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第8話 その料理番は
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「奥様! お待ちください!」
アイラが追いかけてくるが、振り返る余裕なんてなかった。
心には、猛然とレイズナーへの反発心が沸いていた。
本当に? 本当にそうなの? ――だとしたら許せない。
厨房に行くと、朝食を調理している匂いが立ちこめる。
「ひ、ひえ……!」
厨房では背の低いまだあどけない少年が、料理を作る手を止め、怯えたように私を見る。足下には台がある。そうしなければ、調理台に手が届かないからだ。
今朝、アイラとの会話は自然、昨晩の出来事になった。レイブンが、例の大男――名はハンというらしい――を追い出すはずがないとアイラが言ったのだ。
“この家に雇われているのは、皆、働き口のない最下層の人間です。料理番のテオなんて、まだ九歳だけど、立派に――”
それを聞いて我慢ができなかった。初日に使用人は一通り紹介されたけど、子供の存在は隠されていた。アイラがうっかり口を滑らせなければ、知らないままだった。
子供に仕事を? あり得ない。
昨日見せた優しさは幻で、レイブンはやはり悪魔に違いない。
怖がるテオの側により、その小さな手を握った。そばかすが目立ついたずらっぽい顔は、いまや恐怖に引きつっていた。
「どうか許して! 私、あなたのような幼い子供が料理してるなんて知らなかったのよ。不味いなんて、平気で言ってごめんなさい!」
申し訳なさと情けなさでいっぱいだった。まだ九歳の子に料理なんてできるはずがない。
この屋敷に来て、私の情緒の振り幅は狂ってしまった。テオの手を取ったまま、叫ぶ。
「レイズナー・レイブンを呼びなさい! 子供は遊んで勉強をするものでしょう? 仕事をさせるなんて!」
「その必要はない」
厨房の入り口にレイズナーが立っていた。腕を組み、不愉快そうに眉を吊り上げながら私を見る。
「今度はなんの真似だ?」
「それはこっちの台詞よ。子供を働かせるなんて!」
「俺は三つの時から鉄くず拾いをしていた。それに比べたらまだましだと思うが」
「でも、使用人として紹介するのを隠してたわ! 後ろめたかったんでしょう?」
「たまたま、不在だったんですわ」
アイラが言うが、私は引き下がらない。
「美味しくなくて当然よ! 子供が作っているんだもの」
「子供でも、仕事を任せている以上、給料分のことはきっちりやってもらわなければ」
ため息交じりにレイズナーは言った。
「君が不味いと言ったのを伝えたら、前にも増して精進するようになった。さあヴィクトリカ。テオを解放してやれ、すっかり君に怯えているじゃないか」
こんな幼い子に不味いと伝えるなんて最低だ。
その時テオが、私の手を離し、頭を下げた。その顔は蒼白だった。
「お、奥様! おれに、料理をさせてください。自分から旦那様に申し出たんです。ここで働かせて欲しいって。だから旦那様は仕事をくれた。お給金も。それだけです」
何度も何度もテオはお辞儀をする。そんなことはしなくていいと肩に触れるが、止めようとはしなかった。
「料理が不味いのはごめんなさい。だけど、美味しくなくて当然だなんて言わなくでください。おれ、もっと頑張りますから、仕事をなくさないで」
「まあテオ」
私はこの子をぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。だけどそんなことをしたら、ますます萎縮してしまうだろう。
「あなたをいじめたいわけじゃないのよ。ただ、子供は遊びと勉強をした方がいいと思って」
「そんなの、要りません!」
泣きそうになりながらも、きっぱりとテオは言った。
「おれは、母と弟たちを養わなきゃ。遊んでる暇も、ましてや勉強なんてしたくない! 仕事をしたいんです」
この屋敷は、何もかも奇妙だった。私が常識だと思っていたものがほとんど通用しない。
沈黙を破ったのはレイブンだ。その声は暗く澱む。
「貧民街に暮らす孤児が、大人になれる確率がどれだけあると思う? 君には王宮の暮らしが自由のない牢獄に思えたんだろうが、俺たちに比べたら天国だ。平民は、飢えで死ぬか、貴族にきまぐれに殺されるかのどちらかなんだから」
それは彼の怒りと、拒絶に思えた。
「君の生きてきた世界と、ここは違うんだ。考え方も、物の見方も。
料理ができる人間は貴重だ。技術があれば、この先も重宝される。仮にこの屋敷を去っても、テオとその家族は生きていけるだろう」
「だから、弱者を雇っているの? 教会の慈善活動のように」
レイブンは鼻で笑う。
「救済などではないさ。仕事のない人間を全員雇うわけにもいかない。これは俺の気まぐれだ」
「この子は――テオはどうして?」
「テオは愚かにも俺の財布をかすめ取ろうとしたから雇ったんだ。運が良かったのか悪かったのかは分からない」
「テオは、仕事を望んでいるのね? 脅されて、無理強いされているわけじゃないのね?」
テオは何度も頷く。
「まさか! 旦那様は、いつも優しいです。おれの家族のこと、心配してくれて、おれを雇うときだって、わざわざ母ちゃんに会ってくれたし」
一生懸命説明するテオを、レイブンは遮った。
「もういいだろう、テオ、料理を続けたまえ」
むっつりという彼は、もしかして使用人に庇われ照れているんだろうか。私は笑い出したい衝動を堪えた。
レイブンを追うように廊下を歩いていると、アイラがそっと耳打ちをした。
「奥様、わたくしたちは、自分たちのことを“弱者”だなんて思っていませんわ」
ぎょっとして謝りかける。
「ご、ごめんなさ――」
アイラは慌てて言った。
「謝らないでくださいまし。わたくしたち、嬉しいんですわ。だって奥様がわたくしたちのことを、本気で大事にしてくださっているのが伝わるんですもの。
わたくしたち、出会ってまだほんの数日です。これから、たくさん互いのことを知っていけばいいんです。例えば、ドアを開けるときはノックするとか」
いたずらっぽく微笑むアイラに、私は救われたような気になった。
「だけど、そうね。そしたら私がテオの料理を手伝うわ」
ぎょっとしたようにレイブンが振り返る。その顔には、これ以上の面倒は止してくれとでも言いたげな懇願が浮かんでいた。
「君に料理ができるのか?」
「お菓子を作るところなら、よく妹と見ていたわ。大体同じでしょう」
「勘弁してくれ! 妻に仕事をさせるなど、不甲斐ない男だと思われる」
その表情に愉快になる。
「これは趣味よ。自分がいない間の気晴らしを、あなたも私に探してくれているんでしょう」
「だが……」
「私を愛しているというくせに、望みを叶えてくれないの?」
「君は強情だ」
「あら、ずっと見つめた割りに、知らなかった?」
レイブンは肩をすくめた。
「だが毎日はさせられない。朝も昼も夜もか? それこそテオの仕事を奪うことになる」
「ならば、曜日か時間を決めればいいのですわ」
助け船を出したのはアイラだった。微笑みかけるとアイラはウインクをする。
「そうよ! 夕食の準備だけは手伝うわ」
「毎日はだめだ。火傷でもしたらどうする?」
「では、週に三度ではいかがでしょう?」
「せめて一度だ」
レイブンが重い口調で言う。
「週末の夕食作りだ。俺も一緒に手伝おう」
「あなたも?」
当然だろう、とでも言いたげな目が向けられた。
「その間は、わたくしたち使用人が様子を見ますわ。実を言うと、今も順番で手伝っているんです」
アイラがそう言って微笑み、私は心から彼女に感謝と尊敬の念を持った。
食堂の扉を開け放ったところで、レイブンが再び振り返った。
「ところで、今晩出かけられるか?」
「どうして?」
当たり前だが予定などない。
「劇場へどうかな。……君がよければだが」
劇を見るのは好きだ。外へ出かけるのも楽しい。だが力尽くで連れて行こうと思えばできるのに、私の意見を聞くように待つレイブンを意外に思った。
「もちろんいいわ」
城の男たちは、女を自分の付属品くらいにしか思っていなかった。今のように伺いを立てることだってなく、新鮮だった。
昼頃、庭で楽しげに話すアイラとハンの姿が見えた。
彼女たちを見て、思う。
この屋敷や、使用人、そしてレイブンは、私が考えていたほど悪くはないのかもしれない。もしかすると、このまま上手くやっていけるのかもしれない。
レイブンとだって、夫婦にはなれずとも、友人にならなれるかもしれない。
お姉様へ手紙を出すのは、もう少し後でもよかったかもしれない、とまた思った。
アイラが追いかけてくるが、振り返る余裕なんてなかった。
心には、猛然とレイズナーへの反発心が沸いていた。
本当に? 本当にそうなの? ――だとしたら許せない。
厨房に行くと、朝食を調理している匂いが立ちこめる。
「ひ、ひえ……!」
厨房では背の低いまだあどけない少年が、料理を作る手を止め、怯えたように私を見る。足下には台がある。そうしなければ、調理台に手が届かないからだ。
今朝、アイラとの会話は自然、昨晩の出来事になった。レイブンが、例の大男――名はハンというらしい――を追い出すはずがないとアイラが言ったのだ。
“この家に雇われているのは、皆、働き口のない最下層の人間です。料理番のテオなんて、まだ九歳だけど、立派に――”
それを聞いて我慢ができなかった。初日に使用人は一通り紹介されたけど、子供の存在は隠されていた。アイラがうっかり口を滑らせなければ、知らないままだった。
子供に仕事を? あり得ない。
昨日見せた優しさは幻で、レイブンはやはり悪魔に違いない。
怖がるテオの側により、その小さな手を握った。そばかすが目立ついたずらっぽい顔は、いまや恐怖に引きつっていた。
「どうか許して! 私、あなたのような幼い子供が料理してるなんて知らなかったのよ。不味いなんて、平気で言ってごめんなさい!」
申し訳なさと情けなさでいっぱいだった。まだ九歳の子に料理なんてできるはずがない。
この屋敷に来て、私の情緒の振り幅は狂ってしまった。テオの手を取ったまま、叫ぶ。
「レイズナー・レイブンを呼びなさい! 子供は遊んで勉強をするものでしょう? 仕事をさせるなんて!」
「その必要はない」
厨房の入り口にレイズナーが立っていた。腕を組み、不愉快そうに眉を吊り上げながら私を見る。
「今度はなんの真似だ?」
「それはこっちの台詞よ。子供を働かせるなんて!」
「俺は三つの時から鉄くず拾いをしていた。それに比べたらまだましだと思うが」
「でも、使用人として紹介するのを隠してたわ! 後ろめたかったんでしょう?」
「たまたま、不在だったんですわ」
アイラが言うが、私は引き下がらない。
「美味しくなくて当然よ! 子供が作っているんだもの」
「子供でも、仕事を任せている以上、給料分のことはきっちりやってもらわなければ」
ため息交じりにレイズナーは言った。
「君が不味いと言ったのを伝えたら、前にも増して精進するようになった。さあヴィクトリカ。テオを解放してやれ、すっかり君に怯えているじゃないか」
こんな幼い子に不味いと伝えるなんて最低だ。
その時テオが、私の手を離し、頭を下げた。その顔は蒼白だった。
「お、奥様! おれに、料理をさせてください。自分から旦那様に申し出たんです。ここで働かせて欲しいって。だから旦那様は仕事をくれた。お給金も。それだけです」
何度も何度もテオはお辞儀をする。そんなことはしなくていいと肩に触れるが、止めようとはしなかった。
「料理が不味いのはごめんなさい。だけど、美味しくなくて当然だなんて言わなくでください。おれ、もっと頑張りますから、仕事をなくさないで」
「まあテオ」
私はこの子をぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。だけどそんなことをしたら、ますます萎縮してしまうだろう。
「あなたをいじめたいわけじゃないのよ。ただ、子供は遊びと勉強をした方がいいと思って」
「そんなの、要りません!」
泣きそうになりながらも、きっぱりとテオは言った。
「おれは、母と弟たちを養わなきゃ。遊んでる暇も、ましてや勉強なんてしたくない! 仕事をしたいんです」
この屋敷は、何もかも奇妙だった。私が常識だと思っていたものがほとんど通用しない。
沈黙を破ったのはレイブンだ。その声は暗く澱む。
「貧民街に暮らす孤児が、大人になれる確率がどれだけあると思う? 君には王宮の暮らしが自由のない牢獄に思えたんだろうが、俺たちに比べたら天国だ。平民は、飢えで死ぬか、貴族にきまぐれに殺されるかのどちらかなんだから」
それは彼の怒りと、拒絶に思えた。
「君の生きてきた世界と、ここは違うんだ。考え方も、物の見方も。
料理ができる人間は貴重だ。技術があれば、この先も重宝される。仮にこの屋敷を去っても、テオとその家族は生きていけるだろう」
「だから、弱者を雇っているの? 教会の慈善活動のように」
レイブンは鼻で笑う。
「救済などではないさ。仕事のない人間を全員雇うわけにもいかない。これは俺の気まぐれだ」
「この子は――テオはどうして?」
「テオは愚かにも俺の財布をかすめ取ろうとしたから雇ったんだ。運が良かったのか悪かったのかは分からない」
「テオは、仕事を望んでいるのね? 脅されて、無理強いされているわけじゃないのね?」
テオは何度も頷く。
「まさか! 旦那様は、いつも優しいです。おれの家族のこと、心配してくれて、おれを雇うときだって、わざわざ母ちゃんに会ってくれたし」
一生懸命説明するテオを、レイブンは遮った。
「もういいだろう、テオ、料理を続けたまえ」
むっつりという彼は、もしかして使用人に庇われ照れているんだろうか。私は笑い出したい衝動を堪えた。
レイブンを追うように廊下を歩いていると、アイラがそっと耳打ちをした。
「奥様、わたくしたちは、自分たちのことを“弱者”だなんて思っていませんわ」
ぎょっとして謝りかける。
「ご、ごめんなさ――」
アイラは慌てて言った。
「謝らないでくださいまし。わたくしたち、嬉しいんですわ。だって奥様がわたくしたちのことを、本気で大事にしてくださっているのが伝わるんですもの。
わたくしたち、出会ってまだほんの数日です。これから、たくさん互いのことを知っていけばいいんです。例えば、ドアを開けるときはノックするとか」
いたずらっぽく微笑むアイラに、私は救われたような気になった。
「だけど、そうね。そしたら私がテオの料理を手伝うわ」
ぎょっとしたようにレイブンが振り返る。その顔には、これ以上の面倒は止してくれとでも言いたげな懇願が浮かんでいた。
「君に料理ができるのか?」
「お菓子を作るところなら、よく妹と見ていたわ。大体同じでしょう」
「勘弁してくれ! 妻に仕事をさせるなど、不甲斐ない男だと思われる」
その表情に愉快になる。
「これは趣味よ。自分がいない間の気晴らしを、あなたも私に探してくれているんでしょう」
「だが……」
「私を愛しているというくせに、望みを叶えてくれないの?」
「君は強情だ」
「あら、ずっと見つめた割りに、知らなかった?」
レイブンは肩をすくめた。
「だが毎日はさせられない。朝も昼も夜もか? それこそテオの仕事を奪うことになる」
「ならば、曜日か時間を決めればいいのですわ」
助け船を出したのはアイラだった。微笑みかけるとアイラはウインクをする。
「そうよ! 夕食の準備だけは手伝うわ」
「毎日はだめだ。火傷でもしたらどうする?」
「では、週に三度ではいかがでしょう?」
「せめて一度だ」
レイブンが重い口調で言う。
「週末の夕食作りだ。俺も一緒に手伝おう」
「あなたも?」
当然だろう、とでも言いたげな目が向けられた。
「その間は、わたくしたち使用人が様子を見ますわ。実を言うと、今も順番で手伝っているんです」
アイラがそう言って微笑み、私は心から彼女に感謝と尊敬の念を持った。
食堂の扉を開け放ったところで、レイブンが再び振り返った。
「ところで、今晩出かけられるか?」
「どうして?」
当たり前だが予定などない。
「劇場へどうかな。……君がよければだが」
劇を見るのは好きだ。外へ出かけるのも楽しい。だが力尽くで連れて行こうと思えばできるのに、私の意見を聞くように待つレイブンを意外に思った。
「もちろんいいわ」
城の男たちは、女を自分の付属品くらいにしか思っていなかった。今のように伺いを立てることだってなく、新鮮だった。
昼頃、庭で楽しげに話すアイラとハンの姿が見えた。
彼女たちを見て、思う。
この屋敷や、使用人、そしてレイブンは、私が考えていたほど悪くはないのかもしれない。もしかすると、このまま上手くやっていけるのかもしれない。
レイブンとだって、夫婦にはなれずとも、友人にならなれるかもしれない。
お姉様へ手紙を出すのは、もう少し後でもよかったかもしれない、とまた思った。
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