鈴蛍

久遠

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 美鈴が急に押し黙った。
「鈴ちゃん。どげした。声が出なくなっただか」
 洋平が気遣っても美鈴は、その潤んだような瞳でただ洋平を見つめている。
 洋平はあまりの愛らしさに、
――キスしたい……。
 と、脳裏に不埒な考えが過った。
 そのときだった。
「いいよ」
 美鈴が微笑んだ。
「え?」
 洋平は心の中を覗かれたようで激しく目を泳がせた。
「キスしよう」
 それは一瞬にして、洋平の顔面を強張らせた。
 突拍子もない美鈴の言動に慣れてきた洋平も、さすがに身体が小刻みに震え、動揺の色を隠し切れなかった。目を剥いて横を見た洋平に、美鈴のおどけるような仕種が映り込んだ。
 洋平は、ただふざけているだけかもしれないと思い直し、黙っていた。
 すると、
「キスしよう」
 今度は真剣な眼差しだった。
 洋平は、臆面もなく言い放った彼女に戸惑った。
 キスなどしたことがない洋平が、いや高岡卓也との過ちを犯した彼が、そうした行為に畏怖を抱いていたからである。。
 もう一つ、別の理由もあった。   
 洋平の潔癖性である。
 洋平は、性に関して『決して興味本位にはならない』という、潔癖とも言える信念を持っていた。もっとも、はっきりと信念として自覚するのは、数年先のことであり、この頃は漠然とした素地が形作られていただけのことではあったが、これもまた卓也とのトラウマが生んだ副産物だった。
 ともかく自戒の意識に照らしてみれば、今の美鈴への思いが永遠に続く真実なのか、あるいは恋の熱に侵された仮初に過ぎないのか判断をしかねる状態で、性への一歩を踏み出すことに躊躇いがあったのである。
 だが、本能とは恐ろしいものである。
 そのような清純な観念とは裏腹に、洋平の胸は未知の世界への期待に激しい高鳴りを打ち続け、今にも張り裂けそうになっていた。胸の鼓動が、口の中で響いているかのような錯覚すら覚えていた。
 
 正直に言えば、全く期待していなかったわけではなかった。いつしか、心の片隅にそれとなく忍ばせていた淡い願望ではあったのだ。
 美鈴が発した、たった一言の小悪魔的な囁きに、芽吹いたばかりの高邁な精神は撹乱され、未だ脆弱でしかない理性は無残なまでに蹂躙されてしまった。
 そして、最後の砦であった畏怖心までもが、いとも簡単に駆逐されてしまったとき、歯止めのなくなった洋平の心は雪崩を打った。
 愛おしさと好奇心と、少しの性欲に背を押された洋平は、美鈴の息遣いが耳に届くほどに近づいた。
 彼女は目を閉じていた。洋平も目を閉じて、さらに顔を近づけてゆき、ついに唇と唇が触れ合った。
――甘い。とても甘い。
 と、洋平は感じた。
 と同時に、何とも言えぬ仄かな彼女の体臭が伝わってきて、歓喜が洋平を包み込む。
 ほんの束の間、宙に浮くような夢心地だったが、
「洋平、美鈴ちゃん、そろそろ家に帰るよ」
 祖母の声で我に戻された。その刹那、ふいに襲ってきたうしろめたさに、洋平は思わず一歩退いた。
 美鈴は、大胆さが一変して洋平の視線から逃れるように下を向いた。
 洋平には美鈴が顔を赤らめているのがわかった。彼女と同様、顔面に熱を帯びていた洋平は、
――彼女はとても勇気を出したのだろう。自分にはとうてい持ち得ない勇気だ。
 と深く思った。
 洋平は左手で拳を作り、美鈴の頬に触れた。気付いた美鈴が顔を上げると、洋平はその拳を自分の眼前に移した。美鈴は微笑しながら、コツンと自分の拳をぶつけた。
 夕焼けはさらに広がりを見せ、いつの間にか空全体が薄赤色をぼかしたような色に染まっていた。
 美鈴は拳を開き、山並みに姿を隠そうとしている夕陽に向かい手を合わせた。陽の反射のせいなのか、あるいはキスの余韻が残っていたのか、赤く染まった彼女の横顔が洋平の眼前に神々しく映し出されていた。
 静寂の中で、絶え間なく打ち寄せる波の轟きが、まるで洋平の血潮の流れの如くに、繰り返し繰り返し断崖を駆け上がってきていた。

 美鈴と初めてのキスを体験した洋平は、彼女に対する愛しさが一段と増してゆくのを感じていた。その反面、あまりに急速で刺激的な恋の成り行きに戸惑いがあったのも事実だった。洋平は、美鈴の大胆で積極的な行動に翻弄されながらも、初恋という導なき大海原を邁進していたのだった。
 そのうちに七夕を迎えた。
 この辺りでは旧暦で行事をしていた。七夕の行事と言って、特別なことをする訳でもないが、各々の家では山へ行って笹竹を二本切って戻り、願い事を書いた短冊を枝に結び、縁側の柱に括りつけた。
 恵比寿家は、『じゃいま』という所有する山で調達していた。毎年、親戚に依頼するのだが、今年は洋平と美鈴も同行することになった。
「鈴ちゃん、一度家に帰ってズボンと長袖のシャツに着替えて、長靴を履いて来てね」
「どうして? こんなに暑いのに……」
 洋平の注文に、美鈴は疑問を投げ掛けた。
 彼女は山に入るのも初めだった。それらが蚊をはじめ様々な虫に対する防備であること、笹で腕を切らないため、あるいは漆にかぶれないようにするためであること、また水辺にいる蝮に対する備えであることを知らなかった。
 三人は、夕方近くになり暑さがいくぶん和らいだ後に出掛けた。
 門を出て西に進み、墓地である丘の裾野を通って、さらに南西の方角に二百メートルほど歩いたところに小学校があった。校舎の西側に体育館が建っていて、裏手に水田が広がっていた。その水田のあぜ道を、さらに三百メートルほど西に進んだところにある山がじゃいまだった。
 辺り一帯は、今を盛りにと稲穂が緑の絨毯を敷き詰めたように成長している。中ほどまで歩みを進めると、山の麓の狭い休耕地には、空に向かって真っ直ぐに伸びている数十本のひまわりが、まるで彼らを歓迎するかのように、顔をこちらに向けていた。
 美鈴は、水辺で動き回っている様々な生物に興味を示し、いちいち声にして名前を言った。知らない生物を見つけると、洋平の方を向いて催促し、彼がそれらの名前を言うと、あたかも度忘れをしていたかのように肯く素振りを見せて復唱した。
 日が傾きつつある空には、早くも夥しい数の赤とんぼが飛び回っており、照り付ける夏の日差しの裏で、季節の変わり目が確実に近づいていることを知らせていた。
 赤とんぼは、洋平たちが無関心と見るや、頭を掠めるほどに低空飛行を繰り返し、中には平然と帽子や肩に止まろうと試みる挑戦的な輩もいて、美鈴が捕まえようと手を差し出すと、嘲るようにひらりとその手をかわした。彼女は初めての体験に、その都度歓声とも悲鳴ともつかない奇声を上げていた。
 赤とんぼの群れより、五メートルほど高い空には、おにやんまが悠然と飛行している。彼女は実物の大きさに驚き、洋平が『おにやんまは人の手の届くところには近づかないため、タモは使わず、トンボ釣りと言って、釣竿を使って捕まえるのだ』と言ってもなかなか信じなかった。
 洋平は、夕映えに照り輝く美鈴の横顔をじっと見つめていた。数日を経て、もはや初めて出会ったときの、透き通るような白い肌は消えうせ、見事な小麦色に変わっていた。知らぬ間に、美鈴はすっかり夏の少女に変身していたのだった。
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