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ああ、青春の雄叫び
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慎吾は、約束の五十分も前に『プロローグ』に到着していた。
田舎道を走るバスには、どのようなアクシデントが起こるとも限らない、と用心して二便も早い便に乗り込んだ結果だった。
この二日間、慎吾はデートの計画ばかりを練っていた。プロローグで喫茶した後、レストランで昼食を取り、午後からは映画を見に行く。そして、夕方には宍道湖に沈む夕日を眺めながら、恋人気分に浸る……そんなことばかりを空想していた。
日曜日とあって、店内は若い男女のカップルばかりだった。
慎吾は彼女が現れたときの、皆の驚く顔を想像し、思わずほくそ笑んだ。きっと気味が悪いくらいに、にやけた顔をしていたに違いない。
慎吾は胸をときめかせながら美咲を待った。扉が開く音がする度に、ドキッとして目を遣った。
そして、約束の十分前、ついに桜井美咲が姿を現した。
扉を開けて中に入った途端、一瞬スポットライトが当たったように光が立ち籠もった。まるで天使が舞い降りたかのように神々しい。
慎吾は体温が数度上がった気がした。
美咲は慎吾を見つけると、柔らかな笑みを浮かべ、胸の前で遠慮がちに手を振った。
慎吾は目を爛々と輝かせた。お嬢様らしい白のワンピース姿という想像を見事に裏切り、赤い薔薇が際立つキャミソールとデニムのミニスカートだった。
どこにでもいる今時の女子高生といえばそれまでだが、それでも制服とは違い、一段と華やかで大人びていた。特にニスカートから伸びた純白の太腿が、慎吾の目に焼きついて離れない。
「お待たせしたかしら?」
彼女が椅子に座りながら、右手で長い髪を掻き分けると、ほのかに薔薇の香りが鼻に届いた。
「うん。ちょっとだけ」
「ごめんなさいね」
そう言った彼女の唇が薄いルージュで光っていた。良く見れば、頬も少し赤みを帯びている。彼女が大人びて見えたのは、薄化粧のせいもあったのだろう。
「と、とんでもない。桜井さんだって、十分も前に来たのだから、謝ることはないよ。僕が早過ぎただけだから……」
すっかり見惚れていた慎吾は、あわてて首を横に振った。
「ところで、津森君。私たち親しいお友達ですよね」
注文したアイスコーヒーを置いて店員が立ち去った後、彼女は神妙な顔つきで言った。
「えっ? ああ、友達だよ」
――僕たちは恋人同士ではないのか……。
慎吾は忸怩たる思いに駆られたが、如才なく相槌を打った。未だキスどころか手さえ繋いでいないのだ。親しい友達の域を脱していないと言われれば反論できない。
「そうでしたら、お願いがあるのですが……」
「なに? 僕にできることなら、なんでもするよ」
このとき、慎吾はヒーロー気取りで胸を叩いてしまった。だが、彼女は大物政治家の孫娘であり、成績もトップクラスの、つまり慎吾のような家柄も頭脳も劣る男が力になれることなど、おのずと決まっていたのだ。
慎吾は大きな勘違いしていることに、全く気づいていなかった。
「津森君って、北美保中学の出身でいらしたわね」
「そ、そうだけど、それがどうかした?」
意外な言葉に、慎吾は面を食らった。
「では……」
と、彼女は言い掛けて口籠った。
「なに? 遠慮しないで、言って」
胸を叩いてしまった手前、もはや後には引けなくなっていた。
「それでは、お言葉に甘えて……」
美咲が言葉を切って、一つ大きな息を吐いた。
「津森君は、理数科クラスの坂崎君をご存知ですわね」
「坂崎? 坂崎遼平のことかな」
「はい」
「彼なら知っているどころか、親友だよ」
と言った慎吾に嫌な予感が奔った。
「彼、現在(いま)恋人がいらっしゃるのかしら」
今度は胸に錐で突かれたような痛みを覚えた。
――まさか?
慎吾は全身の血の気が引いて行くのがわかった。
「今はいないと思うよ」
慎吾は抑揚のない声で言った。
「わあ、良かった」
美咲は少女のように喜びを露わにした。
その姿に慎吾はすべてを悟った。
自分がピエロだったと確信した。
まるで死の宣告を待つ心境だった。
慎吾は美咲の唇が動くのが怖かった。
「お願いというのは、私を坂崎君に紹介して頂きたいの」
美咲は赤らめた顔を隠すように俯く。
――はやり、そうだったか……。
後頭部をハンマーか何かで殴られたような衝撃だった。
潜在意識の中で、最も恐れていたことが現実となったのである。天使どころか、断崖から底無しの闇へ突き落す、魔女のごとき仕打ちだった。
そうであれば、小細工などせずに端からそう言えば、傷つくことはなかったのだ。
おそらく、彼女がいきなり坂崎遼平に交際を申し込んでも、彼は了承したに違いない。だが、もしかしたら遼平が自分のことを尻の軽い、はしたない女性だと誤解するかもしれない。
そのわずかな可能性を危惧した彼女は、慎吾を介することによって信用を担保しようとしたに違いない。
――さすがは、大物政治家の血を引いている孫娘だ。深謀遠慮はお得意といったところか。
慎吾は心の中で悪態を吐いたが、不思議なことに、彼女に対してそれ以上の恨みがましい気持ちは沸かなかった。
むしろ、
――僕はなんと愚かな人間だろう。
と自分自身を責めた。
慎吾は、杜甫の五言律詩『前出塞九首』を思い浮かべていた。有名な『将を射んと欲すればまず馬を射よ』の例えである。
――彼女は、僕とある程度親しくなっていれば頼みを断れないだろう、と踏んで近づいて来ていたのだ。それを勘違いするとは……いったい僕は、どれだけお目出度くできているのだろうか。
慎吾は、自身の愚かさにつくづく嫌気が差していた。
「わかった。明日の昼休みに紹介するよ」
慎吾は心の内を隠すように努めて冷静に言った。
「本当? わあー良かった。勇気を出してお願いした甲斐がありましたわ」
彼女は赤らんだ頬に満面の笑みを浮かべる。あまりにあからさまだ。
「その代わりと言っては失礼かもしれないけれど、津森君には私のお友達を紹介しますわ」
「君の友達?」
慎吾は面を食らった。この期に及んで何を言い出すのだと、さすがに怒りを少し覚えた。
「ええ、とても可愛い女性ですわよ」
美咲は自信有り気に言う。
慎吾はそれが鼻に付いた。彼女に悪気はないと思われたが、そのような手土産を用意してまで、坂崎遼平を紹介して欲しかったのか、と思うとやるせなくなった。
「それはお断りするよ」
慎吾はきっぱりと断った。
同姓の目から見た『可愛い』という言葉ほど当てにはならないものはないし、友人であれば尚更である。うっかり紹介などされて、断れない状態に追い込まれたりでもしたら、それこそ後悔の極みとなる。そして、なによりもわずかに残っていた慎吾の矜持がそれを許さなかった。
翌日の昼休み――。
慎吾は約束どおりに彼女を伴って、理数科クラスへ坂崎遼平を訪ねた。
あらかじめバスの中で伝えていたので、彼は教室にいた。
慎吾は美咲を廊下に待たせて、一人で中に入った。
「慎吾、僕に紹介したい女性(ひと)というのは、いったい誰なんだ?」
坂崎凌平は時間を惜しむ仕種をしたが、満更でもない顔をしている。
「今、廊下で待っている。さすがのお前でも驚くぞ」
慎吾はそう勿体付けて、彼を廊下に連れ出した。
「えっ?」
遼平も美咲の姿を見た途端、絶句した。
「遼平、彼女が桜井美咲さん。お前も知っているだろう」
「あ、ああ。知っているとも……」
遼平は目を丸くして言うと、
「しかし、なんでお前が……」
彼女と知り合いなのだ、という目を向けた。
慎吾はそれには答えず、
「桜井さん。彼が坂崎遼平です。じゃあ、僕はこれで失礼させてもらう……後は二人で、どうぞ」
と二人を置いて、教室に戻ろうとした。
そのときである。慎吾の心の中に異変が起こった。
突如、まるで沸々と煮え滾るマグマのように、逃げ場のない感情が突き上げて来た。
――どうして、いつもこうなのだ。いつも彼だけが良い思いをするのだ。たしかに彼は頭も良いし、スポーツもできる。背も高くハンサムで性格も良い。風采の上がらない僕より断然彼女にお似合いの男ではある。だが、本当にこれで良いのか? お前はこんなことを黙過するのか?
慎吾の胸中をこの世の不条理に対する言い知れぬ憤怒が席巻していった。
慎吾が初めて坂崎遼平を見たのは、小学校五年生のときだった。町内の小学校対抗サッカー大会で補欠だった慎吾は、ベンチに座り遼平のプレーを見ていた。
六年生に混じっても、花形のセンターフォワードに陣取った彼は、そのときから目立っていた。亜麻色の髪を靡かせて、颯爽と得点を重ね、母校を優勝に導いた。
慎吾は同い年でありながら、彼に強烈な憧れを抱いた。
中学校に進学してからは、常に遼平と行動を共にした。上級生の「ヤキ」から遼平を救ったことで、彼との仲が親密になったことも助長した。
遼平がテニス部に入れば、慎吾もテニス部に入った。彼が生徒会長に立候補したときには、議長に名乗りを上げた。
慎吾は遼平の行動原理を観察し、仕種や話し方まで真似た。
有体に言えば、慎吾は遼平に成りたかった。彼のように清清しく精錬で、包み込むようなやさしさを持った男に成りたかった。
振り返れば、それが慎吾にとっては不幸の始まりだったのかもしれない。
少なくとも、小学生までの慎吾は常に主役だった。島根半島の小さな漁村に生まれ育った慎吾は、幼少の頃から才気溢れる子供だった。祖父の慎太郎は近所の子供を集めて計算問題を解かせては、年長者よりも早く解いた慎吾を自慢して歩いた。
しかも家柄も申し分なかった。生家の大敷屋は代々の旧家で、現在は日本海水産という村の漁師たちを束ねている立場にある。父方の親戚には町議や神官職を務めている者もいるし、母方の祖父は中学校の校長まで務め上げていた。
慎吾はその名家の総領として後継の立場にあり、前途は洋々たるものである。
小学生までは主役だといったが、中学校でもそれほど凋落したわけではない。テストの成績は三番以内だったし、毎年五人程度しか進学できない湘北高校に合格した慎吾は、村人から秀才ともてはやされる特別な存在だった。
だが、その慎吾に『世の中には、上には上がいる』ということを思い知らせたのが坂崎遼平だった。生家こそ極平凡だったが、個人の能力、魅力は圧倒的に慎吾を凌駕した。
慎吾は遼平と出会い、己がただの『井の中の蛙』であったことを痛感し、生まれて初めて挫折感を味わったのだった。
ただ慎吾はそれでも良かった。遼平は悪い人間ではなかったし、慎吾は慎吾で彼なりの居場所に満足していたのである。
だが……と慎吾は思い直した。
――これだけは許せない。桜井美咲だけは譲ることができない。そもそも、僕が見つけた彼女なのだ。苦労を重ねてようやく見つけ出した彼女なのだ。それを鳶が油揚げをさらうように、あっさりと奪われて良いのか? 僕はただ指を銜えて見ているしかないのか? これまでも、決して満足していたわけではない。自分自身の心を裏切り、都合の良い言い訳を吹き込んでいただけなのだ。一発殴ってやりたい。そうでもしなければ、到底気持ちの収まりがつかない。
と慎吾は思った。
桜井美咲が坂崎遼平に寄せる想いは、誰にも止めることができない。それこそ彼女の自由である。それでも、すんなりと彼に譲ることはできないと慎吾は眉を吊り上げた。
欝々とした感情が限界点を超えた瞬間、慎吾は踵を返した。
「このやろう!」
怒声を上げながら、遼平に突進した。両眼は血走り、こめかみの血管が青白く浮き上がっている。
慎吾は、唖然とする遼平を床に押し倒すと、馬乗りになって一発殴った。
鼻から鮮血が飛び散り、顔が苦痛に歪んだ。
――ざまあみろ!
悶絶する遼平を見て、慎吾の体内に強烈な快感が奔った。それは、初めて桜井美咲の脹脛を見たときに少しも劣らないエクスタシーだった。
二発、三発……慎吾は無我夢中で遼平を殴った。
四発、五発……骨折した拳の痛みさえ心地良かった。
「きゃあー、津森君、止めて! 死んじゃう。彼、死んじゃう!」
顔面血だらけで白目を向いた遼平を目の当たりにした美咲は、絶叫した後、意識を失って倒れ込んだ。
彼女の悲鳴を聞きつけて、近くの教室から皆が駆けつけて来た。
だが、返り血を顔面に浴びながら、阿修羅の如く殴り続ける慎吾を止める者は誰もいなかった。勉強しか脳のない彼らは、慎吾の狂気に恐れ慄き、茫然と立ち竦むことしかできなかったのである。
――なぜ、お前なんだ。なぜ、お前ばかりが良い思いをするのだ。許せない。絶対許すものか……。
慎吾は、それまでの鬱憤を晴らすかのように、意識を失って微動だにしない遼平を夢中で殴り続けた。
「おい、慎吾。大丈夫か」
慎吾は、肩を揺さぶる聴き慣れた声を耳元で聞いた。
「邪魔をするな……」
肩を揺すって振り向くと、そこに坂崎遼平の顔があった。
――あれ? どういうことだ……。
慎吾は、キョロキョロと辺りを見回した。
バスの中だった。皆が失笑している。
「悪い夢でも見たのか、うなされていたぞ、慎吾」
遼平も呆れ顔である。
「夢? そうか、夢だったのか……」
慎吾は複雑な溜息を吐いた。
――心の奥底では、こいつを殴りたいほど嫉妬しているのだろうか。
慎吾にその自覚はなかったが、万一夢のような事態なったら、と思うと自信が揺らいだ。
顔を歪めながら窓の外に向けた慎吾の目に、心躍る景色が飛び込んできた。脹脛の彼女が歩いている付近の街並みである。
「遼平、今日は何日だ?」
「お前、まだ寝ぼけているのか。十五日だろうが」
「そうだ。今日は十五日だった……」
慎吾は苦笑いしながら呟いた。
五月十五日――。
まさしくその日は、彼女探しの初日だった。
外の景色を眺める慎吾に思わず笑みが浮かぶ。
愛しの彼女を取り戻したような気分だったのである。
田舎道を走るバスには、どのようなアクシデントが起こるとも限らない、と用心して二便も早い便に乗り込んだ結果だった。
この二日間、慎吾はデートの計画ばかりを練っていた。プロローグで喫茶した後、レストランで昼食を取り、午後からは映画を見に行く。そして、夕方には宍道湖に沈む夕日を眺めながら、恋人気分に浸る……そんなことばかりを空想していた。
日曜日とあって、店内は若い男女のカップルばかりだった。
慎吾は彼女が現れたときの、皆の驚く顔を想像し、思わずほくそ笑んだ。きっと気味が悪いくらいに、にやけた顔をしていたに違いない。
慎吾は胸をときめかせながら美咲を待った。扉が開く音がする度に、ドキッとして目を遣った。
そして、約束の十分前、ついに桜井美咲が姿を現した。
扉を開けて中に入った途端、一瞬スポットライトが当たったように光が立ち籠もった。まるで天使が舞い降りたかのように神々しい。
慎吾は体温が数度上がった気がした。
美咲は慎吾を見つけると、柔らかな笑みを浮かべ、胸の前で遠慮がちに手を振った。
慎吾は目を爛々と輝かせた。お嬢様らしい白のワンピース姿という想像を見事に裏切り、赤い薔薇が際立つキャミソールとデニムのミニスカートだった。
どこにでもいる今時の女子高生といえばそれまでだが、それでも制服とは違い、一段と華やかで大人びていた。特にニスカートから伸びた純白の太腿が、慎吾の目に焼きついて離れない。
「お待たせしたかしら?」
彼女が椅子に座りながら、右手で長い髪を掻き分けると、ほのかに薔薇の香りが鼻に届いた。
「うん。ちょっとだけ」
「ごめんなさいね」
そう言った彼女の唇が薄いルージュで光っていた。良く見れば、頬も少し赤みを帯びている。彼女が大人びて見えたのは、薄化粧のせいもあったのだろう。
「と、とんでもない。桜井さんだって、十分も前に来たのだから、謝ることはないよ。僕が早過ぎただけだから……」
すっかり見惚れていた慎吾は、あわてて首を横に振った。
「ところで、津森君。私たち親しいお友達ですよね」
注文したアイスコーヒーを置いて店員が立ち去った後、彼女は神妙な顔つきで言った。
「えっ? ああ、友達だよ」
――僕たちは恋人同士ではないのか……。
慎吾は忸怩たる思いに駆られたが、如才なく相槌を打った。未だキスどころか手さえ繋いでいないのだ。親しい友達の域を脱していないと言われれば反論できない。
「そうでしたら、お願いがあるのですが……」
「なに? 僕にできることなら、なんでもするよ」
このとき、慎吾はヒーロー気取りで胸を叩いてしまった。だが、彼女は大物政治家の孫娘であり、成績もトップクラスの、つまり慎吾のような家柄も頭脳も劣る男が力になれることなど、おのずと決まっていたのだ。
慎吾は大きな勘違いしていることに、全く気づいていなかった。
「津森君って、北美保中学の出身でいらしたわね」
「そ、そうだけど、それがどうかした?」
意外な言葉に、慎吾は面を食らった。
「では……」
と、彼女は言い掛けて口籠った。
「なに? 遠慮しないで、言って」
胸を叩いてしまった手前、もはや後には引けなくなっていた。
「それでは、お言葉に甘えて……」
美咲が言葉を切って、一つ大きな息を吐いた。
「津森君は、理数科クラスの坂崎君をご存知ですわね」
「坂崎? 坂崎遼平のことかな」
「はい」
「彼なら知っているどころか、親友だよ」
と言った慎吾に嫌な予感が奔った。
「彼、現在(いま)恋人がいらっしゃるのかしら」
今度は胸に錐で突かれたような痛みを覚えた。
――まさか?
慎吾は全身の血の気が引いて行くのがわかった。
「今はいないと思うよ」
慎吾は抑揚のない声で言った。
「わあ、良かった」
美咲は少女のように喜びを露わにした。
その姿に慎吾はすべてを悟った。
自分がピエロだったと確信した。
まるで死の宣告を待つ心境だった。
慎吾は美咲の唇が動くのが怖かった。
「お願いというのは、私を坂崎君に紹介して頂きたいの」
美咲は赤らめた顔を隠すように俯く。
――はやり、そうだったか……。
後頭部をハンマーか何かで殴られたような衝撃だった。
潜在意識の中で、最も恐れていたことが現実となったのである。天使どころか、断崖から底無しの闇へ突き落す、魔女のごとき仕打ちだった。
そうであれば、小細工などせずに端からそう言えば、傷つくことはなかったのだ。
おそらく、彼女がいきなり坂崎遼平に交際を申し込んでも、彼は了承したに違いない。だが、もしかしたら遼平が自分のことを尻の軽い、はしたない女性だと誤解するかもしれない。
そのわずかな可能性を危惧した彼女は、慎吾を介することによって信用を担保しようとしたに違いない。
――さすがは、大物政治家の血を引いている孫娘だ。深謀遠慮はお得意といったところか。
慎吾は心の中で悪態を吐いたが、不思議なことに、彼女に対してそれ以上の恨みがましい気持ちは沸かなかった。
むしろ、
――僕はなんと愚かな人間だろう。
と自分自身を責めた。
慎吾は、杜甫の五言律詩『前出塞九首』を思い浮かべていた。有名な『将を射んと欲すればまず馬を射よ』の例えである。
――彼女は、僕とある程度親しくなっていれば頼みを断れないだろう、と踏んで近づいて来ていたのだ。それを勘違いするとは……いったい僕は、どれだけお目出度くできているのだろうか。
慎吾は、自身の愚かさにつくづく嫌気が差していた。
「わかった。明日の昼休みに紹介するよ」
慎吾は心の内を隠すように努めて冷静に言った。
「本当? わあー良かった。勇気を出してお願いした甲斐がありましたわ」
彼女は赤らんだ頬に満面の笑みを浮かべる。あまりにあからさまだ。
「その代わりと言っては失礼かもしれないけれど、津森君には私のお友達を紹介しますわ」
「君の友達?」
慎吾は面を食らった。この期に及んで何を言い出すのだと、さすがに怒りを少し覚えた。
「ええ、とても可愛い女性ですわよ」
美咲は自信有り気に言う。
慎吾はそれが鼻に付いた。彼女に悪気はないと思われたが、そのような手土産を用意してまで、坂崎遼平を紹介して欲しかったのか、と思うとやるせなくなった。
「それはお断りするよ」
慎吾はきっぱりと断った。
同姓の目から見た『可愛い』という言葉ほど当てにはならないものはないし、友人であれば尚更である。うっかり紹介などされて、断れない状態に追い込まれたりでもしたら、それこそ後悔の極みとなる。そして、なによりもわずかに残っていた慎吾の矜持がそれを許さなかった。
翌日の昼休み――。
慎吾は約束どおりに彼女を伴って、理数科クラスへ坂崎遼平を訪ねた。
あらかじめバスの中で伝えていたので、彼は教室にいた。
慎吾は美咲を廊下に待たせて、一人で中に入った。
「慎吾、僕に紹介したい女性(ひと)というのは、いったい誰なんだ?」
坂崎凌平は時間を惜しむ仕種をしたが、満更でもない顔をしている。
「今、廊下で待っている。さすがのお前でも驚くぞ」
慎吾はそう勿体付けて、彼を廊下に連れ出した。
「えっ?」
遼平も美咲の姿を見た途端、絶句した。
「遼平、彼女が桜井美咲さん。お前も知っているだろう」
「あ、ああ。知っているとも……」
遼平は目を丸くして言うと、
「しかし、なんでお前が……」
彼女と知り合いなのだ、という目を向けた。
慎吾はそれには答えず、
「桜井さん。彼が坂崎遼平です。じゃあ、僕はこれで失礼させてもらう……後は二人で、どうぞ」
と二人を置いて、教室に戻ろうとした。
そのときである。慎吾の心の中に異変が起こった。
突如、まるで沸々と煮え滾るマグマのように、逃げ場のない感情が突き上げて来た。
――どうして、いつもこうなのだ。いつも彼だけが良い思いをするのだ。たしかに彼は頭も良いし、スポーツもできる。背も高くハンサムで性格も良い。風采の上がらない僕より断然彼女にお似合いの男ではある。だが、本当にこれで良いのか? お前はこんなことを黙過するのか?
慎吾の胸中をこの世の不条理に対する言い知れぬ憤怒が席巻していった。
慎吾が初めて坂崎遼平を見たのは、小学校五年生のときだった。町内の小学校対抗サッカー大会で補欠だった慎吾は、ベンチに座り遼平のプレーを見ていた。
六年生に混じっても、花形のセンターフォワードに陣取った彼は、そのときから目立っていた。亜麻色の髪を靡かせて、颯爽と得点を重ね、母校を優勝に導いた。
慎吾は同い年でありながら、彼に強烈な憧れを抱いた。
中学校に進学してからは、常に遼平と行動を共にした。上級生の「ヤキ」から遼平を救ったことで、彼との仲が親密になったことも助長した。
遼平がテニス部に入れば、慎吾もテニス部に入った。彼が生徒会長に立候補したときには、議長に名乗りを上げた。
慎吾は遼平の行動原理を観察し、仕種や話し方まで真似た。
有体に言えば、慎吾は遼平に成りたかった。彼のように清清しく精錬で、包み込むようなやさしさを持った男に成りたかった。
振り返れば、それが慎吾にとっては不幸の始まりだったのかもしれない。
少なくとも、小学生までの慎吾は常に主役だった。島根半島の小さな漁村に生まれ育った慎吾は、幼少の頃から才気溢れる子供だった。祖父の慎太郎は近所の子供を集めて計算問題を解かせては、年長者よりも早く解いた慎吾を自慢して歩いた。
しかも家柄も申し分なかった。生家の大敷屋は代々の旧家で、現在は日本海水産という村の漁師たちを束ねている立場にある。父方の親戚には町議や神官職を務めている者もいるし、母方の祖父は中学校の校長まで務め上げていた。
慎吾はその名家の総領として後継の立場にあり、前途は洋々たるものである。
小学生までは主役だといったが、中学校でもそれほど凋落したわけではない。テストの成績は三番以内だったし、毎年五人程度しか進学できない湘北高校に合格した慎吾は、村人から秀才ともてはやされる特別な存在だった。
だが、その慎吾に『世の中には、上には上がいる』ということを思い知らせたのが坂崎遼平だった。生家こそ極平凡だったが、個人の能力、魅力は圧倒的に慎吾を凌駕した。
慎吾は遼平と出会い、己がただの『井の中の蛙』であったことを痛感し、生まれて初めて挫折感を味わったのだった。
ただ慎吾はそれでも良かった。遼平は悪い人間ではなかったし、慎吾は慎吾で彼なりの居場所に満足していたのである。
だが……と慎吾は思い直した。
――これだけは許せない。桜井美咲だけは譲ることができない。そもそも、僕が見つけた彼女なのだ。苦労を重ねてようやく見つけ出した彼女なのだ。それを鳶が油揚げをさらうように、あっさりと奪われて良いのか? 僕はただ指を銜えて見ているしかないのか? これまでも、決して満足していたわけではない。自分自身の心を裏切り、都合の良い言い訳を吹き込んでいただけなのだ。一発殴ってやりたい。そうでもしなければ、到底気持ちの収まりがつかない。
と慎吾は思った。
桜井美咲が坂崎遼平に寄せる想いは、誰にも止めることができない。それこそ彼女の自由である。それでも、すんなりと彼に譲ることはできないと慎吾は眉を吊り上げた。
欝々とした感情が限界点を超えた瞬間、慎吾は踵を返した。
「このやろう!」
怒声を上げながら、遼平に突進した。両眼は血走り、こめかみの血管が青白く浮き上がっている。
慎吾は、唖然とする遼平を床に押し倒すと、馬乗りになって一発殴った。
鼻から鮮血が飛び散り、顔が苦痛に歪んだ。
――ざまあみろ!
悶絶する遼平を見て、慎吾の体内に強烈な快感が奔った。それは、初めて桜井美咲の脹脛を見たときに少しも劣らないエクスタシーだった。
二発、三発……慎吾は無我夢中で遼平を殴った。
四発、五発……骨折した拳の痛みさえ心地良かった。
「きゃあー、津森君、止めて! 死んじゃう。彼、死んじゃう!」
顔面血だらけで白目を向いた遼平を目の当たりにした美咲は、絶叫した後、意識を失って倒れ込んだ。
彼女の悲鳴を聞きつけて、近くの教室から皆が駆けつけて来た。
だが、返り血を顔面に浴びながら、阿修羅の如く殴り続ける慎吾を止める者は誰もいなかった。勉強しか脳のない彼らは、慎吾の狂気に恐れ慄き、茫然と立ち竦むことしかできなかったのである。
――なぜ、お前なんだ。なぜ、お前ばかりが良い思いをするのだ。許せない。絶対許すものか……。
慎吾は、それまでの鬱憤を晴らすかのように、意識を失って微動だにしない遼平を夢中で殴り続けた。
「おい、慎吾。大丈夫か」
慎吾は、肩を揺さぶる聴き慣れた声を耳元で聞いた。
「邪魔をするな……」
肩を揺すって振り向くと、そこに坂崎遼平の顔があった。
――あれ? どういうことだ……。
慎吾は、キョロキョロと辺りを見回した。
バスの中だった。皆が失笑している。
「悪い夢でも見たのか、うなされていたぞ、慎吾」
遼平も呆れ顔である。
「夢? そうか、夢だったのか……」
慎吾は複雑な溜息を吐いた。
――心の奥底では、こいつを殴りたいほど嫉妬しているのだろうか。
慎吾にその自覚はなかったが、万一夢のような事態なったら、と思うと自信が揺らいだ。
顔を歪めながら窓の外に向けた慎吾の目に、心躍る景色が飛び込んできた。脹脛の彼女が歩いている付近の街並みである。
「遼平、今日は何日だ?」
「お前、まだ寝ぼけているのか。十五日だろうが」
「そうだ。今日は十五日だった……」
慎吾は苦笑いしながら呟いた。
五月十五日――。
まさしくその日は、彼女探しの初日だった。
外の景色を眺める慎吾に思わず笑みが浮かぶ。
愛しの彼女を取り戻したような気分だったのである。
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楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
冬の水葬
束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。
凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。
高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。
美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
されど服飾師の夢を見る
雪華
青春
第6回ライト文芸大賞 奨励賞ありがとうございました!
――怖いと思ってしまった。自分がどの程度で、才能があるのかないのか、実力が試されることも、他人から評価されることも――
高校二年生の啓介には密かな夢があった。
「服飾デザイナーになりたい」
しかしそれはあまりにも高望みで無謀なことのように思え、挑戦する前から諦めていた。
それでも思いが断ち切れず、「少し見るだけ」のつもりで訪れた国内最高峰の服飾大学オープンカレッジ。
ひょんなことから、学園コンテストでショーモデルを務めることになった。
そこで目にしたのは、臆病で慎重で大胆で負けず嫌いな生徒たちが、己の才能を駆使してステージ上で競い合う姿。
それでもここは、まだ井戸の中だと先輩は言う――――
正解も不正解の判断も自分だけが頼りの世界。
才能のある者達が更に努力を積み重ねてしのぎを削る大きな海へ、船を出す事は出来るのだろうか。

坊主の誓い
S.H.L
青春
新任教師・高橋真由子は、生徒たちと共に挑む野球部設立の道で、かけがえのない絆と覚悟を手に入れていく。試合に勝てば坊主になるという約束を交わした真由子は、生徒たちの成長を見守りながら、自らも変わり始める。試合で勝利を掴んだその先に待つのは、髪を失うことで得る新たな自分。坊主という覚悟が、教師と生徒の絆をさらに深め、彼らの未来への新たな一歩を導く。青春の汗と涙、そして覚悟を描く感動の物語。
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