1 / 5
第1章
1. 恋の代行者
しおりを挟む
仙桃城の後宮には、恋の代行者がいるのだという。
高位の妃の殿舎が立ち並ぶ内庭から外れ、鬱蒼と茂る竹林の傍にぽつりと建てられた木香殿。その一室で、一人の娘が文机の前に座していた。真夏の蒼穹の色をした上衣の長袖を折り、娘――紫燕は黙々と墨を磨っていた。
狭い房室の四辺は天井まで届く書棚が占めており、それでも収まりきらない書が床の上にうず高く積まれている。その山の上には、一宮女が手に入れるには高価な白紙の束が無造作に置かれていた。
「こんなお願い、不躾だとは思うのですけれど、どうかお力をお貸し下さい」
文机を挟んで紫燕と向かい合って座る年若い少女が緊張に声を震わせながら口を開いた。何でも名家のお嬢様とかで、半分行儀見習いを兼ねて後宮に出仕しているのだという。
「ええ、もちろんです。ご心配なさらずとも、秘密厳守ですから」
にこりと微笑んで見せながら、代金さえ払ってくれれば、と紫燕は心の中で付け加える。
「さて、内容はどのようにいたしましょう?」
そう尋ねると、少女は頬を一層桃色に染め、もじもじと身じろぎした。
「その、外廷で一目お見掛けした時からお慕いしております、と。雲居の上の方なのだと分かってはいるのですが、その方のことを想うと仕事の手も止まってしまうほどで、ただ一度で良いからこの想いをお伝えしたくて……」
軽く相槌を打ちながら長く艶やかな黒髪を耳に掛け、紫燕は竹筆を紙の上に滑らせた。依頼主の語る想いを言葉に象る。紫燕にとっては既に日常茶飯事になった作業だった。するすると紡がれる筆跡は典麗で、磨ったばかりの墨は白雪を侵すように紙上を染める。
迢迢牽牛星 迢迢たる牽牛星
皎皎河漢女 皎皎たる河漢の女
纖纖擢素手 纖纖として素手を擢んで
札札弄機杼 札札として機杼を弄す
織女と牽牛の物語を下敷きにした詩だ。遥か遠くに輝く牽牛星を思いながら、織女は仕事に勤しむ。それでも、一日経っても布地を織り上げることができないほどに、彼女が恋煩いに涙を流していることは伝説が語る通りである。さらに何行か書き足し、紫燕はふうと軽く息を吐いた。
「宛名はどちらに?」
「……御史大夫の文瑜様に……」
恋慕う相手の名をついに口にして、少女は顔を衣の袖で覆う。ぴくりと筆を持つ手を止めてから、紫燕はその名を表に書き記した。墨の跡を軽く乾かしてから文を手渡すと、少女はすぐに感嘆の声をもらした。
「まあ、こんなに美しい文を……! これならば、文瑜様にも気に留めていただけるかもしれません!」
「私にできるのは、ここまで。後はご自身がどう振舞われるか次第です。応援しておりますね」
少女はさらに感激したように文を胸に書き抱くと、紫燕に銀貨を何枚も握らせた。何度も頭を下げながら足早に房室を出て行った少女の後ろ姿を見送り、紫燕はいそいそと立ち上がった。
書棚の奥に隠していた漬物壺を取り出し、その中に貰った銀貨を投げ入れる。ちゃりん、と景気の良い音を鳴らす壺を抱え、ずっしりとしたその重みを実感して、紫燕はにまりと口元を緩ませた。それまでの商売用の笑顔とは異なり、その表情は嬉しくてたまらないという風である。
後宮の恋の代行者こと紫燕は、この上ないほどの守銭奴だった。
一年ほど前に後宮入りした彼女はすぐに、この女の園で自分の文の才は大いに利用できることに気が付いたのだ。奥手な女たちの代わりに恋文をしたため、その対価を得る。恋心が金に変わるのなら、そんなに有難いことはない。
うっとりと壺を抱きしめながら、紫燕は考える。
(そうだ、文瑜。またあの男か)
その名は紫燕が代筆業をする中で何度も耳にした名だった。御史大夫という、皇帝の秘書官のような要職に就いている男である。少女たちが口々に評するには目の覚めるような綺麗な顔の持主だそうだが、妻帯もせずにふらふらと女人の間を行き来するような色男だという。
特定の相手を作らないどころか、花街にまで出入りしているという噂だ。そんな男に恋などしても、苦しむだけだということは目に見えている。先ほどの純真無垢な少女の後ろ姿を思い返して、紫燕は溜息を吐く。やめておけば良いのにと思いながらも、文を書いた後のことには口を出すまいと決めている。
(やっぱり、信じられるのはお金だけだな)
年には合わぬ現金な結論を導き出して、紫燕は再び壺を棚の奥に仕舞い込んだ。その隣には、柳の枝に遊ぶ燕が彫られた鉄製の文鎮がそっと置かれている。文鎮へと一瞬目を走らせ、紫燕はすぐに書を並べて二つの宝物が外から見えぬように封をした。
文瑜は気に食わぬ男ではあるが、おかげで迷える少女たちが駆け込んできて、紫燕が儲かっているという部分もある。
きっと会うこともないだろうが、一応感謝してやっても良いかななんて思っていたのだ。
それなのに。
翌日の朝、紫燕は何故か御史大夫の権限の下で正殿へと呼び出されていた。
ーーーーーーーーーーーーー
引用した詩は『文選』《詩編》「古詩十九首」第十首より。
高位の妃の殿舎が立ち並ぶ内庭から外れ、鬱蒼と茂る竹林の傍にぽつりと建てられた木香殿。その一室で、一人の娘が文机の前に座していた。真夏の蒼穹の色をした上衣の長袖を折り、娘――紫燕は黙々と墨を磨っていた。
狭い房室の四辺は天井まで届く書棚が占めており、それでも収まりきらない書が床の上にうず高く積まれている。その山の上には、一宮女が手に入れるには高価な白紙の束が無造作に置かれていた。
「こんなお願い、不躾だとは思うのですけれど、どうかお力をお貸し下さい」
文机を挟んで紫燕と向かい合って座る年若い少女が緊張に声を震わせながら口を開いた。何でも名家のお嬢様とかで、半分行儀見習いを兼ねて後宮に出仕しているのだという。
「ええ、もちろんです。ご心配なさらずとも、秘密厳守ですから」
にこりと微笑んで見せながら、代金さえ払ってくれれば、と紫燕は心の中で付け加える。
「さて、内容はどのようにいたしましょう?」
そう尋ねると、少女は頬を一層桃色に染め、もじもじと身じろぎした。
「その、外廷で一目お見掛けした時からお慕いしております、と。雲居の上の方なのだと分かってはいるのですが、その方のことを想うと仕事の手も止まってしまうほどで、ただ一度で良いからこの想いをお伝えしたくて……」
軽く相槌を打ちながら長く艶やかな黒髪を耳に掛け、紫燕は竹筆を紙の上に滑らせた。依頼主の語る想いを言葉に象る。紫燕にとっては既に日常茶飯事になった作業だった。するすると紡がれる筆跡は典麗で、磨ったばかりの墨は白雪を侵すように紙上を染める。
迢迢牽牛星 迢迢たる牽牛星
皎皎河漢女 皎皎たる河漢の女
纖纖擢素手 纖纖として素手を擢んで
札札弄機杼 札札として機杼を弄す
織女と牽牛の物語を下敷きにした詩だ。遥か遠くに輝く牽牛星を思いながら、織女は仕事に勤しむ。それでも、一日経っても布地を織り上げることができないほどに、彼女が恋煩いに涙を流していることは伝説が語る通りである。さらに何行か書き足し、紫燕はふうと軽く息を吐いた。
「宛名はどちらに?」
「……御史大夫の文瑜様に……」
恋慕う相手の名をついに口にして、少女は顔を衣の袖で覆う。ぴくりと筆を持つ手を止めてから、紫燕はその名を表に書き記した。墨の跡を軽く乾かしてから文を手渡すと、少女はすぐに感嘆の声をもらした。
「まあ、こんなに美しい文を……! これならば、文瑜様にも気に留めていただけるかもしれません!」
「私にできるのは、ここまで。後はご自身がどう振舞われるか次第です。応援しておりますね」
少女はさらに感激したように文を胸に書き抱くと、紫燕に銀貨を何枚も握らせた。何度も頭を下げながら足早に房室を出て行った少女の後ろ姿を見送り、紫燕はいそいそと立ち上がった。
書棚の奥に隠していた漬物壺を取り出し、その中に貰った銀貨を投げ入れる。ちゃりん、と景気の良い音を鳴らす壺を抱え、ずっしりとしたその重みを実感して、紫燕はにまりと口元を緩ませた。それまでの商売用の笑顔とは異なり、その表情は嬉しくてたまらないという風である。
後宮の恋の代行者こと紫燕は、この上ないほどの守銭奴だった。
一年ほど前に後宮入りした彼女はすぐに、この女の園で自分の文の才は大いに利用できることに気が付いたのだ。奥手な女たちの代わりに恋文をしたため、その対価を得る。恋心が金に変わるのなら、そんなに有難いことはない。
うっとりと壺を抱きしめながら、紫燕は考える。
(そうだ、文瑜。またあの男か)
その名は紫燕が代筆業をする中で何度も耳にした名だった。御史大夫という、皇帝の秘書官のような要職に就いている男である。少女たちが口々に評するには目の覚めるような綺麗な顔の持主だそうだが、妻帯もせずにふらふらと女人の間を行き来するような色男だという。
特定の相手を作らないどころか、花街にまで出入りしているという噂だ。そんな男に恋などしても、苦しむだけだということは目に見えている。先ほどの純真無垢な少女の後ろ姿を思い返して、紫燕は溜息を吐く。やめておけば良いのにと思いながらも、文を書いた後のことには口を出すまいと決めている。
(やっぱり、信じられるのはお金だけだな)
年には合わぬ現金な結論を導き出して、紫燕は再び壺を棚の奥に仕舞い込んだ。その隣には、柳の枝に遊ぶ燕が彫られた鉄製の文鎮がそっと置かれている。文鎮へと一瞬目を走らせ、紫燕はすぐに書を並べて二つの宝物が外から見えぬように封をした。
文瑜は気に食わぬ男ではあるが、おかげで迷える少女たちが駆け込んできて、紫燕が儲かっているという部分もある。
きっと会うこともないだろうが、一応感謝してやっても良いかななんて思っていたのだ。
それなのに。
翌日の朝、紫燕は何故か御史大夫の権限の下で正殿へと呼び出されていた。
ーーーーーーーーーーーーー
引用した詩は『文選』《詩編》「古詩十九首」第十首より。
14
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説

だってお義姉様が
砂月ちゃん
恋愛
『だってお義姉様が…… 』『いつもお屋敷でお義姉様にいじめられているの!』と言って、高位貴族令息達に助けを求めて来た可憐な伯爵令嬢。
ところが正義感あふれる彼らが、その意地悪な義姉に会いに行ってみると……
他サイトでも掲載中。


人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……


今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる