後宮の代筆女官は恋を騙る

春乃ヨイ

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第1章

1. 恋の代行者

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 仙桃城せんとうじょうの後宮には、恋の代行者がいるのだという。

 高位の妃の殿舎が立ち並ぶ内庭から外れ、鬱蒼と茂る竹林の傍にぽつりと建てられた木香殿もっこうでん。その一室で、一人の娘が文机の前に座していた。真夏の蒼穹の色をした上衣の長袖を折り、娘――紫燕しえんは黙々と墨をっていた。

 狭い房室の四辺は天井まで届く書棚が占めており、それでも収まりきらない書が床の上にうず高く積まれている。その山の上には、一宮女が手に入れるには高価な白紙の束が無造作に置かれていた。

「こんなお願い、不躾ぶしつけだとは思うのですけれど、どうかお力をお貸し下さい」

 文机を挟んで紫燕と向かい合って座る年若い少女が緊張に声を震わせながら口を開いた。何でも名家のお嬢様とかで、半分行儀見習いを兼ねて後宮に出仕しているのだという。

「ええ、もちろんです。ご心配なさらずとも、秘密厳守ですから」

 にこりと微笑んで見せながら、代金さえ払ってくれれば、と紫燕は心の中で付け加える。

「さて、内容はどのようにいたしましょう?」

 そう尋ねると、少女は頬を一層桃色に染め、もじもじと身じろぎした。

「その、外廷で一目お見掛けした時からお慕いしております、と。雲居の上の方なのだと分かってはいるのですが、その方のことを想うと仕事の手も止まってしまうほどで、ただ一度で良いからこの想いをお伝えしたくて……」

 軽く相槌を打ちながら長く艶やかな黒髪を耳に掛け、紫燕は竹筆を紙の上に滑らせた。依頼主の語る想いを言葉にかたどる。紫燕にとっては既に日常茶飯事になった作業だった。するすると紡がれる筆跡は典麗で、磨ったばかりの墨は白雪を侵すように紙上を染める。

  迢迢牽牛星  迢迢ちょうちょうたる牽牛星けんぎゅうせい
  皎皎河漢女  皎皎きょうきょうたる河漢かかんじょ
  纖纖擢素手  纖纖せんせんとして素手そしゅぬきんで
  札札弄機杼  札札さつさつとして機杼きちょろう

 織女と牽牛の物語を下敷きにした詩だ。遥か遠くに輝く牽牛星を思いながら、織女は仕事に勤しむ。それでも、一日経っても布地を織り上げることができないほどに、彼女が恋煩いに涙を流していることは伝説が語る通りである。さらに何行か書き足し、紫燕はふうと軽く息を吐いた。

「宛名はどちらに?」
「……御史大夫ぎょしたいふ文瑜ぶんゆ様に……」

 恋慕う相手の名をついに口にして、少女は顔を衣の袖で覆う。ぴくりと筆を持つ手を止めてから、紫燕はその名を表に書き記した。墨の跡を軽く乾かしてから文を手渡すと、少女はすぐに感嘆の声をもらした。

「まあ、こんなに美しい文を……! これならば、文瑜様にも気に留めていただけるかもしれません!」
「私にできるのは、ここまで。後はご自身がどう振舞われるか次第です。応援しておりますね」

 少女はさらに感激したように文を胸に書き抱くと、紫燕に銀貨を何枚も握らせた。何度も頭を下げながら足早に房室を出て行った少女の後ろ姿を見送り、紫燕はいそいそと立ち上がった。

 書棚の奥に隠していた漬物壺を取り出し、その中に貰った銀貨を投げ入れる。ちゃりん、と景気の良い音を鳴らす壺を抱え、ずっしりとしたその重みを実感して、紫燕はにまりと口元を緩ませた。それまでの商売用の笑顔とは異なり、その表情は嬉しくてたまらないという風である。

 後宮の恋の代行者こと紫燕は、この上ないほどの守銭奴だった。

 一年ほど前に後宮入りした彼女はすぐに、この女の園で自分の文の才は大いに利用できることに気が付いたのだ。奥手な女たちの代わりに恋文をしたため、その対価を得る。恋心が金に変わるのなら、そんなに有難いことはない。
 うっとりと壺を抱きしめながら、紫燕は考える。

(そうだ、文瑜。またあの男か)

 その名は紫燕が代筆業をする中で何度も耳にした名だった。御史大夫という、皇帝の秘書官のような要職に就いている男である。少女たちが口々に評するには目の覚めるような綺麗な顔の持主だそうだが、妻帯もせずにふらふらと女人の間を行き来するような色男だという。
 特定の相手を作らないどころか、花街にまで出入りしているという噂だ。そんな男に恋などしても、苦しむだけだということは目に見えている。先ほどの純真無垢な少女の後ろ姿を思い返して、紫燕は溜息を吐く。やめておけば良いのにと思いながらも、文を書いた後のことには口を出すまいと決めている。

(やっぱり、信じられるのはお金だけだな)

 年には合わぬ現金な結論を導き出して、紫燕は再び壺を棚の奥に仕舞い込んだ。その隣には、柳の枝に遊ぶ燕が彫られた鉄製の文鎮がそっと置かれている。文鎮へと一瞬目を走らせ、紫燕はすぐに書を並べて二つの宝物が外から見えぬように封をした。

 文瑜は気に食わぬ男ではあるが、おかげで迷える少女たちが駆け込んできて、紫燕が儲かっているという部分もある。
 きっと会うこともないだろうが、一応感謝してやっても良いかななんて思っていたのだ。

 それなのに。

 翌日の朝、紫燕は何故か御史大夫の権限の下で正殿へと呼び出されていた。


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引用した詩は『文選』《詩編》「古詩十九首」第十首より。
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