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第7話 メイドのアイラが抱える秘密
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私の手を掴むのは、確かにレイブンだった。
どういうこと? ――では、中にいる男は誰だというの。
まさしくそれを、彼も知りたかったようだ。私の口からもう悲鳴が出ないことを確認すると、手を離し、レイブンは扉を開いた。
アイラがはっとして振り返る。彼女の手にはパンが握られており、目の前にいる見知らぬ男に渡している最中だった。当然ながらレイブンではない、よく日焼けした、大男だ。
「レイズナー! なぜ!」
アイラの目は、今まで見せたことがないほど驚愕に見開かれる。
ち、とレイブンが舌打ちをする。
「このところのお前の様子は奇妙だった。厨房から食材が度々消えると、料理番が訴えていたよ。この俺の目を誤魔化せると思っていたか? さあ、その男を匿う理由を説明するんだ。異国人だな。お前も敵国の間者か?」
冷静に責め立てるレイブンの一方でアイラの顔は怒りで真っ赤に染まっていく。
「あんたには関係のないことだよ!」
「そうも行かない。ここが俺の屋敷で、お前が俺の使用人である以上、勝手をされては困る。魔法使いの家で、秘密ごとができると思っていたか?」
そこで彼は私に目を向けた。
「ポーリーナ王女は浅はかでいらっしゃる。俺を追い払ったところでまるで無意味だというのに、可愛らしいことだ」
どうやら予想通り、昼間の会話は筒抜けだったらしい。では私が彼を庇ったような言葉を言ったのも、憎たらしいことに知られてしまっているのだ。
「私の妹を悪く言わないで」
「彼女の方は、もう君に愛情などないように見えたが」
「私たちのことをよく知らないくせに!」
冷酷な兄と上辺だけの周囲の中で、唯一心を許せる存在がポーリーナだった。彼女にとっても私がそうだったはずだ。
こんな些細なことで、絆が壊れるなんてことあっていいはずがない。たとえ今は離れてしまっていても、いつかきっと、元の二人に戻れる。
「君のことに限れば、俺ほど詳しい人間はいないよ。いつも君を見ていたんだから」
レイブンはまるで楽しんでいるかのように小さく笑い、アイラと男に向き直る。
「問題はその男だ。何者だ?」
「あたしが拾った、あたしの男だ! あんたにとやかく言われる筋合いはない」
私がアイラに驚いたのは、下町訛り丸出しで、いつもの口調とはまるで違ったからだ。落ち着きをなくし、口汚くレイブンを罵る。
「運良く出世したからって、慈愛の心も忘れちまったのか! 誰が子供の頃、あんたたちの面倒を見てやったと思ってる! あんたは最低のくそ野郎だ!」
「慈悲の心のない最低のくそ野郎であることは否定しないが、出世したのは運ではなく努力と実力だ」
「その言葉遣い、なんだっていうの?」
呆然と呟くと、アイラは目を丸くして私を見た。その顔が見る間に赤く染まっていく。
「あたし――わたくしは、その、奥様……」
もごもごと要領を得ない彼女に代わり、レイブンがため息間まじりに言った。
「普段の彼女は偽物さ。下町訛りが治らないから、丁寧語で話しているだけだ」
「なんで言うんだ! あんたは最低だレイズナー!」
「でも、そっけない態度は……私が気にくわないからでしょう?」
物凄い勢いで、アイラは首を左右に振った。
「いいえ奥様! あたしは奥様が大好きです。ただ、こんな下層生まれの人間が、口を利くなんて緊張しちまって……」
「だけど、あなたとレイブンは――」
遮ったのはレイブンだった。
「ヴィクトリカ、勘違いしないでくれ。アイラとは、子供時代からの腐れ縁で、働き口がないというから俺のところで雇っただけの、いわば幼なじみだ。ポーリーナが言った愛人など、根も葉もない噂でしかない。今までは放っておいたが、君の耳に入るのは耐えがたい。
俺の好みがどんな女か、君が一番よく知っているだろう?」
今度は私が赤くなる番だった。心臓が早鐘のように打つ。嘘だと分かっているのに、反応してしまう自分が嫌になる。
「アノ――、アイラさん、責めないで。ワタシの国、戦争でナクナッタ。仕事ナク、飢えてた、アイラさん、助けてくれた」
唐突に、片言が聞こえた。それが大男から発せられたのだと気がついたのは、彼がアイラを庇うように、レイズナーとの間に入ったからだ。
「街で、行き倒れてたんだ。放って置けないだろ」
アイラと彼の手は固く握られている。言葉は通じ合わなくても、愛情は二人を強く結んでいた。ほんの少し、羨ましく思う。
しかし私はとんでもない思い違いをしていた。噂に惑わされて、レイズナーとアイラの仲を疑った。罪悪感が胸に広がる。
「それも今日限りだ。出て行ってくれ。分かるか? ハウスだ。ゴー、ホーム」
通じなかったようで男は首をかしげた。
見知らぬ男だったが、顔立ちには見覚えがある。大陸にいる、遊牧民のものだ。
私は男に近づくため前に出た。不審がるアイラを横目に男に言う。
「“彼はあなたがここにいることに怒っている。有用だと言うことを証明しなければ追い出されるわ。だけど利用価値を示せば、雇うよはずよ”」
アイラとレイブンの関係を疑ったことに対する贖罪のつもりだった。
男は大きく頷いた。幼い頃から叩き込まれていた近隣国の言葉が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
それにレイブンは、使える人間を追い出すほど愚かではないはずだ。
「何――なんと言ったんだ」
私が異国の言葉を話したことにレイブンとアイラは戸惑ったようだ。
「ワタシ、とても力持ち」
「物を運ぶなら、今いる者たちでことたりる」
「ワタシ、背がオオキイ。高いところに手がトドク」
「背なら俺も高い。それに魔法を使えば必要ない」
レイブンが苛立たしげに言い返す。
「馬の世話、トクイ。国で、してた」
「まあ! 素敵じゃない! もう少しでここに私の馬が来るのよ? 世話していただきましょう!」
曇っていたアイラの表情が、ぱっと輝く。追い風を感じたのか、男も楽しげに笑う。
ただ一人、レイブンだけが納得できないとでも言いたげに眉を顰める。
「遊牧民は、動物の世話にかけては世界一よ? それは魔法じゃどうすることもできないでしょう」
三対一でやり込めかけられているレイブンがおかしくて、からかい混じりにそう言うと、しぶしぶといった様子で彼は頷いた。
「妻の機転と、広い心に感謝するんだな」
アイラと男が抱き合って、嬉しそうにくるくる回る。私も心が弾んで、この家に来て、恐らく初めて心から笑った。
「あなたも案外、かわいいところがあるのね?」
ふて腐れたようなレイブンに笑いかけると、肩をすくめて小さく微笑む。それはあらゆる意図の含まれていない純粋な笑顔で――私は目が離せなくなった。もっと、その笑顔が見たいと、思わずにはいられない。どうして彼は、もっとこの笑みを見せないのだろう?
だがもう彼の口には、いつもの冷笑が戻っていた。
「さあ女性諸君は寝たまえ、俺はその男ともう少し話してから戻る。……その前に風呂か。一体何日ここに閉じ込められていたんだ? 馬よりもひどい匂いがするぞ」
もしや、私たちが寝ている間にレイブンが男をどこかへやってしまうのではないかと不安がかすめたが、アイラは違ったようだ。
「さあ奥様。お騒がせして申し訳ございませんでした。ご就寝の準備を手伝いますわ」
いつもの口調で私に語りかけたが、その表情はずっと柔らかいものに変わっている。レイブンをよく知る彼女がこんな顔をするのだから、きっと大丈夫なのだろう。
ほんの少しだけ考えを改めた。思ったより、レイズナー・レイブンという男は、悪い人間ではないのかもしれない。
話し込む二人の男がいる馬屋を振り返りそう思って、気がついた。
いつか私の馬が来ると言ったけど、それはあり得ない。
お姉様が私を迎えに来るなら、この屋敷だって長居しない。異国の男が、馬を世話をすることはない。私はレイブンから、馬を受け取ることはない。レイブンは私に、馬を贈ることはない。その頃には、私は遠い異国にいるはずだから。
そう思うと、心がずきりと痛んだ。
どういうこと? ――では、中にいる男は誰だというの。
まさしくそれを、彼も知りたかったようだ。私の口からもう悲鳴が出ないことを確認すると、手を離し、レイブンは扉を開いた。
アイラがはっとして振り返る。彼女の手にはパンが握られており、目の前にいる見知らぬ男に渡している最中だった。当然ながらレイブンではない、よく日焼けした、大男だ。
「レイズナー! なぜ!」
アイラの目は、今まで見せたことがないほど驚愕に見開かれる。
ち、とレイブンが舌打ちをする。
「このところのお前の様子は奇妙だった。厨房から食材が度々消えると、料理番が訴えていたよ。この俺の目を誤魔化せると思っていたか? さあ、その男を匿う理由を説明するんだ。異国人だな。お前も敵国の間者か?」
冷静に責め立てるレイブンの一方でアイラの顔は怒りで真っ赤に染まっていく。
「あんたには関係のないことだよ!」
「そうも行かない。ここが俺の屋敷で、お前が俺の使用人である以上、勝手をされては困る。魔法使いの家で、秘密ごとができると思っていたか?」
そこで彼は私に目を向けた。
「ポーリーナ王女は浅はかでいらっしゃる。俺を追い払ったところでまるで無意味だというのに、可愛らしいことだ」
どうやら予想通り、昼間の会話は筒抜けだったらしい。では私が彼を庇ったような言葉を言ったのも、憎たらしいことに知られてしまっているのだ。
「私の妹を悪く言わないで」
「彼女の方は、もう君に愛情などないように見えたが」
「私たちのことをよく知らないくせに!」
冷酷な兄と上辺だけの周囲の中で、唯一心を許せる存在がポーリーナだった。彼女にとっても私がそうだったはずだ。
こんな些細なことで、絆が壊れるなんてことあっていいはずがない。たとえ今は離れてしまっていても、いつかきっと、元の二人に戻れる。
「君のことに限れば、俺ほど詳しい人間はいないよ。いつも君を見ていたんだから」
レイブンはまるで楽しんでいるかのように小さく笑い、アイラと男に向き直る。
「問題はその男だ。何者だ?」
「あたしが拾った、あたしの男だ! あんたにとやかく言われる筋合いはない」
私がアイラに驚いたのは、下町訛り丸出しで、いつもの口調とはまるで違ったからだ。落ち着きをなくし、口汚くレイブンを罵る。
「運良く出世したからって、慈愛の心も忘れちまったのか! 誰が子供の頃、あんたたちの面倒を見てやったと思ってる! あんたは最低のくそ野郎だ!」
「慈悲の心のない最低のくそ野郎であることは否定しないが、出世したのは運ではなく努力と実力だ」
「その言葉遣い、なんだっていうの?」
呆然と呟くと、アイラは目を丸くして私を見た。その顔が見る間に赤く染まっていく。
「あたし――わたくしは、その、奥様……」
もごもごと要領を得ない彼女に代わり、レイブンがため息間まじりに言った。
「普段の彼女は偽物さ。下町訛りが治らないから、丁寧語で話しているだけだ」
「なんで言うんだ! あんたは最低だレイズナー!」
「でも、そっけない態度は……私が気にくわないからでしょう?」
物凄い勢いで、アイラは首を左右に振った。
「いいえ奥様! あたしは奥様が大好きです。ただ、こんな下層生まれの人間が、口を利くなんて緊張しちまって……」
「だけど、あなたとレイブンは――」
遮ったのはレイブンだった。
「ヴィクトリカ、勘違いしないでくれ。アイラとは、子供時代からの腐れ縁で、働き口がないというから俺のところで雇っただけの、いわば幼なじみだ。ポーリーナが言った愛人など、根も葉もない噂でしかない。今までは放っておいたが、君の耳に入るのは耐えがたい。
俺の好みがどんな女か、君が一番よく知っているだろう?」
今度は私が赤くなる番だった。心臓が早鐘のように打つ。嘘だと分かっているのに、反応してしまう自分が嫌になる。
「アノ――、アイラさん、責めないで。ワタシの国、戦争でナクナッタ。仕事ナク、飢えてた、アイラさん、助けてくれた」
唐突に、片言が聞こえた。それが大男から発せられたのだと気がついたのは、彼がアイラを庇うように、レイズナーとの間に入ったからだ。
「街で、行き倒れてたんだ。放って置けないだろ」
アイラと彼の手は固く握られている。言葉は通じ合わなくても、愛情は二人を強く結んでいた。ほんの少し、羨ましく思う。
しかし私はとんでもない思い違いをしていた。噂に惑わされて、レイズナーとアイラの仲を疑った。罪悪感が胸に広がる。
「それも今日限りだ。出て行ってくれ。分かるか? ハウスだ。ゴー、ホーム」
通じなかったようで男は首をかしげた。
見知らぬ男だったが、顔立ちには見覚えがある。大陸にいる、遊牧民のものだ。
私は男に近づくため前に出た。不審がるアイラを横目に男に言う。
「“彼はあなたがここにいることに怒っている。有用だと言うことを証明しなければ追い出されるわ。だけど利用価値を示せば、雇うよはずよ”」
アイラとレイブンの関係を疑ったことに対する贖罪のつもりだった。
男は大きく頷いた。幼い頃から叩き込まれていた近隣国の言葉が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
それにレイブンは、使える人間を追い出すほど愚かではないはずだ。
「何――なんと言ったんだ」
私が異国の言葉を話したことにレイブンとアイラは戸惑ったようだ。
「ワタシ、とても力持ち」
「物を運ぶなら、今いる者たちでことたりる」
「ワタシ、背がオオキイ。高いところに手がトドク」
「背なら俺も高い。それに魔法を使えば必要ない」
レイブンが苛立たしげに言い返す。
「馬の世話、トクイ。国で、してた」
「まあ! 素敵じゃない! もう少しでここに私の馬が来るのよ? 世話していただきましょう!」
曇っていたアイラの表情が、ぱっと輝く。追い風を感じたのか、男も楽しげに笑う。
ただ一人、レイブンだけが納得できないとでも言いたげに眉を顰める。
「遊牧民は、動物の世話にかけては世界一よ? それは魔法じゃどうすることもできないでしょう」
三対一でやり込めかけられているレイブンがおかしくて、からかい混じりにそう言うと、しぶしぶといった様子で彼は頷いた。
「妻の機転と、広い心に感謝するんだな」
アイラと男が抱き合って、嬉しそうにくるくる回る。私も心が弾んで、この家に来て、恐らく初めて心から笑った。
「あなたも案外、かわいいところがあるのね?」
ふて腐れたようなレイブンに笑いかけると、肩をすくめて小さく微笑む。それはあらゆる意図の含まれていない純粋な笑顔で――私は目が離せなくなった。もっと、その笑顔が見たいと、思わずにはいられない。どうして彼は、もっとこの笑みを見せないのだろう?
だがもう彼の口には、いつもの冷笑が戻っていた。
「さあ女性諸君は寝たまえ、俺はその男ともう少し話してから戻る。……その前に風呂か。一体何日ここに閉じ込められていたんだ? 馬よりもひどい匂いがするぞ」
もしや、私たちが寝ている間にレイブンが男をどこかへやってしまうのではないかと不安がかすめたが、アイラは違ったようだ。
「さあ奥様。お騒がせして申し訳ございませんでした。ご就寝の準備を手伝いますわ」
いつもの口調で私に語りかけたが、その表情はずっと柔らかいものに変わっている。レイブンをよく知る彼女がこんな顔をするのだから、きっと大丈夫なのだろう。
ほんの少しだけ考えを改めた。思ったより、レイズナー・レイブンという男は、悪い人間ではないのかもしれない。
話し込む二人の男がいる馬屋を振り返りそう思って、気がついた。
いつか私の馬が来ると言ったけど、それはあり得ない。
お姉様が私を迎えに来るなら、この屋敷だって長居しない。異国の男が、馬を世話をすることはない。私はレイブンから、馬を受け取ることはない。レイブンは私に、馬を贈ることはない。その頃には、私は遠い異国にいるはずだから。
そう思うと、心がずきりと痛んだ。
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