言わせずポーリーナを立たせると、ほとんど無理矢理引っ張っていく。
去り際、レイズナーに目を向けた。
「レイブン、ヴィクトリカを頼みます」
「ヴィクトリカなんて大嫌い! 大嫌いだわ!」
泣き叫ぶポーリーナの声だけが、いつまでも響き渡っていた。
* * *
外国へと向かう馬車の中で、ルイサはようやく泣き止んだポーリーナに尋ねた。
「どうしてレイブンを誘惑しようとしたんです?」
「彼から迫ってきたのよ」
「ポーリーナ。まだそんなことを言うの?」
咎めると、ようやくポーリーナはため息をつく。
「レイズナーは愛を持っている人だわ。あんな瞳で、私も見つめられたかった。ヴィクトリカお姉様ばかり愛されてずるいわ」
「愛が欲しいのですか?」
ポーリーナは素直に頷いた。昔から、大泣きした後はしゅん、と落ち込む子だったことを、ルイサは思い出していた。
「私、お父様とお母様みたいな政略結婚は嫌なの。愛のある結婚をしたかった。ヒースもレイズナーも、ヴィクトリカお姉様を愛していると言っていたわ。だったら、私を愛してくれてもいいじゃない。私の方がもてるし美人よ。ずっと尽くすし、言うことだって何でも聞くのに!」
「我が妹ながら捻くれていますわね」
「だって! 皆いつだってヴィクトリカが一番じゃないの! 私だって愛されたい! 良い子にしていたのに!」
ルイサの心は痛んだ。自分たちの態度が、そう思わせてしまったのだ。おそらくは、彼女たちが知るはずもない理由によって。だけど二人の妹に注がれる愛情に、差はなかった。
「愛情は同じだけ与えられていたのですよ。ポーリーナ、わたくしだってあなたのことを、いつだって大切に思っているわ」
だがポーリーナは頑なだった。
「嘘よ。ずっと昔、私とヴィクトリカお姉様が一緒に木から落ちたとき――大した高さじゃなかったわ。せいぜい、一メートル程度。だけど皆、先に駆け寄ったのはヴィクトリカお姉様の方だった」
「そうですね――そう。そんなことも、あったわ」
ルイサもその時のことはよく覚えていた。
もし、何かの弾みで、ヴィクトリカが死んでしまったら。あるいは、大けがでもしたら。もちろん、彼女自身を案じる気持ちもあったが、ポーリーナよりも先に駆けつけたのは誰もが必死になって守り続けたこの国を、破壊してしまいかねないからだった。
「ヴィクトリカは、特別なんです。わたくしや、あるいはカーソンよりもずっと。あなたは生まれる前で、知るはずもないけれど……」
もう、潮時なのかもしれない。ヴィクトリカは城という庇護を出て、一人前の女性になった。
ポーリーナの心に永遠に消えない傷を作る前に、真実を話そう。
ルイサは、ヴィクトリカが生まれる前と、そして生まれた時のことを話した。話している間、ポーリーナの目が見開かれていく。
話終えたとき、ポーリーナはゆっくりと首を振った。
「あり得ないわ。そんなことが起きていたなんて。それ……ヴィクトリカお姉様は知っているの?」
「いいえ。知らないわ。知らせてしまって、絶望させてはいけないと、わたくしたちは誓ったから。知っているのは、今はもう、わたくしとカーソンだけ」
「私、知らなかったの。知らなかったのよ」
ポーリーナは、自分を抱きしめるように両腕を抱えた。
ルイサはそんな妹の肩を優しく抱く。
「それにね、ポーリーナ。始まりは政略結婚だとしても、そこに愛がなかったとは言えないわ。燃えるような愛ではなかったかもしれないけれど、お父様とお母様の間には、信頼があったでしょう?」
「二人は愛し合っていたというの?」
「じゃなきゃ、子供を四人も作らないわ」
中の子供を撫でるように、腹をさする。ポーリーナは、再びぐすぐすと涙を流した。
「今度会ったとき、ヴィクトリカお姉様に謝れるかしら。許してもらえるかしら」
「レイブンにも、謝らないとね?」
こくり、とポーリーナは頷いた。
そのおでこに、ルイサはキスをする。人の思いは複雑だ。愛していても、憎むことができる。そして、その逆もまたそうだ。
願わくば――誰もが幸せになれる世界があるとよい。
だがそれは、ヴィクトリカが生まれた時に永遠に失われてしまったのだ。
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