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月の光を纏う少女
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「お前なんか産まなきゃよかった」
これほどまでにひどい言葉はあるだろうか。それは小学生の俺が受け止めるにはあまりにも辛辣すぎた。俺が今まで努力したこと、今まで他人に優しくできたこと、俺が──産まれたこと、それらを全否定されたようなものだ。そしてその日から俺は小学校に行かせてもらえなくなった。
それからはろくな生き方をしなかった。親からは相手にされず、だんだんと家出をするようになって気づけば非行に走っていた。そのくせ俺はこんな酷い育てられ方をした故に、人との関わり方を知らない。当然友達も出来なかった。こんな人間になってしまったのもすべて母親のせいだ。俺は自分を嫌ってはすべて母親のせいにした。人生、やり直せたらいいのに。
色々考えすぎてしまったようだ。俺は時計を見た。
「二十三時か…」
俺はいつも通り気分転換をしに外へ向かう。薄暗い部屋の玄関を出た。今は一応実家暮らしということになっている。実家と言っても狭いアパートだ。うちはいわゆる母子家庭だった。父親の顔はもう覚えていない。そして母親はほとんど家に帰ってこない。たまに会っても、どこへ行っているか、何をしているかは聞かない。ましてや会っても何も話さない。おそらく母親は俺が世話をしなくてすむ歳になり内心清々しているのだろう。別に構わない。母親のことは今も変わらず好きではない。
だからこうして外に出ていると、家庭のことをあれこれ考えなくてすむのだ。
やがて俺は住宅街の狭い路地裏へ入る。そこには俺の部屋よりも狭く、なんともしがない公園がある。ここへ来るのはもう何回目だろうか。俺はよくこの場所に来ては、たった一つしかない遊具に座る。それは三人乗りほどの前後に揺れる犬の形をした遊具だ。だがそれで遊ぶわけでもなく、心を空っぽにしてただ時が過ぎてゆく様を見届けていた。公園ではあるがそのなりは一切華やかではなく殺風景でどこか寂しくて、きっとそういうところが俺の人生と似ているせいか居心地良く感じるのだ。どこよりも静かな空間で、やわらかい風が程よく頬を撫でる。この感覚だけは唯一この世界が俺の味方をしてくれているような気がした。そんなことを考えながらほのかに微睡んでゆく中、ふと空を見上げた。夜空には三日月が浮かんでいた。
「──月が綺麗だね」
俺の頭上から誰かがそう呟いた。咄嗟に俺は声の方を向いた。そこにいたのは。
「……誰…?」
優しく吹いた風にロングの髪がなびいた。その髪色はこの暗闇の中でもはっきりと分かるほど透き通った綺麗な茶髪だった。それはまるで月明かりを纏っているかのようだった。そこにいたのは俺と同い年くらいの少女だった。そいつは俺の身長より少し高い塀に難なく座っていた。俺が呆気に取られているとその少女は再度口を開いた。
「君は──月は好き?」
……いや、この状況意味が分からない。初対面の女の子に真上から自己紹介もなしに月が好きかを聞かれる。それはあまりにも未曾有の出来事だった。ここで仮に嫌いと答えた場合どうなるのだろうか。そもそもこの問いに答える必要はあるのだろうか。様々な疑問はあったが、俺は間髪を入れずに答えた。
「月は嫌いだ」
そう言い残し俺は公園を去った。特に初対面の女の子にへつらう気はなかったから正直に答えることにした。それでいい。もともとこういう性格だからしょうがない。
とは言ったものの勢いで公園を後にしてしまった。他に宛もないのでゆっくり家に戻るとしよう。
俺はずっと前から月が嫌いだった。俺にとって夜は隠れ場所のようなものだった。住宅街の明かりも消えてゆき、やがて暗闇に包まれる時間。そんな夜が、まるで醜く非道な俺を優しく匿ってくれるようなそんな気がするのだ。だからこそ、そんな穏やかな時間にまるで俺を照らし出し日の目を浴びさせるような、そんな月が嫌いだ。
──その夜、夢を見た。辺りは一面眩しく自分がどこで何をしているのかよく分からなかった。しかしその奥に一人の小さな女の子が微かに見えた。その子は下を向いていた。泣いているようだった。俺はその子を何もせずただ見ていた。その時、俺は何を思っていたのだろう。
*
それから二日経ち、夜が訪れ住宅街が静まり返った。俺はまたいつもの場所へ向かった。昨日はというと、久しぶりに母親が帰ってきた。そして、少し言い合いをしてしまった。母親は帰ってくるなりこう言ったのだ。
「いい加減大人なんだから仕事して自立してよ。いつまであんたの面倒を見なきゃいけないの?」
俺はすぐさまこう思った。面倒なんて見られていない。たまにあまり多くない食費を渡されるだけだ。俺は今十八歳。だがまともに学校にも行けず、人付き合いもこれっぽっちもできなかった人間が急に仕事して上手くいくはずがない。誰のせいで今こうなっていると思っているんだ。それから反論して少し言い合いになったが、すぐにお互い愛想を尽かし話すことをやめた。一年に何回かこのような言い合いが起きてしまう。だがお互いただ相手に対しての不満をぶつけるだけで分かり合おうともしない。故に解決なんてしない。このままで良いのだろうか。そんなことを考え公園に着いた。
するとそこには昨日の少女が当たり前かのように座っていた。
「おい、そこは俺の場所だ」
「知ってるよ」
…………。
なんなんだこいつ。俺がさらに追い討ちを掛けようとした刹那、少女は遊具の座っている一つ後ろの席に手を当てて、座ってと言わんばかりの顔をしていた。……仕方ない。俺は少女が座る席の後ろのさらにもう一つ後ろに横向きに座る。そこからは二人とも夜空を見ていた。会話は無かった。だがしばらくして少女は俺の方を見てこう言った。
「なんか、元気ない?」
夜空を見ながら俺は間を少し開けて答えた。
「まあな」
すると少女は言った。
「どうしたの?」
……
「……別に」
言っても分からないだろうし知らないやつに言う必要も無い。家の事情なんて当人にしか分からないものだ。それは俺自身が一番分かっている。すると少女は立ち上がり徐に振り返った。
「まぁ元気だしなよ! 日向人くん!」
「じゃあね!」
そう言い残し、早足で帰って行った。……ちょっと待て。なんで俺の名前知ってんだ…。
*
翌日、また夜が訪れ外に出た。相も変わらずいつもの場所へ向かった。道中、ぼーっと歩いていると目の前のコンビニから例の少女が出てきた。即座に目が合った。少女は驚いて立ち止まったが、すぐに我に返り腕に掛けている袋から大福を取り出した。
「あげる!」
よく見ると袋には大量の大福が入っていた。
「……いや、そうじゃなくて」
「俺の名前どこで知ったんだ?」
おれは少女から大福を受け取りながらそう言った。すると少女はこう言った。
「その大福、クリームが入ってるんだよ」
びっくりするほど答えになっていなかった。
それから俺たちは二人して同じ目的地へ向かった。その間どこへ向かっているかの確認は不要だった。そこに辿り着くと昨日と同じように座った。少女は袋から大福を取りだし食べようとしていた。今更だが俺は少女に疑問をぶつける事にした。
「お前、何者なんだ?」
「ナニモノって、タダモノだよ?」
「いやそういうことじゃなくて」
俺は気になっていたことを聞いた。
「何であの日俺に話しかけた?」
俺なら突然他人に話しかけるようなことは絶対にない。それにこいつは俺の名前を知っていた。ずっとこいつはよく分からないやつだった。
「…月が綺麗だったからだよ」
少女は恥ずかしそうにそう言った。だがそれは俺に話しかける理由にはならない。本当によく分からないやつだ。
「ねぇ、日向人くんは私の名前知ってる?」
唐突に少女が言った。
「知ってるわけない」
俺はそう答えた。何せ初めてあったのだから。
「そっか…」
思いのほか少女は少し悲しそうにしていた。俺はそれを疑問に感じた。名前を知らないのは当たり前のことだ。けれど、それに対し少し罪悪感を感じてしまっている自分を不思議に思った。不本意だが俺は聞くことにした。
「えーと…名前、教えてくれ」
すると僅かに少女から笑顔が戻った。
「私の名前は、古河美莉愛!」
「えっとー、りあ…でいいの?」
「あー違う違う! こがが名字でみりあが名前!」
「あー…」
少し難しい名前だった。
「じゃあ私はお腹がすいたから帰るね」
美莉愛はそう言い立ち上がると、大きく手を振りながら帰って行った。一人になった俺は貰った大福の封を開けた。そういや、あいつ大福食べてたのにお腹すいたって…。そんな瑣末な事を考えながら大福を食べる夜の空には、前より少し太った上弦の月が出ていた。
*
翌日二十二時頃、俺はまたいつもの場所へ向かった。普段昼間は何をしているかというと、大体は遅くに起きてただ適当に過ごしているだけだ。食料を買うために外へ出れば、明るい空に照らされ居心地が悪いような気がして嫌気がさす。そんなことを繰り返していると真っ当に生きられない自分にも嫌気がさすのだ。だからせめて夜は外に出て、この世界にいていいんだと自分を肯定したくなる。今夜も程よくぬるい風が俺の体を優しく包み込むように吹いている。
公園に着いた。その時俺は少し物寂しい気持ちになった。公園には誰もいなかった。俺は遊具の一番前の席に横向きで座った。しばらく経って次第にその物寂しさは抜けていった。元々俺はずっと独りでこうしていたじゃないか。むしろ独りの方が気が楽でずっと良い。閑寂な空気の中、何も考えずただ時が過ぎてゆくこの時間が好きだ。改めて夜の住宅街の静けさを体感した。
──何分経ったのだろう。ほのかに微睡んでいく中、ふと空を見上げようと上を見た。すると突然、隣の塀から足が出てきた。
「…えっ…」
やがてそこには塀に跨る美莉愛が現れた。美莉愛は慎重に足を上げ途端に軽々しく地面に飛び降りた。なんとも綺麗な着地だった。
「パンツ見た?」
…いや、そんなはずは無い。何故なら。
「お前ズボンじゃん」
「あ、そうだった」
笑いながらそう言って遊具の後ろの席に座った。彼女は本当に適当な人間だと思った。呆れるほどに。でも──何だかんだ今日もこいつと会った。俺は人が嫌いだった。昔から人間関係には恵まれず周りから目を伏せて生きてきたせいだ。しかし、最近は一人の少女と出会った。彼女の適当さは、何だか憎めない。
「今日ね、お昼にホットケーキ焼いたんだけどテレビが面白くて真っ黒に焦げちゃったの~。まじでフライパンの上にもう一個フライパン乗ってるかと思った」
何かと思えば会ってすぐ他愛もない話をしだした。まるで付き合いの長い友達に話すように。そしてなかなかに変な例えだった。
「そうか」
なんだかこいつが来てからこの場の心地よい閑寂さが一気に失われた気がした。
「やっぱ料理って難しいんだね」
そう言った美莉愛は何だか幸せそうだった。
「ていうか、何で塀を登ってきたんだよ」
そうだ。こいつの急すぎるトークで忘れていたがそこが気になっていたんだ。
「私の家、そこだから」
美莉愛はそう言って塀の先にある一軒家を指さした。それは、ここの住宅街にしてはそこまで新しくなく、オブラートに包んで言えば郷愁を感じる外観をしていた。
「でもお前、帰る時は塀を登らないだろ」
「それは高くて登れないからね。反対側はなんかごちゃごちゃしてるから登れるようになってるの!」
何だそれ。
「日向人くんはどこら辺に住んでるの?」
「……あっち側」
俺は自分の家のある方角を指さした。
「それじゃ全然わかんないし! どんな家に住んでるの?」
自分の住んでいる家は好きじゃない。だから、あまり答えたくなかった。
「そんなんどうでもいいだろ」
少し冷たく返した。しかし美莉愛は笑ってこう言った。
「そうだよね。こんな風に毎日家出するくらいだもんね」
別に家出だとは思っていない。とはいえ、家にいるのが嫌で夜遅くに外に出る。ある種家出みたいなものかもしれない。
「私も家にいるのが退屈で夜遅いのに外に出たくなるからさ」
一緒にするなと言いたいところだが彼女の家庭の事情など何も知らないのでやめておいた。
そんな話をしながら時折、冷たい風が路地裏の道を抜け俺たちへ吹いてくる。
「寒いな」
俺はそう呟いた。季節は夏の面影が失われ気付かないうちに秋へと移ろいでいたようだ。心地よかった風も少しずつ無情になってゆくような気がした。
「一枚だけじゃもう外出れないかぁ」
美莉愛はそう言った。二人ともシャツ一枚しか着ていなかった。
「このままいたら風邪引くから今日は帰ろっか」
美莉愛はそう言いながら立ち上がった。
「おう、じゃあな。」
俺がそう言うと、美莉愛は笑顔で手を振って、塀からではなく通路を回って帰って行った。俺はポケットに手を入れて、ゆっくり家に向かった。
──その夜、また夢を見た。辺り一面眩しくその光はまるで昼間の木漏れ日のような、あるいは真っ白なカーテンの隙間から漏れる窓明かりのように、穏やかで心地よい光だった。そこへ、また小さな女の子が現れた。その子はこちらに対して何か言っていた。その声は何故か遠くの方へ消えていってしまう。だがその時微かに聞こえた気がした。
「──君が……助けて……くれて………。」
やがて視界は真っ白になり、その子の姿は消えてゆく。
*
それから三日ほどが経った。その三日間はというと同じように夜に外へ出てはいつもの公園に行き、美莉愛に絡まれる日々だった。ただただ他愛のない話を聞き時間が過ぎてゆき、気づけばそれが当たり前になり始めているのかもしれない。ただ──悪くないと思った。最初はとても鬱陶しいやつだと思った。何だか元気で馴れ馴れしくて、人を好まない俺にとっては一番近づきたくないタイプとまで思っていた。だが、公園に辿り着きそこに美莉愛の姿がなかった時、確かに物寂しいと思ってしまっている自分がいることに、薄々気づいていたのだ。そして今日も夜が訪れ公園へ向かった。着くとそこには既に彼女がいた。
「先頭は俺の席だぞ」
「いいじゃーん」
相変わらずだ。
「ねぇねぇ! 明日だよ!」
美莉愛が突然そう言った。
「…何が?」
「明日のお昼前に皆既日食が見られるんだって!」
皆既日食か…。そんなこと興味も無かった。いつも同じような日常を繰り返しているだけの俺は、そういうものにも疎かった。
「日向人くんはその時間何してる?」
「んー、寝てる」
「…えっ…なんで!?」
何でって言われても。いつも起きるのは遅いので。
「早く起きて、一緒に見よ! 私ここにいるから。」
……。
「…分かったよ」
美莉愛はそれを聞いて嬉しそうにしていた。俺は早起きは好きじゃない。というか出来ない。満足するまで寝ていたいのに起きなければならないなんてそんな酷な話はないと思っていた。けれど、明日行けばもしかしたら俺の人生が良い方向に変わってゆくような、そんな気がしていた。確証は無い。それでも、最近は何だか少しずつ自分が変わっていっているような気がして、このままこの波に乗ってやってもいいと思ったのだ。
「じゃあ明日、待ってるからね」
美莉愛はそう言いながら立ち上がった。それから手を振りながらいつもより少し長めの笑顔を見せ帰って行った。俺はそれを見て少しばかり立ち尽くしていた。
*
翌日、俺は珍しくアラームをかけ早く起きた。正直寝不足ではあるがそんなことは言っていられない。早起きしたのにはちゃんと理由があるのだから。時刻は十時。俺は眠気覚ましにコーヒーを飲むことにした。ティーバックにお湯を注ぐ。そして、ふと俺は考えた。午前中から女の子と皆既日食を見に行くなんて、一か月前の俺では間違いなく想像すらしなかっただろう。それは俺の人生において明らかな変化だった。このまま俺は順調に変わっていけるかもしれない。そしていつか自分のことを好きになれる日が、もしかしたら来るかもしれない。俺はきっとそんな期待を胸に抱いていた。
───その時だった。体全身に強い立ちくらみのようなものが襲った。その矢先にコーヒーを入れたティーカップが勢いよくテーブルから転げ落ちた。これは……。
「地震だ…!」
揺れはすぐさま今までに無いほど強い揺れへ変わった。その瞬間、家の中の本棚が倒れだし、食器などあらゆるものが床へと落ちてゆく。俺は意識が遠のくほどのとてつもない恐怖を感じた。しかし咄嗟に体は動き、玄関へ向かい急いでドアを開けた。外に出るととてもじゃないが立っていられなかった。通路の手すりに必死に掴まって揺れを耐えた。その最中、町が悲鳴をあげているのがわかった。この町に住んでから始めて感じる、地面から伝わる重低音、体が張り裂けるような胸騒ぎ。この世の終末が訪れたような気分だった。どのくらいの時間揺れていたのだろうか。次第に揺れは落ち着いてゆく。アパートには今にも崩れそうなほど大きなヒビが入っていた。俺は途端に走り出した。
「…美莉愛……!」
俺はアパートを飛び出し住宅街に立つ。そこは…酷く変わり果てていた。当たり前のように並んでいた数々の家は、見るに堪えないほどに崩れていた。俺はしばらく立ち尽くしたがまた走り出した。俺は向かった。こんなどうしようも無い俺に希望を与えてくれた、俺を変えさせてくれたあの場所に。そして初めて出会ってたった十日ほどしか経っていない、まだよく知らない少女に俺は今とてつもなく会いたいのだ。
あの公園までは歩いて五分ほどだ。走って行けばすぐだろう。住宅街に入れば入るほど酷い光景が広がってゆく。大きな煙を上げ燃えている家もあり、どこからともなく悲鳴が聞こえてきたりもする。いつも、通り過ぎる度に犬小屋から出てきて吠えてきた憎い犬も、犬小屋ごと何処にあったかすら分からないくらいに町は変わり果てていた。本当に悪夢を見ているのではないかと思った。何とか地獄のような風景を抜け公園まであと少しのところだった──。ドンと大きな音が地面からなったのを合図にまた大きく揺れだした。俺はそれに足を取られ急に走れなくなる。それと同時にまた恐怖が襲いかかり、息切れと混ざり合い激しくむせ返った。俺は体を起こしていられなくなりその場に倒れた。意識が朦朧としてゆく中、空を見た。昼なのに夜みたいに暗かった。そうだ…皆既日食を見るんだった。真上を見上げると、そこにははっきりと満月にぴったり隠れた太陽があった。まるで、この悪夢から目を背けるように。
*
目が覚めるとそこは──いつもの公園だった。何故だかとても心地が良かった。いっそこのままもう一回眠ってしまおうかと思った。だが俺はすぐにすべてを思い出した。
「…美莉愛……」
「──日向人くん…?」
その声は俺がこの約十日間、嫌という程耳にしたやかましい声。その上、死に物狂いで追い求めた心地好く温かい声。──それは美莉愛の声だった。
「……みり…あ……?」
俺は声のする方に目を向けた。その光景は初めて美莉愛と出会った時と同じだった。暗闇の中でもはっきりと分かる透き通った綺麗な茶髪で、俺の背よりも少し高い塀に難なく座りながら穏やかな眼差しでこっちを見ていた。
気づけば俺の頬には、涙が伝っていた。
「何泣いてんの~」
美莉愛は笑いながらそう言って塀から飛び降り、着地した後俺の手を掴み体勢を立て直した。俺は涙すら拭わずに美莉愛に言う。
「生きていたんだな…」
美莉愛は、ただ笑った。
「無事でよかった……」
俺は心から安堵した。その時ふとあることに気づく。
「──家が…崩れてない…」
辺りを見渡すと、数々の住宅がいつもと何も変わらずに建ち並んでいた。まるであの悪夢がかき消されたかのように。いや、あれは──
夢だったんだ。
きっとそうだ。そうに違いない。だって、今こんなにも幸せで胸が高鳴っているのだから。
俺らはいつも通り遊具に座る。美莉愛は俺の一つ隣に座った。いつもなら必ず真ん中一つ空けて座っていたが、今はそうではないことに二人とも違和感を感じることは無い。それほどまでに俺らはかなり親密になっていた。ただ、こうしていると今にもお互いの体が触れ合いそうで少し鼓動が早くなる。
「なぁ、俺さ」
「なーに?」
「美莉愛に会えて良かった」
それは俺の心からそのまま出た言葉だった。こんなこと、誰かに言う時が来るなんて思っていただろうか。小恥ずかしくてキラキラしていてなんとも俺に似合わないセリフだろう。
「…ほんと?」
美莉愛は少し驚いていた。まさか俺がこんなことを言うなんて思ってもいなかったのかもしれない。だが俺のこの気持ちが嘘偽りないことは証明されている。何故なら体が張り裂けるほどの恐怖と絶望の中、あんなにも美莉愛のことを求めて走っていたのだから。あれが夢であっても、俺の気持ちだけは本当だ。そんな俺の真っ直ぐな目を見て美莉愛はだんだんと顔が赤くなってゆく。やがて目も合わせられなくなり、美莉愛は勢いよく立ち上がった。
「今日は…もう帰るから!」
美莉愛は振り返らずに帰って行った──。
俺は一人になるが、しばらく安堵の余韻に浸っていた。今夜はいつもより辺りが静かに感じた。ふと夜空を見上げると、そこには赤い満月が出ていた。
*
次の日、時刻は二十一時、俺はいつもより少し早めに家を出た。昼は暇すぎてどうにかなってしまいそうだ。とはいえ昼から美莉愛に会いに行くのはなんだか恥ずかしい気がして、結局大人しく夜を待つ事にした。外へ出ると前とは空気がまったく違く感じた。それはきっと季節の移ろいとかそういうものではなかった。俺はこれからが楽しみだ。これからもずっとこうして、美莉愛と──。
「おはよ!」
そんなことを思っていると引き寄せられるように彼女はやってきた。──そうだ。ずっと前から、こういう日々に憧れていたのかもしれない。
「なんでここにいるんだ? 公園までまだ歩くのに」
「この前家の方向教えてくれたでしょ? だからなんとなく来てみたの。そしたら会えちゃった!」
美莉愛は笑顔でそう言った。そこからは二人で公園へ歩いた。公園に着くと昨日と同じように座った。
「お腹すいたでしょ? これあげる」
美莉愛はそう言って上着のポケットから大福を取りだした。そういえば今日一日何も食べていなかったな。もともと少食な上、運動も全くしていないのでお腹が空くことが基本あまりない。
「ありがとう」
俺らは、二人で大福を食べながらお互いの話を始めた。
「私ね、子供の頃介護士になりたかったの」
「困ってる人を助けたくて、笑顔にしたくて、いつかそれを仕事に出来たらなぁって思って」
美莉愛は懐かしむようにそう言った。
「素敵だな」
俺は素直にそう思った。
「でもね、結局勉強とか自分には向いてないなと思って諦めて、違うのを目指したの」
「何を目指したんだ?」
「それはねー、アイドル!」
「介護士と全く違うじゃん」
俺は思わず笑ってしまった。
「おかしいよね~」
美莉愛も笑ってそう言った。
「でもアイドルも一応人を笑顔にする仕事じゃん? 結局人を幸せに出来たら何でも良かったのかも」
美莉愛は笑ってそう言った。相変わらず適当だが、そこには確かに美莉愛の性格が現れていた。心から人の幸せを願い、人に笑顔を与える。きっと彼女がどういう風に生きていこうと、そこに変わりは無いんだと俺は確信した。
「日向人くんは?」
「俺は…」
俺は今まで、将来の夢なんて考えたこともなかった。子供の頃はそんなこと考える暇もなく、家庭環境の事もありただ必死で生きていくことに精一杯だった。学校へ行かなくなってからは…本当に酷かった。将来への希望は一気に閉ざされ、夢を見ることすら許されないと思っていた。
「俺は……幸せになりたかった」
それは俺ですら気づかなかった、ずっと心の内に秘めていた唯一の願い。気づけば口に出してしまっていた。俺は我に返り慌てて言う。
「ご、ごめん。なんか変なこと言っちゃ──」
その時、俺の手に柔らかい温もりが重なった。美莉愛は俺の手を握っていた。その手は夜風で冷えていたはずなのにとても温かくて、俺よりひと回り小さな手なのに、優しく包み込むような安心感があり、なんだかとても心地よくて気づいたら俺は──泣いていた。
「日向人くん、泣いてるの?」
恥ずかしかった。凄く恥ずかしいけど心は幸せで満たされていた。こんなこと人生で初めてだった。美莉愛は俺の手を優しくさすって言った。
「いいんだよ、我慢しなくて」
美莉愛の優しさに、俺はとことん甘えてしまった。
「俺…本当に辛かった。こんなどうしようもない奴に育っちまって、でもどうしたら良いか…わかんなくて…」
それから俺は、過去のことや将来の不安など全て美莉愛に打ち明けた。まるで体に溜まっていた毒がすっと抜けていくように楽になっていった。美莉愛は俺が言ったことに対し何かを言うわけでもなく、ただ聞いてくれた。俺にとってはそれだけで充分で、それがどれほどありがたかっただろう。手から伝わるこの温もりが、俺が吐き出した憂いや痛み全てを浄化してくれているようだった。
それから一時間ほどこうしていた。俺の憂いはすっかり晴れ、そこには二人の温もりだけが残った。だが、いざ話し終えるとやがて二人は手を繋いでいるのが恥ずかしくなり、同時に手を離した。それから俺は立ち上がり言った。
「今日はありがとな。なんか甘えすぎたかも」
目を合わせるのも恥ずかしかった。
「ほんと日向人くんは泣き虫なんだからー」
美莉愛はからかうように言った。
「うるせーよ」
「ごめんごめ~ん!」
「でもね──私は、ずーっと日向人くんの味方だよ」
そう言った美莉愛の表情はまるで家族のような温かさで、どこまでも果てしなく優しかった。俺らはまた明日会うことを約束して公園を出た。──今日は随分恥を晒したな。男が涙を垂れ流し弱音を吐くなんて。普通だったら引かれてもおかしくない。それでも、今日のことはまったく後悔はしていない。
*
それから一日経ち、また俺たちは公園に集まる。
「それでね~、その駄菓子をいっぱい買っちゃって。」
「あんなの小さくて味がよく分からないだろ。」
「だから全部まとめて一気に食べるんだよ! 今度絶対やってみて。」
「俺普段からあんまり駄菓子食べないんだ」
「なんでよ~」
そんな他愛もない会話をする時間が何よりも幸せで、こんなにも早く時間が経つのが早いと感じたことは、今までで一度もなかっただろう。あっという間に夜は更けていき、日付が変わる前に俺たちはまた明日会う約束をして帰った。
──それから毎日、俺らは会い続け同じような日を繰り返した。だがそれでも飽きることはなく寧ろ幸せが増えていく日々だった。話は尽きることなく、だんだんとお互いを深く知っていくようになった。しかしそれと同時に、何故か俺は美莉愛のことをどこか懐かしく感じるようにもなった。
*
夢のような日々が過ぎて行くのを、月の欠けゆく様が示した。気づけば下弦の月が少し痩せ、三日月が近づいていた。月はあの悪夢以来、未だに赤いままだ。俺はそんなこと気にもならないほどに、美莉愛に惚れていた。あれから何日が経ったかなんて数える余裕すらないほどに、毎日が輝いていた。
今日も二人は公園に集う。いつものように隣り合わせで座り、俺らは自然に手を繋いだ。それほどまでにここ最近は距離が近くなった事を感じる日々だった。
「日向人くんの手は相変わらず温かいね」
美莉愛は顔を赤らめながら言った。
「やっぱり日向人くんは日向人くんだね」
「どういう事だよそれ」
俺は優しく笑ってそう言った。
「日向みたいに温かい日向人くんてことだよ」
美莉愛は俺の目を見て言った。
日向人──か…。俺はずっと前からこう思っていた。日向人なんて、全くもって俺に似合わない名前だと。太陽なんてうるさいくらいに眩しく、外にいると問答無用で照らしてくる。俺はそんなやつ嫌いだ。寧ろ俺みたいな人間は明るい所から逃げ、暗い所を好むタイプだ。そんなやつの名前が日向人って、おかしくて笑えてくる。
「ほんと、俺に似合わない名前だよな」
そう言うと、すぐに美莉愛は少し怒った顔をしてこう言った。
「そんなことないよ!」
「日向人くんは…私にとって太陽だよ」
そう言った美莉愛は少し強く俺の手を握る。俺が誰かにとっての太陽だなんて。そんなこと考えもしなかった。何故なら今まで愛されたことがなかったからだ。唯一の母親からもだ。でも、そんな俺が俺の大切な人にこれからずっと暖かな陽光を与えていけるなら、この先どんなに辛くてもその人のために何とか生きていけるような気がした。
「俺、これから頑張るよ」
どうしようもなく落ちこぼれだった俺が、希望を見出した瞬間だった。
「ほんと、少し前の俺からは考えられないな」
俺がそう言うと、美莉愛は徐に言った。
「私は、初めて会った時から日向人くんは太陽だったよ」
初めて会った時。俺は思い返した。公園に一人でいた時、美莉愛に初めて話しかけられたあの夜のことだろうか。それとも───。
「もう遅いし、帰ろっか」
美莉愛はそう言って立ち上がった。
「…おう…そうだな」
「日向人くん、またね!」
「じゃあ、また明日な」
お互い手を振ると、最後にその手を近づけ握りあった。手を離したその瞬間、二人の間に突き抜けるような風が吹いた。風は小さな枯葉や塵を巻き込んでいて俺は瞬時に目を瞑ってしまった。目を開けると、既にそこに美莉愛はいなかった。手の中の温もりが夜の冷たい空気に奪われ次第に消えてゆくのが、俺は何よりも寂しかった。
*
寂しい。その感情は昨夜から消えることは無かった。美莉愛に会えばすぐに冷えた心は温度を取り戻す。そう思っていた。しかしその夜、美莉愛は公園にいなかった。俺は座らずに立ったまま美莉愛を待つ。何となく、一人だけで座りたくなかったのだ。そこはもう既に二人の空間だった。どちらかが欠けてしまっては成立しない。なんとなくそんな気がしていたが、今この瞬間それを強く実感している。夜空に浮かぶ月は今夜も赤く、今にも消えそうなほどか細い三日月だった。俺はただその三日月を見ながらなすすべもなく立ち尽くしていた。一か月前までずっと独りだった俺が、耐えられなくなるほど独りを寂しく思うなんて。
「──日向人くん」
後ろから声が聞こえた。振り返ると美莉愛がいた。
「良かった。来なかったから心配した」
「うん……ごめんね!」
その時の美莉愛は、何だか元気がなかった。その笑顔は無理に作っているとすぐに分かった。俺らはいつものように遊具へと座る。
「何か…あったのか?」
「大丈夫だよ!」
俺は美莉愛の手を握った。俺が美莉愛にとっての太陽なのであればこういう時こそ、俺は優しく寄り添い温めてあげるべきだ。
「…ありがとう」
美莉愛は僅かではあるがやっと心からの笑顔を見せた。そして美莉愛はこう呟いた。
「このままずっと、日向人くんといられたらな…」
俺はその言葉にどこか違和感を感じた。何故ならそれはまるでその願いが叶わないかのような言い方だったからだ。そしてその違和感は昨日から俺が抱いていた寂しさと、妙に繋がっている気がした。俺はその気持ちを殺すようにこう言った。
「ずっと一緒にいよう。俺は美莉愛と一緒にいたい。」
すると美莉愛は笑顔でこういった。
「日向人くんは本当に優しくて、素敵だね」
その笑顔の中にはどこか遠くを見据えているような、あるいは心の真ん中に空白があるような、はっきりとせずとも確かにそこに哀愁を感じた。それは今にも消えそうなか細い三日月に似ていて、すぐにでも美莉愛はどこかに消えてしまうのでは無いか。そんな気がしていた。
「今日はこのまま、一緒にいないか…?」
俺は気づいたらそんなことを口にしていた。すると美莉愛は嬉しそうに言った。
「私もそうしたいと思ってた」
続けて美莉愛が言う。
「良かったら…今から…うちに来て」
美莉愛の家にあがるとそこは思っていたより、貧寒な見た目をしていた。
「あんまり綺麗じゃなくてごめん」
美莉愛は苦笑いをしながらそう言った。
「うち…片親でさ」
そう言う美莉愛に俺は親近感を感じた。もしかしたら俺たちは、似たもの同士だからこそこんなにも惹かれ合い仲良くなれたのかもしれない。寧ろ今までの俺の苦難や苦労の全ては、こうして美莉愛と繋がる為の過程だったのではないかと。そう思えるのなら、これまでの経験は少しも辛いことなんてない。そんな気がした。
今日は美莉愛が遅れたことで時刻はとっくに0時を回っていた。俺らは寝る準備を始め、一枚の布団の上に二人で座った。そこはいつもの冷たい夜風すらも二人を干渉することの無い、たった二人だけの温かい空間だった。俺らは眠るまで、ただひたすら話していた。それは俺ら二人のこれからのこと、未来の話だった。
「俺、今度美莉愛と一緒に出かけて見たい」
「いいねぇそれ」
「色んな場所に、美莉愛と行ってみたいな」
「日向人くんと一緒なら楽しそうだなぁ」
「あとさ、俺は学校には行けないけど放課後とかも遊んでみたい」
「じゃあ私が授業終わったらそのまま出かけよう」
俺は何よりも、美莉愛とのこれからを約束したかった。どこかへ消えてしまいそうな美莉愛を繋ぎ止める言葉を、ひたすら探していた。
「大人になっても、俺たちはこのまま…一緒にいられるよな」
「大人になった日向人くんは今よりかっこいいのかなぁ」
「どうだろうな」
俺らはこれからの話、それから他愛のない話まで、時間に縛られることなく話し続けた。気づけば二人にはだんだんと眠気が襲ってきて、布団の上に横になると俺は話している途中で眠ってしまった。
──その夜、また夢を見た。辺りは目が眩むほど眩しく、何となく暖かかった。そしてそこにはあの女の子がいた。女の子はこちらを見ていた。前に夢で見た時よりも随分近く、女の子は俺の目の前に立っていた。その姿は前より大分鮮明に見えていた。そしてその姿は──。
「…助けてくれて………ありがとう…」
「───私が…………ても………どうか…………」
「…………………」
*
翌朝、起きると窓から溢れる光に目が眩んだ。俺は寝惚けまなこをこすり、ゆっくりと目を開けた。
───そこに、美莉愛はいなかった。
まるで昨日あれほど楽しく話していたのが、嘘だったかのようだ。美莉愛と約束したたくさんの言葉は全部無力だったのだろうか。俺は込み上げてくる悲しみを全力で堪え、立ち上がった。俺は外へ出て美莉愛を探しに出た。この時俺はこうなることを薄々分かっていたのかもしれない。何となくだが気づいていた。美莉愛と仲を深めていくうちに、心のどこかで感じていた寂しさ。それが次第に増えていき、今この瞬間それがハッキリとした物に変わった気がした。けれどそのおかげで今は冷静でいられる。公園を過ぎ、住宅街に出て美莉愛を探し回った。まだ美莉愛に伝えたいことが沢山あった。昨日で最後なんてそんなのは絶対に嫌だ。俺の家の方面へ向かうことにした。美莉愛が大福をくれたコンビニ前や、美莉愛と歩いた住宅街の路地。今思えば、数々のあの時あの瞬間が、こんなにもかけがえの無い思い出になるなんてあの時は思っていなかった。俺の家の前や行ったことのない場所まであらゆる場所を探し回ったが美莉愛はいなかった。そして気づけば日は暮れていた。俺はいつもの公園へ戻ってきた。空を見上げてみると、そこにはどこを探しても月が見当たらなかった。月も消え、美莉愛もいなくなってしまった。俺は我慢していた悲しみやら絶望やら色んなものが混ざりあって込み上げてきて、耐えられなかった。俺は地面に膝を着いて嘆いた。
「………美莉愛……」
俺はその苦しみを抑えるように美莉愛の名前を呼んだ。その時───。
俺の背中にこれ以上ないほどの温もりが覆いかぶさった。
その温もりが何かはすぐに分かった。その温もりは後ろから俺の背中を抱きしめている。
「日向人くん、ごめん……」
美莉愛の声だった。
「…私ね………」
美莉愛の声は震えていた。
「……前の地震の時さ……」
俺はこの先を聞きたくなかった。聞いても絶対に受け入れられるはずがない。
「実は…あの時………私──」
俺は美莉愛がそれを言うより先に、抱きしめていた美莉愛の腕をはらい美莉愛の方を向いて、もう一度正面から強く抱きしめた。
「もう…言わなくていいから…」
そこからはただ二人で強く抱きしめ合った。もう二度と離れないと。その思いで、ただ抱きしめていた。
「俺は美莉愛がいたから変わることが出来た。美莉愛に出会わなければ…俺はまだどうしようもないダメ人間で最悪な日々を過ごしていたんだ。そんな俺に美莉愛はこんなにもたくさんの幸せを与えてくれた」
「だから…その幸せをこれからも返していきたいんだ…」
それは俺が本当に伝えたかった事だった。ゴミみたいな俺に、地獄のような日々に、大きな希望を与えてくれたのは紛れもなくたった一人の美莉愛だった。
「日向人くん……」
そして俺は叶わないと分かっていても、それを口にしてしまった。
「いなくならないでくれ…。ずっと俺と一緒にいてほしい…」
「日向人くんは私がいなくても大丈夫だよ」
「どうして……。俺は美莉愛がいないと何も出来ない…」
「日向人くんなら大丈夫」
美莉愛は優しくそう言った。それでも俺は最後まで美莉愛に甘えてしまう。
「どうしてだよ…。美莉愛…………」
「───私だって……ずっと日向人くんと一緒がいい…!」
その声は先程の優しさとは違って、堪えていた感情と共にその顔には涙が溢れていた。
「私…死にたくなかった………これから先ずっと日向人くんと一緒にいたいよ…」
「……美莉愛……」
しばらくして美莉愛は涙を拭うと俺にこう言った。
「日向人くんは…覚えてないかもしれないけど、先に幸せをくれたのは…日向人くんなんだよ?」
「先に……俺が……?」
「…うん!」
「私ね、小学校の頃いじめられてたの。貧乏だったから教材とか学校に必要なものを買って貰えなくて、そのせいでね」
「けどね、その時助けてくれたのが、日向人くんだったんだよ」
俺は学校へ行かなくなってから希望を失い、学校にいた時の記憶なんてまともに覚えていなかった。人に優しくしても報われることなんて無いと知ったその時から、もう何もかも覚えていても意味が無いと思い、記憶を閉ざしてしまったのだ。ただ、唯一微かに記憶に残るその姿は、眩しさの中写る小さな女の子の姿だった。幸せに恵まれない、自分とよく似た少女を微かに覚えていた。
「日向人くん、私の国語のノート持って帰ったでしょ?」
「…もう昔のこと過ぎて、覚えてないや」
「ふふ、いいんだよ。こうしてまた巡り会えたんだから」
俺は小さい頃、美莉愛に会っていた。しかも美莉愛のことを助けていたんだ。その時から俺は美莉愛にとっての太陽だったのかもしれない。
「日向人くん……助けてくれてありがとう」
美莉愛はもう取り乱すことなく、優しく俺に温もりを与えるようにそう言った。
「…美莉愛……」
「私…もう…すっごく幸せ…」
俺はその言葉を聞いて、覚悟を決めた。そして最後に美莉愛に伝えたい言葉を選んだ。その言葉はすぐ胸の中にあり、迷うことは無かった。
「──美莉愛、大好きだよ」
それを聞いた美莉愛は、今までで一番の笑顔を俺に見せた。その笑顔を最後に辺りは一面真っ白に染ってゆく。眩しさに包まれ鮮明だった美莉愛の姿は霞んで遠く離れていった────。
「──私がいなくなっても、どうか元気でね」
*
俺は目を覚ました。周りを見渡すと、そこは病室だった。俺が目を覚ますと看護師は驚いていた。約十五日間意識がなかったのだからそうなっても仕方ないだろう。どうやら俺は少し離れた町の病院にいるらしい。意識不明だったが怪我などはなかったため、目が覚めてからすぐに退院出来た。そして俺はすぐに分からされた。
──地震は夢なんかじゃなかった。
退院すると母親からすぐに連絡があった。この町にはしばらく住めないので祖母のいる実家に帰ってこいと。俺はそこへ帰る前に、
──必ず行かなければいけない場所があった。
電車に乗りしばらく歩いて、俺は半月ぶりに帰ってきた、この住宅街に。その様は…酷かった。家はほぼ全滅と言っていいほど派手に崩れていた。そこを歩いていると災害後の片付けなどをしているボランティアの人達がちらほら見えた。俺は真っ直ぐ美莉愛の家へ向かった。町は変わり果てていて道は曖昧だったが、美莉愛と歩いた記憶を頼りに歩いて向かった。そして辿り着くと、美莉愛の家は酷いくらいに倒壊していた。周りの家ごと一緒に崩れ、壊滅的な状態になっていた。俺は…分かっていた。分かっていたはずなのに。その場に泣き崩れてしまった。しばらく体が動かなかった。頭の中は真っ白になり、ただひたすら涙が流れた。こんなにも胸が苦しくなるなんて。あまりにもこの現実を受け止めきれなかった。もう生きていくことが嫌になるくらい辛かった。
「……美莉愛……」
もうどうにでもなれと思った。今の美莉愛のいない人生。それは俺が一か月前、美莉愛と出会う前の独りだった時なんかよりよっぽど辛かった。
「にいちゃん、大丈夫かい?」
横からそう声が聞こえた。片付け作業をしていたおじさんが俺を心配してくれていた。
「………はい…」
本当は全く大丈夫なんかじゃなかった。おじさんはそれを察して何も言わずにただ俺の背中をさすってくれた。
*
祖母のいる実家に帰ってから何日か経ち、俺はというと一向に前を向けないままだった。昼どころか、夜すらも外へ出ることがなくなり、完全に引きこもりになってしまった。ただ、祖母の実家に帰ったのは随分と久しぶりだった。おそらく小学生ぶりだろう。いつも住んでいるアパートとは違いこっちは棚やダンボールが多く雑然としていた。おそらくいつも住んでいるアパートは狭く、ものが置けないので邪魔なものを母親がこっちへ送っているんだろう。まあ、何もないよりかは随分マシだった。
ある日、祖母が俺にこう言った。
「久しぶりに来たんだから、色々見てごらん。ひなくんが昔持ってたものとか沢山入ってるから」
そして祖母は奥の部屋の押し入れを指さした。せっかくなので俺は見てみることにした。押し入れを開け収納箱を出してみると、そこには昔使っていた教材やら文房具が沢山でてきた。そこには、ボコボコにへこんだ鉛筆や、使い古しまん丸になった消しゴム、昔好きだった漫画のキャラクターのキーホルダーなど、この瞬間まで全く思い出すことの無かったものたちが、山ほど入っていた。さらに教科書やノートが沢山入っていた。教科書は何年も時が経ったにしてはやけに綺麗だった。おそらく勉強なんて全くしていなかったからだろう。それ故にノートも数えられるほどしか入ってなかった。俺は一冊ずつ懐かしみながら手に取っていった。すると、一冊見るからに汚いノートがあった。
──そのノートにはマジックペンで『バカ』やら『きえろ』やら『ブス』やら酷い言葉が沢山書かれていた。表紙は悪口で埋もれていて何のノートなのかすらも分からなかった。
俺はよく目を凝らしてその書かれた悪口の下に書いてあった文字を見つけた。
───『国語 4年2組 こがみりあ 』
俺はその時───全てを思い出した。当時の記憶を──。
**
それは俺が小学生の頃、学年は四年生になった頃だ。その学校は学校内のクラスでの移動教室が多く、算数の授業の度に教室を移動しなければならなかった。正直めんどくさかったが俺は授業開始に遅れないよう移動し、授業を受けた。まあ授業の内容はほとんど上の空だったのだが。そして途中から、ある異変が起こったのだ。俺はいつも通り一組から二組に移動すると、いつも俺が座っている席に、落書きがされていた。『バカ』『学校やめろ』など他にも色々書いてあった。俺は正直誰がこんなことをしようとどうでも良かったが、こんな机で授業を受けるのはなんとなく嫌だったので、綺麗に消しゴムで消すことにした。そして授業が終わり、俺はゆっくり教室に戻る準備をしていた。するとそこへ一人の女の子が現れた。おそらく俺が座っていた席の子だった。その子は透き通った綺麗な茶髪の女の子だった。初めて見た上、名前も知らないが俺はその子にこう言った。
「困ってんなら俺が助けるから」
俺は言い残した後すぐに教室を去った。
その日から移動教室の度、俺はその子の机に書かれた落書きを消し続けた。俺はその子のことはよく知らないが、何だかその子の恵まれない境遇が自分と似ている気がして少し気にかけていたのだ。そして授業が終わりその子が戻ってくると、その子は俺にほんの少し笑って見せた。俺は、それだけでいい事をしたと思えた。
ある日、またいつものように移動教室で俺はその子の席に座った。また相変わらず落書きをされている机を、使い古した小さな消しゴムで消していた。全て消し終えると、俺は机のお道具箱の中に、一冊のノートを見つけた。そのノートにも酷いことに沢山の落書きがされていた。俺は消しゴムで消そうとしたが書かれていた落書きはすべて油性のマジックだった。どうしたものかと考えていたその時、授業終わりのチャイムがなった。その子はすぐ教室に入ってきた。その時俺はその子にできるだけ落書きを見せたくないと思ったのだ。その子を悲しませたくない、助けてやりたい。その思いから、その子が席に戻る前にノートを俺の教科書の下に隠しそのまま持ち上げて教室に戻ろうとした。
するとその瞬間──。
「待って」
その子はこういった。俺はノートを持っているのがバレたと思い焦っていた。するとその子は続けてこういった。
「助けてくれて、ありがとう」
その子はぎこちなく、それでも柔らかい笑顔を見せた。
その日、学校から帰ると母は台所の前で頭を抱えていた。俺が近づくと母は俺を見てこういった。
「お前なんか産まなきゃ良かった」
*
あの震災からもう少しで一年が経つ。俺は今、コンビニでアルバイトをしている。正直人と話すことも慣れてないし、体力はこれっぽっちもなく、ミスばっかりして叱られる毎日だ。それでも俺に優しくしてくれる先輩もいる。仕事をすることが何から何まで初めてで、慣れるのにも精一杯だが何とか不祥事なくやれている。
俺はバイトが休みの日、夜八時台からある場所へ向かった。電車に数十分乗り、降りてから少し歩いた。そこへようやく見えてきたのは思い出の住宅街だった。ちょうど一年経った事もあり、被災者の遺族と思われる人達が何人かいた。そして復興は僅かながら進んでいた。俺は思い出を頼りに歩いた。そして辿り着いたのは美莉愛の家だ。俺はしばらく家の前に立っていた。崩れていた瓦礫などは片付けられていて少し綺麗になっていた。そして様々な記憶が頭の中を巡った。おそらくこのままここにいたら感情が溢れ出して抑えきれなくなりそうなので、俺はそこから去ることにした。そして去り際、俺は家の前にお供え花と彼女が大好きだった大福を置いた。
俺は公園へやってきた。そこにはあの時と何も変わらず遊具があった。俺はその遊具へ座った。静かすぎる空間に柔らかい風が体を包み込んだ。この公園だけはあの時と何一つ変わっていなかった。そのせいか塀の上には美莉愛が座っているような気がして、俺は塀を見上げた。そこには誰もいなかった。まあ分かっていた。それでも気づけば目には涙が溢れてしまっていた。閑寂な空気が余計に寂しく、俺は公園で一人、泣いてしまった。
「……美莉愛……」
ただ何も起こることなく時間だけが流れた。俺は泣き疲れて少し眠くなった。ゆっくりと夜空を見上げると、そこには綺麗な満月があった。その満月が何だか温かく心地よくて俺はうとうとと微睡んでいた。次第に視界はぼやけていく──。
──やがて辺り一面は眩しく、月明かりのような穏やかな白い光で溢れた。次第に前の方から女の子がやってきた。
俺はその子に言った。
「──幸せをくれてありがとう。俺は今も元気だよ」
すると少女は温かく柔らかい笑顔を見せた。
これほどまでにひどい言葉はあるだろうか。それは小学生の俺が受け止めるにはあまりにも辛辣すぎた。俺が今まで努力したこと、今まで他人に優しくできたこと、俺が──産まれたこと、それらを全否定されたようなものだ。そしてその日から俺は小学校に行かせてもらえなくなった。
それからはろくな生き方をしなかった。親からは相手にされず、だんだんと家出をするようになって気づけば非行に走っていた。そのくせ俺はこんな酷い育てられ方をした故に、人との関わり方を知らない。当然友達も出来なかった。こんな人間になってしまったのもすべて母親のせいだ。俺は自分を嫌ってはすべて母親のせいにした。人生、やり直せたらいいのに。
色々考えすぎてしまったようだ。俺は時計を見た。
「二十三時か…」
俺はいつも通り気分転換をしに外へ向かう。薄暗い部屋の玄関を出た。今は一応実家暮らしということになっている。実家と言っても狭いアパートだ。うちはいわゆる母子家庭だった。父親の顔はもう覚えていない。そして母親はほとんど家に帰ってこない。たまに会っても、どこへ行っているか、何をしているかは聞かない。ましてや会っても何も話さない。おそらく母親は俺が世話をしなくてすむ歳になり内心清々しているのだろう。別に構わない。母親のことは今も変わらず好きではない。
だからこうして外に出ていると、家庭のことをあれこれ考えなくてすむのだ。
やがて俺は住宅街の狭い路地裏へ入る。そこには俺の部屋よりも狭く、なんともしがない公園がある。ここへ来るのはもう何回目だろうか。俺はよくこの場所に来ては、たった一つしかない遊具に座る。それは三人乗りほどの前後に揺れる犬の形をした遊具だ。だがそれで遊ぶわけでもなく、心を空っぽにしてただ時が過ぎてゆく様を見届けていた。公園ではあるがそのなりは一切華やかではなく殺風景でどこか寂しくて、きっとそういうところが俺の人生と似ているせいか居心地良く感じるのだ。どこよりも静かな空間で、やわらかい風が程よく頬を撫でる。この感覚だけは唯一この世界が俺の味方をしてくれているような気がした。そんなことを考えながらほのかに微睡んでゆく中、ふと空を見上げた。夜空には三日月が浮かんでいた。
「──月が綺麗だね」
俺の頭上から誰かがそう呟いた。咄嗟に俺は声の方を向いた。そこにいたのは。
「……誰…?」
優しく吹いた風にロングの髪がなびいた。その髪色はこの暗闇の中でもはっきりと分かるほど透き通った綺麗な茶髪だった。それはまるで月明かりを纏っているかのようだった。そこにいたのは俺と同い年くらいの少女だった。そいつは俺の身長より少し高い塀に難なく座っていた。俺が呆気に取られているとその少女は再度口を開いた。
「君は──月は好き?」
……いや、この状況意味が分からない。初対面の女の子に真上から自己紹介もなしに月が好きかを聞かれる。それはあまりにも未曾有の出来事だった。ここで仮に嫌いと答えた場合どうなるのだろうか。そもそもこの問いに答える必要はあるのだろうか。様々な疑問はあったが、俺は間髪を入れずに答えた。
「月は嫌いだ」
そう言い残し俺は公園を去った。特に初対面の女の子にへつらう気はなかったから正直に答えることにした。それでいい。もともとこういう性格だからしょうがない。
とは言ったものの勢いで公園を後にしてしまった。他に宛もないのでゆっくり家に戻るとしよう。
俺はずっと前から月が嫌いだった。俺にとって夜は隠れ場所のようなものだった。住宅街の明かりも消えてゆき、やがて暗闇に包まれる時間。そんな夜が、まるで醜く非道な俺を優しく匿ってくれるようなそんな気がするのだ。だからこそ、そんな穏やかな時間にまるで俺を照らし出し日の目を浴びさせるような、そんな月が嫌いだ。
──その夜、夢を見た。辺りは一面眩しく自分がどこで何をしているのかよく分からなかった。しかしその奥に一人の小さな女の子が微かに見えた。その子は下を向いていた。泣いているようだった。俺はその子を何もせずただ見ていた。その時、俺は何を思っていたのだろう。
*
それから二日経ち、夜が訪れ住宅街が静まり返った。俺はまたいつもの場所へ向かった。昨日はというと、久しぶりに母親が帰ってきた。そして、少し言い合いをしてしまった。母親は帰ってくるなりこう言ったのだ。
「いい加減大人なんだから仕事して自立してよ。いつまであんたの面倒を見なきゃいけないの?」
俺はすぐさまこう思った。面倒なんて見られていない。たまにあまり多くない食費を渡されるだけだ。俺は今十八歳。だがまともに学校にも行けず、人付き合いもこれっぽっちもできなかった人間が急に仕事して上手くいくはずがない。誰のせいで今こうなっていると思っているんだ。それから反論して少し言い合いになったが、すぐにお互い愛想を尽かし話すことをやめた。一年に何回かこのような言い合いが起きてしまう。だがお互いただ相手に対しての不満をぶつけるだけで分かり合おうともしない。故に解決なんてしない。このままで良いのだろうか。そんなことを考え公園に着いた。
するとそこには昨日の少女が当たり前かのように座っていた。
「おい、そこは俺の場所だ」
「知ってるよ」
…………。
なんなんだこいつ。俺がさらに追い討ちを掛けようとした刹那、少女は遊具の座っている一つ後ろの席に手を当てて、座ってと言わんばかりの顔をしていた。……仕方ない。俺は少女が座る席の後ろのさらにもう一つ後ろに横向きに座る。そこからは二人とも夜空を見ていた。会話は無かった。だがしばらくして少女は俺の方を見てこう言った。
「なんか、元気ない?」
夜空を見ながら俺は間を少し開けて答えた。
「まあな」
すると少女は言った。
「どうしたの?」
……
「……別に」
言っても分からないだろうし知らないやつに言う必要も無い。家の事情なんて当人にしか分からないものだ。それは俺自身が一番分かっている。すると少女は立ち上がり徐に振り返った。
「まぁ元気だしなよ! 日向人くん!」
「じゃあね!」
そう言い残し、早足で帰って行った。……ちょっと待て。なんで俺の名前知ってんだ…。
*
翌日、また夜が訪れ外に出た。相も変わらずいつもの場所へ向かった。道中、ぼーっと歩いていると目の前のコンビニから例の少女が出てきた。即座に目が合った。少女は驚いて立ち止まったが、すぐに我に返り腕に掛けている袋から大福を取り出した。
「あげる!」
よく見ると袋には大量の大福が入っていた。
「……いや、そうじゃなくて」
「俺の名前どこで知ったんだ?」
おれは少女から大福を受け取りながらそう言った。すると少女はこう言った。
「その大福、クリームが入ってるんだよ」
びっくりするほど答えになっていなかった。
それから俺たちは二人して同じ目的地へ向かった。その間どこへ向かっているかの確認は不要だった。そこに辿り着くと昨日と同じように座った。少女は袋から大福を取りだし食べようとしていた。今更だが俺は少女に疑問をぶつける事にした。
「お前、何者なんだ?」
「ナニモノって、タダモノだよ?」
「いやそういうことじゃなくて」
俺は気になっていたことを聞いた。
「何であの日俺に話しかけた?」
俺なら突然他人に話しかけるようなことは絶対にない。それにこいつは俺の名前を知っていた。ずっとこいつはよく分からないやつだった。
「…月が綺麗だったからだよ」
少女は恥ずかしそうにそう言った。だがそれは俺に話しかける理由にはならない。本当によく分からないやつだ。
「ねぇ、日向人くんは私の名前知ってる?」
唐突に少女が言った。
「知ってるわけない」
俺はそう答えた。何せ初めてあったのだから。
「そっか…」
思いのほか少女は少し悲しそうにしていた。俺はそれを疑問に感じた。名前を知らないのは当たり前のことだ。けれど、それに対し少し罪悪感を感じてしまっている自分を不思議に思った。不本意だが俺は聞くことにした。
「えーと…名前、教えてくれ」
すると僅かに少女から笑顔が戻った。
「私の名前は、古河美莉愛!」
「えっとー、りあ…でいいの?」
「あー違う違う! こがが名字でみりあが名前!」
「あー…」
少し難しい名前だった。
「じゃあ私はお腹がすいたから帰るね」
美莉愛はそう言い立ち上がると、大きく手を振りながら帰って行った。一人になった俺は貰った大福の封を開けた。そういや、あいつ大福食べてたのにお腹すいたって…。そんな瑣末な事を考えながら大福を食べる夜の空には、前より少し太った上弦の月が出ていた。
*
翌日二十二時頃、俺はまたいつもの場所へ向かった。普段昼間は何をしているかというと、大体は遅くに起きてただ適当に過ごしているだけだ。食料を買うために外へ出れば、明るい空に照らされ居心地が悪いような気がして嫌気がさす。そんなことを繰り返していると真っ当に生きられない自分にも嫌気がさすのだ。だからせめて夜は外に出て、この世界にいていいんだと自分を肯定したくなる。今夜も程よくぬるい風が俺の体を優しく包み込むように吹いている。
公園に着いた。その時俺は少し物寂しい気持ちになった。公園には誰もいなかった。俺は遊具の一番前の席に横向きで座った。しばらく経って次第にその物寂しさは抜けていった。元々俺はずっと独りでこうしていたじゃないか。むしろ独りの方が気が楽でずっと良い。閑寂な空気の中、何も考えずただ時が過ぎてゆくこの時間が好きだ。改めて夜の住宅街の静けさを体感した。
──何分経ったのだろう。ほのかに微睡んでいく中、ふと空を見上げようと上を見た。すると突然、隣の塀から足が出てきた。
「…えっ…」
やがてそこには塀に跨る美莉愛が現れた。美莉愛は慎重に足を上げ途端に軽々しく地面に飛び降りた。なんとも綺麗な着地だった。
「パンツ見た?」
…いや、そんなはずは無い。何故なら。
「お前ズボンじゃん」
「あ、そうだった」
笑いながらそう言って遊具の後ろの席に座った。彼女は本当に適当な人間だと思った。呆れるほどに。でも──何だかんだ今日もこいつと会った。俺は人が嫌いだった。昔から人間関係には恵まれず周りから目を伏せて生きてきたせいだ。しかし、最近は一人の少女と出会った。彼女の適当さは、何だか憎めない。
「今日ね、お昼にホットケーキ焼いたんだけどテレビが面白くて真っ黒に焦げちゃったの~。まじでフライパンの上にもう一個フライパン乗ってるかと思った」
何かと思えば会ってすぐ他愛もない話をしだした。まるで付き合いの長い友達に話すように。そしてなかなかに変な例えだった。
「そうか」
なんだかこいつが来てからこの場の心地よい閑寂さが一気に失われた気がした。
「やっぱ料理って難しいんだね」
そう言った美莉愛は何だか幸せそうだった。
「ていうか、何で塀を登ってきたんだよ」
そうだ。こいつの急すぎるトークで忘れていたがそこが気になっていたんだ。
「私の家、そこだから」
美莉愛はそう言って塀の先にある一軒家を指さした。それは、ここの住宅街にしてはそこまで新しくなく、オブラートに包んで言えば郷愁を感じる外観をしていた。
「でもお前、帰る時は塀を登らないだろ」
「それは高くて登れないからね。反対側はなんかごちゃごちゃしてるから登れるようになってるの!」
何だそれ。
「日向人くんはどこら辺に住んでるの?」
「……あっち側」
俺は自分の家のある方角を指さした。
「それじゃ全然わかんないし! どんな家に住んでるの?」
自分の住んでいる家は好きじゃない。だから、あまり答えたくなかった。
「そんなんどうでもいいだろ」
少し冷たく返した。しかし美莉愛は笑ってこう言った。
「そうだよね。こんな風に毎日家出するくらいだもんね」
別に家出だとは思っていない。とはいえ、家にいるのが嫌で夜遅くに外に出る。ある種家出みたいなものかもしれない。
「私も家にいるのが退屈で夜遅いのに外に出たくなるからさ」
一緒にするなと言いたいところだが彼女の家庭の事情など何も知らないのでやめておいた。
そんな話をしながら時折、冷たい風が路地裏の道を抜け俺たちへ吹いてくる。
「寒いな」
俺はそう呟いた。季節は夏の面影が失われ気付かないうちに秋へと移ろいでいたようだ。心地よかった風も少しずつ無情になってゆくような気がした。
「一枚だけじゃもう外出れないかぁ」
美莉愛はそう言った。二人ともシャツ一枚しか着ていなかった。
「このままいたら風邪引くから今日は帰ろっか」
美莉愛はそう言いながら立ち上がった。
「おう、じゃあな。」
俺がそう言うと、美莉愛は笑顔で手を振って、塀からではなく通路を回って帰って行った。俺はポケットに手を入れて、ゆっくり家に向かった。
──その夜、また夢を見た。辺り一面眩しくその光はまるで昼間の木漏れ日のような、あるいは真っ白なカーテンの隙間から漏れる窓明かりのように、穏やかで心地よい光だった。そこへ、また小さな女の子が現れた。その子はこちらに対して何か言っていた。その声は何故か遠くの方へ消えていってしまう。だがその時微かに聞こえた気がした。
「──君が……助けて……くれて………。」
やがて視界は真っ白になり、その子の姿は消えてゆく。
*
それから三日ほどが経った。その三日間はというと同じように夜に外へ出てはいつもの公園に行き、美莉愛に絡まれる日々だった。ただただ他愛のない話を聞き時間が過ぎてゆき、気づけばそれが当たり前になり始めているのかもしれない。ただ──悪くないと思った。最初はとても鬱陶しいやつだと思った。何だか元気で馴れ馴れしくて、人を好まない俺にとっては一番近づきたくないタイプとまで思っていた。だが、公園に辿り着きそこに美莉愛の姿がなかった時、確かに物寂しいと思ってしまっている自分がいることに、薄々気づいていたのだ。そして今日も夜が訪れ公園へ向かった。着くとそこには既に彼女がいた。
「先頭は俺の席だぞ」
「いいじゃーん」
相変わらずだ。
「ねぇねぇ! 明日だよ!」
美莉愛が突然そう言った。
「…何が?」
「明日のお昼前に皆既日食が見られるんだって!」
皆既日食か…。そんなこと興味も無かった。いつも同じような日常を繰り返しているだけの俺は、そういうものにも疎かった。
「日向人くんはその時間何してる?」
「んー、寝てる」
「…えっ…なんで!?」
何でって言われても。いつも起きるのは遅いので。
「早く起きて、一緒に見よ! 私ここにいるから。」
……。
「…分かったよ」
美莉愛はそれを聞いて嬉しそうにしていた。俺は早起きは好きじゃない。というか出来ない。満足するまで寝ていたいのに起きなければならないなんてそんな酷な話はないと思っていた。けれど、明日行けばもしかしたら俺の人生が良い方向に変わってゆくような、そんな気がしていた。確証は無い。それでも、最近は何だか少しずつ自分が変わっていっているような気がして、このままこの波に乗ってやってもいいと思ったのだ。
「じゃあ明日、待ってるからね」
美莉愛はそう言いながら立ち上がった。それから手を振りながらいつもより少し長めの笑顔を見せ帰って行った。俺はそれを見て少しばかり立ち尽くしていた。
*
翌日、俺は珍しくアラームをかけ早く起きた。正直寝不足ではあるがそんなことは言っていられない。早起きしたのにはちゃんと理由があるのだから。時刻は十時。俺は眠気覚ましにコーヒーを飲むことにした。ティーバックにお湯を注ぐ。そして、ふと俺は考えた。午前中から女の子と皆既日食を見に行くなんて、一か月前の俺では間違いなく想像すらしなかっただろう。それは俺の人生において明らかな変化だった。このまま俺は順調に変わっていけるかもしれない。そしていつか自分のことを好きになれる日が、もしかしたら来るかもしれない。俺はきっとそんな期待を胸に抱いていた。
───その時だった。体全身に強い立ちくらみのようなものが襲った。その矢先にコーヒーを入れたティーカップが勢いよくテーブルから転げ落ちた。これは……。
「地震だ…!」
揺れはすぐさま今までに無いほど強い揺れへ変わった。その瞬間、家の中の本棚が倒れだし、食器などあらゆるものが床へと落ちてゆく。俺は意識が遠のくほどのとてつもない恐怖を感じた。しかし咄嗟に体は動き、玄関へ向かい急いでドアを開けた。外に出るととてもじゃないが立っていられなかった。通路の手すりに必死に掴まって揺れを耐えた。その最中、町が悲鳴をあげているのがわかった。この町に住んでから始めて感じる、地面から伝わる重低音、体が張り裂けるような胸騒ぎ。この世の終末が訪れたような気分だった。どのくらいの時間揺れていたのだろうか。次第に揺れは落ち着いてゆく。アパートには今にも崩れそうなほど大きなヒビが入っていた。俺は途端に走り出した。
「…美莉愛……!」
俺はアパートを飛び出し住宅街に立つ。そこは…酷く変わり果てていた。当たり前のように並んでいた数々の家は、見るに堪えないほどに崩れていた。俺はしばらく立ち尽くしたがまた走り出した。俺は向かった。こんなどうしようも無い俺に希望を与えてくれた、俺を変えさせてくれたあの場所に。そして初めて出会ってたった十日ほどしか経っていない、まだよく知らない少女に俺は今とてつもなく会いたいのだ。
あの公園までは歩いて五分ほどだ。走って行けばすぐだろう。住宅街に入れば入るほど酷い光景が広がってゆく。大きな煙を上げ燃えている家もあり、どこからともなく悲鳴が聞こえてきたりもする。いつも、通り過ぎる度に犬小屋から出てきて吠えてきた憎い犬も、犬小屋ごと何処にあったかすら分からないくらいに町は変わり果てていた。本当に悪夢を見ているのではないかと思った。何とか地獄のような風景を抜け公園まであと少しのところだった──。ドンと大きな音が地面からなったのを合図にまた大きく揺れだした。俺はそれに足を取られ急に走れなくなる。それと同時にまた恐怖が襲いかかり、息切れと混ざり合い激しくむせ返った。俺は体を起こしていられなくなりその場に倒れた。意識が朦朧としてゆく中、空を見た。昼なのに夜みたいに暗かった。そうだ…皆既日食を見るんだった。真上を見上げると、そこにははっきりと満月にぴったり隠れた太陽があった。まるで、この悪夢から目を背けるように。
*
目が覚めるとそこは──いつもの公園だった。何故だかとても心地が良かった。いっそこのままもう一回眠ってしまおうかと思った。だが俺はすぐにすべてを思い出した。
「…美莉愛……」
「──日向人くん…?」
その声は俺がこの約十日間、嫌という程耳にしたやかましい声。その上、死に物狂いで追い求めた心地好く温かい声。──それは美莉愛の声だった。
「……みり…あ……?」
俺は声のする方に目を向けた。その光景は初めて美莉愛と出会った時と同じだった。暗闇の中でもはっきりと分かる透き通った綺麗な茶髪で、俺の背よりも少し高い塀に難なく座りながら穏やかな眼差しでこっちを見ていた。
気づけば俺の頬には、涙が伝っていた。
「何泣いてんの~」
美莉愛は笑いながらそう言って塀から飛び降り、着地した後俺の手を掴み体勢を立て直した。俺は涙すら拭わずに美莉愛に言う。
「生きていたんだな…」
美莉愛は、ただ笑った。
「無事でよかった……」
俺は心から安堵した。その時ふとあることに気づく。
「──家が…崩れてない…」
辺りを見渡すと、数々の住宅がいつもと何も変わらずに建ち並んでいた。まるであの悪夢がかき消されたかのように。いや、あれは──
夢だったんだ。
きっとそうだ。そうに違いない。だって、今こんなにも幸せで胸が高鳴っているのだから。
俺らはいつも通り遊具に座る。美莉愛は俺の一つ隣に座った。いつもなら必ず真ん中一つ空けて座っていたが、今はそうではないことに二人とも違和感を感じることは無い。それほどまでに俺らはかなり親密になっていた。ただ、こうしていると今にもお互いの体が触れ合いそうで少し鼓動が早くなる。
「なぁ、俺さ」
「なーに?」
「美莉愛に会えて良かった」
それは俺の心からそのまま出た言葉だった。こんなこと、誰かに言う時が来るなんて思っていただろうか。小恥ずかしくてキラキラしていてなんとも俺に似合わないセリフだろう。
「…ほんと?」
美莉愛は少し驚いていた。まさか俺がこんなことを言うなんて思ってもいなかったのかもしれない。だが俺のこの気持ちが嘘偽りないことは証明されている。何故なら体が張り裂けるほどの恐怖と絶望の中、あんなにも美莉愛のことを求めて走っていたのだから。あれが夢であっても、俺の気持ちだけは本当だ。そんな俺の真っ直ぐな目を見て美莉愛はだんだんと顔が赤くなってゆく。やがて目も合わせられなくなり、美莉愛は勢いよく立ち上がった。
「今日は…もう帰るから!」
美莉愛は振り返らずに帰って行った──。
俺は一人になるが、しばらく安堵の余韻に浸っていた。今夜はいつもより辺りが静かに感じた。ふと夜空を見上げると、そこには赤い満月が出ていた。
*
次の日、時刻は二十一時、俺はいつもより少し早めに家を出た。昼は暇すぎてどうにかなってしまいそうだ。とはいえ昼から美莉愛に会いに行くのはなんだか恥ずかしい気がして、結局大人しく夜を待つ事にした。外へ出ると前とは空気がまったく違く感じた。それはきっと季節の移ろいとかそういうものではなかった。俺はこれからが楽しみだ。これからもずっとこうして、美莉愛と──。
「おはよ!」
そんなことを思っていると引き寄せられるように彼女はやってきた。──そうだ。ずっと前から、こういう日々に憧れていたのかもしれない。
「なんでここにいるんだ? 公園までまだ歩くのに」
「この前家の方向教えてくれたでしょ? だからなんとなく来てみたの。そしたら会えちゃった!」
美莉愛は笑顔でそう言った。そこからは二人で公園へ歩いた。公園に着くと昨日と同じように座った。
「お腹すいたでしょ? これあげる」
美莉愛はそう言って上着のポケットから大福を取りだした。そういえば今日一日何も食べていなかったな。もともと少食な上、運動も全くしていないのでお腹が空くことが基本あまりない。
「ありがとう」
俺らは、二人で大福を食べながらお互いの話を始めた。
「私ね、子供の頃介護士になりたかったの」
「困ってる人を助けたくて、笑顔にしたくて、いつかそれを仕事に出来たらなぁって思って」
美莉愛は懐かしむようにそう言った。
「素敵だな」
俺は素直にそう思った。
「でもね、結局勉強とか自分には向いてないなと思って諦めて、違うのを目指したの」
「何を目指したんだ?」
「それはねー、アイドル!」
「介護士と全く違うじゃん」
俺は思わず笑ってしまった。
「おかしいよね~」
美莉愛も笑ってそう言った。
「でもアイドルも一応人を笑顔にする仕事じゃん? 結局人を幸せに出来たら何でも良かったのかも」
美莉愛は笑ってそう言った。相変わらず適当だが、そこには確かに美莉愛の性格が現れていた。心から人の幸せを願い、人に笑顔を与える。きっと彼女がどういう風に生きていこうと、そこに変わりは無いんだと俺は確信した。
「日向人くんは?」
「俺は…」
俺は今まで、将来の夢なんて考えたこともなかった。子供の頃はそんなこと考える暇もなく、家庭環境の事もありただ必死で生きていくことに精一杯だった。学校へ行かなくなってからは…本当に酷かった。将来への希望は一気に閉ざされ、夢を見ることすら許されないと思っていた。
「俺は……幸せになりたかった」
それは俺ですら気づかなかった、ずっと心の内に秘めていた唯一の願い。気づけば口に出してしまっていた。俺は我に返り慌てて言う。
「ご、ごめん。なんか変なこと言っちゃ──」
その時、俺の手に柔らかい温もりが重なった。美莉愛は俺の手を握っていた。その手は夜風で冷えていたはずなのにとても温かくて、俺よりひと回り小さな手なのに、優しく包み込むような安心感があり、なんだかとても心地よくて気づいたら俺は──泣いていた。
「日向人くん、泣いてるの?」
恥ずかしかった。凄く恥ずかしいけど心は幸せで満たされていた。こんなこと人生で初めてだった。美莉愛は俺の手を優しくさすって言った。
「いいんだよ、我慢しなくて」
美莉愛の優しさに、俺はとことん甘えてしまった。
「俺…本当に辛かった。こんなどうしようもない奴に育っちまって、でもどうしたら良いか…わかんなくて…」
それから俺は、過去のことや将来の不安など全て美莉愛に打ち明けた。まるで体に溜まっていた毒がすっと抜けていくように楽になっていった。美莉愛は俺が言ったことに対し何かを言うわけでもなく、ただ聞いてくれた。俺にとってはそれだけで充分で、それがどれほどありがたかっただろう。手から伝わるこの温もりが、俺が吐き出した憂いや痛み全てを浄化してくれているようだった。
それから一時間ほどこうしていた。俺の憂いはすっかり晴れ、そこには二人の温もりだけが残った。だが、いざ話し終えるとやがて二人は手を繋いでいるのが恥ずかしくなり、同時に手を離した。それから俺は立ち上がり言った。
「今日はありがとな。なんか甘えすぎたかも」
目を合わせるのも恥ずかしかった。
「ほんと日向人くんは泣き虫なんだからー」
美莉愛はからかうように言った。
「うるせーよ」
「ごめんごめ~ん!」
「でもね──私は、ずーっと日向人くんの味方だよ」
そう言った美莉愛の表情はまるで家族のような温かさで、どこまでも果てしなく優しかった。俺らはまた明日会うことを約束して公園を出た。──今日は随分恥を晒したな。男が涙を垂れ流し弱音を吐くなんて。普通だったら引かれてもおかしくない。それでも、今日のことはまったく後悔はしていない。
*
それから一日経ち、また俺たちは公園に集まる。
「それでね~、その駄菓子をいっぱい買っちゃって。」
「あんなの小さくて味がよく分からないだろ。」
「だから全部まとめて一気に食べるんだよ! 今度絶対やってみて。」
「俺普段からあんまり駄菓子食べないんだ」
「なんでよ~」
そんな他愛もない会話をする時間が何よりも幸せで、こんなにも早く時間が経つのが早いと感じたことは、今までで一度もなかっただろう。あっという間に夜は更けていき、日付が変わる前に俺たちはまた明日会う約束をして帰った。
──それから毎日、俺らは会い続け同じような日を繰り返した。だがそれでも飽きることはなく寧ろ幸せが増えていく日々だった。話は尽きることなく、だんだんとお互いを深く知っていくようになった。しかしそれと同時に、何故か俺は美莉愛のことをどこか懐かしく感じるようにもなった。
*
夢のような日々が過ぎて行くのを、月の欠けゆく様が示した。気づけば下弦の月が少し痩せ、三日月が近づいていた。月はあの悪夢以来、未だに赤いままだ。俺はそんなこと気にもならないほどに、美莉愛に惚れていた。あれから何日が経ったかなんて数える余裕すらないほどに、毎日が輝いていた。
今日も二人は公園に集う。いつものように隣り合わせで座り、俺らは自然に手を繋いだ。それほどまでにここ最近は距離が近くなった事を感じる日々だった。
「日向人くんの手は相変わらず温かいね」
美莉愛は顔を赤らめながら言った。
「やっぱり日向人くんは日向人くんだね」
「どういう事だよそれ」
俺は優しく笑ってそう言った。
「日向みたいに温かい日向人くんてことだよ」
美莉愛は俺の目を見て言った。
日向人──か…。俺はずっと前からこう思っていた。日向人なんて、全くもって俺に似合わない名前だと。太陽なんてうるさいくらいに眩しく、外にいると問答無用で照らしてくる。俺はそんなやつ嫌いだ。寧ろ俺みたいな人間は明るい所から逃げ、暗い所を好むタイプだ。そんなやつの名前が日向人って、おかしくて笑えてくる。
「ほんと、俺に似合わない名前だよな」
そう言うと、すぐに美莉愛は少し怒った顔をしてこう言った。
「そんなことないよ!」
「日向人くんは…私にとって太陽だよ」
そう言った美莉愛は少し強く俺の手を握る。俺が誰かにとっての太陽だなんて。そんなこと考えもしなかった。何故なら今まで愛されたことがなかったからだ。唯一の母親からもだ。でも、そんな俺が俺の大切な人にこれからずっと暖かな陽光を与えていけるなら、この先どんなに辛くてもその人のために何とか生きていけるような気がした。
「俺、これから頑張るよ」
どうしようもなく落ちこぼれだった俺が、希望を見出した瞬間だった。
「ほんと、少し前の俺からは考えられないな」
俺がそう言うと、美莉愛は徐に言った。
「私は、初めて会った時から日向人くんは太陽だったよ」
初めて会った時。俺は思い返した。公園に一人でいた時、美莉愛に初めて話しかけられたあの夜のことだろうか。それとも───。
「もう遅いし、帰ろっか」
美莉愛はそう言って立ち上がった。
「…おう…そうだな」
「日向人くん、またね!」
「じゃあ、また明日な」
お互い手を振ると、最後にその手を近づけ握りあった。手を離したその瞬間、二人の間に突き抜けるような風が吹いた。風は小さな枯葉や塵を巻き込んでいて俺は瞬時に目を瞑ってしまった。目を開けると、既にそこに美莉愛はいなかった。手の中の温もりが夜の冷たい空気に奪われ次第に消えてゆくのが、俺は何よりも寂しかった。
*
寂しい。その感情は昨夜から消えることは無かった。美莉愛に会えばすぐに冷えた心は温度を取り戻す。そう思っていた。しかしその夜、美莉愛は公園にいなかった。俺は座らずに立ったまま美莉愛を待つ。何となく、一人だけで座りたくなかったのだ。そこはもう既に二人の空間だった。どちらかが欠けてしまっては成立しない。なんとなくそんな気がしていたが、今この瞬間それを強く実感している。夜空に浮かぶ月は今夜も赤く、今にも消えそうなほどか細い三日月だった。俺はただその三日月を見ながらなすすべもなく立ち尽くしていた。一か月前までずっと独りだった俺が、耐えられなくなるほど独りを寂しく思うなんて。
「──日向人くん」
後ろから声が聞こえた。振り返ると美莉愛がいた。
「良かった。来なかったから心配した」
「うん……ごめんね!」
その時の美莉愛は、何だか元気がなかった。その笑顔は無理に作っているとすぐに分かった。俺らはいつものように遊具へと座る。
「何か…あったのか?」
「大丈夫だよ!」
俺は美莉愛の手を握った。俺が美莉愛にとっての太陽なのであればこういう時こそ、俺は優しく寄り添い温めてあげるべきだ。
「…ありがとう」
美莉愛は僅かではあるがやっと心からの笑顔を見せた。そして美莉愛はこう呟いた。
「このままずっと、日向人くんといられたらな…」
俺はその言葉にどこか違和感を感じた。何故ならそれはまるでその願いが叶わないかのような言い方だったからだ。そしてその違和感は昨日から俺が抱いていた寂しさと、妙に繋がっている気がした。俺はその気持ちを殺すようにこう言った。
「ずっと一緒にいよう。俺は美莉愛と一緒にいたい。」
すると美莉愛は笑顔でこういった。
「日向人くんは本当に優しくて、素敵だね」
その笑顔の中にはどこか遠くを見据えているような、あるいは心の真ん中に空白があるような、はっきりとせずとも確かにそこに哀愁を感じた。それは今にも消えそうなか細い三日月に似ていて、すぐにでも美莉愛はどこかに消えてしまうのでは無いか。そんな気がしていた。
「今日はこのまま、一緒にいないか…?」
俺は気づいたらそんなことを口にしていた。すると美莉愛は嬉しそうに言った。
「私もそうしたいと思ってた」
続けて美莉愛が言う。
「良かったら…今から…うちに来て」
美莉愛の家にあがるとそこは思っていたより、貧寒な見た目をしていた。
「あんまり綺麗じゃなくてごめん」
美莉愛は苦笑いをしながらそう言った。
「うち…片親でさ」
そう言う美莉愛に俺は親近感を感じた。もしかしたら俺たちは、似たもの同士だからこそこんなにも惹かれ合い仲良くなれたのかもしれない。寧ろ今までの俺の苦難や苦労の全ては、こうして美莉愛と繋がる為の過程だったのではないかと。そう思えるのなら、これまでの経験は少しも辛いことなんてない。そんな気がした。
今日は美莉愛が遅れたことで時刻はとっくに0時を回っていた。俺らは寝る準備を始め、一枚の布団の上に二人で座った。そこはいつもの冷たい夜風すらも二人を干渉することの無い、たった二人だけの温かい空間だった。俺らは眠るまで、ただひたすら話していた。それは俺ら二人のこれからのこと、未来の話だった。
「俺、今度美莉愛と一緒に出かけて見たい」
「いいねぇそれ」
「色んな場所に、美莉愛と行ってみたいな」
「日向人くんと一緒なら楽しそうだなぁ」
「あとさ、俺は学校には行けないけど放課後とかも遊んでみたい」
「じゃあ私が授業終わったらそのまま出かけよう」
俺は何よりも、美莉愛とのこれからを約束したかった。どこかへ消えてしまいそうな美莉愛を繋ぎ止める言葉を、ひたすら探していた。
「大人になっても、俺たちはこのまま…一緒にいられるよな」
「大人になった日向人くんは今よりかっこいいのかなぁ」
「どうだろうな」
俺らはこれからの話、それから他愛のない話まで、時間に縛られることなく話し続けた。気づけば二人にはだんだんと眠気が襲ってきて、布団の上に横になると俺は話している途中で眠ってしまった。
──その夜、また夢を見た。辺りは目が眩むほど眩しく、何となく暖かかった。そしてそこにはあの女の子がいた。女の子はこちらを見ていた。前に夢で見た時よりも随分近く、女の子は俺の目の前に立っていた。その姿は前より大分鮮明に見えていた。そしてその姿は──。
「…助けてくれて………ありがとう…」
「───私が…………ても………どうか…………」
「…………………」
*
翌朝、起きると窓から溢れる光に目が眩んだ。俺は寝惚けまなこをこすり、ゆっくりと目を開けた。
───そこに、美莉愛はいなかった。
まるで昨日あれほど楽しく話していたのが、嘘だったかのようだ。美莉愛と約束したたくさんの言葉は全部無力だったのだろうか。俺は込み上げてくる悲しみを全力で堪え、立ち上がった。俺は外へ出て美莉愛を探しに出た。この時俺はこうなることを薄々分かっていたのかもしれない。何となくだが気づいていた。美莉愛と仲を深めていくうちに、心のどこかで感じていた寂しさ。それが次第に増えていき、今この瞬間それがハッキリとした物に変わった気がした。けれどそのおかげで今は冷静でいられる。公園を過ぎ、住宅街に出て美莉愛を探し回った。まだ美莉愛に伝えたいことが沢山あった。昨日で最後なんてそんなのは絶対に嫌だ。俺の家の方面へ向かうことにした。美莉愛が大福をくれたコンビニ前や、美莉愛と歩いた住宅街の路地。今思えば、数々のあの時あの瞬間が、こんなにもかけがえの無い思い出になるなんてあの時は思っていなかった。俺の家の前や行ったことのない場所まであらゆる場所を探し回ったが美莉愛はいなかった。そして気づけば日は暮れていた。俺はいつもの公園へ戻ってきた。空を見上げてみると、そこにはどこを探しても月が見当たらなかった。月も消え、美莉愛もいなくなってしまった。俺は我慢していた悲しみやら絶望やら色んなものが混ざりあって込み上げてきて、耐えられなかった。俺は地面に膝を着いて嘆いた。
「………美莉愛……」
俺はその苦しみを抑えるように美莉愛の名前を呼んだ。その時───。
俺の背中にこれ以上ないほどの温もりが覆いかぶさった。
その温もりが何かはすぐに分かった。その温もりは後ろから俺の背中を抱きしめている。
「日向人くん、ごめん……」
美莉愛の声だった。
「…私ね………」
美莉愛の声は震えていた。
「……前の地震の時さ……」
俺はこの先を聞きたくなかった。聞いても絶対に受け入れられるはずがない。
「実は…あの時………私──」
俺は美莉愛がそれを言うより先に、抱きしめていた美莉愛の腕をはらい美莉愛の方を向いて、もう一度正面から強く抱きしめた。
「もう…言わなくていいから…」
そこからはただ二人で強く抱きしめ合った。もう二度と離れないと。その思いで、ただ抱きしめていた。
「俺は美莉愛がいたから変わることが出来た。美莉愛に出会わなければ…俺はまだどうしようもないダメ人間で最悪な日々を過ごしていたんだ。そんな俺に美莉愛はこんなにもたくさんの幸せを与えてくれた」
「だから…その幸せをこれからも返していきたいんだ…」
それは俺が本当に伝えたかった事だった。ゴミみたいな俺に、地獄のような日々に、大きな希望を与えてくれたのは紛れもなくたった一人の美莉愛だった。
「日向人くん……」
そして俺は叶わないと分かっていても、それを口にしてしまった。
「いなくならないでくれ…。ずっと俺と一緒にいてほしい…」
「日向人くんは私がいなくても大丈夫だよ」
「どうして……。俺は美莉愛がいないと何も出来ない…」
「日向人くんなら大丈夫」
美莉愛は優しくそう言った。それでも俺は最後まで美莉愛に甘えてしまう。
「どうしてだよ…。美莉愛…………」
「───私だって……ずっと日向人くんと一緒がいい…!」
その声は先程の優しさとは違って、堪えていた感情と共にその顔には涙が溢れていた。
「私…死にたくなかった………これから先ずっと日向人くんと一緒にいたいよ…」
「……美莉愛……」
しばらくして美莉愛は涙を拭うと俺にこう言った。
「日向人くんは…覚えてないかもしれないけど、先に幸せをくれたのは…日向人くんなんだよ?」
「先に……俺が……?」
「…うん!」
「私ね、小学校の頃いじめられてたの。貧乏だったから教材とか学校に必要なものを買って貰えなくて、そのせいでね」
「けどね、その時助けてくれたのが、日向人くんだったんだよ」
俺は学校へ行かなくなってから希望を失い、学校にいた時の記憶なんてまともに覚えていなかった。人に優しくしても報われることなんて無いと知ったその時から、もう何もかも覚えていても意味が無いと思い、記憶を閉ざしてしまったのだ。ただ、唯一微かに記憶に残るその姿は、眩しさの中写る小さな女の子の姿だった。幸せに恵まれない、自分とよく似た少女を微かに覚えていた。
「日向人くん、私の国語のノート持って帰ったでしょ?」
「…もう昔のこと過ぎて、覚えてないや」
「ふふ、いいんだよ。こうしてまた巡り会えたんだから」
俺は小さい頃、美莉愛に会っていた。しかも美莉愛のことを助けていたんだ。その時から俺は美莉愛にとっての太陽だったのかもしれない。
「日向人くん……助けてくれてありがとう」
美莉愛はもう取り乱すことなく、優しく俺に温もりを与えるようにそう言った。
「…美莉愛……」
「私…もう…すっごく幸せ…」
俺はその言葉を聞いて、覚悟を決めた。そして最後に美莉愛に伝えたい言葉を選んだ。その言葉はすぐ胸の中にあり、迷うことは無かった。
「──美莉愛、大好きだよ」
それを聞いた美莉愛は、今までで一番の笑顔を俺に見せた。その笑顔を最後に辺りは一面真っ白に染ってゆく。眩しさに包まれ鮮明だった美莉愛の姿は霞んで遠く離れていった────。
「──私がいなくなっても、どうか元気でね」
*
俺は目を覚ました。周りを見渡すと、そこは病室だった。俺が目を覚ますと看護師は驚いていた。約十五日間意識がなかったのだからそうなっても仕方ないだろう。どうやら俺は少し離れた町の病院にいるらしい。意識不明だったが怪我などはなかったため、目が覚めてからすぐに退院出来た。そして俺はすぐに分からされた。
──地震は夢なんかじゃなかった。
退院すると母親からすぐに連絡があった。この町にはしばらく住めないので祖母のいる実家に帰ってこいと。俺はそこへ帰る前に、
──必ず行かなければいけない場所があった。
電車に乗りしばらく歩いて、俺は半月ぶりに帰ってきた、この住宅街に。その様は…酷かった。家はほぼ全滅と言っていいほど派手に崩れていた。そこを歩いていると災害後の片付けなどをしているボランティアの人達がちらほら見えた。俺は真っ直ぐ美莉愛の家へ向かった。町は変わり果てていて道は曖昧だったが、美莉愛と歩いた記憶を頼りに歩いて向かった。そして辿り着くと、美莉愛の家は酷いくらいに倒壊していた。周りの家ごと一緒に崩れ、壊滅的な状態になっていた。俺は…分かっていた。分かっていたはずなのに。その場に泣き崩れてしまった。しばらく体が動かなかった。頭の中は真っ白になり、ただひたすら涙が流れた。こんなにも胸が苦しくなるなんて。あまりにもこの現実を受け止めきれなかった。もう生きていくことが嫌になるくらい辛かった。
「……美莉愛……」
もうどうにでもなれと思った。今の美莉愛のいない人生。それは俺が一か月前、美莉愛と出会う前の独りだった時なんかよりよっぽど辛かった。
「にいちゃん、大丈夫かい?」
横からそう声が聞こえた。片付け作業をしていたおじさんが俺を心配してくれていた。
「………はい…」
本当は全く大丈夫なんかじゃなかった。おじさんはそれを察して何も言わずにただ俺の背中をさすってくれた。
*
祖母のいる実家に帰ってから何日か経ち、俺はというと一向に前を向けないままだった。昼どころか、夜すらも外へ出ることがなくなり、完全に引きこもりになってしまった。ただ、祖母の実家に帰ったのは随分と久しぶりだった。おそらく小学生ぶりだろう。いつも住んでいるアパートとは違いこっちは棚やダンボールが多く雑然としていた。おそらくいつも住んでいるアパートは狭く、ものが置けないので邪魔なものを母親がこっちへ送っているんだろう。まあ、何もないよりかは随分マシだった。
ある日、祖母が俺にこう言った。
「久しぶりに来たんだから、色々見てごらん。ひなくんが昔持ってたものとか沢山入ってるから」
そして祖母は奥の部屋の押し入れを指さした。せっかくなので俺は見てみることにした。押し入れを開け収納箱を出してみると、そこには昔使っていた教材やら文房具が沢山でてきた。そこには、ボコボコにへこんだ鉛筆や、使い古しまん丸になった消しゴム、昔好きだった漫画のキャラクターのキーホルダーなど、この瞬間まで全く思い出すことの無かったものたちが、山ほど入っていた。さらに教科書やノートが沢山入っていた。教科書は何年も時が経ったにしてはやけに綺麗だった。おそらく勉強なんて全くしていなかったからだろう。それ故にノートも数えられるほどしか入ってなかった。俺は一冊ずつ懐かしみながら手に取っていった。すると、一冊見るからに汚いノートがあった。
──そのノートにはマジックペンで『バカ』やら『きえろ』やら『ブス』やら酷い言葉が沢山書かれていた。表紙は悪口で埋もれていて何のノートなのかすらも分からなかった。
俺はよく目を凝らしてその書かれた悪口の下に書いてあった文字を見つけた。
───『国語 4年2組 こがみりあ 』
俺はその時───全てを思い出した。当時の記憶を──。
**
それは俺が小学生の頃、学年は四年生になった頃だ。その学校は学校内のクラスでの移動教室が多く、算数の授業の度に教室を移動しなければならなかった。正直めんどくさかったが俺は授業開始に遅れないよう移動し、授業を受けた。まあ授業の内容はほとんど上の空だったのだが。そして途中から、ある異変が起こったのだ。俺はいつも通り一組から二組に移動すると、いつも俺が座っている席に、落書きがされていた。『バカ』『学校やめろ』など他にも色々書いてあった。俺は正直誰がこんなことをしようとどうでも良かったが、こんな机で授業を受けるのはなんとなく嫌だったので、綺麗に消しゴムで消すことにした。そして授業が終わり、俺はゆっくり教室に戻る準備をしていた。するとそこへ一人の女の子が現れた。おそらく俺が座っていた席の子だった。その子は透き通った綺麗な茶髪の女の子だった。初めて見た上、名前も知らないが俺はその子にこう言った。
「困ってんなら俺が助けるから」
俺は言い残した後すぐに教室を去った。
その日から移動教室の度、俺はその子の机に書かれた落書きを消し続けた。俺はその子のことはよく知らないが、何だかその子の恵まれない境遇が自分と似ている気がして少し気にかけていたのだ。そして授業が終わりその子が戻ってくると、その子は俺にほんの少し笑って見せた。俺は、それだけでいい事をしたと思えた。
ある日、またいつものように移動教室で俺はその子の席に座った。また相変わらず落書きをされている机を、使い古した小さな消しゴムで消していた。全て消し終えると、俺は机のお道具箱の中に、一冊のノートを見つけた。そのノートにも酷いことに沢山の落書きがされていた。俺は消しゴムで消そうとしたが書かれていた落書きはすべて油性のマジックだった。どうしたものかと考えていたその時、授業終わりのチャイムがなった。その子はすぐ教室に入ってきた。その時俺はその子にできるだけ落書きを見せたくないと思ったのだ。その子を悲しませたくない、助けてやりたい。その思いから、その子が席に戻る前にノートを俺の教科書の下に隠しそのまま持ち上げて教室に戻ろうとした。
するとその瞬間──。
「待って」
その子はこういった。俺はノートを持っているのがバレたと思い焦っていた。するとその子は続けてこういった。
「助けてくれて、ありがとう」
その子はぎこちなく、それでも柔らかい笑顔を見せた。
その日、学校から帰ると母は台所の前で頭を抱えていた。俺が近づくと母は俺を見てこういった。
「お前なんか産まなきゃ良かった」
*
あの震災からもう少しで一年が経つ。俺は今、コンビニでアルバイトをしている。正直人と話すことも慣れてないし、体力はこれっぽっちもなく、ミスばっかりして叱られる毎日だ。それでも俺に優しくしてくれる先輩もいる。仕事をすることが何から何まで初めてで、慣れるのにも精一杯だが何とか不祥事なくやれている。
俺はバイトが休みの日、夜八時台からある場所へ向かった。電車に数十分乗り、降りてから少し歩いた。そこへようやく見えてきたのは思い出の住宅街だった。ちょうど一年経った事もあり、被災者の遺族と思われる人達が何人かいた。そして復興は僅かながら進んでいた。俺は思い出を頼りに歩いた。そして辿り着いたのは美莉愛の家だ。俺はしばらく家の前に立っていた。崩れていた瓦礫などは片付けられていて少し綺麗になっていた。そして様々な記憶が頭の中を巡った。おそらくこのままここにいたら感情が溢れ出して抑えきれなくなりそうなので、俺はそこから去ることにした。そして去り際、俺は家の前にお供え花と彼女が大好きだった大福を置いた。
俺は公園へやってきた。そこにはあの時と何も変わらず遊具があった。俺はその遊具へ座った。静かすぎる空間に柔らかい風が体を包み込んだ。この公園だけはあの時と何一つ変わっていなかった。そのせいか塀の上には美莉愛が座っているような気がして、俺は塀を見上げた。そこには誰もいなかった。まあ分かっていた。それでも気づけば目には涙が溢れてしまっていた。閑寂な空気が余計に寂しく、俺は公園で一人、泣いてしまった。
「……美莉愛……」
ただ何も起こることなく時間だけが流れた。俺は泣き疲れて少し眠くなった。ゆっくりと夜空を見上げると、そこには綺麗な満月があった。その満月が何だか温かく心地よくて俺はうとうとと微睡んでいた。次第に視界はぼやけていく──。
──やがて辺り一面は眩しく、月明かりのような穏やかな白い光で溢れた。次第に前の方から女の子がやってきた。
俺はその子に言った。
「──幸せをくれてありがとう。俺は今も元気だよ」
すると少女は温かく柔らかい笑顔を見せた。
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