後悔しない生き方

たかなり

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本編

本気で働いて、本気で遊ぶ

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 人生の醍醐味とは、全力で駆け抜けた者にしか味わえない深い滋味がある。仕事において手の内を残せば、達成感は薄れ、遊びに中途半端な姿勢で臨めば、その輝きはたちまち色褪せる。両極を本気で往還する時、日常は螺旋階段のように上昇を続け、予測不可能な出会いと発見が連鎖反応を起こし始める。由美子の人生哲学は、まさにこの矛盾を動力源に変える術を知っていた。



 築30年の木造アパートの3階。かつて生活の場だったこの一室は、今ではクリエイティブなエネルギーが満ちる小さな編集オフィスへと姿を変えている。カーテンの隙間から差し込む朝陽が、広めのワークデスクに散らばる原稿用紙と、壁に立てかけられた登山用アイスアックスを金色に染めていた。

「由美子さん、この組み合わせって...まさか原稿の校正中に雪山の計画?」編集部の新人・健太が湯気立つコーヒーカップを両手に持ちながら首を傾げる。窓際の観葉植物の葉が揺れて、由美子の笑顔に木漏れ日が踊った。

「正確には逆よ。今週末の八甲田山縦走の装備チェック中に、急ぎの原稿が舞い込んだの」彼女の指先がパソコンのキーボードを高速で踊りながら、同時にザックのハーネスを調整している様子は、さながらジャグリングの達人のようだった。「仕事と遊びの境界?そんなもの最初から存在しなかったわ」

突然、彼女の動きが止まる。霧ヶ峰の陶芸家・三浦老人の声が記憶の底から蘇ってきたのだ。あの日、登山道で出会った老人の作業小屋で目にした光景——轆轤ろくろの上で形を変える粘土塊から滴り落ちる泥のしずくが、窓から差し込む陽光を受けて空中で七色に輝き、土間に落ちる瞬間に無数の微小な陶片を生み出していた。老人は轆轤を回しながら呟いた。「土が呼吸する音を聞け。指先でなく、掌の皮膚全体で形を感じろ」

由美子は今、校正用の赤ペンを握りながら、その言葉が文章推敲と地続きであることに気付いた。原稿用紙の余白に書き込まれる朱書きが、轆轤の回転運動と重なり、言葉の塊を成形していく感覚。校正作業とはまさに「言葉の陶芸」なのだと、温泉でほぐれた筋肉のように文章が形を整えていくのを感じる。



 金曜日の未明、アルプスの稜線が茜色に染まり始める時刻。由美子は八ヶ岳・阿弥陀岳の岩稜でザックを下ろす。標高計の表示が1897mを指した瞬間、リュックから取り出したのは最新号のゲラ刷りと防水仕様の赤ボールペンだった。強風がページをめくるたび、砂礫が天然の付箋紙のように文字列に張り付いていく。

「こんな高地で校正作業?」と驚く登山者に、彼女は岩肌に腰を下ろしながら答える。「酸素濃度が低下すると、脳が強制的に不要な情報を切り捨てるのよ。過剰な修飾が自然と削ぎ落とされるわ」実際、高度順応した身体から生まれる文章は、研ぎ澄まされたナイフのように核心を突いていた。雲海が広がる頂上でひらめいたキャッチコピーは、下山後に都心の編集部で「今月のベストフレーズ」に選ばれることになる。

温泉宿で湯気に濡れた指先でスマートフォンを操作すると、山頂でメモしたアイデアが都市部のチームにリアルタイムで共有される。汗で滲んだ手帳の文字が、虹色に光る温泉の湯の花と重なり、新たな連載企画のイメージへと変容していく。由美子のクリエイティブプロセスは、まさに自然現象そのものだった——稲妻のような閃きが雷鳴と共に山肌を駆け下り、やがて穏やかな小川のように文章として結実する。

 彼女の執筆スタイルは、従来の文筆家のイメージを根底から覆すものだった。都会のカフェでノートPCを開く代わりに、3000m級の山小屋で万年筆を走らせる。打ち合わせは渓流のせせらぎをBGMに岩場で行い、締切前の集中作業は夜明け前の星明かりの下で成し遂げられる。

「由美子さん的『遊び』の定義が常人と違いすぎますよ」健太が編集部のコピー機前でため息混じりに言う。「先週の青森出張では、十和田湖一周のマラソン後に温泉で原稿仕上げてましたよね?」「あれは最高のリフレッシュだったわ」由美子は笑いながら、モンベルのジャケットのポケットから山葡萄のジャム瓶を取り出した。「走っている時に思いついた比喩表現があるの。心拍数が上がった時の言葉のリズムって...」

彼女の創造プロセスは、自然環境と完全に同期していた。梅雨時の登山で得た湿度を帯びた表現、厳冬期の凍てついた空気から生まれる硬質な文体、新緑の季節にふさわしい瑞々しい比喩——季節ごとの山の表情が、そのまま文章の質感へと変換されていく。まるで森林が光合成で酸素を生み出すように、由美子の身体は山岳環境でクリエイティブな要素を生成していた。

 ある晩秋の日、北アルプスの針葉樹林帯で不思議な体験をした。午後4時、急遽変更になった連載の構成案に頭を悩ませながら歩いていた時、突然視界が黄金色に染まった。西日が紅葉したダケカンバの葉を透過し、斜面全体が巨大なステンドグラスのようになった瞬間、脳裏を稲妻が走る。

「そうか!章立てを等高線のように配置すればいいんだ!」彼女は岩に腰を下ろし、濡れた葉の上にノートを広げた。高度ごとに変わる植生のように、文章のテンポを高度変化に同期させる発想——この閃きから生まれた紀行文は、後に日本エッセイストクラブ賞の候補に挙がることになる。

下山後、温泉で筋肉の疲労を癒しながら気付いた。思考の最深部で働く創造性は、肉体を極限まで追い込んだ時に初めて活性化されるという事実。平坦な道で得られる発想と、岩壁を登り切った直後に訪れる洞察の質が根本的に異なることを、身体全体で理解した瞬間だった。



「仕事とプライベートのバランスって重要ですよね?」あるインタビューで質問を受けた時、由美子は小鳥のさえずりが響く森の中で静かに首を振った。「私の中ではもう、そんな区分けがないの。今この瞬間だって——」彼女の視線の先では、キツツキが木の幹を叩くリズムが、たまたま推敲中の文章の句読点の位置とシンクロしていた。

「例えばあのキツツキのリズム。これを文章の呼吸に活かせるかしら?」メモを取る手を止めずに呟く。「自然は最高の編集者よ。余分なものを容赦なく削ぎ落とすから」彼女の目には、風に揺れる木々の枝さえ、何かしらのメッセージを伝えるテキストに見えていた。

ある暴風雨の日、槍ヶ岳の鎖場で得た気付きが転機となった。強風でザックから飛び出しそうになった原稿用紙を必死で押さえながら、突然文章の核心が見えてきた経験——極限状況下でこそ、本質が浮かび上がることを身をもって知った。濡れた岩肌に張り付くようにして書き留めたメモは、後に20万部を超えるベストセラーの核となる一文だった。



「どうしてそこまでして?」健太が由美子のロッカーに並ぶ登山靴を見つめて呟く。そこにはアイガー北壁攻略用のアイゼンから、軽量な沢登りシューズまで、様々な道具が戦歴のように並んでいた。

「登ることで見える世界があるのよ」由美子はオフィスの窓から遠くの山並みを眺めながら続ける。「あの稜線を越えた先に、新しい言葉が待っている気がする。逆に、言葉を紡ぐ行為自体が、私にとっては山登りなんだ」

彼女の執筆ノートには、地形図のようなメモがびっしりと記されていた。文章構成を尾根の連なりに例え、キャラクター造形を岩壁の登攀に準える。読者を引き込むリズム感は、渓流の水量調整のように計算され、比喩表現の選択は、ルートファインディングの精度に匹敵した。

ある夏至の日、彼女は編集部全体を巻き込んで驚異的な締切を達成した。その方法とは——午前0時、都心のオフィスビルを出た後、夜行バスで北岳山麓へ直行。翌日、日本で二番目に高い山の頂上で最終校正を完了させ、下山途中の森林限界帯でメール送信したのだ。「標高の高いところから送ると、電波も勢いよく飛んでいくわよ」と笑う由美子の背後には、雲海が広がっていた。

今、由美子のデスクには奇妙なオブジェが飾られている。霧ヶ峰の三浦老人から送られてきた、歪みのある陶器の破片——あの日小屋で目にした泥の滴が生み出した微小な陶片だ。付箋紙代わりに使っているその破片の裏には、老人の達筆な文字で記されていた。「土も言葉も、形にならぬ時こそ真の姿を見せる」

由美子はこの破片を大切にしている。完成品ではなく、制作過程の一瞬を封じ込めたこのオブジェこそ、彼女の生き方を象徴しているからだ。仕事と遊び、都市と自然、創造と破壊——あらゆる境界を溶解させながら、常に未完成のまま疾走し続けること。その過程でこそ、言葉は呼吸を始め、文章に生命が宿ることを知っている。

「休みの日くらい...」という同僚の声を尻目に、由美子は再びザックを背負う。今回の目的地は、日本最北端の利尻山。リュックには、最新連載の取材メモと、今季発売の新型アイゼンが並んで入っている。山頂で待っているのは、また新しい自分との出会いだ。風に吹かれるゲラ刷りのページが、彼女の笑顔と同じリズムで空を舞う。
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