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第一章 宿命を背負う男
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光智は、入学してから二年もの間、素通りをしていたのも頷けると思った。およそ、客商売が流行るような場所ではないところにサンジェルマンは在ったのである。
――このような悪条件の場所に在りながら、五年以上も営業を続けてこれたということは、それだけこの店には惹き付ける何かが有るということになる。仮に、いや間違いなくそうであろうが、それが真司を虜にした恭子という女性の魅力によるものだとしたら……。
光智の心にも、恭子という女性に漠然とした興味が沸いていた。とはいえ、彼に真司のような純粋な恋心はない。良くも悪くも、光智はそのような純真な男ではなかった。他人の評価はともかく、少なくとも彼自身はそう思っていた。
「いらっしゃいませ」
真司がドアを開けると、二つの明るい声が飛んできた。
「あら結城君。今日はお友達とご一緒なのね」
正面奥の、カウンターの中にいた中年の女性が声を掛けた。四十路の年季の入った色気を纏っているこの女性は、この店のオーナーママ、つまり恭子という女性の母親だろう。
彼女の横で可愛らしい娘がコーヒーカップを洗っていたが、視線が合った瞬間、目を逸らした。
その内気そうな女の娘は恭子ではないと、光智は直感した。どこか暗い影を引きずっている印象は、真司の話から膨らませていたイメージと一致しなかったからだ。
――もう一人の可愛い娘……そうか、この娘が俺の当て馬だな。
真司の言葉を思い出しながら、 光智はさして広くはない店内をさりげなく見渡してみたが、それらしき女性は見当たらなかった。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
ママの勧めで、真司がカウンターの一番左端の椅子を空けて座った。続いて、彼が空けた椅子に光智が腰を下ろそうとした。
あっ……。
洗い物していた女の娘が光智の顔を見て一瞬驚いたような声を発し、そこは……と、何か言い掛けて止めた。
「えっ。ここは駄目なの?」
思いがけない反応に、光智は気まずそうに訊ねた。
気まずいというより、怒った表情に受け取ったのだろうか。彼女が言葉に詰まっていると、
「結構ですよ。どうぞお座り下さい」
と、ママが助け舟を出した。
そのときだった。光智の背中に、複数の射るような冷たい視線が刺さった。
――どうやら、この椅子には特別な意味があるらしい。
そう察した光智だったが、席を替えるつもりはなかった。このときは、二度とこの店に来ることはないと思っていたし、特別な意味を知りたいという遊び心が浮かんでいたからである。
「何になさいます?」
ママが何事もなかったように訊いた。
「キリマンジャロ」
と、真司が注文したのに対して、光智は自分の流儀を通した。
「ママさんのお薦めを……」
おっ、と目に力を込めた彼女の頬が緩んだ。
「では、特製のミックス・ジュースはいかがですか?」
「それをお願いします」
光智も納得の表情で答えた。
初めての店では、お薦めを注文するのが光智の流儀だった。それは何も、喫茶店やレストラン、バーといった飲食店に限ったことではなく、衣料品や備品、小物といった物までそのようにした。お薦めの品の価値で、その店の価値を判断するのである。
取引証券会社の担当者を決めるときも、一定期間相手の指示通りに売買を行い、その者の力量と性質を判断したうえで、眼鏡に適った者だけと本格的な取引を開始した。
ママはバナナやオレンジなど、ミックス・ジュースの材料を手早くまな板の上に揃えると軽く会釈した。
「初めまして。遅くなりましたが、この店のオーナーの上杉玲子(うえすぎれいこ)です。これからもご贔屓に願います。彼女はアルバイトの真奈美ちゃん。真奈ちゃんと呼んであげてね」
真奈美は、伏せ目勝ちにぺこりと頭を下げた。客商売なのにおかしな話だが、どうやら人見知りをする性格らしかった。彼女の顔を間近で見た光智は、どこかで会っているような気がしたが、口にはしなかった。
左目の黒子、いわゆる泣きぼくろが印象的な可愛い娘だったが、それでも際立って特徴のある顔立ちでもなかったので、別人と勘違いしているのかもしれないし、この店で働いているのなら、大学通りですれ違っていてもおかしくはない。
だが何より、『一度どこかで会っているね』などど、使い古された口説き文句を口にしたと誤解されたくなかったのである。
「初めまして、別当光智です」
光智は軽く会釈を返した。
「えっ。貴方が別当さんなの……」
玲子は、光智をじっと見つめた。大きく見開かれたその両眼は、尋常ならざる好奇の光を帯びている。
「何か?」
「い、いえ。ずいぶん前に、どなたからか貴方の名前を伺ったことがあったので……」
玲子があわてて取り繕ったとき、カチャとノブを回す音がして、カウンターの向こう側にある正面のドアが開いた。
――このような悪条件の場所に在りながら、五年以上も営業を続けてこれたということは、それだけこの店には惹き付ける何かが有るということになる。仮に、いや間違いなくそうであろうが、それが真司を虜にした恭子という女性の魅力によるものだとしたら……。
光智の心にも、恭子という女性に漠然とした興味が沸いていた。とはいえ、彼に真司のような純粋な恋心はない。良くも悪くも、光智はそのような純真な男ではなかった。他人の評価はともかく、少なくとも彼自身はそう思っていた。
「いらっしゃいませ」
真司がドアを開けると、二つの明るい声が飛んできた。
「あら結城君。今日はお友達とご一緒なのね」
正面奥の、カウンターの中にいた中年の女性が声を掛けた。四十路の年季の入った色気を纏っているこの女性は、この店のオーナーママ、つまり恭子という女性の母親だろう。
彼女の横で可愛らしい娘がコーヒーカップを洗っていたが、視線が合った瞬間、目を逸らした。
その内気そうな女の娘は恭子ではないと、光智は直感した。どこか暗い影を引きずっている印象は、真司の話から膨らませていたイメージと一致しなかったからだ。
――もう一人の可愛い娘……そうか、この娘が俺の当て馬だな。
真司の言葉を思い出しながら、 光智はさして広くはない店内をさりげなく見渡してみたが、それらしき女性は見当たらなかった。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
ママの勧めで、真司がカウンターの一番左端の椅子を空けて座った。続いて、彼が空けた椅子に光智が腰を下ろそうとした。
あっ……。
洗い物していた女の娘が光智の顔を見て一瞬驚いたような声を発し、そこは……と、何か言い掛けて止めた。
「えっ。ここは駄目なの?」
思いがけない反応に、光智は気まずそうに訊ねた。
気まずいというより、怒った表情に受け取ったのだろうか。彼女が言葉に詰まっていると、
「結構ですよ。どうぞお座り下さい」
と、ママが助け舟を出した。
そのときだった。光智の背中に、複数の射るような冷たい視線が刺さった。
――どうやら、この椅子には特別な意味があるらしい。
そう察した光智だったが、席を替えるつもりはなかった。このときは、二度とこの店に来ることはないと思っていたし、特別な意味を知りたいという遊び心が浮かんでいたからである。
「何になさいます?」
ママが何事もなかったように訊いた。
「キリマンジャロ」
と、真司が注文したのに対して、光智は自分の流儀を通した。
「ママさんのお薦めを……」
おっ、と目に力を込めた彼女の頬が緩んだ。
「では、特製のミックス・ジュースはいかがですか?」
「それをお願いします」
光智も納得の表情で答えた。
初めての店では、お薦めを注文するのが光智の流儀だった。それは何も、喫茶店やレストラン、バーといった飲食店に限ったことではなく、衣料品や備品、小物といった物までそのようにした。お薦めの品の価値で、その店の価値を判断するのである。
取引証券会社の担当者を決めるときも、一定期間相手の指示通りに売買を行い、その者の力量と性質を判断したうえで、眼鏡に適った者だけと本格的な取引を開始した。
ママはバナナやオレンジなど、ミックス・ジュースの材料を手早くまな板の上に揃えると軽く会釈した。
「初めまして。遅くなりましたが、この店のオーナーの上杉玲子(うえすぎれいこ)です。これからもご贔屓に願います。彼女はアルバイトの真奈美ちゃん。真奈ちゃんと呼んであげてね」
真奈美は、伏せ目勝ちにぺこりと頭を下げた。客商売なのにおかしな話だが、どうやら人見知りをする性格らしかった。彼女の顔を間近で見た光智は、どこかで会っているような気がしたが、口にはしなかった。
左目の黒子、いわゆる泣きぼくろが印象的な可愛い娘だったが、それでも際立って特徴のある顔立ちでもなかったので、別人と勘違いしているのかもしれないし、この店で働いているのなら、大学通りですれ違っていてもおかしくはない。
だが何より、『一度どこかで会っているね』などど、使い古された口説き文句を口にしたと誤解されたくなかったのである。
「初めまして、別当光智です」
光智は軽く会釈を返した。
「えっ。貴方が別当さんなの……」
玲子は、光智をじっと見つめた。大きく見開かれたその両眼は、尋常ならざる好奇の光を帯びている。
「何か?」
「い、いえ。ずいぶん前に、どなたからか貴方の名前を伺ったことがあったので……」
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