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日付を跨ぐ頃になって、風雨は一段と激しさを増していた。
二人は日本酒を酌み交わしていた。洋平は、酒は滅法強かった。滅多に酔わなかったし、たとえ酔っても醜態を見せるようなことは一度もなかった。
子供の頃より、祖父の晩酌に毎晩付き合わされ、小さなお猪口で日本酒を一杯ずつ嗜んでいたので下地ができていたこともあったろうが、何よりも彼が大学生時代に寄宿した寺院の住職の影響が大きかった。
その住職は五十代早々の若さで、我が国でも最大級を誇る宗派の大本山の貫主に抜擢されたほどの名高い高僧だった。ウメが精神修養になればと、洋平の懇願を受け入れ、永楽寺の住職を通じて頼み込み、洋平を預かってもらったという経緯なのだが、このことでウメは後々悔やむことになった。
洋平が住職の哲学、見識に感銘を受け、また彼自身も住職に気に入られたことから、
書生となって身の周りの世話をするうち、自立心と恵比寿水産よりもっと広い世界で活躍したいという野望が芽生え、結果的に恵比寿家の相続放棄を宣言することになったからだ。
恵比寿家の家族も、相続放棄の原因がこの住職との関わり以外であれば、決して容認することはなかったであろう。
大学在学中、住職を通じて様々な分野の人物と交流をし刺激を受けた洋平は、卒業後、さらなる見聞を広めるため、住職の推薦でフランスの大学に二年間留学した。
帰国後は大手情報処理会社でコンピューターエンジニアとして活躍し、二十八歳の若さで自らの会社を興した。
当初は順調に成長を遂げていたが、独立系企業の宿命なのか、長引く不況の影響を徐々に受け始め、資金繰りに窮するようになっていった。他に頼るところがなくなり、進退窮まった洋平は、虫の良い話だと気が引けながらも、里恵に度々金の無心をした経緯があった。
さて、その住職は大の酒好きで、酔うということを知らない酒豪だった。毎晩、日本酒を一升半も飲む師に付き合っているうち、しだいに洋平の酒量も増していった。
しかも相手は素面のままの師である。緊張を強いられた洋平に、酔うだけの精神的余裕など生まれるはずもなく、自然と強くなっていったという次第である。
二人の会話は高校時代に移っていた。
実は、共に松江高校に進学した二人は、三年生の一時期、交際していたことがあった。交際といっても、休日に映画を見たり、下校時に喫茶店で談笑したりするだけで、キスはおろか手を握ったことさえなかった。律子のアプローチに洋平が渋々応じただけのことであり、卒業を機に自然消滅した。
そのとき律子は、美鈴の幻影がまだ洋平の心を独占していることを痛感させられていた。彼女には、ほろ苦い思い出として胸に残っているのである。
「洋平君はどうなのよ。まだ、彼女が棲み付いているのかしら」
律子は絡むように言った。彼女も酒は強かったが、さすがに頬は紅を差したように赤みを帯びていた。
「彼女って?」
洋平は素知らぬ顔で訊き返した。
「またあ、惚けて」
律子は溜息混じりに言った。その口調に、洋平は失言したことに気づいた。
「その様子だと、図星らしいわね」
「そんなんやない。俺だって恋愛の一つや二つはしたさ」
「へえーどんな?」
「どんなって、言ってもなあ……」
洋平は気が進まなかった。
「私も話したんだから、洋平君も逃げないでよ」
律子は咎めるように言った。その糾弾するかのような眼差しに、洋平は口を開かざるを得なくなった。
洋平は大学三回生のとき、大学付近の喫茶店でアルバイトをしていた、初音という女子大生と恋愛したことがあった。アルバイトといっても、オーナーママの一人娘だったのだが、実を言うと、彼は初音より先にママに気に入られたのだった。
ママが抱えていた土地を巡るトラブルを解決したからなのだが、正確に言えば、洋平は自力で解決したのではない。祖父洋太郎が後援していた与党の有力議員の秘書に連絡を取り、裏で手を回してもらったのだ。
だが、細かな裏事情はわからなくとも、洋平の実家が相当な旧家であることを知ったママは、初音に洋平との交際を薦めた。母親の言いなりだった初音は、言われるままに洋平との交際を始めたのである。
「だけど、肝心の洋平君は、初音さんを気に入ったの」
「ま、まあな……」
「そうなんだ」
律子は伏し目がちになった。自分と別れたわずか数年後には、洋平の心から美鈴の幻影を追い払った女性が現れていたことになる。
律子は、洋平の心を奪った初音という女性が気になった。
「初音ちゃんって、どんな女性だったの」
「いや、うん。それが……」
洋平の煮え切らない様子に律子は直感した。
「もしかして、美鈴ちゃんに似てたんじゃないの」
「なんで、わかるんや」
洋平は目を丸くする。
やっぱり、と律子は嘆息した。
「そうじゃないと、洋平君が女性に惹かれるはずないもの」
「勘がええなあ。せやねん、外見は双子かと思うくらい瓜二つやった」
「やっぱりね」
「だけど、一年で別れた。性格はまるっきり違っていたからな」
洋平は弁解したつもりだったが、律子の気分は晴れなかった。
洋平の告白は二人を沈黙で覆ってしまった。洋平は気を紛らわすため、しきりにグラスを口に運んだ。
空になるグラスに何度目かの酒を注ぎ終えたとき、律子はすっと立ち上がった。
「私、シャワーを浴びてくる」
彼女の言葉が、気まずい空気を切り裂いた。
「シャワーって、ボイラーの油はあるんか」
「無いと思うけど、酔いを醒ますには水の方が良いわ」
そう言って律子は席を立った。
電気と水道は、この初盆が終わるまで親戚が肩代わりをして継続していたが、さぐがにボイラーの油までは給油していなかった。
彼女の姿が土間の奥に消えるのを見届けると、洋平は手酌を始めた。グラスに氷とレモン汁を入れて日本酒をロックで飲む。師に教わった飲み方であり、彼の一番の好みだった。
酒のつまみにと、律子が持参した重箱の蓋を開けたとき、洋平は思わず苦笑した。
筍があった。旬は春だが、保存していたのだろう。
洋平は隆夫の遺影に向って、
『お前のせいで、酷い目に遭わされたことがあったなあ』
と独り言を呟いた。
洋平の追憶は美鈴が現れるずっと前、二人が七歳の春に遡った。
二人は日本酒を酌み交わしていた。洋平は、酒は滅法強かった。滅多に酔わなかったし、たとえ酔っても醜態を見せるようなことは一度もなかった。
子供の頃より、祖父の晩酌に毎晩付き合わされ、小さなお猪口で日本酒を一杯ずつ嗜んでいたので下地ができていたこともあったろうが、何よりも彼が大学生時代に寄宿した寺院の住職の影響が大きかった。
その住職は五十代早々の若さで、我が国でも最大級を誇る宗派の大本山の貫主に抜擢されたほどの名高い高僧だった。ウメが精神修養になればと、洋平の懇願を受け入れ、永楽寺の住職を通じて頼み込み、洋平を預かってもらったという経緯なのだが、このことでウメは後々悔やむことになった。
洋平が住職の哲学、見識に感銘を受け、また彼自身も住職に気に入られたことから、
書生となって身の周りの世話をするうち、自立心と恵比寿水産よりもっと広い世界で活躍したいという野望が芽生え、結果的に恵比寿家の相続放棄を宣言することになったからだ。
恵比寿家の家族も、相続放棄の原因がこの住職との関わり以外であれば、決して容認することはなかったであろう。
大学在学中、住職を通じて様々な分野の人物と交流をし刺激を受けた洋平は、卒業後、さらなる見聞を広めるため、住職の推薦でフランスの大学に二年間留学した。
帰国後は大手情報処理会社でコンピューターエンジニアとして活躍し、二十八歳の若さで自らの会社を興した。
当初は順調に成長を遂げていたが、独立系企業の宿命なのか、長引く不況の影響を徐々に受け始め、資金繰りに窮するようになっていった。他に頼るところがなくなり、進退窮まった洋平は、虫の良い話だと気が引けながらも、里恵に度々金の無心をした経緯があった。
さて、その住職は大の酒好きで、酔うということを知らない酒豪だった。毎晩、日本酒を一升半も飲む師に付き合っているうち、しだいに洋平の酒量も増していった。
しかも相手は素面のままの師である。緊張を強いられた洋平に、酔うだけの精神的余裕など生まれるはずもなく、自然と強くなっていったという次第である。
二人の会話は高校時代に移っていた。
実は、共に松江高校に進学した二人は、三年生の一時期、交際していたことがあった。交際といっても、休日に映画を見たり、下校時に喫茶店で談笑したりするだけで、キスはおろか手を握ったことさえなかった。律子のアプローチに洋平が渋々応じただけのことであり、卒業を機に自然消滅した。
そのとき律子は、美鈴の幻影がまだ洋平の心を独占していることを痛感させられていた。彼女には、ほろ苦い思い出として胸に残っているのである。
「洋平君はどうなのよ。まだ、彼女が棲み付いているのかしら」
律子は絡むように言った。彼女も酒は強かったが、さすがに頬は紅を差したように赤みを帯びていた。
「彼女って?」
洋平は素知らぬ顔で訊き返した。
「またあ、惚けて」
律子は溜息混じりに言った。その口調に、洋平は失言したことに気づいた。
「その様子だと、図星らしいわね」
「そんなんやない。俺だって恋愛の一つや二つはしたさ」
「へえーどんな?」
「どんなって、言ってもなあ……」
洋平は気が進まなかった。
「私も話したんだから、洋平君も逃げないでよ」
律子は咎めるように言った。その糾弾するかのような眼差しに、洋平は口を開かざるを得なくなった。
洋平は大学三回生のとき、大学付近の喫茶店でアルバイトをしていた、初音という女子大生と恋愛したことがあった。アルバイトといっても、オーナーママの一人娘だったのだが、実を言うと、彼は初音より先にママに気に入られたのだった。
ママが抱えていた土地を巡るトラブルを解決したからなのだが、正確に言えば、洋平は自力で解決したのではない。祖父洋太郎が後援していた与党の有力議員の秘書に連絡を取り、裏で手を回してもらったのだ。
だが、細かな裏事情はわからなくとも、洋平の実家が相当な旧家であることを知ったママは、初音に洋平との交際を薦めた。母親の言いなりだった初音は、言われるままに洋平との交際を始めたのである。
「だけど、肝心の洋平君は、初音さんを気に入ったの」
「ま、まあな……」
「そうなんだ」
律子は伏し目がちになった。自分と別れたわずか数年後には、洋平の心から美鈴の幻影を追い払った女性が現れていたことになる。
律子は、洋平の心を奪った初音という女性が気になった。
「初音ちゃんって、どんな女性だったの」
「いや、うん。それが……」
洋平の煮え切らない様子に律子は直感した。
「もしかして、美鈴ちゃんに似てたんじゃないの」
「なんで、わかるんや」
洋平は目を丸くする。
やっぱり、と律子は嘆息した。
「そうじゃないと、洋平君が女性に惹かれるはずないもの」
「勘がええなあ。せやねん、外見は双子かと思うくらい瓜二つやった」
「やっぱりね」
「だけど、一年で別れた。性格はまるっきり違っていたからな」
洋平は弁解したつもりだったが、律子の気分は晴れなかった。
洋平の告白は二人を沈黙で覆ってしまった。洋平は気を紛らわすため、しきりにグラスを口に運んだ。
空になるグラスに何度目かの酒を注ぎ終えたとき、律子はすっと立ち上がった。
「私、シャワーを浴びてくる」
彼女の言葉が、気まずい空気を切り裂いた。
「シャワーって、ボイラーの油はあるんか」
「無いと思うけど、酔いを醒ますには水の方が良いわ」
そう言って律子は席を立った。
電気と水道は、この初盆が終わるまで親戚が肩代わりをして継続していたが、さぐがにボイラーの油までは給油していなかった。
彼女の姿が土間の奥に消えるのを見届けると、洋平は手酌を始めた。グラスに氷とレモン汁を入れて日本酒をロックで飲む。師に教わった飲み方であり、彼の一番の好みだった。
酒のつまみにと、律子が持参した重箱の蓋を開けたとき、洋平は思わず苦笑した。
筍があった。旬は春だが、保存していたのだろう。
洋平は隆夫の遺影に向って、
『お前のせいで、酷い目に遭わされたことがあったなあ』
と独り言を呟いた。
洋平の追憶は美鈴が現れるずっと前、二人が七歳の春に遡った。
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