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本編第一章
ピアノレッスンのお時間です
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「では8ページ目の3小節目からもう一度」
「はい」
私は古い譜面がばらつかないよう、一度手で軽く抑えてから、鍵盤に指を置いた。そのまま小さく呼吸して、今教えてもらったことを心の中で反芻してからおもむろに弾き始める。ウォーレス教授は滅多なことでは途中で演奏をやめさせたりしない。最後まで聞いてから指導が始まる。口で言うこともあるが、大抵はピアノに近づき、私の傍らでお手本を軽く弾いてくれる。同じピアノ、同じ楽譜なのに、教授の指にかかると音が弾けるように流れていくから不思議だ。
継母の勧めもあって、私は週に一度、ウォーレス教授の元を訪れてはピアノを教えてもらっている。芸術院元教授の個別レッスンなんて本当に贅沢だし、引退したとはいえ教授の教えを乞いたい学生や音楽家は山のようにいる。そんな彼らを押し除けて、平々凡々の私がレッスンを受けるのはいたたまれない気持ちもあるのだが、継母も教授夫人も、そして継母たち曰く教授自身も、私の訪れを楽しみにしてくれている、らしい。祖父母が孫をかわいがる気持ちはさすがに私もわかるので、これも一種のボランティアと割り切ることにした。
かといって嫌々つきあっているわけでもない。前世も含め、人生で初めて習ったピアノは私の好みに合っていた。純粋に音楽が好きなのだ。私自身に才能がないのはわかっているけど、教授がとてつもなく上手で、普通の人の演奏とは全然違うことはわかる。それくらいの耳は備わっていたらしい。その話を継母にしたら、それはとても大きな才能だから、大事に伸ばしなさいと言われた。まぁ、私の才能というよりアンジェリカ本人の才能だろう。この身体、顔面偏差値だけでなく運動能力も芸術的才能も高いだなんて、神様特別ひいきすぎないか。自分に自分が嫉妬するってアホらしいからしないけど。
教授宅につくと私はピアノ室に誘導される。継母と教授夫人はその間まったりティータイムだ。教授は無口なタイプで、必要以上のことは一切話さない。だがレッスンの間は言葉に変わっての音楽が饒舌だし、彼の指導はとてもわかりやすくて、熱心に取り組んでいるうちに時間はあっという間に過ぎてしまう。初めてピアノレッスンをしたときの轍を踏まないよう、終わりの時間が近づくといつも教授夫人が迎えにきてくれる。そして私もお茶に合流し、主に女性陣たちで話の花を咲かせるのだ。
教授はその時間になるといつも深くソファに腰掛け、静かにお茶を啜っている。表情の変化も乏しく、彼をよく知らない人から見れば不機嫌に見えるかもしれない。けれど2回ほど会っただけで、私は彼の人となりが少し理解できた気がした。
「それじゃぁ、お父様、お母様、また来週きますね」
「えぇ。楽しみにしているわ。アンジェリカもまたね」
「はい」
帰り際、玄関まで教授夫妻が見送りに来てくれるのに応えながら、馬車に乗り込む準備をする。私はいつもこのとき、必ず教授に声をかけるようにしていた。
「ウォーレス教授、今日はありがとうございました。メヌエットの練習曲、ラストのところのお手本を聴かせてくださって、とてもわかりやすかったです。また練習してきますね」
「あぁ。その、なんだ、頑張りなさい」
教授は一瞬だけ目を合わせたかと思うとすぐに逸らす。けれどそれが私のことを嫌ってやっているわけではないことは、もうわかっていた。いつも私が訪れる前日はどことなくそわそわして、レッスン室にこもっては、子どもが弾く練習曲を何度も繰り返し弾いているらしい。私が使うのは継母の楽譜だが、教授は同じものを新しく用意し、私に教えるための書き込みもしているのだとか。すべて教授夫人からの情報だ。
そして私が帰ったあとの夕食では決まって私の話題になる。「今日はどこまで進んだ」「何がどれくらい弾けるようになった」「カトレアの癖がなかなか抜けない」などなど。いつもより饒舌になるのを夫人は笑顔で聞いているそうだ。
老夫婦2人の生活に、私という存在が彩りを添えているなら、それはいいことなのだろう。ただ、私としては胸に感じるものがないわけではない。自分が教授と血がつながっていないことはこの際もういい。そんなことは関係なく、彼らはアンジェリカのことを大事にしてくれている。そうではなく、教授の本来のやりがいに、私の実力が全然そぐわないのが気になるのだ。
彼は長年芸術院で教鞭をとってきた。芸術院はこの王国のエリートが集う学舎だ。合学倍率も高い。今王国で名を馳せているピアニストは全員が芸術院の出身だ。
そんな選りすぐりのエリートたちを指導してきた教授にとって、私という平々凡々な存在は退屈というか、物足りないのではないかと思うのだ。もちろん、私の来訪を楽しみにしてくれているという事実はあるだろうが、彼が本当にやる気を取り戻して、まだまだ人生を謳歌するには、私ではなく、もっと実力のある人に教える方が叶っている気がする。聴力の問題や足の問題があるから、大人相手の本格的なレッスンは難しいだろうが、せめて私と同じような子どもで、もっと将来性のある子がいれば、より適任な気がするのだけど。
私が王都にいるのはこの冬だけだ。春になれば、作物の植え付けが始まる前には王都を後にする。そうなったとき、教授のやりがいはどうなってしまうのだろう。また老夫婦2人の単調な生活に戻り、ピアノを弾かなくなってしまうのではないか。
(でもなぁ、じゃあ何ができるかっていうと、何も思いつかないんだよなぁ)
貸し馬車に揺られながら、私は楽譜の入ったバッグに視線を落とし考えてみるものの、妙案が浮かんでくることはなかった。
「はい」
私は古い譜面がばらつかないよう、一度手で軽く抑えてから、鍵盤に指を置いた。そのまま小さく呼吸して、今教えてもらったことを心の中で反芻してからおもむろに弾き始める。ウォーレス教授は滅多なことでは途中で演奏をやめさせたりしない。最後まで聞いてから指導が始まる。口で言うこともあるが、大抵はピアノに近づき、私の傍らでお手本を軽く弾いてくれる。同じピアノ、同じ楽譜なのに、教授の指にかかると音が弾けるように流れていくから不思議だ。
継母の勧めもあって、私は週に一度、ウォーレス教授の元を訪れてはピアノを教えてもらっている。芸術院元教授の個別レッスンなんて本当に贅沢だし、引退したとはいえ教授の教えを乞いたい学生や音楽家は山のようにいる。そんな彼らを押し除けて、平々凡々の私がレッスンを受けるのはいたたまれない気持ちもあるのだが、継母も教授夫人も、そして継母たち曰く教授自身も、私の訪れを楽しみにしてくれている、らしい。祖父母が孫をかわいがる気持ちはさすがに私もわかるので、これも一種のボランティアと割り切ることにした。
かといって嫌々つきあっているわけでもない。前世も含め、人生で初めて習ったピアノは私の好みに合っていた。純粋に音楽が好きなのだ。私自身に才能がないのはわかっているけど、教授がとてつもなく上手で、普通の人の演奏とは全然違うことはわかる。それくらいの耳は備わっていたらしい。その話を継母にしたら、それはとても大きな才能だから、大事に伸ばしなさいと言われた。まぁ、私の才能というよりアンジェリカ本人の才能だろう。この身体、顔面偏差値だけでなく運動能力も芸術的才能も高いだなんて、神様特別ひいきすぎないか。自分に自分が嫉妬するってアホらしいからしないけど。
教授宅につくと私はピアノ室に誘導される。継母と教授夫人はその間まったりティータイムだ。教授は無口なタイプで、必要以上のことは一切話さない。だがレッスンの間は言葉に変わっての音楽が饒舌だし、彼の指導はとてもわかりやすくて、熱心に取り組んでいるうちに時間はあっという間に過ぎてしまう。初めてピアノレッスンをしたときの轍を踏まないよう、終わりの時間が近づくといつも教授夫人が迎えにきてくれる。そして私もお茶に合流し、主に女性陣たちで話の花を咲かせるのだ。
教授はその時間になるといつも深くソファに腰掛け、静かにお茶を啜っている。表情の変化も乏しく、彼をよく知らない人から見れば不機嫌に見えるかもしれない。けれど2回ほど会っただけで、私は彼の人となりが少し理解できた気がした。
「それじゃぁ、お父様、お母様、また来週きますね」
「えぇ。楽しみにしているわ。アンジェリカもまたね」
「はい」
帰り際、玄関まで教授夫妻が見送りに来てくれるのに応えながら、馬車に乗り込む準備をする。私はいつもこのとき、必ず教授に声をかけるようにしていた。
「ウォーレス教授、今日はありがとうございました。メヌエットの練習曲、ラストのところのお手本を聴かせてくださって、とてもわかりやすかったです。また練習してきますね」
「あぁ。その、なんだ、頑張りなさい」
教授は一瞬だけ目を合わせたかと思うとすぐに逸らす。けれどそれが私のことを嫌ってやっているわけではないことは、もうわかっていた。いつも私が訪れる前日はどことなくそわそわして、レッスン室にこもっては、子どもが弾く練習曲を何度も繰り返し弾いているらしい。私が使うのは継母の楽譜だが、教授は同じものを新しく用意し、私に教えるための書き込みもしているのだとか。すべて教授夫人からの情報だ。
そして私が帰ったあとの夕食では決まって私の話題になる。「今日はどこまで進んだ」「何がどれくらい弾けるようになった」「カトレアの癖がなかなか抜けない」などなど。いつもより饒舌になるのを夫人は笑顔で聞いているそうだ。
老夫婦2人の生活に、私という存在が彩りを添えているなら、それはいいことなのだろう。ただ、私としては胸に感じるものがないわけではない。自分が教授と血がつながっていないことはこの際もういい。そんなことは関係なく、彼らはアンジェリカのことを大事にしてくれている。そうではなく、教授の本来のやりがいに、私の実力が全然そぐわないのが気になるのだ。
彼は長年芸術院で教鞭をとってきた。芸術院はこの王国のエリートが集う学舎だ。合学倍率も高い。今王国で名を馳せているピアニストは全員が芸術院の出身だ。
そんな選りすぐりのエリートたちを指導してきた教授にとって、私という平々凡々な存在は退屈というか、物足りないのではないかと思うのだ。もちろん、私の来訪を楽しみにしてくれているという事実はあるだろうが、彼が本当にやる気を取り戻して、まだまだ人生を謳歌するには、私ではなく、もっと実力のある人に教える方が叶っている気がする。聴力の問題や足の問題があるから、大人相手の本格的なレッスンは難しいだろうが、せめて私と同じような子どもで、もっと将来性のある子がいれば、より適任な気がするのだけど。
私が王都にいるのはこの冬だけだ。春になれば、作物の植え付けが始まる前には王都を後にする。そうなったとき、教授のやりがいはどうなってしまうのだろう。また老夫婦2人の単調な生活に戻り、ピアノを弾かなくなってしまうのではないか。
(でもなぁ、じゃあ何ができるかっていうと、何も思いつかないんだよなぁ)
貸し馬車に揺られながら、私は楽譜の入ったバッグに視線を落とし考えてみるものの、妙案が浮かんでくることはなかった。
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