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第5話 彼と彼女の関係
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帰りの馬車はほとんど無言だった。
屋敷につき、早い帰りに驚くアイラにレイズナーは紅茶かワインを持ってくるように指示をする。
ポーリーナと向かいあったように、客間で向かい合って座る。腰を下ろすなりレイズナーは言った。
「君はやはりおかしい。おかしいどころじゃない。なぜ、あの男――」
「エルナンデス?」
「――あいつに、なぜ近づいた。悪党の排除は王女の役割じゃないはずだ」
「たまたま、目に付いたから話しかけたのよ」
「君が俺の愛人と疑っている、キンバリー・グレイホルムの前で、たまたまエルナンデスと会ったのか」
「そうよ」
「見苦しい言い訳だ」
レイズナーは苦笑する。
私は奇妙な感覚に陥った。
これは本当に、言葉では言い表せない感覚だけど、私は彼と議論を交わすのが楽しかった。たとえ追い詰められているときでさえ。
「あの男が何者か知っていて近づいたのか?」
「あなたのお友達でしょう?」
「とんでもない」レイズナーは私の言葉を追いやるように手を振って否定した。「あいつとは確かに知り合いだが、親しくしたい男ではない。君とは住む世界が違う人種だ」
以前だったら、私もそう思っただろうけど、明確に線引きをした彼に腹が立った。
「住む世界が違うのだと、前も言われたけれど、私とあなたの世界はこうして入り交じってしまった。私は境界なんて引いていないわ。境界を作ったのはあなたじゃないの、レイズナー」
レイズナーは真意を探るように私を見つめ、ため息を吐いた。
「確かに一利ある。俺たちと君は、あまりにも違うからな」
「あなたが何かを隠しているから、私は知りたくなるのよ」
「隠しごとがあるのはお互い様のようだがな。それとも何もないのかな、ミセス・レイブン?」
鋭い視線が私を貫く。
「憎悪を孕んだ瞳で俺を見るのは、俺の妻になるのが、単に心の底から嫌なだけか? 一方で熱で潤んだ瞳で俺を見上げるのは、あるいは単なるゆさぶりか?
今までだって、君は俺が嫌いだったはずだ。レイズナー・レイブンといえば、貧民街上がりの教養のない女たらしで、おまけにあらゆる犯罪に手を染めているから」
自分を卑下する彼に驚いた。
「それは噂でしょう」
「ああ、だが君は信じた」
「愛人がいるのは事実じゃない! あなたが、あの、キンバリーを見つめる瞳は、普通じゃないわ!」
レイズナーの瞳に浮かぶのは、分かり合えない人間へ向ける、ある種の諦めのように見えた。でなければ、怒りだ。
「俺は貧民街のあばずれから生まれた。普通がどうのなんて知らない。
普通というのは、父親の顔を知らないことか? 母親が何日も帰ってこないことか? 四六時中腹をすかせて、ひどい匂いをただよわせていることか?」
ワインを持ってきたアイラが止めに入る。
「もう、いいじゃありませんか、旦那様。まるで当てつけのように聞こえますわ。そんなこと、彼女に言ってどうするの」
アイラは彼に、友人らしい言葉をかける。
「彼女は俺が隠していることを知りたがっている。だから教えてやっているんだ。
俺の母親はアル中の淫売で、冬を越さずにくたばった。だから俺の仕事は国に害をなす連中の口を止めることだった。なぜなら俺が危険に陥っても心配する人間さえいないからだ。
アイラ、お前だって言えばいい。家族を養うために、俺に助けを求める前、貴族相手にどんな商売をしてきたか!」
私たちの喧嘩に、アイラまで巻き込むことはない。思わず、私はレイズナーの頬をはたいた。パン、と乾いた音がする。
「馬鹿にしないで! そんなことで、私が怖がるとでも思ったの? 怯えて引き下がるとでも? 見くびらないで、私は、誇り高き第二王女よ!」
「元、だろう。今は俺の妻なのだから」
レイズナーは片手で頬を押さえてながらも、視線は私だけを見ていた。アイラが言う。
「言うべきよ。キンバリーとあなたの関係を」
「黙れアイラ」私から目を反らさずに、彼はアイラに言った。「言えばお前を解雇する」
だがアイラはきっぱりと言った。
「いいえ黙らないわ。奥様、キンバリー・グレイホルムは――」
「言うんじゃない!」
レイズナーが立ち上がり怒鳴っても、アイラは止めなかった。
「――彼女はレイズナー・レイブンの実の妹です!」
しん、と静寂が包み込んだ。
もしやレイブンがアイラに手を上げるんじゃないかと思ったが、その心配は不要だった。彼はがくりとうなだれ、再びソファーに腰掛け、顔を両手で覆っていた。
驚きはあった。
「でも――だって、姓が違うわ」
「……キンバリーは見た目も、頭も良くて、だから貴族に見いだされ養女になったのですわ。レイズナーがお金を出して通わせていた学校で」
アイラの言葉に、私はキンバリー・グレイホルムの瞳を思いだした。レイズナーと同じ、美しい緑色の瞳だ。
“違いますわ! 私と彼は――”
必死に否定しようとしたその先の言葉を、最後まで聞けばよかった。愛していると囁く彼女の声に含まれていたのは、男女の情ではなく、家族の愛情だったのだ。
心に、果てしのない後悔が広がっていった。きちんと聞いていれば、私は前の世界で生きていたかもしれない。私は彼と彼女の関係を疑い、そして逃げ出した先で命を落とした。だけど私のせいだけではない。彼だって、ひたすらに秘密にしていたのだ。
「言ってくれればよかったのに。どうして言ってくれなかったの」
「彼女は結婚するんだ。あの、公爵と」
「だから何なの?」
レイズナーが顔を上げ――私は彼の表情から目が離せなかった。揺れる瞳は、まるで助けを求める幼子のようだったから。
「君には分からない。君は敵意という物を知らないんだ」
「だとしても、言って欲しいの」
「忌み嫌われている俺の妹だと知られ、彼女の幸せの、妨げになるのが恐ろしかった」
「私は、誰かに言ったりしないわ」
「そうだろう。分かっているさ。だが分かっていても――」
思わず、彼の手を取った。
大きな手は、小刻みに震えている。私はそれを、両手で包み込んだ。
「大丈夫よ、怯えないでレイズナー。もう誰にも、あなたのことを悪くは言わせない。私は、あなたを取り巻く噂が嘘だって知っているわ。あなたが、とても優しい人だってことを知っている」
彼の震えが、少しずつ小さくなっていく。
「あなたはもう、貧民街で震える子供じゃない。力のある、一人の男性よ。それに、世界で一番素晴らしい奥さんが味方にいるでしょう?」
最後の言葉はもちろん冗談だったけど、言ってから実感した。もう彼は私の夫で、私は彼の妻なのだ。
許しを請うような彼の瞳を覗き込みながら、私は今まで言えなかったことを、ようやく言った。
「私、あなたと夫婦としてやっていきたいと、そう思うの」
だから私も、言わなくてはならない。
屋敷につき、早い帰りに驚くアイラにレイズナーは紅茶かワインを持ってくるように指示をする。
ポーリーナと向かいあったように、客間で向かい合って座る。腰を下ろすなりレイズナーは言った。
「君はやはりおかしい。おかしいどころじゃない。なぜ、あの男――」
「エルナンデス?」
「――あいつに、なぜ近づいた。悪党の排除は王女の役割じゃないはずだ」
「たまたま、目に付いたから話しかけたのよ」
「君が俺の愛人と疑っている、キンバリー・グレイホルムの前で、たまたまエルナンデスと会ったのか」
「そうよ」
「見苦しい言い訳だ」
レイズナーは苦笑する。
私は奇妙な感覚に陥った。
これは本当に、言葉では言い表せない感覚だけど、私は彼と議論を交わすのが楽しかった。たとえ追い詰められているときでさえ。
「あの男が何者か知っていて近づいたのか?」
「あなたのお友達でしょう?」
「とんでもない」レイズナーは私の言葉を追いやるように手を振って否定した。「あいつとは確かに知り合いだが、親しくしたい男ではない。君とは住む世界が違う人種だ」
以前だったら、私もそう思っただろうけど、明確に線引きをした彼に腹が立った。
「住む世界が違うのだと、前も言われたけれど、私とあなたの世界はこうして入り交じってしまった。私は境界なんて引いていないわ。境界を作ったのはあなたじゃないの、レイズナー」
レイズナーは真意を探るように私を見つめ、ため息を吐いた。
「確かに一利ある。俺たちと君は、あまりにも違うからな」
「あなたが何かを隠しているから、私は知りたくなるのよ」
「隠しごとがあるのはお互い様のようだがな。それとも何もないのかな、ミセス・レイブン?」
鋭い視線が私を貫く。
「憎悪を孕んだ瞳で俺を見るのは、俺の妻になるのが、単に心の底から嫌なだけか? 一方で熱で潤んだ瞳で俺を見上げるのは、あるいは単なるゆさぶりか?
今までだって、君は俺が嫌いだったはずだ。レイズナー・レイブンといえば、貧民街上がりの教養のない女たらしで、おまけにあらゆる犯罪に手を染めているから」
自分を卑下する彼に驚いた。
「それは噂でしょう」
「ああ、だが君は信じた」
「愛人がいるのは事実じゃない! あなたが、あの、キンバリーを見つめる瞳は、普通じゃないわ!」
レイズナーの瞳に浮かぶのは、分かり合えない人間へ向ける、ある種の諦めのように見えた。でなければ、怒りだ。
「俺は貧民街のあばずれから生まれた。普通がどうのなんて知らない。
普通というのは、父親の顔を知らないことか? 母親が何日も帰ってこないことか? 四六時中腹をすかせて、ひどい匂いをただよわせていることか?」
ワインを持ってきたアイラが止めに入る。
「もう、いいじゃありませんか、旦那様。まるで当てつけのように聞こえますわ。そんなこと、彼女に言ってどうするの」
アイラは彼に、友人らしい言葉をかける。
「彼女は俺が隠していることを知りたがっている。だから教えてやっているんだ。
俺の母親はアル中の淫売で、冬を越さずにくたばった。だから俺の仕事は国に害をなす連中の口を止めることだった。なぜなら俺が危険に陥っても心配する人間さえいないからだ。
アイラ、お前だって言えばいい。家族を養うために、俺に助けを求める前、貴族相手にどんな商売をしてきたか!」
私たちの喧嘩に、アイラまで巻き込むことはない。思わず、私はレイズナーの頬をはたいた。パン、と乾いた音がする。
「馬鹿にしないで! そんなことで、私が怖がるとでも思ったの? 怯えて引き下がるとでも? 見くびらないで、私は、誇り高き第二王女よ!」
「元、だろう。今は俺の妻なのだから」
レイズナーは片手で頬を押さえてながらも、視線は私だけを見ていた。アイラが言う。
「言うべきよ。キンバリーとあなたの関係を」
「黙れアイラ」私から目を反らさずに、彼はアイラに言った。「言えばお前を解雇する」
だがアイラはきっぱりと言った。
「いいえ黙らないわ。奥様、キンバリー・グレイホルムは――」
「言うんじゃない!」
レイズナーが立ち上がり怒鳴っても、アイラは止めなかった。
「――彼女はレイズナー・レイブンの実の妹です!」
しん、と静寂が包み込んだ。
もしやレイブンがアイラに手を上げるんじゃないかと思ったが、その心配は不要だった。彼はがくりとうなだれ、再びソファーに腰掛け、顔を両手で覆っていた。
驚きはあった。
「でも――だって、姓が違うわ」
「……キンバリーは見た目も、頭も良くて、だから貴族に見いだされ養女になったのですわ。レイズナーがお金を出して通わせていた学校で」
アイラの言葉に、私はキンバリー・グレイホルムの瞳を思いだした。レイズナーと同じ、美しい緑色の瞳だ。
“違いますわ! 私と彼は――”
必死に否定しようとしたその先の言葉を、最後まで聞けばよかった。愛していると囁く彼女の声に含まれていたのは、男女の情ではなく、家族の愛情だったのだ。
心に、果てしのない後悔が広がっていった。きちんと聞いていれば、私は前の世界で生きていたかもしれない。私は彼と彼女の関係を疑い、そして逃げ出した先で命を落とした。だけど私のせいだけではない。彼だって、ひたすらに秘密にしていたのだ。
「言ってくれればよかったのに。どうして言ってくれなかったの」
「彼女は結婚するんだ。あの、公爵と」
「だから何なの?」
レイズナーが顔を上げ――私は彼の表情から目が離せなかった。揺れる瞳は、まるで助けを求める幼子のようだったから。
「君には分からない。君は敵意という物を知らないんだ」
「だとしても、言って欲しいの」
「忌み嫌われている俺の妹だと知られ、彼女の幸せの、妨げになるのが恐ろしかった」
「私は、誰かに言ったりしないわ」
「そうだろう。分かっているさ。だが分かっていても――」
思わず、彼の手を取った。
大きな手は、小刻みに震えている。私はそれを、両手で包み込んだ。
「大丈夫よ、怯えないでレイズナー。もう誰にも、あなたのことを悪くは言わせない。私は、あなたを取り巻く噂が嘘だって知っているわ。あなたが、とても優しい人だってことを知っている」
彼の震えが、少しずつ小さくなっていく。
「あなたはもう、貧民街で震える子供じゃない。力のある、一人の男性よ。それに、世界で一番素晴らしい奥さんが味方にいるでしょう?」
最後の言葉はもちろん冗談だったけど、言ってから実感した。もう彼は私の夫で、私は彼の妻なのだ。
許しを請うような彼の瞳を覗き込みながら、私は今まで言えなかったことを、ようやく言った。
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