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俺の害虫駆除はどこか間違っている。
しおりを挟む「はあ」
リビングに向かう途中で小さく息を吐く。あの後も誰かに付いて来てもらおうと色々言ったが無駄だった。
オレンジ色の照明がぼんやりと点いている廊下は連日の雨の影響かどこか陰鬱な雰囲気で、これから害虫退治―― じゃなかった。害虫と鬼ごっこをしないといけない俺の心境と驚くほどにマッチしていた。背後からどこで誰が寝るか議論が聞こえてきて、それは孤独感を増長させる。…… これが陰陽説ってか。
ドアノブに手をかけたところで、ふいにとある単語が脳裏をかすめた。
『妖精』
同時にステラの言葉を思い出す。
『妖精はイタズラを好むらしい』
―― あぁ、そういうことか。
口角が上がるのを自覚する。
聖域魔法の範囲内に突如現れたモンスター。ソイツがモンスターでは無く、別の存在だとすれば説明がつく。スキルで調べた時は俺たち以外の魂反応なんて無かった事から、妖精ってのは恐らくジョニーと同じような魔力の塊なんだろう。
ドアを勢いよく開き、言い放つ。
「おい妖精! よくも――」
ガザザッ!
木が削れる音と共に、視界に捉えた黒い影が瞬時に下から横へと移動した。ゴキカブリを装った妖精にとっては、いきなり現れた人間に対する反射反応だったのかもしれない。けれど、俺の心に恐怖心と猜疑心を再度芽生えさせる最適な反応だった。
―― 妖精? 本当に?
両目に魔力を込めると、黒光りする体躯の中心に紫色の魂が見えた。「クソっ」と小さく零す。まず、この状況でしてはいけない事はゴキカブリから目を離す事だ。床から壁に移動した速度は、トウカがスキルを使って帯電した速度と同じぐらい。その速度が瞬間的なモノか持続性のあるモノかで変わってくるが、とりあえずかなり速い事は分かった。一瞬でも目を離してしまえば、意識の外側から不可避の一撃を喰らう事になるだろう。
ガザガザッ!
「ちゅれいっっ!?」
なんて悠長に考えている時間はなかった。ゴキカブリは壁から天井へと移動し、俺は言葉にならないマヌケな悲鳴を上げて飛び跳ねる。驚きはしたが視界から外すことはしない。モンスターに言葉が通じるならお願いしたいものだ。
勝手に動かないでくれ、と。
天井でチョロチョロと触覚を動かすゴキカブリとの間に緊張が走った。俺はじりじりと足を動かして、玄関に繋がるドアとの距離を詰め始める。
緊迫した空間の中にいながら、ふいに笑いが込み上げてきた。
―― なんだよ、ちゅれいって。
「ぶっくふ」
溢れる感情を抑えきれず、噛み締めた唇の間から音が漏れた。ソレがまた、笑いのツボを刺激する。
―― クソッ! だめだ、冷静にならないと。
すぅっと息を吸い込む。幸か不幸か、息をするという生物の基本的な行動は効果があった。ゴキカブリしか見えていなかった視界がだんだんと広がり、開け放ったドアが視界に入ったところで俺の思考は加速した。
―― なんでアイツがここにいる? 今の一部始終を見られたか? いや、見られていないはずだ。リビングに入ってからゴキカブリが妖精の擬態では無いことを見抜き、びっくりするまで二分も経っていない。つまり、俺は二分前あの場所の近くに立っていた。しかし、その時はアイツの存在なんて感じられなかった。大丈夫だ。見られていない。大丈夫。落ち着け。
俺の自問自答をあざ笑うかのように、彼女はにんまりと笑みを浮かべて扉を閉めた。
「ステラァ――ッ!!!」
たった一瞬の微笑みで、彼女は俺を支配した。ステラには届かないと分かっていても、声を出さずにはいられなかった。ステラの姿はもうそこには無いと分かっていても、閉じられたドアに視線を向けずにはいられなかった。
―― いや、まだ間に合うッ!!
リビングからトウカの部屋まで普通に歩いて約三十秒。ステラがウキウキで走っていたとしても約十五秒。
「『アクセル』――っ!」
俺の行動は早かった。ステラが報告を終える前になんとしても捕まえなくてはならないからだ。報告を終えてしまえば、明日から地獄の日々が待っている、と第六感が告げている。
視線の先にはドアがある。視界の端にはだんだん大きくなる黒い物体がある。
―― 大きくなる?
視線を横に流し、半身を引いてゴキカブリの姿を確認する。コマ送りになっているが、腕を伸ばせば届きそうな距離に敵がいた。ゴキブリの顔なんて初めて見た。ゴキブリの口内にイソギンチャクみたいな触手があるのも初めて知った。
嫌悪が恐怖に勝った瞬間、
「邪魔すんじゃねえ!」
俺はゴキカブリの頭部目掛けて拳を振り下ろした。
空中に浮く黒光りの体躯がゆっくりと沈んでいく。
振り抜いた拳を見て、乾いた笑いが零れた。
「やっちまった」
それは襲ってくるはずの鈍痛が無かった事に対してじゃあない。鈍痛が無かったのはゴキカブリの身体が豆腐みたいに柔らかかった事と、空中に浮かんでいる相手を殴るという特異な環境が揃ったからだ。
想像してしまった。俺が『アクセル』の使用をやめた時に訪れるであろう惨状を。緩やかに下へと進むこのモンスターは床に叩きつけられて中身をぶちまけるのだろう。
「まあ、やっちまったもんは仕方ないよな。うん」
―― 掃除はアリアに任せよう。そうしよう。
俺は気持ちを切り替え、リビングを出る。
薄暗い廊下の先に光が見えた。その光に飛び込んでいくように、ステラは宙に浮かんでいる。
―― まずいっ!
トウカの部屋にダイブしようとしているステラの横に立ち、口元を確認する。
読唇術なんてもんは使えないが、まだ『ちゅ』を発音しているかどうかの段階みたいだ。アリアとトウカはスーパーマンみたいに飛び込んでくるステラを見て、目を丸くしている。なら、次に俺が取るべき行動はまずステラの身体に触れないように手を添えて『アクセル』を解除、身体に触れた瞬間に『アクセル』を再使用して部屋を出る。これしかない。
何度かシミュレーションをして、小さく息を吸った。
―― 手はここで…… よし、解除だ。
指先に意識を集中させる。
「ちゅ」
ステラの口から音が出た。俺は指先から伝わる感触を頼りに『アクセル』を再発動。
「れい!!」
「……」
こいつ。ピクサーみたいな顔しやがって。
俺はステラを抱きかかえたまま扉を閉めて、その場を離れた。
――― トウカの部屋 ―――
「さっきのは何だったのでしょうか? ステラは自分の枕を取ってくるって言ってましたよね?」
「ふむ。 ステラが何か言ったみたいだが、枕は持っていなかったな」
「気になりますね」
「確かに気にはなるが…… まあ枕の事は置いておいて、重要な事なら後で言ってくるだろう」
「そうですね。とりあえずカケルがまだいたってことはアイツもまだこの屋敷にいるって事ですよね。怖いです」
「ふふ、安心しろアリア。私が必ず守ってみせる」
「さすがトウカです! 頼りにしてます!!」
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