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洋平は幸福の絶頂にいた。生涯において『最も幸せに満ちた日々』と言っても、決して大げさではないとさえ思っていた。
もちろん子供心にではあるが、洋平は初恋の成就という極めて情緒的な感情の発露だということを差し引いていた。
それからというもの、美鈴は毎日恵比寿家を訪れ、何をするのも何処へ行くのも一緒で、二人は片時も離れることがなかった。彼女はラジオ体操にも顔を出し、三食も恵比寿家で済ませるようになった。大工屋には、それこそ寝るためだけに帰っていたようなものだった。現在ではとても考えられないことだが、二十年以上も昔の田舎には、それだけ大らかな風潮があった。
背景に絶大な信用があった恵比寿家の存在も忘れてはならないが、いずれにせよ、これだけ恵比寿家で過ごすと、まるで家の子供になったようで、ウメや里恵などは、新しい孫か娘ができたみたいと喜んでいるほどだった。
二人は外出することも多くなった。海遊びや釣りはもちろんのこと、虫取りや畑仕事、小学校やお寺、神社にも出向いた。二人が、あまりに村のあちらこちらに顔を出すものだから、当然世間の目に触れることも多くなったが、二人の関係は幼い恋だったので、別に人に見られて気が咎めるようなことはなかった。
村人たちは、内心はいざ知らず、表向きは愛想良く接した。うっかり表立って良からぬ噂などを立て、それが洋太郎の耳にでも入ったりすれば、それこそどのような次第になるやもしれず、皆それを恐れて口にしなかったと思われた。
しかし、親戚の者たちは黙ってはいなかった。とくに父方のおばたちは、取越し苦労をしていたようで、さっそく行動となって表れた。
恵比寿家を訪ねて来て、美鈴を見掛けると、初めのうちは、
「あの娘さんは、どこの娘さん?」
と口々に訊ね、
「大工屋の秀次さんの娘さんですよ」
と、里恵から聞くと、
「ああ、秀次さんの娘さんか、そげんしても可愛らしいこと」
などと言って帰っていたが、そのうち何度来ても、その度に彼女を見掛けるうえ、二人が一緒に居るところを村のあちこちで目撃した、という話を度々耳にするものだから、里恵に詰め寄ったりすることもあった。
その日は、近所に住んでいる叔母の裕子が、何やら腹に意を含んだ面持ちで恵比寿家にやって来た。
「里枝義姉さん、今日は姉さんにひと言言わせてもらいますけんど、最近あの娘は、しょっちゅうこの家に来とるということじゃないですか。私も恵比寿に来る度に出会うけん、よう見かけるなあ、と思っていましたけんど、小夜子姉さんと話をしちょううちに、小夜子姉さんも、恵比寿に行く度に顔を見ちょうと言うじゃないですか。日にちを勘定すると、毎日来ちょうということになりますけんど、これは何か事情があってのことだかい?」
「別に、事情も何もああしぇんがの。本人同士が気に入っちょうだけのことだけん」
いきり立っている裕子に対して、里恵は軽く受け流した。
「義姉さん、そりゃあ、ちいと呑気すぎいしぇんかい。何か間違いがあったら、いったいどげんするつもりだかい」
「何の間違いがあるって言うだかい?」
「だけん、そげだ……。十二歳といっても、男と女だけん、何があるかわからんって言うのだが」
あははは……と里恵は口を大きく開けて笑った。
「裕子さん、そげんことを心配してわざわざごさったのかい。何も心配はいらんけん。二人はまだ子供だけん」
そう言うと、呆れ顔を仕舞い込んだ。
「だいてが、もし二人の間に何かありゃ、そんならそんで、洋平の許婚として、ゆくゆくはうちの嫁にもらったらええことですけん。美鈴ちゃんは、器量はええし、気立てもええし、さらに頭もええ。まさに文質彬彬だけん。大工屋さんの身内だけん家柄も文句ないでしょうが。第一、洋平が何かするとすりゃあ、それぐらいの覚悟をしちょうけん」
里恵は真顔でそう言い放った。
里恵は生来度胸があるというか、人を食ったようなところがあり、洋平は母のそういう一面は大好きだった。
里恵は苦労人だった。七人兄弟の第一子で、十四歳のとき、戦争で祖父を失ったため、二十一歳で父と結婚するまで、生計を立てるため外に働きに出ていた祖母に代わり、弟妹の面倒を良くみた。それだけでなく、暇を見つけては、漁港の肉体労働をもいとわなかったため、過労が祟って身体を壊したりもした。
十七歳のとき、洋一に見初められ求婚されたが、里恵は家柄の違いと、弟妹とのことを考え固辞し続けた。しかし、洋一の気持ちは何ら変わることがなかった。
里恵にしてみれば、自身が洋一との大恋愛の末に、障害を乗り越えて、恵比寿家に嫁いだということもあり、この余りにも幼なくはあるが、純粋な二人の恋を暖かく見守りたいという気持ちだったのかもしれない。
里恵のあまりに大胆な発言に胆を潰され、本気なのか冗談なのか見当が付かない裕子は、このまま里恵と話を続けても埒が明かないと思ったのか、今度は洋太郎にまで談判をした。
「お父さん、いったいどげんしたことなんでしょう。里枝姉さんに言っても、全く取り合ってもらえんし……二人であちこち出かけちょうというじゃありませんか。世間の目だってあるでしょうに……」
「世間の目だと、何か悪い噂でもあるだか?」
「いいえ、別に悪い噂などありゃあしませんけんど……村の者は心に思っちょったって、恵比寿を恐れて、絶対に口になんかしませんよ」
「言いたい奴がおったら、勝手に言わしちょけばええんじゃ」
「恵比寿はそげでええでしょうけど、大工屋さんはどげなんです?」
「万太郎さんが、三日と空けずに礼をしにござる。向こうも承知のことだ」
「本当に間違いがあったらどげするんです。そりゃもう、私は恵比寿の家に傷がつかんかと心配で心配で……」
だら(ばか)! と洋太郎は一喝した。
「わいはもう恵比寿の人間ではないんだぞ。わいは、この家の事より自分の家の事を心配せえ。ええか、将来この恵比寿の家は洋平が跡を継ぐんじゃ。洋平の好きなようにさせたらええ」
父の洋太郎にそうまで言われると、裕子もそれ以上は何も言えなかった。
洋太郎のつるつるに禿げ上がった頭に、口周りと顎に髭を蓄えている風貌は、まるで出家した戦国武将のようで、本人の意図するところではなかったが、相手を威圧してしまうところがあった。
洋太郎を良く知る者でさえ、稀に鋭い眼光で睨まれると、身が縮む思いになったということであるから、初対面の者ならば、その心境はいかばかりかであったか想像に難くはなかった。
だが、内実は義理人情に厚く、涙もろいところがあり、筋目を重んじ不義不正を決して許さない、正義の鎧を身に着けているような人だった。
洋平は三歳の頃から、隠居生活に入った祖父の薫陶を受けて育ったのだが、洋太郎は大概のことは、洋平の思うままにさせ、よほど人倫の道に外れたことをしなければ叱ることはなかった。
しかしそれは、決して放任主義ということではなく、洋平に対する愛情と信頼の表れであった。洋平も、洋太郎の思いを十分に心に受け止め、祖父あるいは恵比寿家の、名と誇りを傷つけまいと胆に銘じ、彼なりに応えてきたつもりだった。
叔母裕子の心配は洋平にも理解できた。だが言うまでもなく、彼女の心配するようなことに至ることなど、思いも寄らないことであった。
正直に言えば、高岡卓也との一件でもわかるように、性に対して全く興味が無い訳ではなかった。誰もがそうであるように、洋平もまた、全くの子供の時期を経て、思春期の入り口に立ち、今まさにその門を潜ろうとする時分であったからだ。
だがなにぶん、濁流の如く情報が氾濫し、性に関する刺激の多い都会とは違い、映画館どころか、一軒の本屋や喫茶店すら無い田舎だったので、そういう類の情報が皆無に等しく、精神は純真無垢の子供のままであり、性に関しては言えば、興味より畏怖の念の方が圧倒的に大きかったのである。
ともかく、洋平と美鈴はお盆が終わるとその先はどうであれ、一旦は離れ離れになるという,制約された短い時間の中で、何かに急かされるように、幼い恋を育んでいったのだった。
もちろん子供心にではあるが、洋平は初恋の成就という極めて情緒的な感情の発露だということを差し引いていた。
それからというもの、美鈴は毎日恵比寿家を訪れ、何をするのも何処へ行くのも一緒で、二人は片時も離れることがなかった。彼女はラジオ体操にも顔を出し、三食も恵比寿家で済ませるようになった。大工屋には、それこそ寝るためだけに帰っていたようなものだった。現在ではとても考えられないことだが、二十年以上も昔の田舎には、それだけ大らかな風潮があった。
背景に絶大な信用があった恵比寿家の存在も忘れてはならないが、いずれにせよ、これだけ恵比寿家で過ごすと、まるで家の子供になったようで、ウメや里恵などは、新しい孫か娘ができたみたいと喜んでいるほどだった。
二人は外出することも多くなった。海遊びや釣りはもちろんのこと、虫取りや畑仕事、小学校やお寺、神社にも出向いた。二人が、あまりに村のあちらこちらに顔を出すものだから、当然世間の目に触れることも多くなったが、二人の関係は幼い恋だったので、別に人に見られて気が咎めるようなことはなかった。
村人たちは、内心はいざ知らず、表向きは愛想良く接した。うっかり表立って良からぬ噂などを立て、それが洋太郎の耳にでも入ったりすれば、それこそどのような次第になるやもしれず、皆それを恐れて口にしなかったと思われた。
しかし、親戚の者たちは黙ってはいなかった。とくに父方のおばたちは、取越し苦労をしていたようで、さっそく行動となって表れた。
恵比寿家を訪ねて来て、美鈴を見掛けると、初めのうちは、
「あの娘さんは、どこの娘さん?」
と口々に訊ね、
「大工屋の秀次さんの娘さんですよ」
と、里恵から聞くと、
「ああ、秀次さんの娘さんか、そげんしても可愛らしいこと」
などと言って帰っていたが、そのうち何度来ても、その度に彼女を見掛けるうえ、二人が一緒に居るところを村のあちこちで目撃した、という話を度々耳にするものだから、里恵に詰め寄ったりすることもあった。
その日は、近所に住んでいる叔母の裕子が、何やら腹に意を含んだ面持ちで恵比寿家にやって来た。
「里枝義姉さん、今日は姉さんにひと言言わせてもらいますけんど、最近あの娘は、しょっちゅうこの家に来とるということじゃないですか。私も恵比寿に来る度に出会うけん、よう見かけるなあ、と思っていましたけんど、小夜子姉さんと話をしちょううちに、小夜子姉さんも、恵比寿に行く度に顔を見ちょうと言うじゃないですか。日にちを勘定すると、毎日来ちょうということになりますけんど、これは何か事情があってのことだかい?」
「別に、事情も何もああしぇんがの。本人同士が気に入っちょうだけのことだけん」
いきり立っている裕子に対して、里恵は軽く受け流した。
「義姉さん、そりゃあ、ちいと呑気すぎいしぇんかい。何か間違いがあったら、いったいどげんするつもりだかい」
「何の間違いがあるって言うだかい?」
「だけん、そげだ……。十二歳といっても、男と女だけん、何があるかわからんって言うのだが」
あははは……と里恵は口を大きく開けて笑った。
「裕子さん、そげんことを心配してわざわざごさったのかい。何も心配はいらんけん。二人はまだ子供だけん」
そう言うと、呆れ顔を仕舞い込んだ。
「だいてが、もし二人の間に何かありゃ、そんならそんで、洋平の許婚として、ゆくゆくはうちの嫁にもらったらええことですけん。美鈴ちゃんは、器量はええし、気立てもええし、さらに頭もええ。まさに文質彬彬だけん。大工屋さんの身内だけん家柄も文句ないでしょうが。第一、洋平が何かするとすりゃあ、それぐらいの覚悟をしちょうけん」
里恵は真顔でそう言い放った。
里恵は生来度胸があるというか、人を食ったようなところがあり、洋平は母のそういう一面は大好きだった。
里恵は苦労人だった。七人兄弟の第一子で、十四歳のとき、戦争で祖父を失ったため、二十一歳で父と結婚するまで、生計を立てるため外に働きに出ていた祖母に代わり、弟妹の面倒を良くみた。それだけでなく、暇を見つけては、漁港の肉体労働をもいとわなかったため、過労が祟って身体を壊したりもした。
十七歳のとき、洋一に見初められ求婚されたが、里恵は家柄の違いと、弟妹とのことを考え固辞し続けた。しかし、洋一の気持ちは何ら変わることがなかった。
里恵にしてみれば、自身が洋一との大恋愛の末に、障害を乗り越えて、恵比寿家に嫁いだということもあり、この余りにも幼なくはあるが、純粋な二人の恋を暖かく見守りたいという気持ちだったのかもしれない。
里恵のあまりに大胆な発言に胆を潰され、本気なのか冗談なのか見当が付かない裕子は、このまま里恵と話を続けても埒が明かないと思ったのか、今度は洋太郎にまで談判をした。
「お父さん、いったいどげんしたことなんでしょう。里枝姉さんに言っても、全く取り合ってもらえんし……二人であちこち出かけちょうというじゃありませんか。世間の目だってあるでしょうに……」
「世間の目だと、何か悪い噂でもあるだか?」
「いいえ、別に悪い噂などありゃあしませんけんど……村の者は心に思っちょったって、恵比寿を恐れて、絶対に口になんかしませんよ」
「言いたい奴がおったら、勝手に言わしちょけばええんじゃ」
「恵比寿はそげでええでしょうけど、大工屋さんはどげなんです?」
「万太郎さんが、三日と空けずに礼をしにござる。向こうも承知のことだ」
「本当に間違いがあったらどげするんです。そりゃもう、私は恵比寿の家に傷がつかんかと心配で心配で……」
だら(ばか)! と洋太郎は一喝した。
「わいはもう恵比寿の人間ではないんだぞ。わいは、この家の事より自分の家の事を心配せえ。ええか、将来この恵比寿の家は洋平が跡を継ぐんじゃ。洋平の好きなようにさせたらええ」
父の洋太郎にそうまで言われると、裕子もそれ以上は何も言えなかった。
洋太郎のつるつるに禿げ上がった頭に、口周りと顎に髭を蓄えている風貌は、まるで出家した戦国武将のようで、本人の意図するところではなかったが、相手を威圧してしまうところがあった。
洋太郎を良く知る者でさえ、稀に鋭い眼光で睨まれると、身が縮む思いになったということであるから、初対面の者ならば、その心境はいかばかりかであったか想像に難くはなかった。
だが、内実は義理人情に厚く、涙もろいところがあり、筋目を重んじ不義不正を決して許さない、正義の鎧を身に着けているような人だった。
洋平は三歳の頃から、隠居生活に入った祖父の薫陶を受けて育ったのだが、洋太郎は大概のことは、洋平の思うままにさせ、よほど人倫の道に外れたことをしなければ叱ることはなかった。
しかしそれは、決して放任主義ということではなく、洋平に対する愛情と信頼の表れであった。洋平も、洋太郎の思いを十分に心に受け止め、祖父あるいは恵比寿家の、名と誇りを傷つけまいと胆に銘じ、彼なりに応えてきたつもりだった。
叔母裕子の心配は洋平にも理解できた。だが言うまでもなく、彼女の心配するようなことに至ることなど、思いも寄らないことであった。
正直に言えば、高岡卓也との一件でもわかるように、性に対して全く興味が無い訳ではなかった。誰もがそうであるように、洋平もまた、全くの子供の時期を経て、思春期の入り口に立ち、今まさにその門を潜ろうとする時分であったからだ。
だがなにぶん、濁流の如く情報が氾濫し、性に関する刺激の多い都会とは違い、映画館どころか、一軒の本屋や喫茶店すら無い田舎だったので、そういう類の情報が皆無に等しく、精神は純真無垢の子供のままであり、性に関しては言えば、興味より畏怖の念の方が圧倒的に大きかったのである。
ともかく、洋平と美鈴はお盆が終わるとその先はどうであれ、一旦は離れ離れになるという,制約された短い時間の中で、何かに急かされるように、幼い恋を育んでいったのだった。
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