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春の断章 -Comedy-
幕間2-②
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どうやら康太は、完全にあちら側の人間になってしまったらしい。
サッカー部にはまったく顔を出さないようになり、学校に登校することもいつしかなくなってしまった。
数軒先の宮内家からは、時折近所迷惑極まりない言い争いが聞こえるようになり、向こうの母親が頻繁に俺の母親に相談しに来るようになった。
知っていることはないかと母に訊かれたが、俺は何も話さなかった。
事実、知らなかったのだ。
康太が突然変わってしまった理由も、彼が俺を連中に売った理由も、何もかも。
気づけば桜どころか、とっくに春は過ぎ去っていた。
次第に俺は、クラスでも孤立するようになった。
どこから漏れたかは知らないが、福島永輔が長嶋たちのグループに目をつけられているという噂が立ったのだ。
誰だって自分の身が可愛い。
仲が良かった新田や初瀬も、次第に俺によそよそしい態度を取るようになった。
最終的に彼らは俺を見捨て、いない者のように扱うようになった。
新田とは一年生の時に、同じクラスでたまたま仲が良くなった。
そして、その友人だった羽瀬とも関係が芽生えた。
たかだか一年ちょっとの友情と、自らの保身を天秤にかけられるはずがない。
仮に俺が彼らと同じ立場だったら、間違いなく同じことをしたはずだ。
俺は教室にいながら、そこにはいなかったのだ。
その中で一人だけ、俺を人間扱いしてくれる同級生がいた。
それが他ならぬ、日聖愛海という名の少女だった。
日聖とは一年生の頃から同じクラスで、ある出来事がきっかけで接点を持つようになった。
それは本当に偶然と言う他ない。
その出来事さえなければ、俺なんかが彼女と親しくなれていたはずがなかったのだ。
日聖は美人だった。
スタイルも良く、身長は百六十後半だった俺よりも五センチ低いぐらいだったと思う。
美醜の尺度なんて人それぞれだが、学校中を探しても彼女と並び立つ美貌は見つけられなかった。
それほどに日聖の容姿は素晴らしく、過ぎ去る人目を魅了した。
幼い頃から役者として活躍していて、その時は地元の劇団に所属していた。将来は女優として成功するだろうと、皆が噂していた。
そんな華やかな一面を持つ一方で、彼女は教室では成績優秀で謹厳実直な学級委員長として振る舞っていた。
しかし俺の知る日聖愛海は、そのイメージからはかけ離れた人物だった。
文学に精通していて、詩や戯曲の言葉を会話に引用する衒学趣味。
表の顔とは裏腹に随分と強かな一面を持ち、強情でたまに捩れ曲がった性根が露出する時がある、十分過ぎるほど変人の素養のある少女だった。
そんな日聖愛海を知っていたのは、自惚れじゃなければ、学校の中で俺一人だけだっただろう。
敬語じゃない砕けた口調で話しかけてくるのも、名前で呼びかけてくるのも俺だけだった。
俺たちには他の誰も知らない、二人だけの隠し事があった。
今はそれについて、詳しく語ることはしない。
だがその秘密が俺たちを結びつけ、その絆をより強固にしてくれた。
それは祝福であり、何より様々な意味で呪いだった。
彼女について、ここではただそれだけを知っていて欲しい。
だから内心では、俺を取り巻く状況が一変しても彼女が離れずにいてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
教室という狭過ぎる世界の中で、好意を寄せる彼女だけが微笑みかけてくれたのだ。
それだけで、どれだけ俺の心が満たされたか。
どれだけ心が救われたか、きっと彼女は知らなかっただろう。
休み時間に机に突っ伏して寝ている振りをしていると、日聖が女子たちの輪から外れて俺の前の席に座り、笑って他愛のない話題を振ってくれる。
そんな風景が何度かあった。
放課後に下校する回数も増えた。
職員室に駆け込んで、担任や生徒指導の教師に俺を助けてくれと直談判してくれた時さえあった。
しかし世の常として、それで何か事態が好転することはなかった。
日聖という存在は、俺の中で膨張し続けた。
その一方である日、彼女を重荷と感じる自分がいることに気づいた。
彼女が以前より、クラスで浮いてしまっているのは明白な事実だった。
クラスの鼻つまみ者となった俺に、変わらぬ態度を貫いていたのだから当然だ。
ただでさえ日聖はその容姿から勘違いをされやすいし、何かと危うい立場だったのだ。
そして、決定的な場面を目撃した。
たまたま日聖が教室を出払っていた時だった。
日聖と仲の良かったクラスの女子が、彼女の悪口を話しているのを聞いてしまったのだ。
長嶋の殴打以上に強い衝撃が、俺の脳を揺さぶった。
俺のために、彼女に苦しんで欲しくはなかった。
程なくして、俺は悩みに悩み抜いた末にある決断を下すことになる。
大気が身体に纏わりつくような熱気を湛え、耳をつんざくようなミンミンゼミの声がどこからともなく聞こえてくるような、七月のある日。
その日は梅雨明け早々、三十八度を超える猛暑日だったのをよく覚えている。
熱中症に注意という文句を耳にタコができるほど、天気予報や教師から聞かされた。
いつものように無気力に授業をこなし、一人で過ごす孤独な休み時間を切り抜ける。
放課後を告げるチャイムが鳴るのを聞き届け、俺は自然と溢れてきた唾を飲み込んだ。
いち早く帰り支度を終えて、廊下から出てきた日聖に「少しつき合ってくれないか。お前に言いたいことがあるんだ」と告げた。
彼女は突然の呼び出しにもかかわらず、「うん」と笑って頷いて、俺の背中に着いてきてくれた。
湿っぽい沈黙が流れる。
彼女と交わされる沈黙が、これほどむず痒く感じられたのは初めてだった。
人気のないプールの隣にある薄汚れた事務倉庫の裏で立ち止まる。
途中で一体何度、自問自答しただろうか。
それでも、一度選んだ決断を取り消すことを俺はしなかった。
決然とした面持ちで、ゆっくりと振り返る。
引き寄せられるように視線が重なり合い、俺と日聖はたっぷり十秒ほども見つめ合った。
「永輔くん?」
その瞳が綺麗だった。
暑さのせいか紅くにじんだ顔が美しかった。
彼女のことが好きだった。
これ以上、大切な存在は他にいない。
切に思った。
だから覚悟を固めて、日聖が何かを言う前に口を開いた。
「なあ、日聖。俺はお前に、これ以上ないほど感謝してるんだ。お前と一緒に過ごした時間は、楽しくて、嬉しくて、人生の中で一番輝いていた。……だけどさ」
以降の人生で、この一瞬ほど長く感じた瞬間はついぞなかった。
「これ以上、俺には構わないでくれ。正直、お前には迷惑してるんだ」
周囲の空気の色が一変した。
いたたまれずに日聖の顔を盗み見ると、彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。
そこまでは、俺の予想通りの反応だったのだろう。
だが日聖は、次の瞬間にはにこりと口元を緩ませていた。
「そっか、うん。分かったよ」
それだけだった。
彼女はたったそれだけで、あっさりと俺の要求に従った。
きっと俺は腹の底では、日聖が悲しげな表情を浮かべてくれると思っていたのだろう。
自分の要求を頑なに拒んでくれるとさえ考えていた。強情な彼女のことだからと、甘い幻想を抱いていた事実を否定できない。
蓋を開けてみれば、その期待はあっさり裏切られた。
いや、何を言っているんだ、お前は?
それこそが俺の求めたシナリオじゃないか。
だから彼女の態度に憤るのは、まったくもってお門違いだ。
違うだろう?
もし醜い本音を曝け出していいのなら、お前はこれからもずっと彼女に自分の隣にいて欲しかったんじゃないのか?
頭の中で繰り返される押し問答に、どうにかなりそうだった。
鎖のように絡まりあった、救いようのないジレンマだった。
そこに夏の苛烈な日光が容赦なく照りつけ、ひどい頭痛と立ちくらみが襲ってきた。
ワイシャツの下は洪水のような汗で濡れそぼって、気分が悪くなってきて胃酸が腹から込み上げてきた。
日聖の顔を直視することができず、俺は背中を向けて逃げるようにその場を去った。
サッカー部にはまったく顔を出さないようになり、学校に登校することもいつしかなくなってしまった。
数軒先の宮内家からは、時折近所迷惑極まりない言い争いが聞こえるようになり、向こうの母親が頻繁に俺の母親に相談しに来るようになった。
知っていることはないかと母に訊かれたが、俺は何も話さなかった。
事実、知らなかったのだ。
康太が突然変わってしまった理由も、彼が俺を連中に売った理由も、何もかも。
気づけば桜どころか、とっくに春は過ぎ去っていた。
次第に俺は、クラスでも孤立するようになった。
どこから漏れたかは知らないが、福島永輔が長嶋たちのグループに目をつけられているという噂が立ったのだ。
誰だって自分の身が可愛い。
仲が良かった新田や初瀬も、次第に俺によそよそしい態度を取るようになった。
最終的に彼らは俺を見捨て、いない者のように扱うようになった。
新田とは一年生の時に、同じクラスでたまたま仲が良くなった。
そして、その友人だった羽瀬とも関係が芽生えた。
たかだか一年ちょっとの友情と、自らの保身を天秤にかけられるはずがない。
仮に俺が彼らと同じ立場だったら、間違いなく同じことをしたはずだ。
俺は教室にいながら、そこにはいなかったのだ。
その中で一人だけ、俺を人間扱いしてくれる同級生がいた。
それが他ならぬ、日聖愛海という名の少女だった。
日聖とは一年生の頃から同じクラスで、ある出来事がきっかけで接点を持つようになった。
それは本当に偶然と言う他ない。
その出来事さえなければ、俺なんかが彼女と親しくなれていたはずがなかったのだ。
日聖は美人だった。
スタイルも良く、身長は百六十後半だった俺よりも五センチ低いぐらいだったと思う。
美醜の尺度なんて人それぞれだが、学校中を探しても彼女と並び立つ美貌は見つけられなかった。
それほどに日聖の容姿は素晴らしく、過ぎ去る人目を魅了した。
幼い頃から役者として活躍していて、その時は地元の劇団に所属していた。将来は女優として成功するだろうと、皆が噂していた。
そんな華やかな一面を持つ一方で、彼女は教室では成績優秀で謹厳実直な学級委員長として振る舞っていた。
しかし俺の知る日聖愛海は、そのイメージからはかけ離れた人物だった。
文学に精通していて、詩や戯曲の言葉を会話に引用する衒学趣味。
表の顔とは裏腹に随分と強かな一面を持ち、強情でたまに捩れ曲がった性根が露出する時がある、十分過ぎるほど変人の素養のある少女だった。
そんな日聖愛海を知っていたのは、自惚れじゃなければ、学校の中で俺一人だけだっただろう。
敬語じゃない砕けた口調で話しかけてくるのも、名前で呼びかけてくるのも俺だけだった。
俺たちには他の誰も知らない、二人だけの隠し事があった。
今はそれについて、詳しく語ることはしない。
だがその秘密が俺たちを結びつけ、その絆をより強固にしてくれた。
それは祝福であり、何より様々な意味で呪いだった。
彼女について、ここではただそれだけを知っていて欲しい。
だから内心では、俺を取り巻く状況が一変しても彼女が離れずにいてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
教室という狭過ぎる世界の中で、好意を寄せる彼女だけが微笑みかけてくれたのだ。
それだけで、どれだけ俺の心が満たされたか。
どれだけ心が救われたか、きっと彼女は知らなかっただろう。
休み時間に机に突っ伏して寝ている振りをしていると、日聖が女子たちの輪から外れて俺の前の席に座り、笑って他愛のない話題を振ってくれる。
そんな風景が何度かあった。
放課後に下校する回数も増えた。
職員室に駆け込んで、担任や生徒指導の教師に俺を助けてくれと直談判してくれた時さえあった。
しかし世の常として、それで何か事態が好転することはなかった。
日聖という存在は、俺の中で膨張し続けた。
その一方である日、彼女を重荷と感じる自分がいることに気づいた。
彼女が以前より、クラスで浮いてしまっているのは明白な事実だった。
クラスの鼻つまみ者となった俺に、変わらぬ態度を貫いていたのだから当然だ。
ただでさえ日聖はその容姿から勘違いをされやすいし、何かと危うい立場だったのだ。
そして、決定的な場面を目撃した。
たまたま日聖が教室を出払っていた時だった。
日聖と仲の良かったクラスの女子が、彼女の悪口を話しているのを聞いてしまったのだ。
長嶋の殴打以上に強い衝撃が、俺の脳を揺さぶった。
俺のために、彼女に苦しんで欲しくはなかった。
程なくして、俺は悩みに悩み抜いた末にある決断を下すことになる。
大気が身体に纏わりつくような熱気を湛え、耳をつんざくようなミンミンゼミの声がどこからともなく聞こえてくるような、七月のある日。
その日は梅雨明け早々、三十八度を超える猛暑日だったのをよく覚えている。
熱中症に注意という文句を耳にタコができるほど、天気予報や教師から聞かされた。
いつものように無気力に授業をこなし、一人で過ごす孤独な休み時間を切り抜ける。
放課後を告げるチャイムが鳴るのを聞き届け、俺は自然と溢れてきた唾を飲み込んだ。
いち早く帰り支度を終えて、廊下から出てきた日聖に「少しつき合ってくれないか。お前に言いたいことがあるんだ」と告げた。
彼女は突然の呼び出しにもかかわらず、「うん」と笑って頷いて、俺の背中に着いてきてくれた。
湿っぽい沈黙が流れる。
彼女と交わされる沈黙が、これほどむず痒く感じられたのは初めてだった。
人気のないプールの隣にある薄汚れた事務倉庫の裏で立ち止まる。
途中で一体何度、自問自答しただろうか。
それでも、一度選んだ決断を取り消すことを俺はしなかった。
決然とした面持ちで、ゆっくりと振り返る。
引き寄せられるように視線が重なり合い、俺と日聖はたっぷり十秒ほども見つめ合った。
「永輔くん?」
その瞳が綺麗だった。
暑さのせいか紅くにじんだ顔が美しかった。
彼女のことが好きだった。
これ以上、大切な存在は他にいない。
切に思った。
だから覚悟を固めて、日聖が何かを言う前に口を開いた。
「なあ、日聖。俺はお前に、これ以上ないほど感謝してるんだ。お前と一緒に過ごした時間は、楽しくて、嬉しくて、人生の中で一番輝いていた。……だけどさ」
以降の人生で、この一瞬ほど長く感じた瞬間はついぞなかった。
「これ以上、俺には構わないでくれ。正直、お前には迷惑してるんだ」
周囲の空気の色が一変した。
いたたまれずに日聖の顔を盗み見ると、彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。
そこまでは、俺の予想通りの反応だったのだろう。
だが日聖は、次の瞬間にはにこりと口元を緩ませていた。
「そっか、うん。分かったよ」
それだけだった。
彼女はたったそれだけで、あっさりと俺の要求に従った。
きっと俺は腹の底では、日聖が悲しげな表情を浮かべてくれると思っていたのだろう。
自分の要求を頑なに拒んでくれるとさえ考えていた。強情な彼女のことだからと、甘い幻想を抱いていた事実を否定できない。
蓋を開けてみれば、その期待はあっさり裏切られた。
いや、何を言っているんだ、お前は?
それこそが俺の求めたシナリオじゃないか。
だから彼女の態度に憤るのは、まったくもってお門違いだ。
違うだろう?
もし醜い本音を曝け出していいのなら、お前はこれからもずっと彼女に自分の隣にいて欲しかったんじゃないのか?
頭の中で繰り返される押し問答に、どうにかなりそうだった。
鎖のように絡まりあった、救いようのないジレンマだった。
そこに夏の苛烈な日光が容赦なく照りつけ、ひどい頭痛と立ちくらみが襲ってきた。
ワイシャツの下は洪水のような汗で濡れそぼって、気分が悪くなってきて胃酸が腹から込み上げてきた。
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