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二人は無事に天辺まで辿り着いた。ちょうど水平線上の彼方より、白い太陽が顔を出し始めたところで、東の空から明るさが広がっていた。
「うわあ、ほんとに凄い。朝日だけじゃなくて、山の景色も綺麗だね」
恵比寿家は村の中央にあったため、ぐるりと周囲を一望できた。暗闇を抜けたばかりの山の木々は、深い緑から鮮やかな緑へと変わり始めていた。
「おら、気持ちが沈んだときは、いつもここに上がって来るだ。屋根の上に寝そべって広い空の中に雲の流れや、雲雀がのんびり飛んでいる様子を眺めちょうと、なんだか自分ががいに小さく思えてきて、くよくよしちょうことがバカらしくなってくるだ」
「へえー、こんなに恵まれている洋君でも、くよくよすることがあるんだ」
「そりゃあ、あるが」
「おうちはこの辺りの名士でお金持ちだし、家族からはとても可愛がられていて、しかもこんなに恵まれた自然の中で暮らしているのに?」
「鈴ちゃんには、そう見えるのかもしれんけんど、ええことばっかりではないけん」
「鈴には良くわからないけど、でも、それって贅沢な悩みじゃないの」
「そうかもしれんけんど、悩みは人それぞれじゃないだか。他人から見れば取るに足らんように見えても、本人しかわからんことってあると思うだが」
「そう言われるとそうかもね。でも、洋君でも悩むときがあるって知って、少し気分がすっきりした」
「なに、どげんこと?」
「だって、これで悩みも何もなかったら、洋君は腹が立つぐらい恵まれ過ぎだもの」
美鈴は、少し茶化すように言った。
――だが、あまり何もかも揃っているということは、後は失って行くことばかりのような気がする。最初は何もなくても、少しずつ自分の力で手に入れていく方が幸せなのかもしれない。
そう言おうとして洋平は口を噤んだ。自分の気持ちは、同じ立場にいる者にしかわからないと悟ったのである。
「鈴ちゃん。おらは、毎年ここから花火を見ちょうだが。ほんとだったら、今年の花火もここで鈴ちゃんと見ようと思っちょっただが」
洋平は話題を転じた。
「そっかあ、洋君は毎年ここから見てるんだね。ここだと、きっと特等席なんだろうなあ」
「うん。花火が、がいに近くに見えるよ。まるで、火の粉が降ってくるみたいで、思わず身体を捻って避けたりするだが。もちろん、ここまで振って来るはずはないけんど……。だいてが鈴ちゃんにも見せたかったなあ」
洋平の残念そうなに口ぶりに、美鈴も口惜しそうに言った。
「私も見たかったなあ。でも、蛍の方がもっと大事だしね……」
自分自身に言い聞かせているような彼女を見て、洋平は余計なことを言ってしまったという後悔した。
「鈴ちゃん、花火は毎年やるけん、間違いなく来年でも見れえだが。だいてが、鈴ちゃんの言うとおりで、蛍は自然のことだけん、いつどげんことになるかわからんけんな、今年のうちに見ちょかんとな」
洋平は精一杯の慰めの言葉を掛けた。
「そうだよね。花火は来年でも見れるよね。きっと見れるよね……」
美鈴は、何かに縋るように呟いた。
そして、未練を断ち切るかのように、
「お陽様にお願いしておこうっと」
と、朝日に向かって両手を合わせた。
その姿は見事なまでに大自然と調和し、声を掛けることすら憚られる厳粛な気が伝わってきた。洋平は、初めてキスをした丘でも夕日に向かって手を合わせていたことを思い出した。
――彼女は自分などより遥かに信心する心を持ち合わせている。
と強く思った。
皆が去ってから一時間も経ってはいなかった。
洋平は、玄関で女性の声がしたような気がした。
風の声か、と耳を澄ましていると、今度は戸を叩く音と共に、たしかに自分の名を呼んでいる声が聞えた。
洋平が急いで迎えに出ると、律子が手提げを持って立っていた。
「嵐の中を、どないしたんや。帰ったんやないのか」
――驚きと心配と喜び……。
洋平の口調は、彼の複雑な心境を端的に表していた。
「洋平君が一人じゃ寂しいと思って戻って来たのよ。はい、差し入れよ」
律子は、酒のつまみを手渡すと、
「積もる話もあるし、朝まで飲み明かしましょう」
とウインクをした。
「だがな……」
洋平の困惑した様子に、
「二人きりだと、なにかまずい事でもあるのかしら。洋平君、下心でもあるの」
と、律子は薄笑いをした。
「な、なんもないけど、それこそ悪い噂が立ったら、俺は大阪に戻るからええけど、そっちは迷惑やろ」
洋平は動揺を押し隠すように言った。
「全然、洋平君となら、むしろ歓迎よ……大丈夫よ、夜明け前には帰るから」
洋平は、十数年ぶりに会った律子に度肝を抜かれていた。内向的でおとなしかった彼女が積極的で快活な女性に変貌を遂げていたのである。
「洋平君、私の変わりように驚いた様子ね」
律子が見透かしたように言う。
「いや、そうでもない。高校時代に、その片鱗は感じていた」
二人は松江の名門進学校に通っていた。
「気に入らない?」
「そうでもない」
「良かった。じゃあ、飲みましょうか」
「君もかなり飲めるみたいやな」
「ええ。でも、酔っ払ったら介抱してね」
律子はグラスを差し出しながら、甘ったるい声で言った。
洋平は、酒ならぬ律子の色香にすっかり酔ってしまっていた。彼女は、美鈴が出現するまでとは全くの別人格になっている。詮無いことではあるが、彼女が最初からこのような性格であったなら、あれほど美鈴に惹かれただろうか。いや、そもそも美鈴と出会わなければ、彼女と同じ道を歩いたのかもしれないのだ。
そう思うと、洋平は胸にざわめきを覚えずにはいられなかった。彼にはずいぶんと久しい感情だった。
「うわあ、ほんとに凄い。朝日だけじゃなくて、山の景色も綺麗だね」
恵比寿家は村の中央にあったため、ぐるりと周囲を一望できた。暗闇を抜けたばかりの山の木々は、深い緑から鮮やかな緑へと変わり始めていた。
「おら、気持ちが沈んだときは、いつもここに上がって来るだ。屋根の上に寝そべって広い空の中に雲の流れや、雲雀がのんびり飛んでいる様子を眺めちょうと、なんだか自分ががいに小さく思えてきて、くよくよしちょうことがバカらしくなってくるだ」
「へえー、こんなに恵まれている洋君でも、くよくよすることがあるんだ」
「そりゃあ、あるが」
「おうちはこの辺りの名士でお金持ちだし、家族からはとても可愛がられていて、しかもこんなに恵まれた自然の中で暮らしているのに?」
「鈴ちゃんには、そう見えるのかもしれんけんど、ええことばっかりではないけん」
「鈴には良くわからないけど、でも、それって贅沢な悩みじゃないの」
「そうかもしれんけんど、悩みは人それぞれじゃないだか。他人から見れば取るに足らんように見えても、本人しかわからんことってあると思うだが」
「そう言われるとそうかもね。でも、洋君でも悩むときがあるって知って、少し気分がすっきりした」
「なに、どげんこと?」
「だって、これで悩みも何もなかったら、洋君は腹が立つぐらい恵まれ過ぎだもの」
美鈴は、少し茶化すように言った。
――だが、あまり何もかも揃っているということは、後は失って行くことばかりのような気がする。最初は何もなくても、少しずつ自分の力で手に入れていく方が幸せなのかもしれない。
そう言おうとして洋平は口を噤んだ。自分の気持ちは、同じ立場にいる者にしかわからないと悟ったのである。
「鈴ちゃん。おらは、毎年ここから花火を見ちょうだが。ほんとだったら、今年の花火もここで鈴ちゃんと見ようと思っちょっただが」
洋平は話題を転じた。
「そっかあ、洋君は毎年ここから見てるんだね。ここだと、きっと特等席なんだろうなあ」
「うん。花火が、がいに近くに見えるよ。まるで、火の粉が降ってくるみたいで、思わず身体を捻って避けたりするだが。もちろん、ここまで振って来るはずはないけんど……。だいてが鈴ちゃんにも見せたかったなあ」
洋平の残念そうなに口ぶりに、美鈴も口惜しそうに言った。
「私も見たかったなあ。でも、蛍の方がもっと大事だしね……」
自分自身に言い聞かせているような彼女を見て、洋平は余計なことを言ってしまったという後悔した。
「鈴ちゃん、花火は毎年やるけん、間違いなく来年でも見れえだが。だいてが、鈴ちゃんの言うとおりで、蛍は自然のことだけん、いつどげんことになるかわからんけんな、今年のうちに見ちょかんとな」
洋平は精一杯の慰めの言葉を掛けた。
「そうだよね。花火は来年でも見れるよね。きっと見れるよね……」
美鈴は、何かに縋るように呟いた。
そして、未練を断ち切るかのように、
「お陽様にお願いしておこうっと」
と、朝日に向かって両手を合わせた。
その姿は見事なまでに大自然と調和し、声を掛けることすら憚られる厳粛な気が伝わってきた。洋平は、初めてキスをした丘でも夕日に向かって手を合わせていたことを思い出した。
――彼女は自分などより遥かに信心する心を持ち合わせている。
と強く思った。
皆が去ってから一時間も経ってはいなかった。
洋平は、玄関で女性の声がしたような気がした。
風の声か、と耳を澄ましていると、今度は戸を叩く音と共に、たしかに自分の名を呼んでいる声が聞えた。
洋平が急いで迎えに出ると、律子が手提げを持って立っていた。
「嵐の中を、どないしたんや。帰ったんやないのか」
――驚きと心配と喜び……。
洋平の口調は、彼の複雑な心境を端的に表していた。
「洋平君が一人じゃ寂しいと思って戻って来たのよ。はい、差し入れよ」
律子は、酒のつまみを手渡すと、
「積もる話もあるし、朝まで飲み明かしましょう」
とウインクをした。
「だがな……」
洋平の困惑した様子に、
「二人きりだと、なにかまずい事でもあるのかしら。洋平君、下心でもあるの」
と、律子は薄笑いをした。
「な、なんもないけど、それこそ悪い噂が立ったら、俺は大阪に戻るからええけど、そっちは迷惑やろ」
洋平は動揺を押し隠すように言った。
「全然、洋平君となら、むしろ歓迎よ……大丈夫よ、夜明け前には帰るから」
洋平は、十数年ぶりに会った律子に度肝を抜かれていた。内向的でおとなしかった彼女が積極的で快活な女性に変貌を遂げていたのである。
「洋平君、私の変わりように驚いた様子ね」
律子が見透かしたように言う。
「いや、そうでもない。高校時代に、その片鱗は感じていた」
二人は松江の名門進学校に通っていた。
「気に入らない?」
「そうでもない」
「良かった。じゃあ、飲みましょうか」
「君もかなり飲めるみたいやな」
「ええ。でも、酔っ払ったら介抱してね」
律子はグラスを差し出しながら、甘ったるい声で言った。
洋平は、酒ならぬ律子の色香にすっかり酔ってしまっていた。彼女は、美鈴が出現するまでとは全くの別人格になっている。詮無いことではあるが、彼女が最初からこのような性格であったなら、あれほど美鈴に惹かれただろうか。いや、そもそも美鈴と出会わなければ、彼女と同じ道を歩いたのかもしれないのだ。
そう思うと、洋平は胸にざわめきを覚えずにはいられなかった。彼にはずいぶんと久しい感情だった。
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