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第8話 彼は初めから暗殺者
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残りの仕事を終えたのは、夕食の時間をとうに回った頃だった。どの道家に戻っても、ヴィクトリカは口を利いてはくれないだろうと、ゆるゆると進めたせいもあり、すっかり遅くなってしまった。
近頃御者に代わり、ハンがレイズナーの馬車を扱っていた。今日もその例に従う。
レイズナーは疲れ切っていた。結婚式から数日で、半年過ごしても起こりえないようなことが次々と起き続けている。
――いっそのこと、全てヴィクトリカに暴露してしまおうか。
うつろな思考の合間に、甘い考えが沸いて出てくる。真実を話せば、彼女はきっと許してくれるだろう。
だが即座に打ち消した。
(馬鹿か。決して誰にも話さないと、誓いを立てたはずだろう)
神など信じていないから、誓ったのは、己の信念に対してだった。
うつろな瞳の妹。血しぶきを上げる貴族の男。血まみれの自分の拳。――なんということだ。かすれる、少年の声。
あの日の殺人は心の内に秘めておけば良い。
誰にも知られず、咎を負うのは自分だけで十分だ。
一方で、あざ笑う声が聞こえた。
――ではなぜ彼女と結婚したのだ。
崇高な信念を掲げても、欲望に逆らえなかっただけじゃないか。
レイズナーは油断していた。
今この瞬間だけでなく、恐らくヴィクトリカと結婚して以降ずっと。
だから、普段であれば決して見逃すはずのない違和感を見逃し、今だって、暗がりで、ハンが馬車を止めたのにも気がつかずに。
* * *
どんなことをしていても、考えてしまうのはレイズナーのことだった。
夕食後のお茶を用意するアイラの姿をぼんやりと見つめていると、彼女が機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていることに気がついた。
「なんだか、とても嬉しそうだわアイラ」
慌てた様子でアイラは振り返る。
「ごめんなさい、こんな時に……」
「気を遣わないで。それより、何があったのか聞かせて欲しいわ」
アイラの頬が赤く染まった。
「実はハンと、結婚の約束をしたんです。もう少しで、ハンの抱える仕事が終わりそうだから、そうしたら彼の故郷に一緒に行こうって」
「まあおめでとう!」心からそう言った。「じゃあ、それなりに長いお付き合いがあるの?」
アイラとハンのなれそめを、ゆっくり聞いたことは今までなかった。
「一週間くらいでしょうか。旦那様が奥様との結婚を認められて、この屋敷を購入されてからですから」
「た、たったのそれだけ? それで結婚しちゃうの?」
「愛を誓い合うのに、時間は重要なのでしょうか」
でも、だって、時間は重要でしょう?
だけどあまりにも疑いなく言われると、自分の常識が間違っているような気にさえなる。
「それでハンは今どこにいるの? お祝いを言いたいわ」
「旦那様と一緒ですわ。このところ、御者に代わって彼が馬車を任されているんです」
自分のことのように誇らしげに彼女は言った。
確かにハンは馬の扱いが上手だ。前に襲われた時も、御者と一緒に馬を引いていた……そこまで考えたところで、恐ろしい考えが浮かんだ。
――それは、わずかな違和感だった。
今なら引き返せる。思考を捨てさえすれば、今まで通りに元に戻れる。なのに愚かな私の頭は、考えるのを止めなかった。
前に道で襲われた時。
私はその頃、レイズナーを嫌っていたから、彼に告げずに城を出た。だけどハンまでも忠誠を誓った主人に、その妻の帰宅を告げないのはおかしくないだろうか。
それに、あの時ハンは言った。
“ここにレイブンはいない”と。
まるで、あの影がレイズナーを襲いに来たと思ったかのようだ。
「……ねえアイラ。ハンには、いつ出会ったの」
「旦那様が結婚を決められてすぐ、引っ越しの時ですわ。屋敷の前に彼が倒れていて。旦那様に見つからなかったのは幸運でしたわ。わたくしが門の前を掃除する時間帯でしたから」
馬鹿な私。もう考えるのをやめなさい。だけど。
もしもハンが、アイラが毎日決まった時間にそこにいることを、前もって知っていたら? 偶然を装って、この屋敷にまんまと忍び込んだのだとしたら。
アイラの親切心につけ込み、利用しているのだとしたら――?
暗雲が、私の心を覆い尽くしていく。けれど思考は止められなかった。
結婚が決まってからハンはこの屋敷に来た。つまり、私が来ることを知っていた。
あの影に襲われた二度、ハンはいずれも、側にいた。
もしや彼が、私を殺す人間だろうか。
――なんて、馬鹿馬鹿しいことよ。
首を振って否定する。
私は神経過敏になりすぎているらしい。あり得ない。ハンはいい人だ。
その時だった。荒々しい馬の足音が窓の外でしたかと思うと、ハンがアイラを呼ぶ声が屋敷に駆け込んできた。
ティールームから、アイラが外へ顔を出す。途端にハンが現れ、彼女の腕を掴んだ。
「アイラ! ココカラ、逃げヨウ」
「ハン、どうしたの?」
ただならぬ様子に、私も立ち上がる。
ハンの服には、おびただしい量の赤い液体が付着していた。
「それ、血?」
私は尋ねた。
ハンはゆっくりとこちらに目を向ける。
ぞっとしたのは、あまりにも、暗い瞳だったからだ。
「誰の――」誰の血なの。
聞くまでもなく、確信していた。
本来ならば、この場にもう一人いるはずだ。なのに、彼の姿はどこにもなかった。
知らず、声は震えていた。
「ハン、彼はどうしたの。……レイズナーは、私の夫はどこにいるの!」
ハンは答えない。
「“彼を、殺したの?”」
やはりハンは答えない。
あとずさるべきだ。ハンは脅威なのだから。
にもかかわらず、私は彼に詰め寄った。
「“私も殺すつもり?”」
二人の間で、アイラは青ざめた顔をしている。
ハンは彼女の手を掴んだまま、首を横に振った。
「“命じられたのは、あなたの暗殺ではない。レイズナー・レイブンの始末だ”」
「“だとしたら逃がすわけにはいかないわ。彼をどこへやったの”」
「“邪魔をするならばあなたさえ排除する。そこに迷いはない”」
「“誰に命じられたの。目的は恨み? それともお金なの!? 彼をどこにやったのよ!”」
ハンはアイラから手を離すと、腰に差していたらしいナイフを取り出し私に向けた。
アイラが悲鳴を上げる。
「“あなたはアイラを愛しているでしょう!”」
私は叫び、両手を広げた。
「アイラの前で、この私を殺せるの!」
やれるものならやればいい。ハンの目が、見開かれ、ナイフが振りかざされた。
「魔法使いを殺したいんだったら、首から胴体を切り離すべきだった」
声がした。
ハンの目の前に、光る魔方陣が出現した刹那だった。
あっという間だった。ハンが、霧散したのは。
腹を押さえながら現れたのはレイズナーだった。傷口から、血が溢れ続けている。こんなに場が緊迫しているにもかかわらず、私は心から、レイズナーが生きていることに安堵した。
ハンの姿はもうどこにもない。
レイズナーが、ハンの体を木っ端微塵に破壊したのだ。肉片さえも蒸発させ、まるで初めから、ハンという男は存在しなかったかのように。
苦しそうに肩で呼吸をし、床に座り込むレイズナーに駆け寄り、彼の手の上から傷口を押さえる。生暖かい血が、私の手を伝い床に落ちていった。
きっと静かな晩だった。
アイラが、悲鳴を上げ続ける声の他は、もう何も聞こえなかったのだから。
近頃御者に代わり、ハンがレイズナーの馬車を扱っていた。今日もその例に従う。
レイズナーは疲れ切っていた。結婚式から数日で、半年過ごしても起こりえないようなことが次々と起き続けている。
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うつろな思考の合間に、甘い考えが沸いて出てくる。真実を話せば、彼女はきっと許してくれるだろう。
だが即座に打ち消した。
(馬鹿か。決して誰にも話さないと、誓いを立てたはずだろう)
神など信じていないから、誓ったのは、己の信念に対してだった。
うつろな瞳の妹。血しぶきを上げる貴族の男。血まみれの自分の拳。――なんということだ。かすれる、少年の声。
あの日の殺人は心の内に秘めておけば良い。
誰にも知られず、咎を負うのは自分だけで十分だ。
一方で、あざ笑う声が聞こえた。
――ではなぜ彼女と結婚したのだ。
崇高な信念を掲げても、欲望に逆らえなかっただけじゃないか。
レイズナーは油断していた。
今この瞬間だけでなく、恐らくヴィクトリカと結婚して以降ずっと。
だから、普段であれば決して見逃すはずのない違和感を見逃し、今だって、暗がりで、ハンが馬車を止めたのにも気がつかずに。
* * *
どんなことをしていても、考えてしまうのはレイズナーのことだった。
夕食後のお茶を用意するアイラの姿をぼんやりと見つめていると、彼女が機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていることに気がついた。
「なんだか、とても嬉しそうだわアイラ」
慌てた様子でアイラは振り返る。
「ごめんなさい、こんな時に……」
「気を遣わないで。それより、何があったのか聞かせて欲しいわ」
アイラの頬が赤く染まった。
「実はハンと、結婚の約束をしたんです。もう少しで、ハンの抱える仕事が終わりそうだから、そうしたら彼の故郷に一緒に行こうって」
「まあおめでとう!」心からそう言った。「じゃあ、それなりに長いお付き合いがあるの?」
アイラとハンのなれそめを、ゆっくり聞いたことは今までなかった。
「一週間くらいでしょうか。旦那様が奥様との結婚を認められて、この屋敷を購入されてからですから」
「た、たったのそれだけ? それで結婚しちゃうの?」
「愛を誓い合うのに、時間は重要なのでしょうか」
でも、だって、時間は重要でしょう?
だけどあまりにも疑いなく言われると、自分の常識が間違っているような気にさえなる。
「それでハンは今どこにいるの? お祝いを言いたいわ」
「旦那様と一緒ですわ。このところ、御者に代わって彼が馬車を任されているんです」
自分のことのように誇らしげに彼女は言った。
確かにハンは馬の扱いが上手だ。前に襲われた時も、御者と一緒に馬を引いていた……そこまで考えたところで、恐ろしい考えが浮かんだ。
――それは、わずかな違和感だった。
今なら引き返せる。思考を捨てさえすれば、今まで通りに元に戻れる。なのに愚かな私の頭は、考えるのを止めなかった。
前に道で襲われた時。
私はその頃、レイズナーを嫌っていたから、彼に告げずに城を出た。だけどハンまでも忠誠を誓った主人に、その妻の帰宅を告げないのはおかしくないだろうか。
それに、あの時ハンは言った。
“ここにレイブンはいない”と。
まるで、あの影がレイズナーを襲いに来たと思ったかのようだ。
「……ねえアイラ。ハンには、いつ出会ったの」
「旦那様が結婚を決められてすぐ、引っ越しの時ですわ。屋敷の前に彼が倒れていて。旦那様に見つからなかったのは幸運でしたわ。わたくしが門の前を掃除する時間帯でしたから」
馬鹿な私。もう考えるのをやめなさい。だけど。
もしもハンが、アイラが毎日決まった時間にそこにいることを、前もって知っていたら? 偶然を装って、この屋敷にまんまと忍び込んだのだとしたら。
アイラの親切心につけ込み、利用しているのだとしたら――?
暗雲が、私の心を覆い尽くしていく。けれど思考は止められなかった。
結婚が決まってからハンはこの屋敷に来た。つまり、私が来ることを知っていた。
あの影に襲われた二度、ハンはいずれも、側にいた。
もしや彼が、私を殺す人間だろうか。
――なんて、馬鹿馬鹿しいことよ。
首を振って否定する。
私は神経過敏になりすぎているらしい。あり得ない。ハンはいい人だ。
その時だった。荒々しい馬の足音が窓の外でしたかと思うと、ハンがアイラを呼ぶ声が屋敷に駆け込んできた。
ティールームから、アイラが外へ顔を出す。途端にハンが現れ、彼女の腕を掴んだ。
「アイラ! ココカラ、逃げヨウ」
「ハン、どうしたの?」
ただならぬ様子に、私も立ち上がる。
ハンの服には、おびただしい量の赤い液体が付着していた。
「それ、血?」
私は尋ねた。
ハンはゆっくりとこちらに目を向ける。
ぞっとしたのは、あまりにも、暗い瞳だったからだ。
「誰の――」誰の血なの。
聞くまでもなく、確信していた。
本来ならば、この場にもう一人いるはずだ。なのに、彼の姿はどこにもなかった。
知らず、声は震えていた。
「ハン、彼はどうしたの。……レイズナーは、私の夫はどこにいるの!」
ハンは答えない。
「“彼を、殺したの?”」
やはりハンは答えない。
あとずさるべきだ。ハンは脅威なのだから。
にもかかわらず、私は彼に詰め寄った。
「“私も殺すつもり?”」
二人の間で、アイラは青ざめた顔をしている。
ハンは彼女の手を掴んだまま、首を横に振った。
「“命じられたのは、あなたの暗殺ではない。レイズナー・レイブンの始末だ”」
「“だとしたら逃がすわけにはいかないわ。彼をどこへやったの”」
「“邪魔をするならばあなたさえ排除する。そこに迷いはない”」
「“誰に命じられたの。目的は恨み? それともお金なの!? 彼をどこにやったのよ!”」
ハンはアイラから手を離すと、腰に差していたらしいナイフを取り出し私に向けた。
アイラが悲鳴を上げる。
「“あなたはアイラを愛しているでしょう!”」
私は叫び、両手を広げた。
「アイラの前で、この私を殺せるの!」
やれるものならやればいい。ハンの目が、見開かれ、ナイフが振りかざされた。
「魔法使いを殺したいんだったら、首から胴体を切り離すべきだった」
声がした。
ハンの目の前に、光る魔方陣が出現した刹那だった。
あっという間だった。ハンが、霧散したのは。
腹を押さえながら現れたのはレイズナーだった。傷口から、血が溢れ続けている。こんなに場が緊迫しているにもかかわらず、私は心から、レイズナーが生きていることに安堵した。
ハンの姿はもうどこにもない。
レイズナーが、ハンの体を木っ端微塵に破壊したのだ。肉片さえも蒸発させ、まるで初めから、ハンという男は存在しなかったかのように。
苦しそうに肩で呼吸をし、床に座り込むレイズナーに駆け寄り、彼の手の上から傷口を押さえる。生暖かい血が、私の手を伝い床に落ちていった。
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